統一教会&勝共連合の歴史その1(誕生から日本での開教まで)

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和3).3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「統一教会&勝共連合の歴史その1(誕生から日本での開教まで)」を確認しておく。「統一協会について」、「 統一教会の現状」、「国際勝共連合50年の歩み」、「ウィキペディア(Wikipedia)世界基督教統一神霊協会の年表」その他を参照する。


【教団設立までの経緯】
 1899年、 定州に最初の長老派教会が設立される。
 1914.3.18日(陰暦2月22日)、平安北道定州にて、「洪唯一」氏と「趙元模」夫人の長女として、「洪順愛」生誕。平安南道安州郡新義里育ち。弟が1人「洪順貞」がいる。

【誕生と家系】
 1920.2.25日(陰暦1.6日)、現在の北朝鮮にあたる平安北道定州郡徳彦面上思里2、221番地で「文慶裕」氏と「金慶継」夫人の次男として出生した(「聖地定州」)。本名は文龍明。後に文鮮明(ムン・ソンミョン)と名乗る。兄が1人、姉が3人、弟妹が5人ぐらいとされる。

 愛国心の強いキリスト教の家門で育った。 大叔父の文潤国は牧師、独立運動家で、3.1独立運動に参与した李昇薰と五山学校の設立を主導した。文潤国が家門の全財産を上海臨時政府に独立基金として送り、家門の事情が難しくなったりもしたが民族の苦難と自身の運命について祈り続けた。

 1924年、 「崔先吉」生誕。

 7歳から13歳まで書堂で勉学。この期間、博打打ちになる。
 1933年、雲龍学院へ通う。
 同年6.3日、「白南柱」、「李浩彬」、「韓俊明」、「李龍道」らが「イエス教会」創設。
 1934年4月、雲龍学院から私立五山普通学校3学年に編入。1年間修学。
 1935年4.1日、定州私立五山普通学校から定州公立普通学校に(4学年)に転校。

 文龍明数え年15歳、この頃、文一家に精神病者が続出したのをきっかけに、(文龍明を含む)文一家が儒教からキリスト教に改宗。教会の長老であった文慶天(いとこの文昇龍の父親)の勧めで、病気を治すため、文一家は教会に通うようになり、全員がキリスト教に改宗。次姉(文孝淳)と長兄(文龍壽)の精神病が按手祈疇を通して治癒したことから、「猫頭山」(標高310m)のふもとにある「徳興長老教会」に入教した。
 「文少年の十五歳の頃、わざわいはさらに文少年自体の家にやって来た。二番目の姉さんが発狂し、上を下への大騒ぎをしている時、兄さんまでが精神異常となった。ふだんは大人しい性格なのに、ばか力を出し、自分に従わぬ者は殺してしまうとどなって、屋上に飛びあがったり、飛び降りたり・・・仕方なく手錠をはめたら、監視の目を盗んで手錠のまま逃げだし、はては怪力で手錠を壊してしまうという始末、文家の人々はこれはただごとではないと悟り、勧められてキリスト教に入信した」(野村健二(43双)1975年著 主の路程「文鮮明先生の半生-血と汗と涙」より(1975~1976年に「新天地」に連載))。

 1934-35年、 トラックをヒッチハイクして朝鮮半島全国を遍歴。

【】
 1935.4.17日、文鮮明15歳の復活祭の時、現在の北朝鮮定州の「猫頭山」において、イエス・キリストが現れ、イエス・キリストから“メシアとして果たせなかった神のみ旨を果たしてほしい、あなたには完成しなければならない使命があるとの啓示を受ける。(アメリカのテレビのインタビューでは「イエスはヘブライ語なまりの韓国語で話した」と答えている)。以後、宇宙の創造と聖書の秘密を明らかにするため深い祈祷と真理の世界に入っていった。
 同年10月、「金聖道」夫人を教祖とする「聖主教団」(聖主教)が、金聖道の長男「鄭錫天」の名義で、朝鮮総督府宗教課に認可される。
 1936年、16歳の時、3.25日、定州公立普通学校卒業。
 4.12日、私立京城商工実務学校電気科(現・中央大学)入学。この学校はソウルの漢江のほとりにあり、土居山洋氏(現九州電気学校校長代理)が設立した日本人経営の学校だった。日本占領時の当時としては珍しく、韓国人にも実務教育をと電気、建築、商業などを主体としていた。はじめはホンのバラック小舎の校舎だったが学校の周辺に下宿屋なども出来てしだいに学校らしくなって来た。設立者土居山洋氏がクリスチャンで、その博愛精神から、当時激しかった韓国人蔑視や虐待を排除し、彼らに実務教育をと努力したので子弟が全国から続々と集まって来た。校舎もそうした先生や生徒たちの手作りで大きくなって行く。

 在学中から(創氏改名に先行して)「江本」姓を名乗る。この学校に赴任し、日本語と英語を教えた園部治夫氏(現明治学院大学教授)の文鮮明の印象は次のようなものである。
 「当時は文龍明といっていました。日本名を付けなければならなかった時代でしたから、彼は江本といっていました。うちの誰か先生が付けてやったのでしょう。江本龍明は、活達で教室でも人をリードしていくいい生徒でした。勉強も出来たほうです。彼は三九年(昭和十五年)卒の第三期卒業生です」。

 ソウル学生時代、ソウルの鍾路三街へ遊郭通いをする。


 この頃より李龍道の弟子である李浩彬の「(ソウル)新イエス教会明水台教会」に通う。黒石洞に下宿。
 1936年、 洪順愛、母「趙元模」と共に「新イエス教会」をやめ、鐵山の「聖主教」に移る(1944年まで8年間信仰)。
 1937年、 韓俊明、李浩彬の推薦で関西学院大学神学部に留学。
 1938年、18歳の時、3月25日、定州公立普通学校卒業。

 1939.3.8日、私立京城商工実務学校電気科卒業(第三期卒業生)。卒業から41年に日本に渡るまでの間が不明である。

 1939年、制令十九号(創氏)および二十号(改名)。朝鮮半島に婿養子制度の導入。
 1940.2.11日、2月11日 「江本龍明」と創始改名。  

 1941年、私立京城商業実務学校を卒業。

 1942年、2月末、洪順愛、韓鶴子の実の父と出会う。3月末、洪順愛、妊娠。洪順愛が妊娠した時期、韓承運は単身赴任中で、遠く離れた黄海道延白郡にいた。
   この頃、地下教会(神霊集団)の本格的遍歴を開始。
 「この柳スポークスマンから貰った資料の中に『統一教会史 試草=文化部編史課』というザラ紙にタイプしたものがある。これによると、一九三八年、彼が十八歳のころ、ソウルに出て来て、中学校(旧制)に入り、黒石洞に下宿し、信仰生活を主とし、日曜学校にも通った、と抽象的な表現で、四一年日本へ発つまでのことが述べられているが、丁度この時代の彼を知っている証人を紹介しよう。統一協会側は、何故かひた隠しにしているが、文鮮明は一九三六年から三九年まで、私立京城商工実務学校(現中央大学)に在学していたのだ。これは事実である。ひた隠しにするはずである。丁度この時期に文鮮明は、十六歳、神の啓示を受けたのだから。この私立京城商工実務学校は、ソウルの漢江のほとりにあり、土居山洋氏(現九州電気学校校長代理)が設立した日本人経営の学校だった。日本占領時の当時としては珍しく、韓国人にも実務教育を、と、電気、建築、商業などを主体とし、全国から韓国人の子弟を集めた。はじめはホンのバラック小舎の校舎だったが、学校の周辺に下宿屋なども出来て、しだいに学校らしくなって来た。設立者土居山洋氏がクリスチャンで、その博愛精神から、当時激しかった韓国人蔑視や虐待を排除し、彼らに実務教育をと努力したので、子弟は全国から続々と集まって来た。校舎もそうした先生や生徒たちの手作りで大きくなって行く。この学校に赴任し、日本語と英語を教えた園部治夫氏(現明治学院大学教授)の、文鮮明の印象は次のようなものである。『当時は文龍明といっていました。日本名を付けなければならなかった時代でしたから、彼は江本といっていました。うちの誰か先生が付けてやったのでしょう。江本龍明は、活達で教室でも人をリードしていくいい生徒でした。勉強も出来たほうです。彼は三九年(昭和十五年)卒の第三期卒業生です』。

 ◇文の隠された秘密-十六歳啓示説はウソだった?! ソウルで取材を続けていたある日、この学校の名前をチラッと聞き込んだ。ツテを頼って、ようやくにして江本龍明と同級生だった人に会えた。そして借用して来たのが、卒業記念写真である。坊主頭こそしているが、十八歳の江本龍明は、現在の文鮮明とまったく変わりがない。本人であることは一目瞭然である。(中略)十六歳で神の啓示を受けた江本龍明は『統一教会史』にもある如く、さぞや京城商工時代に、信仰生活を過ごしていた、と思いきや、土居先生も園部先生も、"それは気がつかなかった"と述べている。クリスチャンである両先生は、日曜学校へ通われたが、そこでもついぞ、イガグリ坊主頭の教え子江本龍明に会った記憶がない、という。写真提供者の同級生は、さらにハッキリと、文鮮明が信仰者でなかったことを断言している。(中略)一九三九年、京城商工を卒業してから、四一年に日本に渡るまでの間が不明である」(「山口浩著 原理運動の素顔」(1975年)より)。
 1942.3.31日、京城発 京釜本線 急行「ひかり」で10時間かけて釜山へ。4.1日、釜山発 関釜連絡線「昌慶丸」で日本へ。下関に到着。(統一協会では4月1日を「日臨節」と呼び、例年記念行事を開催している) 4.2日、上京。
 1942年4月、「江本龍明」の名で日本に留学。早稲田大学附属の早稲田高等工学校電気工学科(夜間の各種学校)に学ぶ。(この旧制専門学校は戦後、早稲田大学理工学部に併合された。昔は早稲田大学高等部を経て理工学部に学んだと自称していた)

 朝鮮人学生二、三名と新宿区戸塚二丁目(現・新宿区西早稲田一丁目)にある三橋孝蔵・イト夫妻の家の2階に卒業するまで下宿。昼は川崎の製鉄所や横浜の造船所、運送運搬、練炭屋のアルバイト、などのさまざまな日雇い仕事をしていたとする。
 「留学中も抗日活動に励み地下活動もしていた。 抗日活動当事、中国にあった韓国の臨時政府のテロも厭わない独立運動家の金九とも連絡を取ってっており、毎月戸塚警察署に呼び出されるほど特高警察に常にマークされていたと本人は言う。韓国人留学生達と共に第二次大戦での徴兵に対する抗議集会を行ったりした」(「文鮮明の日本の早稲田高等工学校時代経済生活はどうしてたんだろ? 」参照)。

 日本留学時代に「抗日活動の為に、関釜連絡船に乗って朝鮮と日本を行き来していた」とする説あり。また、抗日活動をしていたという主張とは正反対に(実際に抗日活動などしたら、すぐに退学となる)、特別高等警察(特高)のスパイとして、早大生になりすまし、早大内の(民族派・独立派・反体制派)朝鮮人留学生グループに接近、内部に潜り込んで監視・情報収集し、同胞を日本の官憲に売り渡していたのではとする「仮説」がある。

 日本留学時代、地下教会(神霊集団)を遍歴している。
 「先生はまず、地下教会(神霊集団)を遍歴しました。日本の神社を参拝した汚された人々が現れるために、解放の三年前から、つまり数えの二十三歳(満22歳)から、地下教会(神霊集団)の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちは、どのような道を行くのだろうか。神様の摂理はこうこうでなければならないはずだ。そのために準備団体が必ずなければならないはずだ」と考えて、地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです」(真の御父母様の生涯路程1)。

 日本留学時代、私娼街に通う。
 「日本遊学の時、先生は貧民窟から私娼街まで行って見ない所がありません。といっても悪い事をやったのではありません。私娼街にいる女の過去を探ってみれば、普通の人間の過去と違いはありません。社会環境に追われ、その流れに押し流されてどうしようもなく哀れな身の上になり、あるいは父母や兄弟のために自分一身を供え物にした話も聞きました。たとえ自分の体が巷に踏みにじられ、捨てられるそんな女になっても、淋しく消える哀れな女になっても、父母兄弟を生かすという覚悟と決心をしているという時、その手を握って共に慟哭した時もありました。結局、彼らも純粋で素直な人間であったのです。その時先生は、こんな悲惨な人類の解放のために闘おうと考えたのです」((私のみ旨と信念」1969年2月2日)。

 1942年、10月頃 洪順愛、妊娠7ヶ月。洪順愛の夫にして韓鶴子の父「とされる」「韓承運(韓承雲)」、洪順愛の親からの「婿養子として迎える」という話を断り、洪順愛と別れる。

 1943年2.10日(陰暦1月6日)(公式) 日本併合下にあった朝鮮の平安南道の安州郡の信里(現在は北朝鮮統治区域)で後に文鮮明の妻となる韓鶴子(ハン・ハクジャ)が誕生。


【1945年の歩み】
 2月、文鮮明が半死状態で釈放される。3月、鹿島組に再就職。4.28日、崔先吉との婚姻届を提出。
 8月、終戦後、鹿島建設を退職する。

 10月、郭山の警察に一時拘束される。

 10月、その後半年間、京畿道の坡州のイスラエル修道院金百文(キム・ペンムン)のもとで学び補助引導師になる。京城の永登浦区域所(現:永登浦区上道洞の礼拝所で補助引導師を務める。文鮮明の著作『原理原本』(1952年発行)は、この金百文の著作『基督教根本原理』(1946年3月2日起草、1958年3月2日発行)の執筆中に文鮮明が盗作したという証言がある。

 10.25日、イスラエル修道院で金百文から「ソロモン王の祝福」を受けたと言う。その後、「自分はソロモン王の直系の子孫の末裔だ」と信じるようになる。

【1946年の歩み】
 1946年、混淫派という新興宗教の熱心な信者となり平壌で伝道活動を行う。血わけ行為を頻繁に行うようになる。この頃より混淫による社会秩序混乱の容疑(スパイ容疑)で3ヶ月拘留される履歴を持つ。後に設立した統一教会/統一協会の「救世主とのセックスによって肉体の原罪は清められる」という教義の核心部分はこの新興宗教からアイデアを得たものである。

 
三千浦へ李鳳雲長老が突然訪ねてきた。李長老は、「水晶洞の教会がたいへんなことになっています。崔先吉さんが、文鮮明先生が婦人の食口たちと復帰の儀式(セックス)をやっているのを見て暴れ出し、食口たちを全部、追い出してしまいました。そして、水晶洞の教会を崔さんが家財道具ごと売り払って、教会がなくなってしまい、集会もできない状態になっているのです。できるだけ早く戻ってきて下さい」と私に言った。(中略)あとでわかったことだが、文鮮明の復帰の儀式に名をかりた目に余る乱脈なセックスに腹をたてた崔先吉夫人は、水晶洞教会で大暴れして、女の食口たちを叩き出した。恐れをなした文鮮明は、女たちを連れてソウルに逃げ、清進洞に隠れ家を借りて女たちと住んだ。しかし、そこもわずか一週間で崔夫人に突きとめられてしまった。私が釜山の専売庁支店から帰る直前、文鮮明はあわてふためいて女たちを四散させ、命より大切なはずの原理原本の草稿もそのままに、崔夫人から逃げ出したのである。女の食口たちに囲まれて暮らすことは、つまり乱れた「女護が島」を意味する。なぜなら文鮮明を取り巻く女食口たちは、復帰原理に沿って身体を開き、再臨メシアを自称する文鮮明とセックスを最低三回はしなけれぱ、女として復帰の資格が与えられないからだ。当時、文鮮明を先生と仰ぎ、その原理を盲信していた私は、しばしば復帰の実践現場であるセックスを目撃したり、宗教儀式にそぐわない女食口たちの、狂態や矯声を見聞したこともある。だが、あくまでもそれは、再臨主としての務めだと解釈していた。一方で、どうしてもわからなかったことは、なぜ再三にわたって尻に帆をかけたように崔夫人から逃げ出すのか?だった。メシアなら妻の前でも堂々とやれぱよいのに、妻一人伝道できなくて、どうしてこの世が救えるのか?と疑問が湧いてきたのも事実だった。それともう一つ。あれだけ大切な、伝道には欠かせない原理原本を放り投げて逃げ出した文鮮明に、言行不一致の疑いを持ったのも事実である。清進洞から逃げた文鮮明は、また別の場所で女と一緒だったが、それがまたとんでもない事件に発展していくことになった。(朴正華著「六マリアの悲劇」恒友出版 1993年 P.81)
 1946.4月、 「金百文が自分の弟子たちに降りた『文鮮明がソロモン王である』という啓示を信じず受け入れなかった」として文鮮明はイスラエル修道院を去ったとされる。

 6.6日 天啓により、妻と3ヶ月の息子「文聖進」(ムン・ソンジン)を置き去りにして、朝鮮キリスト教布教の中心地であったソ連占領下の平壌へ行く(神が用意した神霊集団を統合し直すためとされる。それらの集団は「混淫派」や「霊体交換派」と呼ばれる「血分け」を行う者達だとも言われる)。朴雲女(パク・ウンニョ)と共に布教を始める。

 6.11日、金百弼(キム・ウォンピル、三弟子の1人)が弟子となる。家庭集会を中心に活動し、弟子が増えていったが、キリスト教会からは異端視される。

 8.11日、牧師の訴えと李承晩(イ・スマン)のスパイ嫌疑(風俗紊乱の容疑だったとも言われる)で大同保安署に拘束される。大同保安署に3ヶ月収容(獄中に、再臨主を待つ「腹中教」の教祖「許孝彬」(聖主教平壌教会長「李一徳」の妻)とその幹部もいた)。朝鮮労働党当局による拷問を受ける。11.21日、釈放。

【1947年の歩み】
 1947年初旬、平壌で伝道開始。

【1948年の歩み】
 1948.2.22日午前10時、文鮮明の血わけ第一声事件が起る。信者の実業家の金夫人と血わけの最中、現場に警察に踏み込まれ現行犯逮捕となる(平壌内務署により拘束される )。金夫人のご主人が告訴し訴訟になる。
 「教団では社会紊乱罪だと教えているが、姦淫容疑で逮捕された、または実業家の人妻、金鍾和(キム・ジョンファ)と怪しげな儀式をしているところを警官に踏み込まれ、強制結婚の現行犯で逮捕され、夫の告訴による公判で懲役5年の実刑。相手の人妻も10ヶ月の実刑となり共に収監されたなどとも言われる」。

 同年4.7日、社会秩序を乱したという社会紊乱罪で重労働5年の実刑を受ける。4月〜5月 平壌刑務所に収監される。5.20日、興南(フンナム)刑務所(徳里特別労務者収容所)に収監された。肥料の山を移しかえる仕事をさせられる。興南収容所に収監されている間に妹が亡くなったとされる。金夫人はこの事件で10ヶ月間の実刑を受けている。その他多くの血わけ事件が頻発するようになり私生児が生まれる。その私生児の一人が現在新たな血わけ教祖となり分派活動をしている。文鮮明が収容所に送られてきた朴正華(パク・チョンファ)を弟子にする。

 服役中、朝鮮戦争で進攻して来た米韓連合軍に「釈放」され九死に一生を得た後、南朝鮮に逃亡した。今度は釜山で伝道を再開する。この時期、キリスト教は燎原の火のように韓国人の心をとらえ、どこを歩いても掘っ立て小屋の教会や牧師の熱烈な説教に出くわしたといわれている。統一教会はそのような新興教会の一つであった。

【1949年の歩み】
 8.15日、 「大韓民国」成立。年月日不明 洪順愛、共産勢力が強まってきたため、母親と娘を連れて南韓のソウルへ避難。9.9日、「朝鮮民主主義人民共和国」成立。

【1950年の歩み】
 6.25日、朝鮮戦争(6・25動乱)勃発。8.1日、国連軍、興南工場を爆撃。10.14日、大韓青年団の奇襲により解放。
 10.24日、 平壌に戻り、弟子を訪問。12.4日、弟子と共に大韓民国の臨時首都となっていた釜山府(現:釜山広域市)へ避難する。

【1951年の歩み】
 1951.1.4日、後退。洪順愛、大邱にて、先に来ていた聖主教の「鄭錫天」長老と会う。1.27日、 釜山、草梁駅に到着。1.28日、日本留学時代の友人「厳徳紋」に出会う。5.11日、「原理原本」執筆開始。8月、ダンボール小屋(ボンネッコル教会)を建て、布教開始。

【1952年の歩み】
 1952年、 釜山東来で避難中の金百文が執筆した「基督教根本原理」の原稿『堕落原理、復帰原理』を見た文鮮明は『原稿校正を見て差し上げる』と持って行って6ヶ月以上持って来ない騒動を起こしている。

 5.10日、文鮮明が1年をかけて自らの教えをまとめたとする「原理原本」を書き上げる。同日、高麗神学校(現在の高神大学)の学生でキリスト教の伝道師、姜賢実(カン・ヒョンシル)が文鮮明を訪ねて来る。後に入教。 12月、 済州島から李耀翰(イ・ヨハン、り・よはね)牧師が訪ねて来て入教。
 年月日不明、洪順愛、済州島に避難。何ヶ月か生活。婚約者(もしくは夫)である「鄭錫鎮(錫珍)」(鄭恒俊と金聖道の次男。「鄭錫天」の弟。別名「鄭平和」)と暮らす。聖別(性交を禁じる)のため、鄭錫鎮が出て行き、別れる。

【1953年の歩み】
 1953.7.27日、朝鮮戦争休戦。
 12月、ソウル大学出身の劉孝元(ユ・ヒョウウォン)が入教。
 年月日不明、金徳振の提案で、本名の文龍明を文鮮明に改名。
 「文鮮明という名前に隠された秘密を教えてあげましょうか」今年80才になる金徳振牧師は、こう語りはじめた。「文鮮明」とは、いうまでもなく統一教会(世界基督教統一神霊協会)教祖その人のことである。「文鮮明の本名は文龍明なのだが、ある日、私が彼にこう教えたのです。「文」という字には十字架が2つある。その十字架を「明」という字の日の上下に加えると「朝」という字になる。だから、龍の字を鮮に変えると、「文鮮明」という名は「朝鮮」そのものになる。それから間もなくして、彼は龍明から鮮明にと改名したのです」文鮮明教祖に改名のアイデアを与えたという金は、かつて統一教会の草創期の頃、文鮮明の側近であった」(「文鮮明教祖の「血分け儀式」内容全告白 – 元側近・金徳振牧師」 週間ポスト 1993年10月1日号 P.212)。

【1954年の歩み/協会設立】
 1954年5.1日、朝鮮戦争が休戦した翌年、文鮮明(ムンソンミョン)が韓国ソウル北鶴洞(ポクハクドン)391において「世界基督教統一神霊協会」(The Holy Spirit Association for the Unification of World Christianity)(以下、「統一協会」と記す)を創立。 最初の会長は李昌煥(イ・チャンファン、後に脱会)。統一協会は、キリスト教の聖書を典拠とする『原理講論』を教典とし、聖書に預言された再臨のイエス・キリスト(メシア)、全人類の父の立場にあるとし「真のお父様」等と呼ばせている。統一協会は、キリスト原理主義と云われる宗教活動と反共活動の2足のわらじをはく事で時の政権、CIAと密接な関係を保つようになる。
 文鮮明は妻子ある立場で、教団に入教(同年1月7日)したての延禧(ヨンヒ)専門学校{後の延世(ヨンセェ)大}の学生、金明熙(金明姫、キム・ミョンヒ、当時24歳)と関係を持つ。
 1954年、韓国の李承晩と台湾の蒋介石らの提唱によってAPACL(アジア諸国人民反共違盟)なる反共運動組織が結成される。第三代CIA長官、アレン・ウェルシュ・ダレスがこれを根まわしした。
 1954年、金明煕との間に子供(文喜進、男、列車事故で死亡)をもうけている。

【1955年の歩み】
 1955年、年初め 金明熙が下宿していた「梨花女子大学校」の音楽科講師、梁允永(ヤン・ユニョン)の家を出て、釜山で暮らす。

 3.24日、当時のエリート校であった「梨花女子大学校」の教授や生徒が次々と統一教会に入信する。「72時間説教」と称して女性信者を監禁、「私は神の子だから、私と肉体関係を持てば、あなたは救世主を産むことができる」と宣べ貞操を奪った。これを梨花女子大事件と云う。

 韓国の名門梨花女子大の崔元福(チェ・ウォンボク)、金永雲(キム・ヨンウン)、梁允永ら5名の教授・助教授教師と学生14名が、異端の信仰をやめないことを理由に退職・退学させられる。延禧専門学校でも教授が免職処分、2名の学生が退学処分となる。

 文鮮明が「血分け」をしているとの噂が広まり、教会に対する社会的批判が高まる。
 7.4日、文鮮明は兵役法違反、女子大生を3日間不法監禁したとしてソウルで警察(治安局特殊情報課)に検挙された。後日、劉孝元、金百弼、
劉孝永(ユ・ヒョウヨン)の弟子3人も逮捕される。陸軍保安司令部と政治取引をし懲役を免れたと言われているなど当初よりスキャンダルにまみれていた。
 「《劉孝敏さん(原理講論執筆者、劉孝元さんのいとこ、三十六家庭のメンバー)の証》文鮮明と統一協会の本質を物語る事件について、私はもう一つ具体的なことを証言しておきたい。それは一九五五年の「七・四事件」、文鮮明と私たち幹部が逮捕された事件のことである。七月四日の文鮮明に続いて六日、私も逮捕された。逮捕理由は「兵役忌避容疑」。ところで、この「兵役忌避容疑」は、文鮮明以下の幹部を逮捕し取り調べるための口実で、いわゆる別件逮捕だったことがまもなくわかった。捜査官の質問が日を追って、妙な方向へ移っていった。「お前たち夫婦の仲はどうなのか?セックスは週に何回するのか?月に何回か?女の信者とは何回したか?…」私は「それが兵役忌避と何の関係があるのか」と大声でやり返し、捜査官と口論したこともあった。しかし、捜査官の調べは執拗で、机の上には文鮮明と女性食口たちの関係を書いた図を置き、セックス関係の確認を求めてきた。私は終始一貫、知らぬ存ぜぬで過ごしたが、内心ではその正確さに舌を巻いたものだった。留置場の中にいる私たちは、外の様子がよくわからなかったが、朴正華さんたちの隠蔽工作の結果か、調べを受げた女性たちは、「私は文鮮明先生と、やっていません」「私は夢の中で、セックスをしたように思います」などと、適当に嘘を並べていた。警察はほぼ的確に、文鮮明を巡る女性たちの相関図をつかんでいたものの、本人の親告や亭主からの告訴を得られなかったため、この件での起訴立件をあきらめた---のが真相だった。だから「七・四事件」は単なる兵役忌避問題ではなく、統一協会の奥座敷に隠されたセックス問題の捜査が警察の狙いで、統一協会の言う「何もない無実の容疑」ではなく、「危うく事実が天下に公表されるのを、免れた」のである。ちなみにこのとき逮捕された幹部の留置番号は、文鮮明三九〇番、劉孝元三八〇番、劉孝永一七〇九番、私一一七五番だった。金元弼も逮捕され、彼だけが実刑の判決を受けて収監された」(朴正華著「六マリアの悲劇」恒友出版 1993年 P.263より)。

 この事件で、「統一協会」教祖が多くの女性と性関係を持つ怪しげな宗教であることが判明する。但し、教祖と信者の女性たちが「血分け」と呼ばれる性的秘儀を行ったというスキャンダルであったが、実態は語られていない。結局、無罪判決を得ている。その後、教勢は徐々に伸び、1963年、財団法人の認可を得ている。
 8.17日、金明煕が日本に密入国した直後に東京で、文鮮明の子、文喜進(ムン・ヒジン、男) を産む (教団では「真の母」としての第2候補であったが、外国で滞在中不幸な事件に巻き込まれたため、その立場を続けられなくなり自ら身を引いたとしている。 (教団は金明煕は1998年の合同結婚式で霊界のソクラテスと夫婦になったとしている)。

 10.4日、ソウル地方院の結審公判で、文鮮明は無罪放免となる。劉孝元は罰金を科せられ、他の2人は懲役8か月となる。

  10.7日、文鮮明は出監直後に本部教会をソウルの龍山区青波洞(チョンパドン)1街71番地に移転する。

 12月、文鮮明の現在の妻、韓鶴子の母である
洪順愛(ホン・スネ)が入教。

【1956年の歩み】
 1.8日、崔先吉との協議離婚届を提出。12年近くの夫婦生活に終止符を打つ。文鮮明の女性問題が原因。教団は「最も愛する妻を犠牲にして弟子たちを愛していかれた文先生の心情を崔女史は理解することができず、自ら“真の母”の立場を放棄した」としている。

【1957年の歩み】
 2月、韓国陸軍中佐の「朴普煕」(パク・ポーヒー)が、駐韓米軍第8軍の国連軍司令部内米国軍事顧問団長専属副官に在任中に入教する。同じく第8軍所属の軍人/韓相吉、韓相国、「金相仁」、金相哲、金スンファも一緒に入教する。朴普煕、韓相吉、韓相国、金相仁はCIC(Counter Intelligence Corps、対敵諜報部隊)のメンバーであった。この4人は後に大韓民国中央情報部(KCIA)の要員となる。
 「『朴普煕は元韓国軍の諜報部員。(略)他の三人についてフレーザー委員会の報告書はこう記している。「1950年代末以来の文の支持者の一人韓相国(別名ブド・ハン)は、1961年のクーデターの首謀者でKCIAの創立者である金鍾泌の個人的な補佐となった。金相仁(スチーブ・キム)は、1961年5月に韓国陸軍から退職し、KCIAに加わり、金鍾泌の通訳となった。彼は1966年に至るまで、引き続いて金鍾泌の親しい個人的側近であった。1966年に彼はKCIA職員の地位に復帰し、その後メキシコ・シティのKCIA支局長となった。彼(金相仁)は朴普煕の親友で、統一教会の支持者であった。四人目の韓相吉は、1960年代末には、ワシントンの韓国大使館付武官であった。行政府の諸報告はまた、彼をKCIAと結びつけている」四人が四人ともKCIAのメンバーであり、かつ50年代末に相次ぎ統一協会に加入してきたのである。この四人をパイプにして「朴政権が権力を確立するにつれて、文は新政権との良好な連絡をもつようになった」とフレーザー委員会報告書は指摘する」(萩原遼著「淫教のメシア・文鮮明伝」晩聲社、1991年) 。
 8.15日、弟子の劉孝元が文鮮明の教説をまとめた「原理解説」(「原理講論」の完成は1966年)を作成刊行する。これが教典となる。

【1958年の歩み】
 空気銃の生産を開始(仁川の朱安工場から出発)。
 1958年6月、創設4年後、韓国の西川勝(韓国名は崔翔翼(チェ・サンイクまたは崔奉春(チェ・ボンチュン)、1985年に脱会)が宣教のために、国交のない日本に密入国する。

 不法入国で逮捕された後、逃亡した西川は各地を転々と逃げ回った。同じく密入国していた金明煕をかくまっていた
品川霊能者、志賀如心の所にも身を寄せたという。全国モーターボート競走会連合会(後の日本船舶振興会)の会長/笹川良一が密入国で逮捕された西川の身元引受人を買って出たが、文鮮明は「日本の陰謀だから、帰国するように」と指示したため、西川は韓国へ帰国。(1958年に統一教会の宣教師がはじめて日本に上陸した時に、密入国で逮捕されている。これを庇護したのが日本船舶振興会(現在の日本財団)の笹川良一氏で、彼を通じて岸元首相が統一教会を支援するようになった)

 これが、韓国で始まった統一協会が日本で布教の始まりとなる。以降、街頭募金活動や霊感商法で高価なつぼや印鑑を買わされたなどとする被害が続出、合同結婚式での結婚は無効だとする訴えが相次ぐなど、統一教会の活動が社会的に物議をかもしていくことになる。
 9月、アメリカへ宣教師、金永雲(キム・ヨンウン)を派遣。

【1959年の歩み】
 金相哲・姜義弘夫妻、文鮮明の命を受けてアメリカ宣教のため渡米。
 5 月頃 教会は入教していた東京都渋谷区東北沢の熱心なクリスチャン平福家の土地を譲り受け、センターを建設した。この頃、金明熙が4年ぶりに韓国に戻る。文鮮明は息子の喜進(ヒジン)だけを自分の戸籍に入れ、女性幹部の家で育てさせたと言われる。
 7.20日、全国120か所で、夏季40日間の開拓伝道が行われる。
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 8.15日、教理解説書『原理解説』が発刊される。
 文鮮明氏の2004年9月16日発言録「岸首相(の時)から私が(日本の政界に)手を出した」。発言では、自ら、岸氏に接近したことを示唆している。




(私論.私見)