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土俵上の朝青龍
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基礎情報 | ||||
四股名 | 朝青龍 明徳 | |||
本名 | Долгорсүрэнгийн Дагвадорж ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ |
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愛称 | ドルジ | |||
生年月日 | 1980年9月27日(35歳) | |||
出身 | ![]() |
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身長 | 184cm | |||
体重 | 154kg | |||
BMI | 45.49 | |||
所属部屋 | 若松部屋→高砂部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、左四つ、寄り、投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第68代横綱 | |||
生涯戦歴 | 669勝173敗76休(67場所) | |||
幕内戦歴 | 596勝153敗76休(55場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝25回 幕下優勝1回 三段目優勝1回 序二段優勝1回 |
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賞 | 殊勲賞3回 敢闘賞3回 |
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データ | ||||
初土俵 | 1999年1月場所 | |||
入幕 | 2001年1月場所 | |||
引退 | 2010年1月場所 | |||
趣味 | 音楽鑑賞、ラジコン、草サッカー | |||
備考 | ||||
金星1個(武蔵丸1個) | ||||
2012年12月21日現在 |
朝青龍 明徳(あさしょうりゅう あきのり、1980年9月27日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身の元大相撲力士、第68代横綱。現在は実業家、タレント、コメンテーター、評論家、映画俳優、慈善家、モンゴル国レスリング協会会長として多方面に活躍している。本名はドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ[1](モンゴル語キリル文字表記:Долгорсүрэнгийн Дагвадорж、ラテン文字転写:Dolgorsürengiin Dagvadorj )。引退後は、「(元・横綱朝青龍の)ドルゴルスレン・ダグワドルジ氏」と報道等で紹介されることも多い[2]。
入門[編集]
15歳でモンゴル相撲を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。
1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学し、翌年には同い年で文徳高校のエース内田水と対戦も惨敗喫し翌々年若松親方(当時・現高砂親方。元大関・4代朝潮)によるスカウトにより、高校を中途退学して角界に入門した。(後にモンゴルで取得した単位が認められて2003年9月に卒業した。)入門した際には「目標は旭鷲山関と千代大海関です。一生懸命頑張って、お父さんとお母さんを喜ばせたい」と抱負を語っていた。初めて番付に名前が載った1999年3月場所には序ノ口で6勝、5月場所には序二段で7勝、7月場所には三段目で7勝を挙げ、一気に番付を伸ばした。本人はこの頃について横綱になってから「あの頃はただ、ただ必死だった。稽古量も半端ではなかった。相撲を取って楽しかった」と振り返っている。[3]
幕内昇進以後[編集]
2001年~2003年[編集]
2001年1月場所に新入幕。千秋楽の和歌乃山戦に勝つという条件付きで敢闘賞候補に挙がったものの、これに敗れて9勝6敗となって受賞を逃した。翌3月場所も同様に千秋楽に勝利を挙げるという条件付きで敢闘賞候補に入ったものの出島に押し出されてまたしても9勝6敗に終わり、受賞を逃した。入幕3場所目の5月場所では新小結として貴乃花と対戦したが、立ち合いの圧力で負けて大きく押し込まれ、突っ張りで反撃するも全く通じず一方的に押し出された。この場所は結局8勝7敗で場所を終えたものの初日には武蔵丸から白星を挙げており、新入幕以来3場所連続で三賞候補に入ったその期待に応える形で初三賞となる殊勲賞を獲得。なお千秋楽白星は十両昇進以降この場所が初めてであり、千秋楽にまた負けるかもしれないというプレッシャーやそれを乗り越えた喜びなどをインタビュールームで明かしていた。[4]このように確実に上位の力は身につけており幕内昇進後引退するまで取組での通算の決まり手数は41種を数えた多彩な技と[5]5月場所の安芸乃島戦から、2009年9月場所まで初顔合わせの相手に34連勝した初顔の相手への強さ[6]などもあり取りこぼす要素が少なく、ジムでの筋力トレーニングを積極的に取り入れる[7]など独自の調整も功を奏し、この場所以降前頭筆頭より下の地位に下がることは一度もなかった。2002年1月場所にてモンゴル出身の力士で初の関脇昇進を果たし、その場所で8勝7敗と勝ち越すと二場所連続で11勝4敗の成績を挙げ、大関捕りとなった7月場所は終盤まで優勝を争い12勝3敗の好成績を挙げ、場所後にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進した。
新大関の場所となる2002年9月場所には11日目まで9勝1敗と優勝争いの先頭を走り、この場所が長期休場明けであった2敗の貴乃花と結び前で対戦。対戦前にはインタビューした刈屋富士雄アナウンサーに「(前回の対戦で一方的に負けているだけに)何としても今日はいい相撲で勝ちたい」とコメントしたが、結果的に及ばず、立ち合いから強烈なのど輪押しで攻め、貴乃花の逆襲を凌ぎ投げで崩して攻め立てるもまわしを取られて前に出てこられ、外掛けで崩しつつ前に出ようとするところを上手投げで土俵正面に投げつけられて敗北した。この日中入り後解説を務めた同じ高砂一門の先輩横綱である曙(第64代横綱)は「二人に拍手を送りたい」と言ったほどの好取組であったが、取組前のインタビューで「自分にとって非常に大事な一番」と位置付けていた朝青龍の悔しがり方は尋常ではなく、花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫ぶ姿がNHKの大相撲放送で放送されるほどであった。しかしこれが朝青龍と貴乃花の最後の取組となり、貴乃花は翌11月場所を全休、2003年1月場所の8日目限りで現役引退。結局朝青龍は貴乃花に2戦2敗と、一度も勝つことが出来なかった。[3]
9月場所はこの敗戦が響いて10勝5敗で終わったものの、翌11月場所は上位陣総崩れの中、14勝1敗で念願の幕内初優勝を達成。綱獲りとなった2003年1月場所は、9日目の海鵬戦で敗れた際左足薬指脱臼と脹脛肉離れの怪我を負ったが、その後も負傷を感じさせない力強い相撲で14勝1敗、大関の地位で二場所連続優勝を達成した。1月場所千秋楽翌日の横綱審議委員会では、一部の委員(脚本家で唯一の女性横審委員だった内館牧子など)から「成績は申し分ないが、品格の面で問題が有り」等の意見が出たものの、結果的には朝青龍の第68代横綱へ昇進が決まった。尚横綱土俵入りは、高砂一門伝統の雲龍型を選んだ(土俵入りの指導者は同じ高砂一門で、当時東関部屋付きの親方だった曙)。朝青龍の土俵入りは砂を噛むかのような足の動きに大きな特徴があり、NHKの大相撲放送でも度々足が大写しになった。
2003年、モンゴル人女性と結婚、またこの年、長女が誕生した。同年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。さらに翌7月場所の対戦では髷を掴み反則負けとなる。取組後の風呂場で口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊する[8]。この場所は頸部挫傷により10日目から途中休場した。
2004年/2005年[編集]
前2003年11月場所限りで武蔵丸が引退した事により、2004年1月場所の番付で朝青龍は史上8人目の一人横綱となる。なお同1月場所は千秋楽に栃東を押し出しで下し、自身初の全勝優勝を達成した。続く3月場所では、千秋楽に1敗で追う千代大海を引き落としで破り、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。
5月場所は、6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力戦で一方的に敗れてしまい、連勝記録が「35」(史上6位)でストップ。最終的にこの場所は13勝2敗となったが、千秋楽(5月23日)にモンゴルの後輩、白鵬が立合いの変化で北勝力を破って「援護射撃」を果たすと、自身も結びの一番に勝って迎えた優勝決定戦で北勝力を破り3場所連続優勝を達成。部屋、一門の枠を超えて白鵬と喜びを分かち合った。
7月場所も13勝2敗で優勝。9月場所では終盤に4連敗を喫し9勝6敗と横綱の地位で15日間皆勤して初の一桁勝ち星に終わった。[9]11月場所では14日目に優勝を決めたが千秋楽に魁皇に敗れ13勝2敗で終えた。2005年1月場所では3回目の全勝優勝を決めた。3月場所では13日目に栃東に敗れるが14勝1敗で三連覇を達成した。5月場所では14日目に優勝を決め、1996年の貴乃花以来となる、4場所連続優勝を達成した。11月場所では13日目に琴欧州に敗れるが、14日目に魁皇を寄り切って2004年11月場所から7場所連続優勝(従来は1962年7月場所~1963年5月場所、1966年3月場所~1967年1月場所に2度記録した大鵬の6場所連続)、2005年には年間6場所完全優勝(従来は1966年の大鵬、1978年の北の湖、1986年の千代の富士、2004年の自身の5場所)、年間成績84勝6敗(従来は1978年の北の湖の82勝8敗)と、様々な記録を更新した。
2006年/2007年[編集]
8連覇を目指した2006年1月場所では11勝4敗に終わる。翌3月場所は13勝2敗で優勝したものの白鵬に決定戦進出を許し、5月場所では2日目の若の里戦に敗れた際右肘を痛め3日目から途中休場するなど、同年前半は力の衰えも指摘され始めた。尚「横綱不在」と言われた場所は、当時一人横綱の朝青龍が休場した同2006年5月場所の3日目~千秋楽の13日間が近年の例となっている。
しかし7月場所に復帰すると11月場所の全勝を含め翌2007年1月場所まで4場所連続優勝し、史上5人目、外国人力士では初となる20回目の優勝を果たした。同場所千秋楽翌日の1月22日、『週刊現代』に自身の八百長疑惑が掲載された。後に朝青龍を始めとする現役力士と協会が起こした訴訟で、東京地方裁判所は被告である講談社側に、朝青龍へ1100万円を支払うことを命じた。詳細は武田頼政を参照。
翌3月場所は初日から2連敗。その後は連勝を続け、千秋楽で千代大海を立合いの変化で破って13連勝し13勝2敗で優勝決定戦に持ち込んだものの、決定戦では逆に白鵬に立合いの変化で敗れた。
さらに5月場所は9連勝の後10日目に安美錦に敗れると調子を崩し、12日目からは4連敗で10勝5敗に終わり、横綱昇進後初めて2場所連続で優勝を逃すとともに、白鵬の連覇と横綱昇進を許した。翌7月場所の番付は白鵬が新横綱となり、朝青龍の一人横綱も21場所で止まった(一人横綱の最長記録である)。その同7月場所では初日に再び安美錦に敗れ、前場所から続けて5連敗を喫した。これらの不振に関しては前述の八百長疑惑報道の影響も指摘された。それでも2日目からは14連勝して14勝1敗で3場所ぶりの優勝、白鵬に対し先輩横綱としての意地を見せるとともに、完全復活を果たしたかに見えた。
ところが同場所後の7月25日、「左肘内側側副靭帯損傷、左尺骨神経障害、急性腰痛症、第5腰椎疲労骨折で約6週間の休養、加療を要する」とした診断書を協会に提出、夏巡業(8月3日から20日まで)の不参加を届け出たが、当人がモンゴルで中田英寿らとサッカーをしている映像が同日報じられ、仮病疑惑が噴出[10]。巡業部は帰国後の巡業参加を拒否する方針を固め[11]、8月1日には日本相撲協会から2場所出場停止、減俸30%4ヶ月、11月場所千秋楽までの謹慎の処分を受けた。処分の理由について伊勢ノ海親方は、診断書の内容から詐病の可能性を否定した上で「横綱として誤解を招く行動で、軽率だったため」としている。[12]
当時の理事長北の湖親方はこの際「あいつは意外と気が小さいから」と述べて、角界から朝青龍が去ってしまう可能性を危惧したとも言われている[13]。また同時に師匠の高砂親方も減俸30%4ヶ月の処分を受けた。この処分に対し日本並びにモンゴルのマスメディアが大々的に報道、在モンゴル日本大使館ではこの処分に対して市民が抗議デモを起こした。また在日モンゴル大使館は7月31日、「サッカーはモンゴル国主催のチャリティー大会のイベントであり、日本外務省を通じ半ば強引に参加を要請したもので、大変なこととなり迷惑をお掛けした」と日本相撲協会に対し謝罪した[14]。
同月27日には、日本経済新聞等で「東京国税局の税務調査を受け、テレビ番組やCMの出演料などの一部を申告していなかったなどとして、2005年までの3年間で約1億円の申告漏れを指摘されていた」ことが報道された。追徴税額は過少申告加算税を含め約3000万円であった。
同年8月6日には、心療内科医・本田昌毅の往診により「神経衰弱および抑うつ状態」との診断を受けていた[15]ものの、後に協会医務委員会が紹介した精神科医により解離性障害と診断されたと発表。協会は謹慎処分を一部訂正しモンゴルへの帰国を承認した。これを受け同月29日に治療をするとしてモンゴルへ帰国した。
9月場所を出場停止処分により全休したため、11月場所では新横綱であった2003年3月場所以来となる西横綱となった。
11月場所千秋楽(11月25日)を終えたため、当初の決定通り謹慎を解除され、11月30日にはモンゴルから93日ぶりに再来日した。同日夕方に謝罪会見を開き、朝青龍本人が一連の騒動について謝罪し、会見後は臨時横綱審議委員会(横審)で謝罪と経緯説明を行なった。なお海老沢勝二横審委員長(元日本放送協会会長)や、「朝青龍の天敵」と言われた内館牧子横審委員などからは「今後再び同じような失態を起こした場合は、引退勧告も辞さない」と忠告されている。
12月2日から大分県豊後大野市で始まる冬巡業に参加して、7月場所千秋楽以来133日ぶりに土俵に復帰した。初日の横綱白鵬戦では寄り切りで勝利した。
12月21日朝、横審委員の内舘牧子が事前通告なしに稽古を視察するため高砂部屋を訪れたが、朝青龍は稽古休みで不在だったために肩透かしを食う。のち内館は朝青龍に対して「癌を克服し現役に復帰したプロレスラーの小橋建太を見ならいなさい」と発言した。
2008年[編集]
2008年1月13日、1月場所で前年7月場所以来の土俵復帰。約5年ぶりの西横綱となったためか、初日の土俵入りの際、西横綱は本来は左足から土俵中央へ歩み寄るところを、長年東横綱として君臨していた癖で、右足を先に出すというミスも見られるなど、当初は2場所ぶりの復活で「相撲勘」を取り戻せるかどうかが話題となった。注目された初日は琴奨菊戦で快勝するも、2日目の稀勢の里戦では豪快な送り倒しを決められ、早くも土がついた。また3日目には観戦していた内館横審委員を土俵上で睨みつける(本人は否定)[16]など、本来の横綱の風貌が戻ってきた。その後は不安定な取り組みがありながらも勝ち星を積み重ね、14日目まで1敗で東横綱の白鵬と並び、2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花戦以来、約5年半ぶりの横綱同士による千秋楽相星決戦となったが、過去に類を見ない白熱した大一番の末、白鵬に豪快な上手投げで破れた。
2008年3月場所では11日目までは全勝で、2敗で追う白鵬を引き離していたが、12日目で土がつき、翌13日目では対朝青龍戦28連敗中だった大関琴光喜が、連敗記録歴代2位[17]という屈辱の記録に終止符を打った。そして14日目には両横綱共に12勝2敗で並び、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍が小手投げで勝利し22回目の優勝を決めた。この優勝で優勝回数が貴乃花と並んだ。
2008年5月場所では、出場停止中だった2007年11月場所以来の東横綱となったが、初日に稀勢の里に敗れた。その後は連勝したが11日目にこの場所初優勝した琴欧洲に敗れ、翌日以降さらに千代大海、魁皇にも敗れて3連敗となり、優勝候補から外れた。翌日は琴光喜に勝って連敗を止めた。千秋楽では横綱白鵬に引き落としで勝ったが、この直後に負けて土俵上で四つんばいになっている白鵬を横から駄目押し、その行為に対し白鵬が立ち上がりながら朝青龍に右肩をぶつけ、両者がにらみ合う事件が起こった[18]。当初北の湖理事長は「朝青龍の突きは駄目押しでなく流れで有り、怒った白鵬が悪い」と朝青龍を庇ったが、横綱審議委員らは「その後土俵上で横綱同士が睨み合うのは喧嘩両成敗、両者に注意せよ」の進言により、結局朝青龍と白鵬の二人に厳重注意処分とした[19]。
2008年7月場所では、場所前の稽古不足や右足首痛などで不安視されたが、それが的中してしまった。初日に豊ノ島に上手投げで敗れた後2日目から3連勝したが、5日目に栃乃洋に押し倒しで敗れた際に左肘を痛め6日目から途中休場。朝青龍の休場は2007年11月場所以来、途中休場は2006年5月場所以来のこととなった。
2008年9月場所では中日までに、雅山、安美錦、豊ノ島に敗北した。豊ノ島戦はテレビ映像では微妙で抗議もあった[20]が、砂に足が付いた跡が残っていたとされる[21]。
引退説まで囁かれたが、大鵬と九重理事(元千代の富士)ははいずれも「(まだやれる事を)考えるべきだ」と述べた[22]。9日目までの5勝4敗という成績を受け、この日武蔵川理事長は休場を勧告し、10日目から休場することとなった。2場所連続休場はサッカー問題で出場停止処分を受けた2007年9月場所と11月場所を除けば自身初となる[23]。武蔵川理事長は復帰後の場所で、進退がかかることを示唆し[24]、朝青龍も進退をかけることを明言した[25]。11月場所は休場。
2009年[編集]
2009年1月場所は、場所前の横綱審議委員会稽古総見では調子が良くなく、進退問題も取り沙汰される状況で臨んだが[26]、初日から14連勝と次第に調子を上げ、千秋楽では本割の一番は立ち合いを失敗して白鵬に敗れたものの、優勝決定戦では本割と一転して厳しい攻めで白鵬を寄り切りで下し、貴乃花光司を抜き歴代単独4位となる通算23回目の優勝を果たした。
場所前はマスコミは進退問題をこぞって取り上げたが、優勝後も「相撲内容は安定感を欠いた」「稽古は不十分」「力の衰えを感じさせた」とバッシングを続けている。中には「4日目までに2勝2敗、7日目までに4勝3敗だったら、引退に追い込まれていたかもしれない」(産経新聞・奥山次郎)[27]、「軍配は白鵬、動が静をわずかに上回った」(毎日新聞・武藤久)[28]とタラレバを論った批判まで存在した。2009年3月場所は、初日から9連勝と全く隙のない相撲を見せていたが、10日目に過去14勝2敗と圧倒していた日馬富士に敗れてからは自分の相撲が取れず、結局11勝4敗に終わった。場所後、日馬富士戦で肋骨骨折していたことが判明した[29]。
2009年5月場所直前、朝青龍は申請していた日本国の永住権を取得したことを明らかにしたが、親方として相撲協会に残る際に必要となる帰化は行わなかった[30]。
2009年7月6日、オフィシャルブログにて夫人と離婚していたことを発表した。
2009年9月場所は、初日から14連勝。全勝優勝がかかった千秋楽で横綱白鵬に寄り切りで敗れたが、優勝決定戦ではその白鵬をすくい投げで破り、北の湖に並ぶ通算24度目の優勝を果たした。この日は自身の29歳の誕生日でもあった。
2009年10月、M資金詐欺で1億2000万円を騙し取られていたことが週刊誌で報じられた[31]。
2009年11月場所は、初日から11連勝したがその後4連敗し、11勝4敗で終わった。
2010年/引退[編集]
2010年1月場所は千秋楽前の14日目、日馬富士に1分13秒の大相撲の末下手投げで下して優勝を決め、2場所ぶり25度目の優勝を果たした。しかし千秋楽結びの一番では、白鵬に寄り倒されて13勝2敗の成績となった。特に本割での白鵬戦は7連敗となり(但しその間に優勝決定戦で2回勝利)、横綱同士での対戦成績としては男女ノ川が双葉山に喫したワースト記録に並んだ。また、これが結果的に横綱・朝青龍として現役最後の一番となってしまう。
1月場所中の7日目(1月16日)未明、泥酔して暴れる騒動を起こしたと写真週刊誌に報じられ、同1月場所の千秋楽翌日の1月25日に、日本相撲協会の武蔵川理事長から厳重注意処分を受けた[32]。ところがそれから3日後の1月28日、同日発売の週刊新潮[33]の記事によるとその被害者は、当初名乗り出た一個人マネージャーではなく、一般人の男性だったことが発覚[32]。2月1日には、同協会の(理事選挙後の)新理事会で、調査委員会の設置が決まった[34]。被害者男性は元暴走族(関東連合[35])のリーダーであり、2011年に知人男性を暴行した傷害容疑で逮捕されている。[36]
2010年2月4日、日本相撲協会の理事会で事情聴取を受けた後、突如暴行問題の責任を取る形で現役を引退することを表明した[37]。同時に横綱審議委員の鶴田卓彦委員長(元日本経済新聞社社長)からは横綱として初の「引退勧告書」が提出されている[38]。この引退表明は大きく報じられ、一部の新聞では号外も発行、繁華街や都市部で配布された[39][40][41][42]ほか、テレビ各局の同日夕方以降のニュース番組で緊急特集が組まれた。
同じくモンゴル出身で、この日から事実上の一人横綱となった白鵬は同日中に宮城野部屋で緊急記者会見を開き、「信じたくない。まだやり残したことがあったと思う」と涙ながらに語るなど[43]、先輩横綱の突然の引退による衝撃をうかがわせた。次の2010年3月場所の大相撲番付表は、番付編成会議の数日後ながらも横綱・朝青龍の四股名は完全消滅し、東横綱に白鵬ただ一人の名前が記された。
現役引退後[編集]
2010年4月、モンゴル政府代表団に参加同行する形で北朝鮮を訪問した[44]。
断髪式は2010年10月3日に両国国技館で行われ、モンゴル国首相のスフバータル・バトボルド、日本国元首相の森喜朗、横綱の白鵬ら約380人が鋏を入れ、師匠の高砂が止め鋏を入れた。「私の体の中には二つの心臓がある。生んでくれたモンゴルと育ててくれた日本を愛している」と述べ、土俵に別れのキスをして花道を後にした[45]。
また同日、断髪後の公開記者会見で「生まれ変わったら大和魂を持った日本人として横綱になりたい。」と述べた[46]。
2011年5月14日には東日本大震災で多大な被害を受けた、宮城県南三陸町の避難所「ベイサイドアリーナ」を訪れ「頑張れ! 南三陸町」とプリントされたTシャツ450枚、「朝青龍バスタオル」120枚を配布。焼きそばやたこ焼きを約1000人分を自ら配膳する。またサインにも快く応じて被災者を励ました。
2012年5月にウランバートル市内で酒を飲んで車を運転して自損事故を起こした上警察官に暴行し罰金1200円と警察官の制服代金を払っていたことが分かった[47]。
同年8月20日にはモンゴル国営テレビ総裁ナランバータルを公衆の面前で殴り、警察に逮捕され2日間拘留された。30日朝には兄スミヤバザルが身元保証人として警察を訪れ、保釈された。[48]ナランバータルは6月26日にダグワドルジから、兄スミヤバザルをテレビ演説させてほしいと依頼されたが国政選挙の期間中で禁じられているため断った。これに腹を立てたダグワドルジが、20日のエスンズイル村記念祭の時に公衆の面前で殴ったという。ナランバータルからは訴訟を起こされ、今後は裁判で争っていくことになる。ちなみにこれを報じたニッカンスポーツは同月24日の報道で逮捕の事実を明らかにせず、警察沙汰にしない模様と報じていた。[49]
2013年にはかねてより名誉会長の職にあったモンゴルレスリング協会の会長に就任した[50]。
2013年10月31日にモンゴル・ウランバートル市内で開催されたハロウィーンパーティーの席でダグワドルジが酒を飲み過ぎて酔った末に、口論となった参加者をナイフで刺して国外逃亡したと、11月1日付のウヌトル紙などモンゴルの新聞各紙が報じた。[51] 一方で、酒に酔って口論となった参加者を数回殴ったダグワドルジに対して相手が殴り返した上サラダナイフで攻撃し、ダグワドルジが顔を切り付けられたと主張する報道も存在する。[52]最終的にはダグワドルジの国内マネージャーが「口論の最中に身振り手振りが大きくなって相手が持っていた食器類が顔に当たった。」と証言したことで真相が明らかになり、現地警察から「クラブで普通のケンカがあり、朝青龍は手当を受けた。両者は話し合いの上で別れており、朝青龍は逃亡していない。事情聴取はするかもしれないが、逮捕などの可能性はない」という見解が為された。[53]
2014年9月7日、国際レスリング連盟の理事選にモンゴル国代表として立候補したが落選した。[54]
人物・エピソード[編集]
貴乃花および白鵬とともに「平成の大横綱」と呼ばれている(但し不祥事が続いての引退のため、異論を唱える者もいる)。
人物[編集]
四股名は高校在学時に世話になったという高知県土佐市の青龍寺に由来している。また「明徳」という名は出身校の明徳義塾高等学校にちなんで名づけられた。師匠の高砂は朝青龍について「一番手こずらされた弟子」と評しており、「取組後の感情がコントロールが上手くない、すぐに泣く、騒動時はショックで放心状態だったりと、感情の起伏が激しく繊細」と分析している。[55]後年こそふてぶてしい性格で知られるものの、新入幕から新三役までの時期に関しては雑誌『相撲』にて「純真そのもの」と評されていた。[4]
愛称は本名からとった「ドルジ」や、ファンタのCMでのキャラクター「ファン太郎」など。また、新聞の見出しや星取表などでは「朝青」という略語も見られる。
朝青龍を平仮名にしたときの「あさしょうりゅう」は、拗音を1字と数えて8文字であるが、これは引退済みを含む全力士の中でもっとも長い四股名である。
左利きであり、塩を左手で撒く数少ない力士の一人であった(左手で塩を撒いても作法上問題はない。また、ちゃんこを食す際、箸も左手で持っていた)。
兄はレスリング選手、総合格闘家でモンゴル人民党所属の国民大会議議員であるドルゴルスレン・スミヤバザル、プロレスラーのブルー・ウルフ。
エピソード[編集]
- 以前高砂親方がゲスト出演した番組「女と男 聞けば聞くほど…」の出演記念のマグカップをいつも持ち歩いているが、これは若い頃ゴミ捨て場で拾ったものである。苦楽を共にしたマグカップなので、朝青龍本人は『力の源』と話している。
- 横綱昇進後、部屋では本人の希望で馬乳入りのちゃんこがしばしば出ることがあったようであり、若い衆はこれを食べるのに苦労したという。
- 2005年11月場所14日目、魁皇に勝利したことで前人未到の7連覇を達成した朝青龍はいつもの睨みつけるような眼ではなく涙目で懸賞金を受けていた。花道の奥へ引き上げると朝青龍は声を上げて大泣きし、しばらくして我に返った朝青龍はこれについて「やっぱり7連覇のプレッシャーはすごいよ。誰もやったことがないんだから。今、どこにいるのか、わからない。そんな気持ちだった。」と土俵上の孤高を語った。[56]
- 細木数子を「日本の母」と慕っている。同時に、日本の父と慕っているのは特等床山の床寿である[57]。
- 第1子誕生を報じた2003年4月8日の日刊スポーツの記事に激怒し(モンゴルでは子供ができたらしばらく内緒にする風習があるため、朝青龍は第一子が誕生したとき「しばらくは報道しないで」とマスコミに頼んでいた為)、報道の土俵でも横綱流の圧倒的強さを見せ、2日後茨城県内の巡業先でその記事を書いた韓国人記者を「バカ野郎」「このクソ外人」「キムチ野郎」と罵倒した、と『週刊新潮』2003年5月15日号で報じられた。
- 2004年3月場所後の春巡業において、一門の枠を超えてモンゴル出身力士を集め、特別指導を実施した。
- 日馬富士とは違う部屋でありながら非常に仲が良く、場所中にもかかわらず一緒に夜の街へ繰り出すほどである。2007年1月場所14日目には豊ノ島を破って優勝を決める「援護射撃」を果たした日馬富士(当時の四股名は安馬)から最敬礼されている。
- 2003年11月場所前に同年7月場所で敗れ休場に追い込まれた高見盛に対し、報復とも取れるバックドロップのような危険な吊り落としで右肩を亜脱臼させ(この怪我は医者からもう治らないと診断されている[58]、東関部屋から出稽古中止を宣言された。
- 2008年1月27日に放送された「新婚さんいらっしゃい!」に元高砂部屋の力士が新婚さんとして登場。朝青龍に子供の名付け親になってもらった事や、新婚家庭のテレビが小さいことを知った朝青龍が、その日の懸賞金を全てこの力士の家に置いて帰ったという話を披露した。
- 2009年1月場所前に進退問題の渦中にあった際、出羽海部屋での稽古の帰りに、大相撲NHK解説者の舞の海秀平氏から「横綱、まだ引退しないで下さいね」と声を掛けられた。その直後、朝青龍は舞の海氏に向かって「顔じゃないよ!」と不機嫌そうに一喝し、そのまま車に乗り込んだ[59]。翌日の稽古総見後に舞の海氏に会った際にも、今度は「おう、秀平!」と呼び捨てにした。2日連続の無礼な応対となったが舞の海氏は冷静で「横綱に下の名前を覚えてもらって光栄です」と笑顔で返した。横綱審議委員会の石橋義夫元委員長は「具体的なことは把握していないが、品格のある態度は取ってほしい」と話していた[60]。
- 2009年1月場所千秋楽の優勝決定戦で白鵬に勝利して復活優勝を遂げた横綱朝青龍が勝利直後に土俵上でガッツポーズをしたが、この行為が横綱審査委員会などから品格の観点から問題視され、後日に日本相撲協会から所属部屋である高砂部屋親方の高砂親方を通じて厳重注意を受けた。
- 2009年2月、両国国技館そばにちゃんこ鍋の店『ワールドちゃんこ朝青龍』がオープンしたが、これは朝青龍と同店を経営する「SUMO ZONE株式会社」が「朝青龍」の名称の使用許諾契約を結んだもので、朝青龍は経営には一切関与していない。ただ2010年に入り同契約を巡り両者の間で争いが起こっており、朝青龍側はSUMO ZONEに対し名称の使用中止を求めている(詳細は二瓶一将の記事を参照)。なお同店は2011年夏に閉店した。
- 2009年8月頃、東京都内のイベント企画会社が、札幌市の会社から「朝青龍をイベントに呼べる」と持ち掛けられ、埼玉県内のパチンコ店2店の集客イベントを企画したが、当時は巡業前日で、相撲協会が朝青龍のイベント参加を認めず、このため出演日を変更しようとしたところ、朝青龍は「聞いていない」と発言し、最終的にイベント出演を断った。また、このために九重親方(元横綱・千代の富士)が、朝青龍が集客イベント出演予定だったパチンコ店2店を訪れ謝罪する事態となった。このためイベント企画会社は、朝青龍がイベント参加の約束を果たさず損害を受けたとして、朝青龍と札幌市の会社を相手取り、東京地方裁判所に損害賠償請求訴訟を起こした[61]。2011年11月の一審東京地裁判決では朝青龍のほか出演交渉を仲介した会社に計約950万円の支払いを命じ、朝青龍のみが控訴していたが2012年7月7日の二審東京高裁判決では被告が全員和解に至った。[62]
- 2009年9月場所千秋楽優勝決定戦で、横綱白鵬に勝利して3場所ぶり復活優勝を遂げた直後に、土俵上でガッツポーズをしたが、横綱審議委員会などから品格の観点から問題視され、後日に謝罪した。
- 2009年10月10日、国立代々木競技場第二体育館で行われたプロボクシングWBCスーパーバンタム級タイトルマッチ、西岡利晃VSイバン・エルナンデス(メキシコ)戦を観戦したが、リングサイドを挟んで内館牧子が観戦していた。試合終了後内館に「私はシナリオを書いてから来た。稽古を休んでは困る。来場所はまぐれ(優勝)は続かない。西岡からリングに対する姿勢を学びなさい。」と批判された。
- 引退に先立ち、騒動の責任を取る形で辞意を表明していたマネージャーは、先代六代目 高砂浦五郎(富士錦猛光)親方の次男。
成績[編集]
通算成績[編集]
- 通算成績:669勝173敗76休 勝率.795
- 幕内成績:596勝153敗76休 勝率.796
- 横綱成績:463勝91敗76休 勝率.836
- 幕内在位:55場所
- 横綱在位:42場所
- 大関在位:3場所
- 三役在位:7場所(関脇4場所、小結3場所)
- 年間最多勝:5回
- 2002年(66勝24敗)、2003年(67勝18敗5休)、2004年(78勝12敗)、2005年(84勝6敗・当時の最多勝記録)、2006年(67勝11敗12休)
- 連続6場所勝利:84勝(2005年1月場所~2005年11月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:16場所(2003年9月場所~2006年3月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:9場所(2004年11月場所~2006年3月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:7場所(2004年11月場所~2005年11月場所・当時6位タイ、現在歴代7位タイ)
- 負け越し:7回(途中休場場所 4回、出場停止2回含む)
- 2ケタ勝利場所:36回
連勝記録[編集]
朝青龍の最多連勝記録は、35連勝である。(2004年1月場所初日-2004年5月場所5日目)
下記に、朝青龍のその他の連勝記録を記す。(20連勝以上対象)
回数 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 35 | 2004年1月場所初日~2004年5月場所5日目 | 北勝力 | 2004年1月場所~2004年3月場所2場所連続全勝優勝 |
2 | 27 | 2005年1月場所初日~2005年3月場所12日目 | 栃東 | 2005年1月場所全勝優勝 |
3 | 24 | 2005年3月場所14日目~2005年7月場所7日目 | 琴欧洲 | 2005年5月場所全勝優勝 |
4 | 22 | 2007年3月場所3日目~2007年5月場所9日目 | 安美錦 |
- 上記の通り、20連勝以上4回、30連勝以上1回記録している。
各段優勝[編集]
- 幕内最高優勝:25回
(2002年 11月場所
2003年 1月場所、5月場所、9月場所
2004年 1月場所、3月場所、5月場所、7月場所、11月場所
2005年 1月場所、3月場所、5月場所、7月場所、9月場所、11月場所
2006年 3月場所、7月場所、9月場所、11月場所
2007年 1月場所、7月場所
2008年 3月場所
2009年 1月場所、9月場所
2010年 1月場所)
- 幕下優勝:1回 (2000年7月場所)
- 三段目優勝:1回 (1999年5月場所)
- 序二段優勝:1回 (1999年3月場所)
三賞・金星[編集]
場所別成績[編集]
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1999年 (平成11年) |
(前相撲) | 東 序ノ口 #34 6–1 |
西 序二段 #85 優勝 7–0 |
西 三段目 #75 優勝 7–0 |
東 幕下 #53 6–1 |
東 幕下 #27 6–1 |
2000年 (平成12年) |
西 幕下 #12 3–4 |
西 幕下 #19 5–2 |
西 幕下 #9 6–1 |
西 幕下 #2 優勝 7–0 |
東 十両 #7 9–6 |
西 十両 #3 11–4 |
2001年 (平成13年) |
西 前頭 #12 9–6 |
東 前頭 #6 9–6 |
西 小結 8–7 殊 |
東 小結 7–8 |
西 前頭 #1 10–5 敢★ |
東 小結 10–5 敢 |
2002年 (平成14年) |
西 関脇 8–7 |
西 関脇 11–4 殊 |
西 関脇 11–4 敢 |
東 関脇 12–3 殊 |
東 大関 #3 10–5 |
東 大関 #2 14–1 |
2003年 (平成15年) |
東 大関 #1 14–1 |
西 横綱 10–5 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 5–5–5[63] |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 12–3 |
2004年 (平成16年) |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 13–2[64] |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 9–6 |
東 横綱 13–2 |
2005年 (平成17年) |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2[65] |
東 横綱 14–1 |
2006年 (平成18年) |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 13–2[66] |
東 横綱 1–2–12[67] |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 15–0 |
2007年 (平成19年) |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2[66] |
東 横綱 10–5 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 出場停止 0–0–15 |
西 横綱 出場停止 0–0–15 |
2008年 (平成20年) |
西 横綱 13–2 |
西 横綱 13–2 |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 3–3–9[68] |
西 横綱 5–5–5[69] |
西 横綱 休場 0–0–15 |
2009年 (平成21年) |
西 横綱 14–1[66] |
東 横綱 11–4 |
西 横綱 12–3 |
西 横綱 10–5 |
西 横綱 14–1[66] |
東 横綱 11–4 |
2010年 (平成22年) |
西 横綱 13–2 |
引退 ––[70] |
x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
主な力士との幕内対戦成績[編集]
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
旭鷲山 | 13 | 2 | 安美錦 | 17 | 6(1) | 若の里 | 19 | 10(1) |
旭天鵬 | 36 | 2 | 高見盛 | 10 | 1 | 鶴竜 | 7 | 0 |
時津海 | 7 | 1 | 霜鳳 | 8 | 0 | 玉春日 | 2 | 1 |
土佐ノ海 | 18 | 6(1) | 北勝力 | 10* | 1 | 豪栄道 | 5 | 2(1) |
玉乃島 | 19 | 3 | 岩木山 | 15 | 1 | 若ノ鵬 | 3 | 0 |
琴ノ若 | 11 | 4 | 垣添 | 13 | 0 | 嘉風 | 1 | 0 |
貴ノ浪 | 12 | 2 | 黒海 | 12 | 2 | 栃煌山 | 4 | 0 |
隆乃若 | 10 | 1 | 白鵬 | 12*** | 13* | 栃ノ心 | 2 | 0 |
海鵬 | 6 | 1 | 琴欧洲 | 16* | 7 | 翔天狼 | 1 | 0 |
琴光喜 | 36 | 9 | 露鵬 | 9(1) | 0 | 阿覧 | 1 | 0 |
武蔵丸 | 4 | 5 | 普天王 | 4 | 1 | 豊響 | 1 | 0 |
雅山 | 34 | 5 | 琴奨菊 | 15 | 1 | |||
出島 | 16 | 4 | 稀勢の里 | 13 | 4 | |||
武双山 | 12 | 3 | 日馬富士 | 17 | 5 | |||
貴乃花 | 0 | 2 | 豪風 | 7 | 0 | |||
琴龍 | 4 | 1 | 時天空 | 10 | 1 | |||
魁皇 | 25 | 12 | 白露山 | 2 | 0 | |||
千代大海 | 30 | 9 | 豊ノ島 | 7 | 2 | |||
栃東 | 15 | 10 | 把瑠都 | 9 | 0 | |||
栃乃洋 | 17 | 6 | 豊真将 | 3 | 0 |
- 他に優勝決定戦で白鵬に3勝1敗、北勝力・琴欧洲に各1勝がある。
(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2015年3月場所終了現在、現役力士)
著書・出演[編集]
著書[編集]
- 「一番、一番!真剣勝負」 NHK出版(2006年、ISBN 4-14-081084-X)
テレビ出演[編集]
- 2002年9月28日と2010年10月2日のオールスター感謝祭に出演
- 2005年と2006年に『いい旅・夢気分』(テレビ東京)に出演。2005年には弟弟子朝赤龍とともに神奈川県・丹沢山村で滝修行を行い、2006年には朝赤龍のほか旭天鵬、時天空のモンゴル出身力士4人で栃木県の日光を旅した。
- さらに同番組の2007年の新春特番において、初場所を前に大関千代大海と2人で旅をする呉越同舟とも言える企画があった。
- 2011年3月6日には『逃走中2011 〜大統領暗殺計画〜』に出演。
CM出演[編集]
- 日本郵政公社「真っ向。『朝青龍関』篇」
- P&G 洗剤製品「ボールド」
- 富士通 ノートパソコン「FMV-BIBLO LOOX T70M/T『横綱の上で』篇」
- アサヒ飲料 缶コーヒー「WONDA モーニングショット『朝青龍』篇」
- サントリー スポーツドリンク 「ゲータレード『MIX SPORTS』篇」
- シャディ「朝青龍『スベスベ』篇」「シャディのお中元『流しそうめん』篇」
- NTTドコモ「『朝青龍 - だからわたしはドコモです』篇」
- コカ・コーラ「ファンタ 『ファン太郎が行く』シリーズ」[71](第49回ACC全日本CMフェスティバル演技賞[72])
脚注[編集]
- ^ 「ドルゴルスレンギーン」(Долгорсүрэнгийн/Dolgorsürengiin)は「ドルゴルスレン(=父親名)の」という意味だが、日本語報道では属格助詞「гийн(giin)」を省略し、単に父親名をカナ転写して「ドルゴルスレン・―」と表記されてしまうことが多い(白鵬や日馬富士など、他のモンゴル出身力士の本名についても全く同様の傾向がある)。また、高校時代は「ドルゴルスレン・ダシバドリ」と表記されていた。
- ^ 本名で紹介されることは、引退の後に定年退職した親方や、日本相撲協会を解雇(その後、逮捕)された山本順一、暴行事件で逮捕され、過去の大相撲野球賭博問題への関与と重なって日本相撲協会を解雇された山村和行などにもみられる。ちなみに、モンゴル語の構造上発音しにくい文字は入れ替えることがあるので、名前のカタカナ表記は「ダグワドルジ」だが「ダワグドルジ」と発音する方が正確である。
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』136ページから137ページ
- ^ a b 『相撲』2012年1月号91ページから92ページ
- ^ http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/sumo/349180/ 「業師だな」朝青龍ニヤリ、集中力欠く白鵬] iza 2010年1月22日
- ^ 歴代1位。2位は北の湖の24連勝。
- ^ 上腕二頭筋を用いてダンベルを持ち上げるダンベルカールでは、片腕で52.5kgを持ち上げる。2007年1月、サンケイスポーツより。
- ^ http://npn.co.jp/sp/article/detail/78138035/ 2009年01月13日。記事内容に言及。
- ^ その後、2005年11月場所には大相撲史上初の7連覇を達成したが、仮にこの場所で優勝を獲得すれば一気に12連覇にまで跳ね上がっていたため、結果としては12連覇を逃した格好となった。
- ^ 本場所出場停止も 骨折なのに元気にシュート!?朝青龍“仮病”疑惑 産経Iza! 2007年7月27日
- ^ 「夏巡業、来なくて結構」朝青龍仮病疑惑で怒り心頭の巡業部 産経Iza! 2007年7月28日
- ^ 「朝青龍に異例の厳罰=謹慎中、行動も制限-相撲協会」時事ドットコム 2007年8月2007年8月1日
- ^ 処分踏み切った裏に横綱・白鵬の存在スポーツニッポン2007年08月02日配信
- ^ モンゴル大使館が謝罪 朝青龍のサッカー問題で日本経済新聞
- ^ 朝青龍「心」の診断結果は「うつ寸前」 『スポーツニッポン』 2007年8月6日
- ^ 朝青龍“天敵”内館委員に闘志メラメラスポーツニッポン2008年01月16日配信
- ^ 歴代1位は栃光の対北の湖戦29連敗。
- ^ 両横綱、結びで醜態=勝負後ににらみ合い『時事ドットコム』2008年5月25日
- ^ 両横綱を呼び厳重注意=横審の進言受け-北の湖理事長『時事ドットコム』2008年5月27日
- ^ 「残ったと思った」朝青龍、判定に怒り心頭 スポニチ2008年09月21日配信
- ^ 微妙な判定で3敗目 怒りの朝青龍「たまったもんじゃねぇよ」 MSN産経2008年09月21日配信
- ^ 朝青、また疑惑の立ち会いで白星…大相撲秋場所7日目 スポーツ報知2008年09月20日配信
- ^ 朝青龍放心4敗休場へ 来場所進退…大相撲秋場所9日目 スポーツ報知2008年09月23日配信
- ^ 大相撲:朝青、モンゴル帰国 「治療に専念」 九州場所休場か 毎日新聞2008年10月7日東京朝刊
- ^ 朝青龍が初場所で引退かける 中日スポーツ2008年10月7日紙面から
- ^ 『相撲 2月号 初場所総決算号』ベースボール・マガジン社 2009年 P19 - 22 「熱狂への序章 朝青龍、屈辱の総見稽古」、高瀬英治文
- ^ 主役はやっぱり朝青龍 視聴率アップ…協会「最高の商品」 MSN産経ニュース 2009年1月25日配信
- ^ 大相撲初場所:安定感と土俵態度、軍配は白鵬 毎日新聞 2009年1月25日配信
- ^ 「朝青、やぐら投げ 日馬富士にリベンジ」中日スポーツ2009年7月25日 紙面
- ^ 朝青龍、永住権得たけど帰化しない サンスポ 2009年4月29日閲覧
- ^ 『「朝青龍」がM資金詐欺で1億2000万円を騙し取られた! 懲りないガッツポーズの背景に隠されていた「横綱」切迫の裏事情』週刊新潮 2009年10月8日号
- ^ a b 朝青龍引退表明…暴行騒動の経緯. nikkansports.com , 日刊スポーツ新聞社(2010年2月4日). 2010年2月4日閲覧
- ^ 朝青龍、土俵際へ…暴行相手は別人だった?!.スポニチ,Sponichi Annex(2010年1月28日) .2010年1月29日閲覧
- ^ 朝青龍暴行問題、相撲協会が調査委を設置. YOMIURI ONLINE, 読売新聞社(2010年2月1日). 2010年2月4日閲覧
- ^ 『いびつな絆(下) ヤキ入れ恐怖心植え付ける “鉄”の上下関係+(1/2ページ)』 2013年1月12日 MSN産経ニュース
- ^ 朝青龍暴行騒動の男が傷害容疑で逮捕 日刊スポーツ 2011年9月13日 紙面から
- ^ 横綱朝青龍が現役引退を表明 産経新聞社(2010年2月4日). 2010年2月4日閲覧
- ^ 朝青龍関引退勧告書全文 47NEWS(2010年2月4日). 2010年2月5日閲覧
- ^ “朝青龍引退の号外、驚きの声”. 読売新聞. (2010年2月4日). オリジナルの2010年2月9日時点によるアーカイブ。 2011年1月10日閲覧。
- ^ “大相撲:朝青龍引退 毎日新聞が号外発行”. 毎日新聞. (2010年2月5日) 2010年2月5日閲覧。
- ^ “朝青龍引退 本紙が号外配布”. 産経新聞. (2010年2月5日) 2010年2月5日閲覧。
- ^ “「仕方ない」「さびしい」 本紙号外にファン 横綱朝青龍引退”. 北海道新聞. (2010年2月5日) 2010年2月5日閲覧。
- ^ 白鵬、絶句し「信じたくない」朝青龍関引退を受け 47NEWS 2010年2月5日閲覧
- ^ 元朝青龍 モンゴル外相らと北朝鮮をVIP訪問! スポーツニッポン 2010年4月23日閲覧
- ^ “元朝青龍:断髪式 土俵に別れのキス”. 毎日新聞. (2010-10-03). 2010年10月3日閲覧。
- ^ “生まれ変わるなら「大和魂を持った日本人に」 朝青龍が引退相撲”. MSN産経ニュース (2010年10月3日). 2011年8月18日閲覧。
- ^ 元朝青龍が警察官に暴行 飲酒運転で事故 - サンケイスポーツ(2012年7月2日)
- ^ 朝青暴行逮捕のち2日間拘留 日刊スポーツ 2012年8月31日8時14分 紙面から
- ^ 元朝青龍また暴行 涙ながらに謝罪 ニッカンスポーツ 2012年8月24日8時11分 紙面から
- ^ 朝青龍 カレリンとタッグ結成も 東京スポーツ 2013年7月9日閲覧
- ^ 朝青龍がナイフで人刺し逃亡か 本人否定 日刊スポーツ 11月2日(土)6時31分配信
- ^ 元朝青龍が暴行と報道、モンゴル 反撃受け、顔に負傷か 47NEWS 2013/11/02 13:52 【共同通信】
- ^ 朝青龍また大暴れ!モンゴル国外逃亡説まで飛び出した酒でケンカ J CAST テレビウォッチ 2013/11/ 5 16:45
- ^ 富山氏レスリング理事当選 元朝青龍落選 nikkansports.com 2014年9月7日19時31分
- ^ 高砂浦五郎『親方はつらいよ』(文春新書)2008/7/1
- ^ 『相撲』2013年12月号97頁
- ^ 床寿『大銀杏(おおいちょう)を結いながら 特等床山・床寿の流儀』(ISBN 978-4-569-70185-1)の帯。
- ^ 朝青龍、高見盛にプロレス技(ウェブアーカイブ) 日刊スポーツ(2004年1月13日)
- ^ 朝青龍、大先輩・舞の海に暴言「顔じゃないよ!」(スポーツ:ZAKZAK)
- ^ 朝青龍、舞の海さんに「おう、秀平!」(スポニチAnnex)
- ^ 朝青龍:イベント欠席 企画会社が損害賠償求めて提訴 毎日新聞 2010年4月10日
- ^ 元横綱朝青龍と企画会社が和解 Daily Sports Online 2012年7月7日
- ^ 頸部挫傷のため10日目より途中休場
- ^ 北勝力と優勝決定戦
- ^ 琴欧州(のち琴欧洲)と優勝決定戦
- ^ a b c d 白鵬と優勝決定戦
- ^ 右肘内側側副靱帯損傷のため3日目より途中休場
- ^ 左肘内側側副靭帯損傷のため6日目より途中休場
- ^ 左肘内側側副靭帯損傷のため10日目より途中休場
- ^ 1月場所後の2月4日に引退を表明
- ^ 日本コカコーラの『ファン太郎が行く』ニュースリリース
- ^ 「ACC・CMフェスティバル:朝青龍関らに演技賞」毎日新聞2009年10月3日東京朝刊
関連項目[編集]
- 横綱一覧
- 大相撲力士一覧
- 高知県の高校相撲部出身の一覧
- 近藤利一 - 朝青龍のタニマチで、朝青龍が「お父さん」と慕う人物のひとり。
- 和田友良 - 朝青龍の全国後援会の会長を務めた。
- 逸ノ城駿 - スピード出世から、朝青龍の再来と呼ばれている。
外部リンク[編集]
- 朝青龍 明徳 - 日本相撲協会
- 朝青龍 明徳 - 相撲レファレンス
- 朝青龍の部屋 - HYPER高砂部屋
- Asashoryu 第68代横綱朝青龍 (@Asashoryu) - Twitter
- 朝青龍オフィシャルブログ - 6代目高砂浦五郎・富士錦猛光の実子で、朝青龍のマネージャーでもある一宮章広のブログ
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