相撲道考



 更新日/2017(平成29).11.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本相撲史概略」、「相撲の歴史」、「相撲博物館」その他を参照する。

 2015.1200.01日 れんだいこ拝


 【相撲の語源】
 相撲は人間の闘争本能の発露である力くらべや取っ組み合いから発生した伝統あるスポーツである。これによく似た形態のスポーツは古来世界各地で行われた。「すもう」の語源は、「素舞う」が転訛したものと考えられる。「相撲」は「あいうつ」と訓むことができるので、その種の当て字であろう。格闘を意味する漢語である。 「相撲」は「角力」とも書かれることがある。この場合には「すもう」とは読めない。「角」は「比べること・競うこと」を意味するので、「角力」は「力比べ」と云う意味になる。

【出雲王朝御代からの神事相撲としての起源】
 日本の文化に深く根ざし、いつも人々の生活とともにあった相撲。相撲には歴史・文化・神事・競技など様々な側面があり、それぞれ奥深い要素を持っています。テレビでは味わえない~戦国時代より登場した行司、江戸時代より続いている土俵入り、化粧廻し~など、長年続いてきた文化を、会場で是非ご体感ください! 宮中で行われた相撲節会のほか、一般の庶民の相撲も大いに行われていた。天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄、豊漁を願う為、吉凶を占う為等 地方により様々な相撲が現在に至る迄行われる事になる。
 オオクニヌシ・ロマン2相撲の起原について」。
 相撲は国技といわれ、日本の伝統文化である。その起源、源流をたどっていくと、神話の時代にまでさかのぼらねばならない。日本の文化に深く根ざし、いつも人々の生活とともにあったのが相撲で、その発生期限を、出雲王朝御代からの神事として引き継がれていると見るべきであろう。相撲の起源は非常に古く、出雲王朝御代に武技として鍛えられていったものと思われる。古墳時代の土偶にもその様子が描写されている。相撲は、出雲王朝の大王家の祭祀を担う物部氏の「モノ」に繋がっている。「武士/モノノフ」のモノも、王権祭祀を担った物部氏の名の由来から来ている。相撲のモノ(力士/モノノフ)は、神聖なる土俵での四股踏みは、安全祈願、五穀豊穣、繁栄、安寧を祈念している。ちなみに、古の観念によれば、神は鬼でもあった。鬼は、オニとは言わず「モノ」、或いは「シコ」と呼ばれた。関連性があると云うべきだろう。

【国譲り神話に登場する武術相撲としての起源】
 オオクニヌシ・ロマン2相撲の起原について」。
 古事記の国譲りの逸話に、建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)の二柱の神が、互いの腕をつかんで投げあう相撲勝負逸話が記されている。これを仮に「武術相撲の起源」と命名しておく。これを確認しておくと、日本が神話の御代だった大昔、出雲の国を自分の領土にしようとした天孫族が、タケミカズチという剛の者を使わせて、その地を治めていた出雲の大王オオクニ主に、「国を差し出すか、さもなくば国を滅ぼされたいか」とすごんだ。オオクニ主は、「話は聞いた。しかし私の一存では決めかねる。息子たちに相談して返事をさせていただくから、しばし待たれよ」と答えた。早速、自分の二人の子供に「国を譲れ」という強引な申し出が天孫族からあったことを話した。ヤエコトシロ主は、政(まつりごと)を管掌しており、「戦は賢明ではありません。残念ですが国を譲って天孫族の支配下で生きる算段を考えましょう」と云った。もう一人の息子、タケミナカタは身の丈7尺もある大男で、軍事を管掌しており、「仮にもわが出雲族は、この国を長いことかけて美しい国にするために一身に努力をして参ったのです。かくなる上は戦いましょうぞ」と云って、近くにある大岩を「エイッ」と片手で差し上げてみせた。天孫族の使者タケミカズチはタケミカズチと直談判した。「タケミナカタとやら、たいそう力自慢らしいが殺されたいか」。タケミナカタは「かくなる上は、力で勝負、勝負」と返答した。こうして二人は相撲を取り、投げたり投げられたり格闘し始めた。形勢は次第にタケミカズチに有利となり、タケミナカタは出雲から信濃(長野県)の諏訪湖の付近まで逃げ、最終的に和睦した。オオクニ主は、覚悟を決めて、タケミカズチにこういった。「かくなる上は仰せに従う。但し、わが息子たちとわが民が新しい国の一員となり平和に暮らしていけるよう配慮してもらいたい。私どもの宗教的活動は認め、神殿を作ること認めてもらいたい。私どもは表の政治を譲り、裏の宗教でのみ生き続けたいと思う。息子のヤエコトシロ主を上手にお使いください。役に立つでせう」。そう言い終えて姿を消した。相撲の起原は、古事記の「国譲り神話」にあるタケミカズチとタケミナカタの戦さに見るべきだろう。これによれば、相撲は古代の天孫族と出雲族の戦争の神話化の中に認められる。ちなみに、信濃にはタケミナカタの怨霊を鎮めるために諏訪大社が、出雲にはオオクニヌシを祀る巨大な神殿、出雲大社が造られている。

【天覧相撲としての起源】
 「野見宿禰と當麻蹶速対戦の図」

 通常、相撲の起源と言えば、ノミノスクネ(野見宿禰)の名が浮かぶ。この人物は、第十一代天皇の時代の人物だが、出雲の人物で、当時力自慢で有名だった。垂仁7年7月7日(年代不詳)、彼はわざわざ出雲より大和に呼び寄せられ、天皇の御前にて、トウマノケハヤ(当麻蹴速)という者と相撲を取る。結果はノミノスクネの圧勝。残酷だが、相手を蹴り殺してしまう。天皇はその強さに感激し、ノミノスクネは天皇に仕えることになる。彼は人格 的にも優れた人物で、殉死を止めさせるために、埴輪(はにわ)を考案したことでも知られている人物だ。その後、年代が下って、相撲節会(すもうせちえ)という祭りが、ノミノスクネの逸話に因んで、天平6年(734年)の7月7日から正式に執り行われるようになった。これが大体一般的に語られる相撲の始まりである。

【観覧相撲としての起源】
 宿禰・蹴速の天覧勝負の伝説がもととなり、宮廷では相撲節会(すもうせちえ)という行事が734年の7月7日から正式に執り行われるようになりました。全国の相撲人を集め、宮中の庭で相撲を取らせたとされています。

 相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなる。 「平安朝相撲節会の図」
 その後、鎌倉時代に入ると武士の時代に突入します。相撲も農作物の豊作祈願のためだけではなく、''武士の体の鍛錬のため''という面を持ち始め、盛んに行われるようになりました。また、「力が強いことは戦いにおいて優勢を得ることができる」として、武家では力士を雇うようにもなりました。戦国時代にはかの織田信長も相撲を愛好し、各地から力士を集めて上覧相撲を行い、勝ち抜いた者を家来として召抱えました。

 江戸時代には現在の相撲の形がほぼできあがります。''娯楽の一種''として民衆に相撲が親しまれるようになるのです。「勧進相撲(かんじんずもう)」といって、お寺や橋などを建て替える寄付を集めるために、相撲をやって人を集める、という形態をとるようになりました。ここから力士を生業とするプロが現れはじめます。江戸時代中期には江戸・大阪・京都などで相撲の興行が定期的に行われるようになり、人々の相撲人気は高まっていきました。しかし、人気が出すぎたために競技のルールなどをめぐってけんかや争いが絶えず、幕府はたびたび禁止令を出しました。このために相撲関係者は決まり手を定め、土俵を作り、競技ルールを定めました。さらに相撲部屋も作って、力士の養成に努めたのです。

【力水】
 大相撲は神事として神道が下敷きにあるので、口を漱ぐ作法は神社の手水舎と同じ意味があります。力水の吐き出し口には、東西花道側の土俵の側面に漏斗が埋め込まれています。国技館の場合はここから直接下水道に排出されます。国技館で使用されているのは、円錐形をしたゴム製の漏斗です。

【大相撲と日本刀の関わり】
 歴代横綱の名刀。大相撲と日本刀は、いつごろからどのようにかかわってきたのか。江戸期の名力士、大関雷電為右衛門の脇指。雷電は勝率が96%を超え、強すぎたため張り手などを禁じ手とされた。脇指は長さ41・3センチながら、天下無双の力士にふさわしく、刀身の重さは911グラムで、ずしりと重い。昭和を代表する名力士、横綱双葉山の刀。双葉山の前人未踏の69連勝は現在まで破られていない。人格もすぐれ、連勝記録が止まっても、「いまだ木鶏たりえず」と、謙虚に自身の力量不足を吐露した。哲人の風格すら漂う。刀は室町後期の刀工、備前長船勝光の作。地鉄に備前刀の特色である「映り」がよく表れていると評される。太刀持ちと露払いを従えた横綱の土俵入りは、大相撲の華である。太刀は綱とともに横綱だけに与えられた特権である。江戸期、大名に抱えられた人気力士たちは武士に準じ二本差しを許されていた。江戸期の錦絵には力士と日本刀を描いた作品が少なくない。「江戸大相撲生写之図」の力士集団は、大名お抱えの二本差しと、格下の長脇差一本組に描き分けられながらも、堂々たる風情で闊歩している。「着物姿一人立 袈裟ケ嶽雲右衛門」は見上げるほど大作。身長2メートルを超えていたとされる袈裟ケ嶽は18世紀半ばの力士。松江藩のお抱えで、華やかなこしえらの二本差しが印象的だ。江戸期から明治・大正期にかけて、大阪相撲も人気を博した。「大阪大相撲之図」には、ひいき筋と思われる市場関連ののぼりが目立つ。天下の台所と呼ばれた商都らしい大相撲と市場関係者の密接な関係ぶりを物語る。

【化粧まわし
 大相撲の土俵入りを観ていると、真っ先に目に飛び込んでくるのが「化粧まわし」だ。芸術品ともいうべき華やかなものから可愛らしいアニメのキャラクターものまで実に多種多彩。大相撲の力士は、取組みのときに必ず「まわし」を身につける。これがなければ相手の体をがっちりつかむことができないので、まわしは力士にとって欠かせない道具だといえる。同じまわしでも「化粧まわし」は役割が違い、化粧まわしは力士が土俵入りのときだけに身につけるものだ。もともとは江戸時代に紀州藩の殿様がお抱えの力士に活躍のごほうびとして贈ったのが起源とされている。通常のまわしとの違いは、豪華な刺繍をほどこした「前垂れ」がついていること。化粧まわしは各力士を支援するスポンサー(タニマチ)がお金を出して作ることがほとんどだ。そのため、前垂れにはスポンサーの名称などが刺繍されているものが多いようだ。

 十両、幕内の取組みの前になると、土俵上に大勢の力士たちがそれぞれ自慢の化粧まわしをつけて登場する。色とりどりの華やかな化粧まわしを一度に観賞できるので、相撲観戦の楽しみの一つとなっている。化粧まわしはスポンサーから贈られたものであるため、広告としての意義も持っている。スポンサーは後援会だけでなく有名企業や裕福な個人のタニマチなどさまざまだ。なかには誰もが知る有名人が自分の名前を入れた化粧まわしを贈ることもある。たとえばデヴィ・スカルノ夫人は大ファンだった琴光喜関に自分の名前を刺繍した化粧まわしを贈っているし、漫画家のゆでたまごさんは、友人の千代大龍関に「キン肉マン」が刺繍された化粧まわしを贈っている。タニマチの名称を刺繍した化粧まわしのなかには、とてもユニークなものがある。たとえばブルガリア出身で2014年に惜しまれながら引退した人気力士琴欧洲関などは、前垂れに「ブルガリアヨーグルト」が刺繍された化粧まわしをつけて土俵入りし、相撲ファンを沸かせた。また、なかにはタニマチの名称ではなく、力士の趣味や好みを反映した変り種の化粧まわしもたくさん見られる。熊本県出身の力士佐田の海関は「くまモン」、天鎧鵬関は大好物である地元のラーメンチェーンの刺繍をほどこした化粧まわしを使っている。

  化粧まわしの最高額は驚きの1億超え!

 化粧まわしの生地は、日本の伝統工芸でもある。800年近い伝統を誇る「博多織」や京都の西陣織など、職人の技によって一枚一枚手織りされているのだ。そうなれば当然、化粧まわしの値段も高くなる。最低でも100万円を下ることはなく、数百万円から高いものでは千万単位のものも珍しくないというから驚きだ。史上最高額を記録したのは、元大関の若嶋津関の化粧まわしだった。後援会から贈られたというその化粧回しは、前垂れにデザインされた鷲の足に10カラットのダイヤモンドが織り込まれており、総額はなんと1億5千万円という驚愕の値段だった。高額で唯一無二の化粧まわしは、ファンにとっては垂涎の的だ。そのため力士達も盗難を防ぐために気を遣っている。たとえば若嶋津関の史上最高額の化粧まわしなどは、地方巡業の際ダイヤモンドを本物からイミテーションに入れ替えて使っていたそうだ。幸いなことに、これまで化粧まわしが実際に盗まれた例はないようで、2007年に当時十両の皇牙関が弓取り式に使う化粧まわしを紛失した事件があっただけだ(無事に見つかっている)。ただ、1995年のパリ巡業中には、化粧まわしを保管していた現地の倉庫が全焼し、日本から持ってきたすべての化粧まわしが灰になるという悲惨なアクシデントが起きている。当然土俵入りは中止だとなり、スポンサーは勿論、現地の相撲ファンは大変がっかりしたそうだ。


 戦国の力じまん

 鎌倉時代から戦国時代にかけては武士の時代。武士の戦闘の訓練として盛んに相撲が行われた。織田信長は深く相撲を愛好し、元亀・天正年間(1570~92年)に近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えた。

 「織田信長の上覧相撲」

 江戸文化と相撲

 江戸時代に入ると浪人や力自慢の者の中から、相撲を職業とする人たちが現れ、全国で勧進相撲が行われるようになり、江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになった。
やがて谷風、小野川、雷電の3大強豪力士が出現し、将軍上覧相撲も行われ相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至った。
相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになった。

歌川国輝(二代)画「勧進大相撲土俵入之図」慶応2年(1866)
※慶応2年(1866)三月の幕内力士を描いたものです。

 江戸時代から変わらぬ姿

 大相撲は、長い歴史の中で次第にルール化され、洗練され、様式化されてスポーツとしての形態を整え、我が国固有の伝統文化となったのである。
土俵入り、番付表、化粧廻し、髷、着物、相撲の取組。江戸時代と変わらぬ姿を、すぐそこで見ることができる大相撲。

歌川豊国(三代)画「東ノ方土俵入之図」弘化2年(1845)
※弘化2年(1845)十一月の東方幕内力士による土俵入りが描かれています。


【横綱の土俵入りの型としての雲竜型と不知火型】
 力士が化粧廻しを付け、顔見世披露の意味で行われる土俵入りは、十両では十両力士全員、幕内では大関から前頭の力士全員で構成されるのに対して、横綱の土俵入りは、大関以下の関取とは異なり、純白の綱を腰に締めた横綱が、露払い(つゆはらい)と太刀持ち(たちもち)を従え、四股踏みやせり上がりなどで構成される単独での土俵入りを披露するものである。その横綱の土俵入りの型には、「雲龍型」と「不知火型」の2通りがある。現在の土俵入りの型は明治時代後期に確立したと言われている。それ以前にはこれら以外にも、違う型が存在していたと言われているが、現存しているのはこの2種類のみである。

 この二つの型の名前の由来は、その名の通り、雲龍型は、10代目横綱雲龍、不知火型は11代目横綱不知火がそれぞれ始まりとされているが、実際のところは、雲龍型は20代横綱梅ヶ谷、不知火型は22代横綱太刀山の型を元にしていると言われている。それぞれのスタイルは次の通り。

 雲龍型は攻防兼備の型で、腰を割って左手をわき腹に当て、右腕を右前方へ流す形を取り、そこからせり上がる。右手が”攻め”、左手が”守り”の攻防兼備を表している。二代梅ヶ谷が大成させた土俵入りで、言いかえれば梅ヶ谷の型。
 不知火型は攻撃型で、腰を割って両腕を外側前方に流す形を取り、そこからせり上がる。両手が”攻め”を表現している。太刀山峯右エ門が16代木村庄之助より習った型とされる。太刀山を源流とする土俵入り、もしくは太刀山の型そのものである。

 また、雲龍型・不知火型を行う横綱のそれぞれの”締める綱”の形が違う。<雲龍型>
雲龍型2


<不知火型>
不知火型2

 雲龍型は輪が1つ、不知火型は輪が2つである。

 一門それぞれ継承の型も存在する。雲龍型は出羽海一門、高砂一門、時津風一門。不知火型は立浪一門(現・伊勢ヶ浜一門)。二所ノ関一門は雲竜と不知火の両方を取り入れている。隆の里と琴桜は不知火型。貴乃花と大鵬は雲竜型。しかし、最近の傾向として、横綱自身のやりたい方の型を選択しているようです。若乃花、貴乃花の場合、同じ部屋にもかかわらず、貴乃花は雲龍型、若乃花は不知火型に分かれた。

 雲龍型の横綱は次の通り。栃木山守也、双葉山定次、大鵬幸喜、栃ノ海、佐田の山、北の富士、輪島、北の湖敏満、若乃花(2代目)、三重ノ海、第58代横綱千代の富士貢、北勝海、大乃国、曙太郎、貴乃花光司、武蔵丸光洋、第68代横綱 朝青龍明徳、鶴竜らが選択している。

 不知火型は次の通り。羽黒山政司、玉ノ海、琴櫻傑將隆の里俊英、双羽黒、旭富士、
第66代横綱若乃花勝(3代目)、白鵬旭富士正也、日馬富士。

 以前まで言われていたのジンクスが、『不知火型の横綱は短命』 。玉ノ海(在位10場所)、現役中に病に倒れてから、琴櫻(在位8場所)、隆の里(在位15場所)、双羽黒(在位8場所)、旭富士(在位9場所)、若乃花(在位11場所)と”短命イメージ”が拭えず、それとは逆に、大横綱と言われる・大鵬、・北の湖、・千代の富士、・貴乃花、・朝青龍と、”強い横綱”=雲龍型 が定着してしまっていた。しかし、白鵬が今までのそのイメージを払拭するかのごとく、『不知火型の大横綱』を作り上げている。

【大相撲の番付表】
 大相撲の番付表は、力士の階級を表した一覧表であり、力士の順位表です。「番狂わせ」の語源も番付が狂うという意味からきている。幕内力士、。幕内力士は、横綱、大関、関脇、小結、前頭という順位になっている。大相撲に出る幕内力士は、42名と決まっていて、横綱、大関、関脇、小結の人数を引いた人数が前頭の人数になる。その順位表が番付となる。「金星」というのは、前頭が横綱を破ることを言う。金星を挙げると懸賞金が出る。幕内の次は「十両」、十両の下が「幕下」となる。十両以上の力士を「関取」と呼ぶ。幕下力士は関取とは呼ばれない。 

【大相撲の本場所と巡業】
 大相撲の本場所とは、公益社団法人日本相撲協会によって行われる大相撲の興行
を言う。
一月場所 (初場所)
三月場所 (春場所や大阪場とも呼ばれる)
五月場所 (夏場所)
七月場所 (名古屋場所)
九月場所 (秋場所)
十一月場所 (九州場所)

 以上の6回、それぞれ15日間の取組みが行われる。

 本場所以外には地方巡業があり、春は関東、夏は東北、北海道、秋は中部、近畿、
冬は九州それぞれの地域で年4回行われる。 


【大相撲の席、チケット料金】
 大相撲の席は、タマリ席(溜席)、マス席(枡席)、イス席(椅子席)の3種類ある。土俵の真下で力士が転がり落ちてくる通称「砂かぶり席」がタマリ席。ここは飲食やカメラ撮影、小学生以下は禁止になっている。料金は1人14800円。次にその後ろが「マス席」。マス席はAからCがあり料金は11700円から9500円と土俵から離れるにつれ安くなっている。そして「イス席」。こちらは2階部分になる。料金は8500円から2200円と後ろになるにつれて安くなる。子供は4歳以上は料金がかかる。

 チケット大相撲のサイトはこちら
 http://sumo.pia.jp/
 チケット大相撲の専用電話ダイヤルはこちら

 0570-02-9310 受付時間:10:00~18:00


 九州場所の相撲協会教習所に入ると角道の精華という訓がある。
 https://gunosy.com/articles/aaXDQ
 角道の精華 大井光陽 作

 技を磨き心を練る 春又秋
 文を学び武を振い 兩(両)ながら兼ね修む
 阿呍の呼吸 君知るや否や
 角道の精華 八洲に耀く






(私論.私見)