統一教会&勝共連合の歴史その2(1959(昭和34)年より)

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「統一教会&勝共連合の歴史その2(1959(昭和34)年より)」を確認しておく。「統一協会について」、「 統一教会の現状」、「国際勝共連合50年の歩み」、「ウィキペディア(Wikipedia)世界基督教統一神霊協会の年表」その他を参照する。


【1959年の歩み】
 10. 2日、日本でも世界基督教統一神霊協会を設立(1964年、宗教法人の認証を受けている)。東京都新宿区にあった「雄鶏舎」という時計店の2階の部屋で西川勝が2名の参加者に対し日本で最初の礼拝を行う。この後、教会は東京都中野区高円寺に移動。中央大学法学部在学中の澤浦秀夫が入教。澤浦の伝道で、佼成学園第一期生、宗教部長を経て立正大学を経て、将来の立正佼成会の中核を為す、と目されていた哲学者/小宮山嘉一(*渡)が入教。ここから、会員数が急激に増え、小宮山が所属していた立正佼成会第57支部の支部長の長男・慶応義塾卒の久保木修己(立正佼成会会長秘書)などが泊り込みで原理講義を受講、入教する。

 12.4日、文鮮明に渡米許可(パスポート取得は少し前)。
 萩原遼著「淫教のメシア・文鮮明伝」(晩聲社、1991年)は次のように記している。
 「朴普煕は元韓国軍の諜報部員。(略)他の三人についてフレーザー委員会の報告書はこう記している。『1950年代末以来の文の支持者の一人韓相国(別名ブド・ハン)は、1961年のクーデターの首謀者でKCIAの創立者である金鍾泌の個人的な補佐となった。金相仁(スチーブ・キム)は、1961年5月に韓国陸軍から退職し、KCIAに加わり、金鍾泌の通訳となった。彼は1966年に至るまで、引き続いて金鍾泌の親しい個人的側近であった。1966年に彼はKCIA職員の地位に復帰し、その後メキシコ・シティのKCIA支局長となった。彼(金相仁)は朴普煕の親友で、統一教会の支持者であった。四人目の韓相吉は、1960年代末には、ワシントンの韓国大使館付武官であった。行政府の諸報告はまた、彼をKCIAと結びつけている」四人が四人ともKCIAのメンバーであり、かつ50年代末に相次ぎ統一協会に加入してきたのである。この四人をパイプにして「朴政権が権力を確立するにつれて、文は新政権との良好な連絡をもつようになった』とフレーザー委員会報告書は指摘する」。

【1960年の歩み】
 1960年代初頭、日本の各大学・地域で「大学生の自主的な活動として」「原理研究会」が組織される。
 韓相吉、ワシントンの駐米韓国大使館付武官として渡米。
 1960.4.11日(陰暦3.16日)、文鮮明が当時高校生だった17歳の韓鶴子((ハン・ハクジャ、1944年生れ)と公式には4度目の結婚をしている。韓鶴子がその後の正妻となる。これを聖書の「ヨハネの黙示録」に書かれた「子羊の婚姻」(イエス・キリストの結婚)と意味づけ「聖婚式」と呼ぶ。統一教会の信者は、文鮮明・韓鶴子(ハンハクジヤ)夫妻を「真のご父母様」、その家族を「真の家庭」と崇め、理想像として仰ぐ。

 だが現実は大きく異なる。韓鶴子との間には12人の子をもうける。その長男が文孝進。彼は信者の娘である洪蘭淑(ホンナンスク)と結婚したが、洪は孝進の虐待に耐えかねて逃げ離婚した。1998年秋、洪は In the Shadow of the Moons (日本では「わが父文鮮明」)という手記を書いている。


 4.16日(陰暦3.21日)、ソウル市龍山区青坡洞前本部教会にて「金栄輝と鄭大和、劉孝元と史吉子、金元弼と鄭達玉」3組(3双)の祝福。祝福の儀式は、第一次式「万物復帰の式」、第二次式「子女復帰の式」という順番で挙行された。
 「ノアの家庭においても、また、アダム家庭においても、3人の息子とその嫁3人の6人、そこに父母を加えて8人が完全に決定したら、復帰することのできる勝利的な基台は造成されるのです」(1960年4月16日に語られた「み言」)

【1961年の歩み】
 1961年5月、軍事クーデターによる軍事独裁政権の朴政権が成立し、「反共を国是の第一義」に掲げKCIA(韓国中央情報部)を立ち上げる。このKCIAが、統一協会を反共活動の面で利用するようになる。米下院のフレイザー委員会報告(78年)が次のように記している。
  「(初代中央情報部長の)金鍾泌(キム・ジョンピル)と文鮮明機関(統一協会)が相互支持の関係にあったという示唆や、金鍾泌が統一協会を政治的目的に利用したという言明を裏書きする独自の資料が大量に存在した」。
 朴普煕、ワシントンの駐米韓国大使館付武官補佐として渡米。
 5.15日(陰暦4.1日)、ソウル市前本部教会にて33組(33双)の聖婚。「33家庭」は、前年に祝福された「3家庭」と合わせて「36家庭」と呼ばれている。「36家庭は、歴史的な先祖の立場であり、第1家庭(アダム家庭)12家庭、第2家庭(ノア家庭)12家庭、第3家庭(ヤコブ家庭)12家庭で構成されている」とされる。駐韓米軍第8軍の所属メンバーの朴普煕・韓相吉・韓相国・金相哲らも共に33組(33双)の祝福を受けている。

【1962年の歩み】
 6.4日(陰暦5.3日)、ソウル市前本部教会にて72組(72双)の合同結婚式。
 「アベルとの闘いで、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに服従できなかったことにより、今まで歴史が延長されてきました。それを蕩減しようとすれば、先祖である36家庭の前にそれぞれカインとアベルのような二つの家庭を立てなければなりませんが、これが72家庭です」(1966年2月22日に語られた「み言」)
 10月、文鮮明、KCIAの金鍾泌局長と共に訪米し、CIAのジョン・マッコーン、キャロル陸軍中将と会談。

 10月、文鮮明、
ネルソン・ロックフェラーデイヴィッド・ロックフェラーと会談。

【1963年の歩み】
 同年、ソウル統一協会の宣教師崔翅翼が、文鮮明の指示で日本に密入国し、西川勝という日本名で統一協会を発足させ原理運動の「布教」を始めた。同年、呼応するように笹川良一は、密入国で逮捕された崔翔翼の身元引受人となり、統一協会顧問に就任、財界、政界、警察にわたりをつけて大々的なテコ入れをした。
 同年、リトルエンゼルス舞踏団(芸術団)を創設。

 立正佼成会
庭野日敬会長が、創価学会対策、安保対策のため青年部員達を統一教会特別修練会に参加させる。立正佼成会会長秘書であった久保木は2年後の1965年に日本の初代教会長になる。

 6.26日、文鮮明が『天勝号』の進水式を行う。船舶事業をスタートさせるが、負債が膨らみ、事業は失敗する。

 7.24日、ソウル市民会館(鍾路区、現・世宗文化会館の位置)にて124組(124双)の合同結婚式。初めて対外的に公開された式。笹川良一が参列。この式から聖水を使い始めた。韓国人だけの最後の祝福となった。
 「120家庭は、世界万国の代表者たちを象徴したものです。イエス様は世界的な摂理の出発のために120門徒を立てられました」(1969年2月2日に語られた「み言」)
 10.4日、統一協会が、教団設立から9年目にして韓国で財団法人として認可される。文化観光部宗教課に登録された公式名称は「世界基督教統一神霊協会有志財団」。

【1964(昭和39)年の歩み、宗教法人として認証される】
 1964年7月、統一協会が東京都の認証をえて日本で宗教法人として認証される。日本での初代会長は、立正佼成会会長秘書だった久保木修己氏。 以来、統一協会は、勝共連合の実質的母体として韓国や日本の反共政治組織に利用されるようになる。
 4月、日本で全国大学連合原理研究会(日本の各大学・地域の原理研究会(CARP)の連合体。現・World CARP JAPAN)が創立され、大学生・青年への伝道が活発化する。統一教会は、伝道のみならず、政治活動にも積極的に関わるようになる。
 11月、教団は、本部教会を世田谷区下北沢から渋谷区南平台に移転。R渋谷駅を出て、緩やかな坂を南西方向に登っていくと、10分ほどで大使館や洋風の豪邸が並ぶ高級住宅地が現れる。そこに岸信介の私邸(1957年から60年の岸内閣時代に首相公邸として使われた建物)がありその隣だった。

 統一教会と岸氏の間を取り持ったとされるのが、戦前に右翼政治家として活動した日本船舶振興会会長の笹川良一氏。2人はA級戦犯の容疑者として収監され、親密な関係を築いていた。 岸元首相は、本部が渋谷区松濤に移った後も統一教会本部をしばしば訪れ、1970年、71年、73年と教会員を激励する講演を行っている。
 文鮮明の側近、朴普煕がアメリカのワシントンD.C.に「韓国文化自由財団」を設立し、韓国文化自由基金(KCFF)という寄金を募る。初代名誉総裁は当時、韓国の民主共和党の議長を務めていた国会議員の金鍾泌(キム・ジョンピル)。

【1965(昭和40)年の歩み】
 1.28日、世界巡回路程に出発した文鮮明氏が教祖として初めて日本を訪れ宣教活動を行った。本人の留学時代以来21年ぶりだった。韓国がアダムで、日本がイブ。イブは禁断の果実をかじる、という罪を犯した。(しかし)心配しないでください。私が日本をイヴの国として育てます。
 6.25日、5文鮮明がドワイト・D・アイゼンハワー元大統領と会談。
 12.21日、韓国宗教協議会創設。
 1965年、渋谷区松濤に再移転し現在に至る。

【1966年の歩み】
 韓国で機械製作会社「統一産業」を創設し、軍需産業に参入。代表理事は文鮮明の又従兄弟の文成均(ムン・ソンギュン)。
 1.10日、韓国においても「原理研究会」を設立。
 4.15日、韓国・水沢里統一産業工場落成式。M16自動小銃の大量生産を開始。
 5.1日、韓国において、『聖書』の奥義を解明したとされる教理解説書『原理講論』の初版が出る。著者は劉孝元

【1967(昭和42)年】
 この年、大学のキャンパスで伝道され信者になった学生や青年達が学業や職業を捨てて献身することで家庭問題が多発し、「親泣かせ原理運動」などと社会的な批判を浴びる。教団に入信した子供たちを持つ親たちによって「原理運動対策父母の会」が結成される。日本において特定教団の活動に反対する最初の活動。
 6-7月、文鮮明が来日し、笹川良一の肝入りで、韓国側文鮮明(統一協会教祖)、劉孝之(ユ・ヒョウジ)、日本側笹川良一、児玉誉士夫代理の白井為雄、護国団の市倉徳三郎らとの会合後、山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設/本栖研修所(水上スポーツセンター)で、「第一回アジア反共連盟結成準備会」が開催された。これが「本栖湖会談」と云われる。

 この時、韓国流の反共運動を日本で受け入れることが決められた。日本の右翼暴力団の「二人の首領(ドン)」が、そのシマ(縄張り)の中で、韓国系ヤクザの活動を承認した手打式と言うことができる。参加者の一人は「本栖湖会議は、文鮮明をはじめて迎えて反共連盟をつくり、反共運動をやろうということだった」と会議の目的を語っている。会合の目的とされた日本における「アジア反共連盟」という名の団体の結成は、日本の旧右翼の中につよい反発があって実現しなかったが、その後の話し合いで、日韓両国の統一協会が、「国際勝共違合」という看板を掲げ、宗教と反共団体の二足のわらじをはくことが合意された。

 日本の反共団体として活動をはじめた国際勝共違合は、APACL(アジア諸国人民反共違盟)に参加する。東京でAPACL第八回大会がひらかれ、大会議長として岸信介、事務局長加瀬俊一(外務官僚)、以下谷正之(同東条内閣閣僚)、石井光次郎〈自民党顧問)、中曽根康弘(自民党議員)、御手洗辰堆(評論家)、矢次一夫(国際研究会理事)、商杉普一(三菱電機会長)、堀越禎一(経団連事務局長)、椎名悦三郎(自民党議員)、松下正寿(立大教授) 、細川隆元(評論家)、小林中(経団連理事)ら35名が出席、アメリカ・マーフィ元駐日大使ら外国代表86名が集まった。 またこの準備委員会には、岸元首相のほか、吉田茂元首相、石坂泰三経団連会長、植村甲午郎経団連副会長、足立正日商会頭など日本の国家権力の最高首脳が名をつらねている。以上が結成までの背景だ。笹川や児玉そして岸元首相が船舶振興会(日本財団)や各総会屋からの資金を使ってまで、CIAのために働かなければならないのかという疑問が残る。しかし、答えを出すには東京裁判の真実まで言及しなければならないため割愛する。
 10.2日、日本においても『原理講論』の初版が出る。(ただし、「再臨論」の中の韓国中心主義と天皇批判の部分は訳出されていない)
 当時から既に、統一教会の学生信者が親を「サタン」と呼んだり、家出したりすることが社会問題化しており、1967年には「親泣かせの原理運動」などと報道されている。

【1968(昭和43)年の歩み】
 1.1日、文鮮明の妻の韓鶴子が7年間の試練を乗り越えて、真の女性として完成し、この地上に初めて“神の家庭”が立ったとして文鮮明が「神の日」を宣布。
 1.13日、本栖湖会議の翌年、文鮮明が、韓国で反共主義の政治団体である「国際勝共連合」を創設し、過熱する学生運動に対抗させる狙いがあった。笹川氏が日本の名誉会長、久保木修己氏が初代会長に就任している。久保木氏の著書「愛天 愛国 愛人―母性国家日本のゆくえ」(世界日報社)によると、発起人に名を連ねたのが笹川良一や安倍晋三元首相の祖父にあたる岸信介元首相らが発起人だった。国際勝共連合全国幹部50名が韓国を訪問し、38度線を視察する。
 1.16日、勝共連合が、統一教会関連の「幸世物産」を通じて空気散弾銃「鋭和(えいわ)3B」2500丁を輸入した事実が明らかになった。その勝共連合が輸入した空気散弾銃を製造したのは統一教会の関連企業「統一グループ」の銃器製造部門(後に統一重工業という名称となるが2005年にはS&Tダイナミクス社(SNT Dynamics Co. Ltd.)に社名を変更している)が製造したものであった。同銃の性能は、通常の空気銃とはことなり初速度は1000フィート(300m/s)もあることから殺傷能力が非常に高いもので、その破壊力は「10メートル離れたところで厚さ2センチの板で試射をやった場合に、この鋭和3Bというのは完全に板を貫通し、普通の空気銃の約三倍以上の威力のある銃だった」
 2.22日、ソウル市民会館にて430組(430双)の合同結婚式。久保木修己日本統一教会会長(当時)夫妻が、日本から初めて祝福に参加。
 「430という数字は、世界的なカナン福地に向かった第3イスラエルの世界的出発を意味します」(1977年2月13日に語られた「み言」)。
 2月、「幸世物産」(現:「ハッピーワールド」)が韓国から空気散弾銃2千500丁を輸入する。その後、空気散弾銃を猟銃としての所持が認めないように法改正がなされ、競技用としての輸入を警察庁に打診したが、空気散弾銃の競技という実態がないとして輸入の許可は却下された。10.5日、教団関連の商事会社「統一産業」株式会社(「幸世物産」から商号変更、現:「ハッピーワールド」)(前:「幸世物産」 渋谷)がエアライフル2,500丁を輸入し、教団の信者がセールスに歩いて売る。
 4.1日、自民党の元首相岸信介笹川良一児玉誉士夫らを発起人として、日本でも統一協会を母体とする下部組織として政治団体「国際勝共連合」を「共産主義をこの地球上から完全に一掃する」(文鮮明「統一世界宣言」83年12月)ことを目的として結成し、総裁に就任する。統一協会の初代会長、久保木修己を会長に、笹川良一を名誉会長に。
  「勝共連合の設立には、岸氏の協力がありました。岸氏はその後も統一教会を訪れ信者を激励したり、文鮮明氏と会談したりしています。安倍氏の父親の故・晋太郎氏も、帝国ホテルで開かれた晩餐会に出席、さらに勝共連合の機関紙『思想新聞』(1990年3月25日付)の勝共推進議員名簿に名を連ねています」(統一教会ウォッチャー)。  
 7.7日、江利川安栄(後の第7代統一教会会長)が東京都小平市の朝鮮大学校正門前で北朝鮮問題(朝鮮大学校認可取り消し)を訴えるために共産主義を批判する勝共講義を始める。
 11月、 「統一教会」の学生組織である「原理研究会」のメンバーが「鋭和B3」という散弾銃を一般の銃砲店を通さずに会員だけで1,000丁所持したいと許可申請を出したが、警察庁保安課が「単なるスポーツ用の銃とみるには不自然」と判断し、既に許可済みだった3,050丁分の許可が取り消される。
 12月、「韓日勝共大会」開催。
 日本青年隊の結成(1968年)

【1969(昭和44)年の歩み】
  国際勝共連合の設立と岸元首相、笹川良一氏についての文氏発言は次の通り。
 「日本の政治、政界の有力者である首相の岸信介という人が日本で信望が良いので、)笹川のじいさんと組ませて、私たちの計画通り踊らせるようにしておいたんですよ」(選集160巻161Pの1969.5.12日の御言)。
 「中曽根を首相にしたのは私です。福田(赳夫)を首相にしたのも私です」(538巻271ページ)
 8.1日、文鮮明と金明煕との間の子、14歳の喜進が、開拓伝道に行く途中で列車から転落死(忠清北道梅浦駅)。
 9.28日、「勝共市民総決起大会」。
 11.7日、超教派協議会創設。
  「勝共国民運動東京大会」を開催。
 「国際勝共新聞」(思想新聞の前身)創刊
 第1次全国一周遊説隊出発
 アジア学生勝共大会を開催
 朝鮮大学校認可取り消し運動を展開。
 東京・新宿駅前でのデモ活動(1969年)

【1970(昭和45)年の歩み】
 「統一産業」が輸入禁止された散弾銃に代えて、韓国から「鋭和3B」という単発銃の輸入を始める。
 4.9日、久保木会長がパイプを持っていた岸信介元首相が 「統一教会」本部で東京地区の信者約4,000名に対して国際情勢などを語り、教会員を激励(当時の写真)。
 5.1日、文鮮明が来日し、日本で初めて合同結婚式が開かれる(22双のうち10組は既成祝福)。
 5月、WACL(世界反共連盟)世界大会開催東洋大学で抗議集会。
 7月、大阪府茨木市の修練会で監禁致死事件。修練生の関西大学法学部一年生男性が死亡。
 7.13日、東京神宮前の東郷記念会館で「赤色帝国主義に抗議する集会ー囚われたる欧州諸国民の週間・日本大会」が開催される。「国際勝共連合」 が「生長の家」(現・生長の家本流運動)、「世界反共連盟」日本支部等の団体と共に参加。
 9月、統一教会の政治団体「国際勝共連合 」のイベント「WACL(World Anti-Communist League、世界反共連盟)世界大会」が東京の日本武道館で開催された。笹川氏、岸氏以外にも多くの自民党議員が花を贈っている。岸元首相が大会推進委員長。世界基督教統一神霊協会(現・世界平和統一家庭連合)の初代会長、久保木修己名誉会長によって作詞・作曲された聖歌第二部5番「愛の統一」が披露された。
 アメリカ統一教会幹部のアレン・ウッドが司会を務めた。日本からは右翼の大物・笹川良一氏が出席した。アレン・ウッドが次のように証言している。
  「彼(笹川)は胸をたたきながら『私は文(鮮明)氏の犬だ』と言いました。驚くべき発言でした。日本で最強の人物が自分を文氏の下に位置づけたのです。あの時、『我々は世界を支配できる』と思いました」。
 12月、祝福家庭婦人を3年間の開拓伝道に送り出す。韓国民族が「統一教会」を受け入れなかった失敗を取り返すためだとされる。
 1970年、岸氏が信者らの前で講演。

【1971(昭和46)年の歩み】
 年初め、韓国で、霊感商法で販売される大理石壷や多宝塔の置物などを製造する「一信石材」を設立。
 1.3日、文鮮明がイエス・キリストを韓国の女性信者、張貞順(チャン・ジョンス)と祝福したという。(1972年1973年にも同様のことが語られる)
 1.8日、「リトルエンジェルス芸術団」の日本講演を当時の皇太子夫妻(上皇明仁上皇后美智子)が鑑賞(当時の写真)。
 2.13日、 読売新聞に「でたらめ街頭募金追及。“本家”が厳重抗議、「北方領土」のでっち上げ団体、金の使い方も不明」との記事が出る。国際勝共連合が母体となった「北方領土復帰推進連盟」という団体で募金運動を行っていることに対し、51団体が加盟している全国組織の「北方領土問題連絡協議会」が募金で集まった金の使途を明らかにせよと迫ったが、国際勝共連合側は明確な回答をせず。
 3.26日、統一教会系の輸入会社「幸世物産」(のちのハッピーワールド)が韓国から大量の空気銃を輸入して来たことが国会で追及される。
 5.25日、教団の第2事業部が高麗人参茶及び高麗大理石壺の販売等を業とする「幸世商事株式会社」になる。
 5月、「第一回 アジア勝共大会」開催。
 全国40カ所で勝共県民大会を開催。
 「中国承認反対」完全断食国民大会を開催。
 12.6日、韓国において、高麗人参製品を中心とした製薬会社「一和製薬」(後に一和と改称)を設立。文鮮明が薬学博士号を持っていた古参幹部、洪性杓(ホン・ソンピョ、36家庭、洪蘭淑の父)に500ドルを手渡し設立を命じた。
 「全国大学原理研究会」を設立した小宮山嘉一(元立正佼成会)が脱会。
 12.18日、文鮮明夫妻がアメリカ進出を目指し渡米。ワシントンD.C.に到着。「神の直接の命令」を受けたと称してアメリカ合衆国に渡り、アメリカに居を構え、世界宣教を指揮する。朴正煕政権の手先としてアメリカ合衆国の国会議員買収工作や、リチャード・ニクソン大統領支援キャンペーン等に携わった。

【1972(昭和47)年の歩み】
 年頭標語 : 「統一戦線守護」。
 「連合赤軍=日本共産党」一大キャンペーンを展開。「日本共産党糾弾大会」、日本共産党へ公開理論戦を要求。
 笹川良一が「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任。共産圏とのスポーツ交流を優先したいことが理由とも言われるが、真意は不明。
 2.3日-3.6日、文鮮明がアメリカの7大都市で講演。
 12.8日、神戸で統一協会の幹部3人、石井光治(国際勝共連合渉外部長)、増田勝(教団の伝道師)、藤本三雄(教団の伝道師)が外為法違反容疑で起訴されたが、「額面2億5千万円の小切手を不法に持ち出したとされる相当の嫌疑が有することは否定できないが、有罪とするのに十分な証拠を欠く」として無罪になる。
 11.22日、教団関連企業「世界のしあわせ」(後のハッピーワールド)」の営業部長でキャラバン隊のボス的存在であった曹又億萬(ソウマタオクマン、日本名は大山高誉、43双 2005年 8月 12日死去)に1971年8月27日から1972年5月27日にかけて、教団の幹部3名と共謀し、小切手2億3千万円を韓国へ不法に持ち出した外為法違反容疑で逮捕状が出る。海外逃亡したため国際指名手配となる。兵庫県警は総額で6億9,414万円を捜査の対象にしていた[69]
 11月、文鮮明がニューヨーク州の郊外にあるウエストチェスター郡のタリータウンに部屋数25の豪邸を62万5千ドル(当時のレートで約1億8千万円)で購入[68]
 12.8日、神戸で統一教会幹部3人{石井光治(「勝共連合」渉外部長)、増田勝(教団の伝道師)、藤本三雄(教団の伝道師)}が外国法違反容疑で起訴されたが、「額面2億5千万円の小切手を不法に持ち出したとされる相当の嫌疑が有することは否定できないが、有罪とするのに十分な証拠を欠く」として無罪になった。捜査の過程で統一教会の経済活動の実態が明らかにされる[70]
 12月、古田元男が「幸世商事株式会社」代表取締役に就任。

【1973(昭和48)年の歩み】
 米国でCARP(「原理研究会」)創設。
 日本、イギリス、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア等から伝道師が米国に集い、「世界統一十字軍」という伝道機動隊が編成される。その責任者には、各国の43双(1969年の43組の合同結婚式の参加者)の信者が、日本部隊の責任者には神山威が立つ。
 4月、岸が統一教会本部教会を訪れてこう話したという。
「笹川君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、私に、君の隣りにこういう者が来ているんだけれども、あれは私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君で……」(「日本統一運動史」) 。
 4.30日、文鮮明、アメリカのグリーンカード取得。
 5.7日、勝共に賛同した岸氏の自民党派閥を源流とし、後に清和会(現・安倍派)を立ち上げた福田赳夫大蔵大臣が、来日中の文夫妻が出席した晩餐会でこう挨拶したとされる。福田政権の発足はこの2年半後のことである。
 「アジアに偉大な指導者現る。その名は“文鮮明”である」(「日本統一運動史」)。
 10.1日〜、文鮮明が、「キリスト教の危機と新しい希望」というタイトルで、全米21都市で講演会を行う。最初のカーネギーホールでの大会は、ホールの外で反対デモが連日起こる。
 11.23日、岸信介元首相が統一教会を訪問し、文鮮明と会談(当時の写真)。久保木氏は著書で、岸氏への感謝の念を隠さない。「岸先生は、しばしば統一教会の本部や勝共連合の本部に足を運んでくださいました」 、「岸先生に懇意にしていただいたことが、勝共運動を飛躍させる大きなきっかけになった」。
 11.30日、文鮮明がウォーターゲート事件で糾弾されているニクソン大統領を擁護する声明(「許せ、愛せ、団結せよ」)をニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに出す。
 12.18日、文鮮明の子供たちが、韓国から米国のニューヨークの文鮮明の邸宅(ベルベディア)に移住。
 12.24日、「アメリカ国民に訴えた文鮮明師の声明」をサンケイ新聞に意見広告として掲載。
 久保木修己会長が全国124カ所で「救国の予言」講演会。
 「国際勝共新聞」を「思想新聞」に改題。
 アメリカで国際指導者セミナーを開催。
 自由社会を守る1万人大集会を開催 。
 第3回アジア勝共大会を開催。
 文鮮明が、イーストガーデン購入(1億4千万円)。

【1974(昭和49)年の歩み】 
 日本各地で自主憲法制定国民大会を開催する。
 1月、 アメリカに観光ビザ等で入国していた教団の信者582名(281名は日本人)が、伝道修習生というビザへの切りかえを申請したが、アメリカの移民帰化局は、本当の目的は花売りや新聞売り等の経済活動や募金活動等にあると判断し、資格変更の申請を却下する。
 2.1日、文鮮明が、ホワイトハウスにてニクソン大統領と会談。以来、米国でも様々な政治工作を展開し始める。
 3.5日、韓国で「リトルエンジェルス芸術学校」(後の「仙和芸術学校」)を開校。(教団が所有し運営するが教師と学生のほとんどは一般人でカリキュラムに宗教はない)。
 4.4日、北朝鮮へ嫁いだ日本人妻の帰国実現を目指す「日本人妻自由往来実現運動本部」(後に「〜実現運動の会」と改名)を結成。代表の池田文子の本名は江利川安栄。日本人妻からの手紙を出版。機関誌「望郷」(1974年)や「鳥でないのが残念です」(1979年)発刊)
 4.12日、韓国の東亜日報で韓国のキリスト教界が合同で統一教会に関する意見広告を出す。「文鮮明は、人類の血管にヘビの血が流れている、これが罪の遺伝であり、そのため文鮮明の聖なる血を受けて血分けをしなければならないという混淫の主張をしている」と告発している。
 世界平和教授アカデミーを設立し言論界に共鳴者を求める。大学人の中には統一教会の経費で国際会議等に出席した者も少なくなかった。こうした政治的対外活動には多額の経費がかかったし、韓国、アメリカでの宣教活動にも莫大な資金を必要とした。文鮮明の指示の下、日本の統一教会は資金調達を一手に引き受け、「資金作りをミッションとする信徒」を養成する教会となった。
 岸元首相がその後も「勝共連合」と強い関係を持ち、74年と76年の統一協会主催の「希望の日晩さん会」の名誉実行委員長を務めている。

 5.7日、文鮮明が、東京の帝国ホテルで「希望の日晩餐会」を開く。岸信介元首相が名誉実行委員長を務め、帝国ホテルに1700名を集めて開催された晩餐会には40人もの自民党国会議員が出席している。その席で、当時の福田赳夫大蔵大臣がこうスピーチしている。
 「アジアに偉大なる指導者現る。その名は文鮮明である。私はこのことを伺いまして久しいのでありますが、今日は待ちに待った文鮮明先生と席を同じくし、かつただいまは、文先生のご高邁なご教示にあずかりまして、本当に今日はいい晩だなと気が晴れ晴れしたような感じがいたすのであります。 今日は文先生から『お前らは神の子である』という激励を受けまして、少し何かえらくなったような感じもいたします。私は『この神の子である』というのは、世の中のために大いに奉仕していく。またそういう気持ちになった日本人個々を育て上げなさいと、こういうことであろうと受け取りました。今日は文先生本当に立派なお話を承りましてありがとうございました。心から御礼を申し上げます」。

 スピーチを終えた福田氏は文氏と熱い抱擁を繰り返す。安倍晋太郎中川一郎保岡興治中山正暉石井公一郎、(ブリヂストン副社長)、笹川了平(大阪日日新聞社長、笹川良一の末弟)、笹川陽平(富士観光社長、笹川良一の三男)らの他、40名ほどの小学校、中学校、高校の校長達が出席。 後の1978年、福田氏は首相時代にこのスピーチを国会で追及され、「文鮮明氏が他にどういうことをしておるのか、そのことについてはいささかも承知しておりません」と答えているが、2人の親密さは明らかだ。
 5.9日、埼玉県の狭山湖畔で大会が開かれ、全国から7、8千人の信者が集まる。文鮮明は自分にはお金がないから、みんなで高麗人参茶を売るようにと信者に指示し、5月から8月にかけての90日間で、400箱売るという“誓約書”を書かせる。
 選挙後、自民党総裁が車を遣わせて(当時の日本支部代表)久保木修己会長を招待し、幹部全員の前で統一教会を紹介するということが行われた(1974年)
 9.18日、文鮮明がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで「希望の日」講演会を行う。2万数千名が集まる。
 10.8日、米国国会議事堂招請講演。

【1975(昭和50)年の歩み】
 1.1日、日本において日刊紙『世界日報』が創刊される。
 経済一本化方針が出され、統一教会所属の経済活動従事者がハッピーワールドに吸収される[74]
 1月、メディアの影響力に早くから注目し、勝共連合機関紙「思想新聞」を改称発展させる形で一般日刊総合紙スタイルの統一協会と勝共連合の機関紙る「世界日報」を日本で発刊する。
 1月、信者になった娘を持つ本間てる子が「原理運動反対父母の会」を結成。
 2月、通過査証で入国し武道館で布教公演を行った。通過目的で入国したのに宗教活動をしており、出入国管理及び難民認定法違反である。
 3.2日、「文権進」がアメリカで出生(ここからは全て米国出生)。
 7月、教団関連の商事会社「統一産業」株式会社(渋谷)が銃砲販売専門の子会社「アングス」を設立。統一教会の会員が35の直販店の経営にあたり、年間約1万丁を1丁2万円で輸入、主に信者向けに販売する。翌1976年に朝日ジャーナル(12月号)が報じる[58]
 9.20日、アメリカで「統一神学校」が開校する。(バリータウンにあるカトリックの教育団体クリスチャン・ブラザーズから買収した
 世界127か国に宣教師を派遣。
 在日本朝鮮人総聯合会本部に公開質問状を提出し、理論戦を展開。
 松生丸事件(公海上で北朝鮮警備艇が日本の漁船「松生丸」の乗員2名を射殺)で、糾弾県民大会を開催。
 第21回APACL(アジア反共連盟)総会を開催。
 この年、文鮮明が送金命令を出す。これにより、日本統一教会が韓国の文鮮明に、全経費の9割以上にあたる毎月20億円、年間約240億円を送金し始めることになる。この資金は文鮮明一族の私腹を肥やす他、一部は日本国内で国家機密法制定活動支援や中南米の反共右翼ゲリラ支援など反共謀略活動にも使われた。
 早稲田原理研(中心人物は井口康雄)が早稲田大学の村井資長総長夫妻に取り入り、昭和50年発行の卒業名簿に、『昭和19年(1944年)卒業者「山本朋成(文鮮明)」』という虚偽を明記させることに成功。山口浩著「原理運動の素顔」(エール出版社)刊行。これにより、文鮮明の創氏改名後の氏名が「山本朋成」ではなく「江本龍明」であり、早稲田大学に在籍していなかったことが、彼の調査や毎日新聞の記者の調査で明らかとなる。
 岸氏と教団との関係は、アメリカ当局も注目していた。連邦捜査局(FBI)が公表している文氏に関する調査報告書(1975年)は、岸氏が日本の国際勝共連合の“ヘッド”であると名指ししている。

【1976(昭和51)年の歩み】
 2月、旧ティファニービルを240万ドル(約9億円)で買収
 4月、旅行会社「世一観光株式会社」を設立。
 5.12日、マンハッタンのニューヨーカーホテル(43階建、2000室以上)を500万ドル(約15億円)で買収[75]。世界宣教本部や原理研究会・日本統一教会のニューヨーク・オフィスがあるほか日本から派遣された信者が多く住む[75]。 同年後半 朴正煕(パク・チョンヒ)政権下の韓国において統一教会に対する批判が解禁になり、「リトル・エンジェルス劇団」の海外公演が禁止される[76]
 9.6日、米国に滞在している原理運動「統一教会」の外国人信者(大半は韓国人および日本人)700人に対し、連邦判事が「宣教師見習」としての資格を認めないとの裁定を下したため、移民局は国外追放の手続きに必要な措置を直ちにとるよう関係機関に指示する。
 9.18日、文鮮明がワシントンDCで講演会。50万人が集う。ユダヤ教とキリスト教と「統一教会」が一つとなって、世界の宗教を統一すべきと訴える。
 11.10日、「昭和天皇陛下ご在位50年記念奉祝行事」に参加。
 11.15日、衆議院議員選挙の公示日直前に、宇都宮徳馬議員を批判した記事を載せた「国際勝共連合」の機関紙『思想新聞』(同年11月13日付号外)が数十万枚配られるという組織的な選挙妨害が行われる。翌12.27日、宇都宮側は8人の連名で警視庁に選挙妨害として告発する[77]
 11月、機関紙 『世界思想』で「生活水準を三分の一に減らし、税金を四倍、五倍にしてでも、軍事力を増強してゆかなければなりません。それに、日本を守るということだけでなくて、韓国をも守らなければなりません」と軍事力増強を訴える。
 12.18日、警視庁は教団の信者たちが一般家庭を訪問して、一和の高麗人参濃縮液を高血圧、がん、肩こり、肝臓などに効くという薬効を謳って販売していたことを薬事法違反として、新宿区、杉並区、大田区の3店舗を捜査。
 12.31日、アメリカで日刊紙『ザ・ニューズ・ワールド』を発刊。
 「共産革命か、勝共救国か」勝共救国大会を開催。
 「ニューヨークセイロモータース」設立。後にシカゴ、ヒューストンでも営業。
 早稲田大学の村井総長名義の川口記念セミナーハウスが夫人の押印で統一教会に奪われる事件が発生する。
 アメリカがフレイザー委員会を下院に設置し、アメリカ政界への工作活動を強める旧統一教会の実態を徹底調査し、その闇を白日の下に明らかにした。フレイザー委員会は、教団の実態を知る日本人に聴取をしたいと日本政府に協力を求めた。しかし、日本政府はこの聴取を阻んだ。聴取対象をアメリカ人に限定することを委員会スタッフへのビザ発給条件としたため、実現しなかった。日本人信者が世界最多で、過剰な献金など、教団による被害が甚大なのに、日本政府がフレイザー委員会への協力を拒んだのは不可解。フレイザー委員会は宗教にとどまらず、教育、文化、政治、収益事業なども行う教団を「文鮮明機関(Moon Organization)」と規定した。この収益事業を糸口に、アメリカは教団の不正を追及し、1984年には文鮮明氏を脱税で1年半の実刑・収監に追い込んでいる。

【1977(昭和52)年の歩み】
 1.27日、 「原理運動被害者父母の会」が内容証明郵便で内閣総理大臣福田赳夫宛に統一教会への対策を求める陳情書を送る。
 1月下旬、数カ月前から内偵が続けられていた韓国の「一和製薬」に一斉捜査が入り、社員40人が連行、20人が拘束され取調べを受ける。
 2.3日、東京都の北区の議会で、北区の教育長が統一教会の信者の伝道部隊である「世界統一十字軍」に対して推薦の言葉を書いたことが議会で問題になる。教育長は、教育上共鳴する面があったので書いたが、宗教団体とは全く知らなかったと謝罪。
 2.7日、衆議院予算委員会で、日本社会党の石橋政嗣書記長が、「原理運動被害者父母の会」の「世界基督教統一神霊協会の日本に於ける不法活動を調査し・摘発し・処分し・禁止を求める請願書」、に基づき質問。福田赳夫総理は「実態調査をした上どうするかを判断する」と答弁[79]
 2.24日、サンフランシスコの裁判所で、5人の親が教団に入信したわが子を30日間手元におく権利を求めた訴えを認める。教団は直ちに控訴したが、同年4月3日の サンフランシスコ上級裁判所も親達の訴えを認める判決を下す。統一教会側はカリフォルニア州高裁に控訴。東京新聞が報道 [79]
 2月、「一和製薬」が59億ウォン(約36億円)を脱税した容疑で幹部5人が拘留・起訴される。治安本部特別捜査班によれば、1972年から原料購入費の偽装支出、偽装増資などによって脱税をした疑いがあるとされる。専務・洪性杓(36家庭)ら5人が逮捕され、日本に逃亡したとみられる金元弼(キム・ウォンピル)社長も起訴される。

 鹿児島教会の信者たちが高麗人参茶を、効能を謳って販売していたことが、薬事法違反に問われる。教団は東京都庁に、高麗人参茶販売を法人の収益事業として許可してもらうように相談したが、規模が大き過ぎる等の理由で、許可されず[78]
 4.4日、 アメリカの下院の外交委員会(フレーザー下院議員を委員長とする国際機構小委員会)は「米韓関係の調査について」の中間レポートで 「統一教会」の政治工作を報告。
 4.6日、衆議院の法務委員会で日本社会党の西宮弘が福田赳夫大蔵大臣と統一教会の関係を追及。政府側は福田蔵相の文鮮明への賛辞の記録はないととぼける。当委員会の委員長上村千一郎も参加していたが、「記憶がない」ととぼける。
 4.11日、東京法務局が教団本部で、橋本総務部長、副島嘉和公報企画部長、佐川部長と会い聴取を行う。入信を強制してはいないか? 修練会について、親、親族、先生との音信や面会、街頭販売と教団の関係、入信に当っての親子の意見対立、「原理研究会」と教団の関係、資金源についてなどに関して質問した。

 ニューヨーク州が「統一教会」が集めた年間150万ドル(約3億円)の募金のうちで本来の目的に使われているのは7 %程度しかないと認定して、教団の募金を禁止する。『ワシントン・ポスト』が報じる[79]
 4月、ソ連大使館前でのデモ。
 5.4日、神奈川県警環境課と横浜・寿署は、「ガンに効く」など言って、医薬品ではない高麗人参エキス(一和)を大量に売っていた横浜市の教団関連の会社とその責任者を薬事法違反容疑で摘発、身柄を横浜地方検察庁に送検する。新聞でも報道される。5月18日に責任者と会社に罰金が科せられた。[77]
 5.7日、文鮮明とウォーキートーキー(小型無線機)を持った護衛を含む教会員10名(2名は日本人幹部)がニューヨーク市北部のバード・カレッジという大学の構内に不法侵入した疑いで逮捕される。毎日新聞が報じる。(同上)教団側は不法侵入ではなく観光、滝を見ていたと説明した。保釈金を積んで釈放される。
 7.5日、「世界宣教本部」設立(ニューヨーカーホテル)。「郭錠煥」本部長就任。
 8.8日、「北方領土奪還要求国民大会」。

 北方領土返還対ソ国民大会を開催。第二次世界大戦の終結寸前のソ連の日本侵攻を描いた映画、『樺太1945年夏 氷雪の門』を全国で自主上映。
 北方領土奪還1千万人署名運動。
 11.27日、世界宗教会議開催。
 偽書格庵遺録」が、「天父教」の信者「李鑛世」(格庵遺録の実の著者)により、ソウルの韓国国立中央図書館に寄贈される(1977年)
 反共の国、台湾で統一教会の活動が禁止される。
 早稲田大学が、「文鮮明は早稲田大学の卒業生ではなく、早稲田高等工学校卒(夜間の各種学校)であること」を明らかにする。早稲田大学の村井総長が、「江本龍明」の名前で、文鮮明の「早稲田高等工学校」の卒業証明書を発行。

【1978(昭和53)年の歩み】
 3月、 「幸世商事株式会社」を「世界のしあわせ株式会社」に商号変更。
 3.23日、アメリカのフレーザー委員会、米下院国際関係委員会国際機関小委員会において、教団のフロント組織と見られる韓国文化自由財団とKCIAの関係を全面否定していた朴普煕が、厳しい追及によって、担当の金相根駐米大使館参事官からワシントン郊外の自宅で3000ドルの現金を受け取ったことを認めたと新聞で報道される。朴普煕は女性信者{江利川安栄、(777双)}をソウルに呼び寄せ、その3000ドルを手渡したという。朴は「彼女にKCIA の金を手渡したのは、あとにも先にも、この一回だけだった」と語ったという[80]
 京都共産府政打倒運動に取り組む。4.8日発行の思想新聞の「号外」で、京都府知事選の候補者、杉村敏正に対し、「やっぱり杉村氏は極秘党員か」、「杉村敏正氏の華麗なる前歴」、「学者の仮面かぶる活動家」、「表面紳士 一皮むけば人殺し」などと批判。選挙前日のこの日の夜、京都市内で、民主府政推進各界連絡会の街頭演説が終了直後、300名のほどの集団が押し寄せ、国際勝共連合の街宣車2台が 日本共産党の宮本顕治と知事候補の杉村敏正を「人殺し」などと批判し、双方が乱闘寸前になる。警察官が国際勝共連合の6名を事情聴取。その後、告訴される。4.21日、思想新聞に「京都決戦勝利の記録」と題し、全戸ビラ配布体制にはいること、勝共連合会員が徹夜でビラを配布していることなどを掲載。京都府知事選において引退を表明した蜷川虎三の後継者であった杉村敏正(当時は京都大学教授)に対して勝共連合が支援した地元出身の自民党参議院議員林田悠紀夫候補が当選し、京都で7期28年間にわたり続いた革新府政に幕を下ろさせる。
 4月、江利川安栄がコリアゲート事件に関連して、3000ドルを朴普煕を通して受け取ったと記者会見で告白する。
 5.12日、衆議院決算委員会で日本共産党の安藤巌は「原理講論」の原文には日本語版には訳されていない重要な記述があることを示し、福田赳夫首相の姿勢を質す。
 6.1日、国会で、日本共産党の正森成二が国際勝共連合の京都府知事選における選挙妨害等について質問。
 6.22日、朴普煕がフレーザー下院議員を名誉毀損罪で訴える。
 この頃から、先祖の霊が苦しんでいるとか、先祖の因縁を説かれ、高価な印鑑、壺、多宝塔等を購入した多くの者が、国民生活センターや各地の消費生活センターに苦情を寄せるようになる。
 世界言論人協会を発足させ、毎年世界各国の報道関係者を招いて「世界言論人会議」を開いている。
 「スパイ防止法」(国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案)制定3000万人署名国民運動を展開。「スパイ防止法」制定促進国民会議の設立に韓国が参加。都道府県会議を全国で設置し、地方議会における同法案制定請願運動の先頭に立つ。
 9月、統一教会に対する批判者、卓明煥(タン・ミョンファン)新興宗教問題研究所所長が、「一部の統一統一教会離脱者たちが提供した資料には多くの誤りがあった」として、謝罪文を朝鮮日報ほかソウルの5大新聞に掲載
 10.1日、統一教会出版局が「日本共産党の宗教迫害」と題する冊子を発行。“「文鮮明が血分けと称して混淫していた」とか「統一教会がKCIAによる政治的謀略組織である」といった宣伝は全くの事実無根であり、日本共産党の宗教弾圧政策のはしりである”などと記載
 11.1日、アメリカの下院の外交委員会(フレーザー下院議員を委員長とする国際機構小委員会)は「韓国の対米関係に関する調査」と題する報告書(フレーザー報告)を発表。「1563件のインタビューが行われ、123件の召喚状が出され、政府機関、民間団体、個人からの数千の文書が調査され、20の公聴会が開かれ、37人の証人が宣誓して証言した」末に447Pにまとめらて、「数多くの教会、企業、委員会、財団などは、文鮮明の中央集権的な指示と制御の下で、本質的に一体の、世界的な組織の一部として浮かび上がった」として文鮮明が主宰する統一教会その他多数の宗教・非宗教団体が実質的に一つの国際組織を形成していること、文鮮明組織の目標の中には文鮮明とその信者によって統合される世界政府の樹立が含まれていることなどを報告した。報告書は、教団など関連組織の総称として「文鮮明機関(ムン・オーガニゼーション)」と表現した。そして「M16自動小銃の製造に文機関が関わった確かな証拠があった」などと、軍需産業まで関わった工作の数々まで明らかにしている。

 米国統一教会は、フレーザーらに対し、損害賠償訴訟を提起。 フレーザー報告の内容を読売新聞が夕刊一面トップで報道。久保木会長が
中曽根康弘を通じて読売新聞の渡辺恒雄に猛抗議。「国際勝共連合」がスパイ防止法制定3000万人署名国民運動を展開。
 11月、原理運動による社会的なトラブルの対策のため、参議院議員の市川房枝らの呼びかけにより、「原理運動を憂慮する会」が発足。早稲田大学総長の村井資長が会長に就任。神学者浅見定雄らが参加。
 11月、 「世界のしあわせ株式会社」を「株式会社ハッピーワールド」に商号変更。
 日中条約反対キャンペーンを展開。
 東京・立川での日本共産党糾弾演説(1978年)。
 埼玉県神川村(現神川町)で国際合同結婚式のため1,600組の指名婚約を行なった。

【1979(昭和54)年の歩み】
 2.24日、「国際勝共連合」の主導で「スパイ防止法制定促進国民会議」結成。都道府県会議を全国で設置し、地方議会における同法案制定請願運動を行う。
 スパイ防止法制定3000万人署名国民運動。
 「日共リンチ殺人事件言論裁判」が本格化。
 スパイ防止法制定促進国民会議発足。
 この年、米国議会でコリアゲート事件が発生し、統一協会幹部の朴晋煕が議会で証言を求められる。
 米国のニュージャージー州に魚類の卸会社「神州」(1987年に「ニューヨーク フィッシュハウス」に改名)」を設立[75]

【1980(昭和55)年の歩み】
 年頭標語 : 「家庭教会、天国基地」
 スパイ防止法制定促進都道府県民会議が全国に設立。
 ソ連軍のアフガン侵略を糾弾。
 10.20日、海洋訓練による教育を行うオーシャン・チャーチを開始。
 11.1日、韓国・勝共研修院(利川))での「御言選集109巻「今後の韓国が進むべき道」。
 「さてこのように、共産党の組織を私はよく知っており、彼らのこれまでの謀略がどのようなものなのかをよく知っており、暴力行為がどのようなものなのかをよく知っているので、しかたなく私は宗教指導者として日本に38ヶ所の銃砲店を作りました。それを理解できますか? 猟銃(散弾銃)、私たちの統一産業で作るB3散弾銃を知っていますよね? この散弾銃5万丁を日本に輸出しました。訓練をしろ!それで訓練することによって、散弾銃を...。ですから指導者を中心として射撃大会を開いて若者たちを共産党とぶつかるような...。 (中略)こうしながら万一...。銃砲、銃を、猟銃(散弾銃)のようなもの、全国38ヶ所の銃砲店で約20万丁以上の銃を一時に集めることができる、このようなことをしています..」。

 統一教会は、当時すでに散弾銃を韓国から日本に数万丁持ち込んでおり、日本各地に銃砲店を数十ヶ所展開している状態でした。
 12月、布教が認められていないアフリカのタンザニアで笹本正樹宣教師が闇ドル売買のおとり捜査にひっかかり、逃げようとしたところを警官に射殺される。統一教会初の殉教者となる。
 「日本の中心に影響を及ぼすために、日本の自民党幹部をすでにまとめています。教育するんです。毎週土曜日にセミナーを開いています」。今回も自民党から自分たちを推してほしいという要請が入ってきました。「私達の助けを得ようとするのなら4つの条件を受け入れるようにしろ」と(日本側の)久保木協会長に指示しました(1980年)
 文鮮明の指示で経済組織が教会組織の上に立つ体制になる。桜井設雄伝道局長が古田元男の部下になる。
 1980年代前半に 日本で「国際機動隊」が結成される。マイクロバスに乗って、全国を周り、戸別訪問で、難民のための募金や、珍味、印鑑、靴下、ハンカチなどを戸別訪問で売って回る。
 「しんぶん赤旗」・元特派員でジャーナリストの萩原遼が書いた『淫教のメシア・文鮮明伝』が出版される。

【1981(昭和56)年の歩み】
 年頭標語 : 「家庭教会は私の天国」
 1月、左翼と並び新春街頭演説。
 東京を皮切りに「日本の平和と安全を守る大会」開催。
 3.26日、国際クリスチャン教授議会創設。
 5.4日、文鮮明がアメリカ人の愛国心を高める目的で製作させた映画「インチョン!」がアメリカで公開されるが、興行成績がふるわず、わずか数週間で打ち切られる。
 5.16日、文鮮明の長女、誉進(イエジン)と洪珍輝(ホン・チンフィ、洪蘭淑の兄)が祝福(教団の結婚)される。マッチング(ペアを決める)の翌日に結婚式が行われたが、祝福関連の儀式の多くは省略されたという。同時に530双のマッチングが韓国で行われる。久保木哲子会長夫人(当時)が日本人150名の写真を韓国に持っていき、その中で25組の韓日カップルが誕生。[68]
 スパイ防止法制定促進の議会決議1000を超える。
 スパイ防止法制定促進全国大会を開催。
 11.8日、韓国ソウルで第10回「科学の統一に関する国際会議 (ICUS)」会議で文鮮明は全世界を高速道路で結ぶ「国際ハイウェイ構想」と「日韓トンネル」建設を提唱。
 12.18日、国際平和財団創立。
 当時、東海大学大学院に在学していた先妻の息子文聖進に面会するという理由をつけ「法務省は日本に入ってからの行動を関知しない」という方法で通過査証発給が検討された。しかし文鮮明は日本で国際合同結婚式ができるよう宗教活動目的の入国を最後まで求めた。当時の法務大臣奥野誠亮が事務次官や入国管理局長などに査証発給を促したが、実務側が過去の経歴を理由に合意せず、入国が許可されなかった。
 イギリスにおいて、統一教会が全国紙デイリー・メールが統一教会は若者を洗脳し家庭を破壊するカルトであると書いた記事を名誉毀損で訴えていた裁判で、6か月に渡る審理の末、高等法院の陪審は「デイリー・メール」の記事は信頼できるとの判断を下す。そして教会を「政治組織」であるとし、政府に対し慈善団体としての免税特権廃止を検討することを要請した。統一教会は160万ドル(約3億円)の裁判費用の支払いを命じられる。英国史上最も長く、費用のかかった裁判となった([68]、p144-p145)。 イギリスの内務省が文鮮明の入国申請を却下。 日本の法務省は文鮮明の入国申請を却下。
 『原理講論』原文にあり、日本共産党から韓国中心主義として批判された箇所を日本語版にも追加掲載。

【1982(昭和57)年の歩み】
 4月、自己啓発のためのビデオセンターという体裁での伝道体制が始まる。全国15か所。その後も各地に開設していった。
 4月と6月、EC(欧州共同体)会議が、統一教会の活動に対する対策に関する決議案を文教委員会に付託。1、メディアによる統一教会の活動に対する摘発。2、免税特権や公益法人としての利益を与えないこと。3、青少年への脅威についての調査報告を求める。などの内容[81]
 5月、アメリカで新聞『ワシントン・タイムズ』を創刊。文鮮明の側近、朴普煕が初代社長に就任。(前年に、米国で唯一の保守系新聞であったワシントン・イブニング・スター紙が廃刊になったことに危機感を覚えた政府が、保守系日刊紙の創刊を財閥など打診したものの、採算が取れないことを理由に断られていた中で、統一教会系列のメディア会社、「ニューズ・ワールド・コミュニケーションズ」社がそれに応じた) 。秋頃 この頃から教団名を隠した伝道方法を取るようになる。
 10月、韓国の女性月刊誌『女苑』(ニョウォン)11月号で、「微笑の翼、紫の鶴」と題して文鮮明の夫人、韓鶴子(ハン・ハクジャ)の特集記事が掲載される(日本語訳)。
 10.14日、韓国ソウルで6,000組の合同結婚式が行われる。「天運教」(後の「天地正教」)の教主川瀬カヨが独身祝福を受ける。
 10月、 ビデオセンターの設置について、東京都総務局行政部指導課に相談したところ、ビデオ受講時に受講生から料金を徴収することは収益事業とみなされるので、規則にないことは行ってはいけないとの指導を受け、1983年1月の責任役員会議において、公式にはビデオ受講施設の設置は行わないことを決定した([5])。
 ポーランド自由化支援キャンペーンを展開。
 「日本の平和と安全を守る大会」を各地で開催。
 共産勢力と戦う組織として、地方の有力者の協力を得て、勝共支部を結成。
 中南米で勝共運動を行なうCAUSA(アメリカ社会統一連合)を通じて、共産主義国家ニカラグアの反政府ゲリラ「コントラ」を支援。
 1982年、アメリカで、文鮮明が提唱して「ワシントン・タイムズ(WashingtonTimes )」(有名紙ワシントン・ポストとは別物)を設立。これにより言論界や政界に一定の影響力をもつようになる。その後も「ニューヨーク・シティ・トリビューン」、ウルグアイで「ウルティマス・ノティシアス」、中東で「ミドル・イースト・タイムズ」を発刊する。
 この年、韓国で行われた合同結婚式に岸元総理が祝電を送っている。 岸元総理祝電代読は次の通り。
  「天を中心にとした理想と信念のもとに指導し、教育しておられる。私が文鮮明先生を心より尊敬する所以であります」。

【1983(昭和58)年の歩み】
 4.25日、国際宗教財団(IRF)創設。
 全国勝共支部300か所を達成。
 スパイ防止法制定促進国民大会を開催。
 10.1日、世界日報事件。教会色を押さえ一般紙を志向した副島嘉和編集局長らの路線を乗っ取りと考えた梶栗玄太郎「国際勝共連合」理事長ら約百人が「世界日報社」に押しかけ、副島らを暴力的に追い出す。記者達が殴られ、多数の負傷者が出た。警官80人が出動。以後、世界日報は教会色を強める。副島は同月5日に辞任に追い込まれ、7日、統一教会を除名される。
 12.*日〜23日、韓国の八大都市で、「勝共大会」を開催。勝共連合の創始者、文鮮明が講演。日韓米の一体化によって国際共産主義勢力の浸透を防ぐことを訴える。
 文鮮明が突如、1945年から1985年8月15日までの期間が「荒野40年路程」であると発表し、最後の三年路程の決断式を行う。
 家庭を持つ基準についての不公平の是正を求めて教会本部に提出された「しあわせの手紙」が1610双の間で出回り、内部で大きな問題となる。

【1984(昭和59)年の歩み】
 年頭標語 : 「祖国創建」
 1.3日、 「愛勝日」宣布。文鮮明は、自動車事故で亡くなった次男の文興進(ムン・フンジン)が霊界で全権大使になったと宣言。イエス・キリストより高い位置にあるとされる。文興進が亡くなった理由は信者達が責任を果たせなかったことの身代わりとなった」とされた。(1988年1月2日)
 1.12日、青森地方裁判所弘前支部における刑事裁判で、教団の信者らが、主婦に対し、ホテルの部屋で約9時間にわたって、「中絶した子供や死去した夫を成仏させないと、今の子供や夫に大変な不幸が起こる」などと脅かして、1,200万円を献金させた行為が恐喝罪に当たるとして信者3人に有罪判決が下る[81]。信者の一人は、未亡人の女性に御主人の霊が乗り移ったと称して殴りかかった。
 2.20日、文鮮明は亡くなった次男、興進と側近の朴普煕の娘、朴薫淑(パク・フンスク、当時21歳)と霊界結婚させる。アメリカの法律では認められないので、文鮮明は朴薫淑を養女にした。
 3月、「第1回 日韓安全保障セミナー」開催。両国の勝共支部が姉妹結縁を行う。
 勝共会員750万人達成。
 5.15日、「全国勝共役員決起大会」。
 6.2日、統一教会の告発記事の掲載を取りやめるようにという教会側からの要請を拒否していた元『世界日報』編集局長副島嘉和(37歳 777双)が、“韓国の空手を使った”男からメッタ刺しに遭う。(同年8月1日 自ら発行する『インフォメーション』で「犯人は勝共連合の空手使いだと思う」と述べた。)『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』の各紙が報じたが、『世界日報』は記者が病院にかけつけていたが、この事件を報道せず。他紙もその後、続報はなかった。この事件は犯人を特定できないまま時効を迎えた。
 6.10日、「世界日報」社を追放された副島嘉和と井上博明(元「世界日報社」の営業局長、元四国ブロック長)が連名で書いた告発手記(「これが統一教会の秘部だ」)を掲載した文藝春秋1984年7月号が発売される。教団が韓国中心主義である事、霊感商法のマニュアルや資金の流れなど、教団の内幕を暴露。 勝共連合を反共主義運動の同志と考えていた民族派右翼が、副島手記にある、久保木修己会長が、天皇の身代わりで、文鮮明に拝礼しているという内容に激怒し、久保木会長に質問状を出す。3ヶ月後に久保木は、副島手記の内容を否定する回答をした。久保木勝共連合会長の講演会、「平和と安全を守る七大都市大会」が行われる。
 6.10日、世界日報の路線対立で、追放された副島嘉和らが文藝春秋に出した告発手記で、久保木修己が、天皇の身代わりで、文鮮明師に拝礼する秘密儀式があるとする暴露により、勝共連合を反共運動の同志と考えていた民族派や右翼が激怒し、久保木に質問状を出す。3ヶ月後に久保木は、副島手記の内容を否定する回答をした。
 「平和と安全を守る七大都市大会」の大阪大会では、右翼や民族派が「勝共運動は、文鮮明の手先」、「世界を股にかけるペテン師の金集め」などの批判ビラを会場周辺に張り、大会を妨害「大会粉砕」を訴えた。
 6月、この月発行の『原理講論』から「聖書索引」がなくなる。
 1984年7月号「文芸春秋」で、統一協会広報局長で協会系の日刊紙「世界日報」編集長だった副島嘉和氏が、「毎月20億円」を文鮮明側に送金していたと告発している。
 1984.7月、アメリカで、日本の統一教会/統一協会から送金された年間1億ドル(約240億円)に及ぶ莫大な献金にからむ事件で、文鮮明とその手下の神山威(元日本統一協会会長)の2人が脱税と文書偽造の罪で懲役1年6ヶ月の実刑判決を受け、1984年7月から1年余り刑務所に入る。
 7.20日、アメリカで文鮮明が脱税の罪で懲役1年6ヶ月と2万5000ドルの有罪判決を受け、コネチカット州ダンベリー刑務所に入獄。弟子の神山威も(偽証罪)で共に入獄。
 1984年、岸元総理がレーガン大統領に親書を送り、 「本日、大統領にお願いをしたいと思います。文(鮮明)尊師は現在、不当に収監されています。あなたのご協力のもと、何としてでも、一刻も早く、彼が不当な収監から解放されるよう、お願いいたします」、 「文尊師は、自由の思想を掲げ、共産主義の誤りを正すことに人生をかけている、誠実な男だと私は理解しております。彼の存在は、現在も将来も自由と民主主義の維持にとって、貴重で不可欠です」。結果的には、釈放には至らなかった。
 9.14日、この日から7回にわたり朝日ジャーナルが「原理運動追及」のタイトルで統一教会批判キャンペーンを掲載。教団の抗議に対して、ジャーナル側は訂正記事を出すことを拒否したが、統一教会広報部長(当時)坂詰博の反論のために4ページ誌面を提供する。
 9.23日、国際安保会議開催。
 アジアの平和と安全を守る全国縦断7大都市大会を開催。10月、「世界の平和と安全を守る東京大会」。
 11月、「世界原理研究会」が文鮮明の長男、文孝進(当時22歳)を会長として発足した
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 公認教会制度を設けが、各公認教会を組織に入れる[82]
 スパイ防止のための法律制定促進議員・有識者懇談会を発足。
 ニューヨーク州マンハッタンに日本食レストラン「黄花(きいろいはな)」を設立する[75]





(私論.私見)