日本暦史 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).10.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、我々が知っておくべき日本伝来の暦の智恵を確認しておく。 【季節のめぐりと暦】二十四節気 http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/ 【季節のめぐりと暦】七十二候 http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/ |
2008.12.29日 れんだいこ拝 |
【日本の暦史】 |
魏志倭人伝が書かれた5世紀頃、はい松之(はいしょうし)は、「倭人は正歳四時を知らず。ただ春耕し、秋収めるを記して年紀となす」と記している。これによると、「歳時記的自然暦」に随っていたことになる。留意すべきは、この頃の日本に暦はなかったとするのではなく、日本式の暦があったと確認すべきであろう。むしろ、月の満ち欠けと密接に結びついて農業や漁業などの便宜を図り、あるいは七夕や十五夜などといった生活習慣を生む「歳時記的暦」を使用していたと思うべきである。 |
その後の日本では、西暦が導入される前まで、長らく中国暦を下敷きにした日本独自の暦(和暦)が使われてきた。日本が中国暦を導入したのは、604年(推古天皇12年)のときだと云われる。政治要略に「初めて暦日を用う」と記載されている。以後、遣唐使が持ち帰った暦を導入するなど4回の改定が為されている。690(持統天皇4年)、「元嘉暦」と「儀鳳暦」の併用が始まっている。697(文武天皇元)年、「儀鳳暦」が単独採用される。764年、「大えん暦」、858年、「五紀暦」が採用されている。862(貞観4)年、清和天皇の御世、天陰陽頭(おんみょうのかみ)である大春日真野麻呂によって「宣明暦」(せんみょうれき)が策定された。以降、「宣明暦」が、江戸時代初期まで約823年間近く使われてきた。 |
1684年、江戸幕府から天文方に任ぜられた安井(保井)晴海(春海)は宣明暦の修正に乗り出した。安井家は碁所の家系であるが、この命により安井は渋川と改称し、新たに天文方の家系として渋川家をおこす。安井が天文方にされた背景には、暦をつかさどる家系を一新する狙いもあった。その頃一番優れているとされていた中国の元の時代の「授時暦」を採用し、中国と日本之緯度の違いを踏まえて日本的に焼き直した暦を作った。当時の年号をとってこの暦は「貞享暦」(じょうきょうれき)(渋川春海)と呼ばれる。 |
陽明学者・熊沢蕃山が公家らと親しくしていた時期の霊元天皇(1654~1732)が彼の「大和暦」を良しとせず、3月、明代に作られた「大統暦」を採用する。渋川は屈せず、土御門泰福(やすとみ)の助言を得て自説の正しさを奏上、そのことが功を奏し天皇は10月に再度の改暦宣下、渋川の「貞享暦」を採用した。天皇が一度下した宣下を一年もしないうちに撤回するなど、前代未聞の事態だと思うのだが、霊元天皇の人間力の立派さを痛感させる出来事だったと言っていいだろう。 土御門は、霊元天皇の側近の関白・一条兼輝(冬経)を介して、天皇に渋川の意見を伝えたのだという。一条兼輝(かねてる)の母は、日本陽明学の祖・中江藤樹を崇拝してやまない岡山藩主・池田光政の娘・通姫(大叔父・徳川家光の養女)であり、父の一条教輔は、中江藤樹の高弟・熊沢蕃山の高弟だった。「霊元天皇の側近の一条兼輝は、熊沢蕃山の高弟だった!」ことになる。霊元天皇には、やはり藤樹や蕃山らが信じる陽明学の影響があったのではないか。(「林田 明大日本陽明学研究会、姚江の会」参照) |
「貞享暦」は、京都を基準にした暦法で、それまでの「宣明暦」よりはるかに正確な暦法となった。春海は、「七十二候」も日本の気候に合うように改めた。以後、和暦は、1755年の「宝暦暦」(土御門(安倍)泰邦)、1798年の「寛政暦」(高橋至時)、1844年の「天保暦」(渋川景佑)に順次修正しより精度の高い太陰太陽暦が完成していった。最後の天保暦(てんぽうれき)が、和暦の最終改訂版という位置付けになる。上田秋成や山片バン桃らも独自暦を作案している。 |
日本が西暦を導入したのは、1872(明治5)年で、この年の12月2日で太陰太陽暦法(月の満ち欠けを基準にした暦)の天保暦を打ち切り、翌日を1873(明治6)年1月1日とした。これにより、太陽暦が使われるようになった。この時導入したのはグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦であった。日本がグレゴリオ暦に移行するのは27年後の1900(明治33)年である。 これにより、月の満ち欠けと密接に結びついていた農業や漁業などのサイクルや、七夕や十五夜などといった生活習慣がうまく対応できなくなり、旧暦が生まれることにもなった。旧暦は天保暦の計算方法を用い、実際の計算に使う数値(1太陽年など)はグレゴリオ暦に使われる値を使って計算したものを云う。つまり、旧暦とは過去に用いられた天保暦を太陽暦と折衷したカレンダーということになる。正式な暦ではないが、現在まで重宝されている。 |
【和暦考】 |
和暦は、太陽の関係によってうるう月を入れて暦を調整するため、1年は12ヶ月または13ヶ月となる。渋川景佑らによって改定されたこの暦は、それまでの平時法を定時法に改めたものとして知られる。平時法は、昼の中で6等分、夜の中で6等分とすることで時間を割り振る方法である。定時法は、1日を昼夜関係なく12等分することで時間を割り振る方法である。昼と夜の長さはその時期によって違うので、天保暦までは時期によって時間の長さが一致しなかった。農作業などでは利点も多いと思われるが、1時間を定間隔に割り振る定時法の魅力も有る。 そのルールは、1・太陽と月との黄経が相等しい時刻を朔とする。2・暦日は、京都における地方真太陽時午前0時に始まる。これを子の刻とする。3・暦月は朔(新月)を含む暦日に始まる。4・暦月で、春分を含むものを如月(2月)、夏至を含むものを皐月(5月)、秋分を含む月を葉月(8月)月、冬至を含むものを霜月(11月)月とする。5・うるう月は中気を含まない暦月に置く。ただ、中気を含まない暦月が、すべて閏月となるわけではない。 月の朔望で月日を決めると、毎年季節とずれて行くことになる。そこで、冬至から次の冬至までの長さを計ってこれを1年とし、太陽の黄経が15度進むこどに一気進める方法で1年を24等分する暦法が編み出された。1節気の長さは約15.22日となる。これを「24節気法」と云う。いわば太陰太陽暦の太陽暦に相当し、これにより正しい季節が確認されることになった。 中気とは、二十四節気のうち、春分、穀雨、小満、夏至、大暑、処暑、秋分、霜降、小雪、冬至、大寒、雨水の12の気(太陽黄経が3で割り切れる気)を云う。「天保暦」は月日とともにこうした春分・清明・処暑などといった節気が書かれている。これは太陽の位置を示す黄経によって決められており、種を蒔いたり収穫するときの指標になった。また立春から数えた八十八夜や二百十日なども現在では5月2日、9月1日頃と決まっているが当時は何月何日なのか分からなかったので暦に書かれていた。 24節気を更に約5日ずつに三分して72気候に分ける方法もある。24節気は全て漢字2文字で表わされるが、72気候の名称は2文字から8文字のごく短い漢文となる。元々は中国華北地方のそれぞれの季節を表現し、気象の動きや動植物の変化を知らせている。24節気は古来より定着しているのに対し、72候の名称は何度か変更されている。 日本でも、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって気候や生態系が異なる日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」(日本版72候)が作成された。現在では、1874(明治7)年の「略本暦」に掲載された72候が主に使われている。俳句の季語には、中国の72候によるものも一部残っている。これについては「日本暦」に記す。 365を12で割った太陽暦の月であれば、必ず月に一つの中気が入るが、太陰太陽暦は、1ヶ月は月の満ち欠け(朔望月、約29.55日)で決まるので、中気を含まない月も出てくる。その月に、閏月を置くことができる。但し、3.の規定に引っかかるときは置くことができない。例えば、6月に閏月を置く場合は、1月、2月、3月、4月、5月、6月、閏6月、7月…となる。月のカウントは2.の規定どおり、朔を含む日からその次の朔を含む日の前日までなので、1ヶ月は29日だったり30日だったりする。 なお、現在カレンダーに書かれている「旧暦の日付」は「天保暦」をそのまま延長したものではなく、天保暦の考え方を現代の観測技術で補ったものである。現在の旧暦は、当時の京都における地方真太陽時ではなく、日本標準時(兵庫県明石市の東経135度度における地方平均太陽時)を日本時間0時にしており、ここから始まる。ちなみに中国、台湾は、標準時として東経120度における地方平均太陽時を採用しているので、朔の日付が一日ずれることがたまにある。 |
【日本暦一覧その1、二十四節気 (にじゅうしせっき)表】 |
太陽年を太陽の黄経に従って24等分して、季節を示すのに用いる語。中国伝来の語で、その等分点を立春・雨水などと名づける。二十四節、気。七十二候(しちじゅうにこう)は、日本の一年を72等分し、季節それぞれのできごとをそのまま名前にした約5日ごとに移ろう細やかな季節を云う。 黄経(こうけい)とは、天球上の一点から黄道に下した大円の足を、春分点から測った角距離。赤経と同じく、春分点から東の方へ測る。黄道(こうどう)=[漢書天文志]地球から見て太陽が地球を中心に運行するように見える天球上の大円。天の赤道に対して約23.4度傾斜する。黄道が赤道と交わる点が春分点・秋分点である。(「こよみのページ」その他参照) |
【古代の時刻制度】 |
「新古代学の扉」の増田修の市民の古代第16集●1994年 市民の古代研究会編●研究論文「倭国の暦法と時刻制度」。 |
一日が四八刻。 |
(私論.私見)