角力、相撲史1、神代の時代の相撲史から


 更新日/2018(平成30).1.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「角力、相撲史1、神代の時代の相撲史から」を確認する。「日本相撲史概略」、「相撲の歴史」、「相撲博物館」、「新訂本場所記録」、「相撲の歴史は意外の連続~1500年前に始まり明治維新で滅びかける」その他を参照する。歴史をひもとけば、大相撲は「神事」であり「芸能」であり「興行」。しかも「喧嘩の火種」。近代スポーツとは縁遠い別の流れの伝統芸である。

 2015.1200.01日 れんだいこ拝



【古墳時代の土偶に相撲の絵】
 相撲の起源は非常に古く、古墳時代の土偶にもその様子が描写されている。

【建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)の相撲】
 相撲の歴史を紐解くには神話の御代に遡る。天津族が国津族に「国譲り」を迫ったの際、天津族の建御雷神(タケミカヅチ)と国津族の建御名方神(タケミナカタ)に二柱神が、互いの腕をつかんで投げあつている。これが相撲の祖型になっている。

【野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹶速(たぎまのくえはや)の相撲】
 360年頃、垂仁天皇7年の7.7日、大和国の当麻邑(たいまむら)に当麻蹶速(たぎまのくえはや)と云う「勇み悍き士」(日本書紀)の者が居て、人々に「四方に求めむに、豈に我が力に比ぶ者あらむや。何して強力者に遇して、死生を期はずして、頓に争力せむ」(日本書紀。天下に自分より強い者はいない。居るのならそういう骨のある奴に出会って力を比べたいものだ)と公言して憚らなかった。垂仁天皇 7年( 300) 7月 7日、噂が天皇の耳に達し、そこで垂仁天皇が群臣に「當麻蹶速は無双の力士(優れた力を持った人)だと聞いた。これに太刀打ちできる者はおらぬか」と訊ねられた。或る臣が、「出雲の国に勇士がおります。野見宿禰(のみのすくね)と申します。試しに召し出して當麻蹶速と対戦させましょうか」という答えがあり、早速両者が呼び出されて試合をすることになった。これが一般に 「相撲」の起源とされている。数日後、野見宿禰を召し當麻蹶速と戦わせた。両者向かい合い、互いに足を上げて蹴り合った。この頃は命がかかった勝負になっており、結果は野見宿禰の勝ち。当麻蹶速はアバラ骨と腰骨を折られて死亡している。

 当麻蹶速の土地は召し上げられて野見宿禰に与えられた。その地は「腰折田」の名で呼ばれるようになった。 野見宿禰はそのまま天皇のもとにお仕えすることになった。なお、野見宿禰の子孫は埴輪を焼く作業に関わったため「土師(はじ)」 の姓を賜っている。土師氏も古代有力氏族のひとつで、菅原道真らを輩出した学問の家・菅原家もこの土師の一系統である。菅原道真が、自著「類聚国史」の相撲条において、この説話を第一に掲げている。 この為、天神社に野見宿禰がいっしょにお祀りされている例も見かける。野見宿禰神社もある(兵庫県たつの市)、(東京都墨田区亀沢)、奈良県桜井市・出雲の十二柱神社(神代(かみよ)七神とその後の地神五神を祭神とする神社)には野見宿彌の顕彰碑や五輪塔(鎌倉初期の石塔)が建てられている。
 日本における史上最古の取り組みは、野見宿禰(のみすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)とされています。当麻蹴速は、鉤のような武器をまっすぐに伸ばしてしまうほどの怪力で、誰も彼には勝てませんでした。「俺に力でかなうような相手と、死力を尽くして戦ってみたい」 。当麻蹴速がそう豪語しているのを聞きつけたのが、第11代垂仁天皇です。ここで垂仁天皇の側近が、こう告げました。「何でも出雲国に、たいそう力自慢の勇者がいるそうです」。興味を抱いた垂仁天皇は「天下無双の怪力自慢が戦ったら、どうなるだろうか。是非とも見てみたい」最強対決をご所望されます。こうして二人が召し出され、対決することになったのです。戦いが始まると、両者は激しく蹴り合い出しました。『相撲で蹴り合うってどういうこと?』。そう思うかもしれませんが、現在とはかなり違う競技だったようです。当麻蹴速は、素早いキックを得意技としたことからついた名前と推察されます。そしてこの対決は、凄惨な決着を迎えます。野見宿禰のキックが相手の肋骨を砕き、さらに腰の骨を踏み砕いて、即死させたのです。

 垂仁天皇はこの対決を大層喜び、野見宿禰を朝廷に召し出し、褒美に土地を与えました。 両者対決の地は、腰をヘシ折って勝敗が決まったことから「腰折田」と呼ばれるように。相撲発祥の地として、現在、奈良県香芝市の観光名所となっています。この記録はあくまで『日本書紀』に掲載されたものであり、史実的な裏付けとしては心もとないものであります。

【女相撲】
 469年、雄略天皇13年9月、日本書紀の記事に「相撲」という文字が出てくるのが初見となっている。ここに出てくる相撲は「女相撲」である。
 韋那部真根という木工の達人がいて、石を土台にして斧で木を削っていた。その達人は日がな一日削っても斧の刃を欠くことがなかった。天皇がそこに御幸して、韋那部真根に(怪訝そうに)聞いてみる。「どんなときも間違って石にぶつけることはないのか」と。韋那部真根は「絶対にありません」と答えた。天皇は、采女を呼び集め、衣裙を脱がせて犢鼻をつけさせ、人の見ているところで「相撲(すまひ)とらしむ」。 案の定韋那部真根はそれを見ながら木を削り、ついつい誤って刃を破損してしまった。天皇はこれを責め、「不逞の輩め、軽々しくも豪語しよって」と、物部(刑吏)に委ねて処刑させようとした。この時、同僚の工匠が「あたらしき 韋那部の工匠(たくみ) 懸けし墨縄 其(し)が無けば 誰か懸けむよ あたら墨縄」と歌ってその才能を惜しむ。天皇がこの歌を聞き、後悔して刑を止めて許した。

【健児(こんでい)相撲】
 642年、皇極天皇元年、7.22日、大佐平智積という百済(くだら)王族の使者をもてなすため、翹岐(在河内の百済王族)の前で、健児(こんでい、宮廷を守る軍人)に相撲を取らせた。宴の後、智積らは翹岐の門前において拝礼したとことが日本書紀に書かれている。これが史実における相撲記事の始めとされている。

【天武天皇の相撲観戦】
 682年、天武天皇11年 7月 3日、「隼人、多に来て、方物を貢れり。是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝庭に相撲る。大隅の隼人勝ちぬ」なる記事がある。

【持統天皇の相撲観戦】
 695年、持統天皇 9年 5月21日、「隼人の相撲とるを西の槻の下に観る」とある。日本書紀がカバーしているのはここまでで、 以降は続日本紀の範疇になる。

【抜出司(ぬきでし、相撲節会の臨時機関)が初めて置かれる】
 719(養老3)年、7.4日、「(朝廷内に)初めて(官職としての)抜出司(ぬきでのつかさ、相撲節会の臨時機関)を置く」という記事が出てくる。 これが相撲儀式制度のはじまりとされる。後の平安時代では相撲司(すもうのつかさ)呼ばれる。抜出司は、後の相撲司(すもうのつかさ)に当たり式部省内に置かれた(後に兵部省管轄)。健児のうちから膂力に優れ相撲技に熟達した若者を選ぶ係であり、その若者を監督・指導する立場でもある、とされる。毎年7月に行われる「相撲節会」が彼らの最も大切なシゴトで、その準備のため全国から力士の選抜等を行っていた。

【諸社神前相撲奉納】
 726(神亀3)年、聖武天皇が、前年の凶作を機に伊勢大廟をはじめとして21社に勅使を遣わし、この年の豊作の感謝の意味をこめて諸社神前にて相撲を奉納した。これが、神事相撲の始まりと云われる。

【諸社神前相撲奉納】
 728(神亀5).4.25日、聖武天皇詔。
 如聞らく、「諸の国郡司ら、部下に騎射・相撲と膂力者と有らば、輙ち王公・卿相の宅に給る」ときく。 詔有りて捜り索むるに、人の進るべき無し。今より以後、更に然ること得ざれ。若し違ふこと有らば、国司は、位記を追ひ奪ひて仍ち見任を解け。 郡司は、先づ決罰を加へて勅に准へて解き却けよ。その誂ひ求むる者は、違勅の罪を以て罪なへ。 但し、先に帳内・資人に充てたる者はこの限りに在らず。凡そ此の如き色の人等は、国・郡預め知りて、意を存きて簡ひ点し、勅至る日に臨みて即時貢進れ。 内外に告げて咸く知せ聞かしめべし。

 要するに、相撲人を何がなんでも差し出せ、さもなくば国司・郡司には刑罰が待っている、という内容である。 このきついお達しを裏づけるかの如き記事が万葉集巻第五にある。

【「相撲部領使(すまひことりづかひ)」】
 730(天平2)年、「相撲部領使(すまひことりづかひ)」なるものが出てくる。 「部領(ことり)」は「事執り」の意で、相撲人を各地から徴発して召し出すための使者、簡単に言えばスカウトである。 この時代の部領使は相撲人以外のものを召集する場合にも派遣された。

【七夕相撲】
 734(天平6).7.7日(8.10日)、聖武天皇が野見宿禰と当麻蹴速(蹶速)の試合の故事に因み七夕の日、全国の相撲人を集め宮中紫宸殿の庭で相撲を取らせた(続日本紀)。
 秋七月丙寅、天皇、相撲の戯を観す。是の夕、南苑に徙り御しまして、文人に命せて、七夕の詩を賦せしめたまふ。禄賜ふこと差有り。

 これが記録の上で確実な相撲行事となる「相撲節開催」の最初である。この頃が相撲節会(すまいのせちえ)の儀式の始まりとされている。聖武天皇は豊作を感謝して神社に相撲を奉納したことがあり、その時以来相撲に関心を寄せていた。聖武天皇は、全国各地から力自慢の者を選抜させ、七夕の行事にあわせて大々的に大会を行った。同時にルールを変更した。キック、パンチ、正拳付きの三つを禁止技とした。相撲は死者も出る危険なものだったが、このルール制定によって安全性が向上した。

 「相撲節会」につき次のように記述されている。「相撲節会」とは国家安泰と五穀豊穣を祈った大規模な平安時代の天覧相撲」(「大相撲」平成 6年12月号「再現・平安朝相撲節会」写真解説文)、 「古来相撲には服属儀礼や、攘災に関係する要素があり、宮中では攘災や国家安泰を祈願し、武術の鍛練とともに娯楽の目的で相撲を行い、天覧に供し宴を賜う慣行があった」(新日本古典文学大系「続日本紀(二)」)、 「朝廷行事としての相撲節の源流は、農耕儀礼と服属儀礼の二つの側面に求められるのが常である」(「相撲の歴史」新田一郎著)となる。豊作を祈り、神に感謝を捧げる農耕儀礼と結びついた「相撲節会」は、およそ四百年間にわたり継続した。

最後の相撲節会の開催は、承安4年(1174年)。

相撲節会の終わりが相撲の終わりということではありません。

むしろ神事とは切り離され、娯楽やスポーツとして盛り上がるようになってゆきます。

 


【天覧相撲】
 793(延暦12)年、この頃より天覧相撲が毎年恒例の催しとなった。

【天覧相撲】
 821(弘仁12)年、相撲節の内容が事細かに規定されている。これが、「儀式」(朝廷における儀式を細目に亙って規定したもの)や「内裏式」((嵯峨天皇が編纂させた勅撰儀式解説書)の嚆矢となっている。当初は7.7日のみだったが、弘仁年中より 7.8日までの二2日間となったと伝わる。 「式」や「江家次第」によれば、まずは場内の整備から始まり、神泉苑の閣庭を掃き清めて砂を敷き、殿の上に規定通りに座を設け幕を張る。場内整備が終わると、天皇の臨席の許、上は皇太子から下は六位以下まで、これまた規定の通り神泉苑に参入して着座する。そして楽を奏しながら官人から相撲人まで 300人余りの隊列が入場する。壮麗を極めるが、その入場順は「儀式」に「次立合者各二人」の如く「次…」が繰り返されるという煩瑣なもので、書き切れない。そして子供の占手相撲から取組が始まり、合計20番(近衛・兵衛17番、白丁2番、小童1番・左右対抗)行われる。また、「御饌并に群臣の饌等」(内裏式(中))もある。明くる8日は、場所が変わって紫宸殿で行われる。親王以下参議まで、また、三位が召される(全官人が参列するわけではない)。相撲は20番(近衛10番、白丁10番)である。

 相撲節の 1ヶ月前ぐらいに相撲司が任命される。中納言・参議・侍従の中から左右12人ずつが選ばれ、また、別当(総監督)として、多くは親王がこれに当たる。相撲人は相撲を見せることで天皇に奉仕し、こちら親王・臣下は儀式の運営面で天皇に奉仕する。奉仕のしっ放しではなく、天皇の側は饗宴によって応えることになる。この応酬が前項に言う「天皇への服従を改めて確認する」ためのシステムであった。

【節会相撲(すまひのせちえ)勅命】
 833(天長10).5月、次のような仁明天皇勅令が出ている。
 「相撲の節は娯游に止まらず、武力を簡択する寔に其中に在り、宜く越前、加賀、能登、佐渡、上野、下野、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、安房、諸国に令し、膂力人を捜索して之を貢せしめよ」。

 「相撲節は単に娯楽、遊戯の為だけでなく、武力の鍛錬が目的に含まれている」としている。五穀豊穣(ほうじょう)を祈り四股を踏む「相撲節会」(すまひのせちえ)なる宮中行事が開催された。「演出込みの力自慢ショー」となり、これが巡業などで行われる「花相撲」に受け継がれている。相撲は「芸能」でもあった。

 相撲人の構成は、衛士・健児として衛府に属する者と、新規に諸国より勧められた者(白丁)とに分かれる。 最手(相撲人の最高位者)から近衛番長に登用されたことも多い。スカウトであるところの「相撲部領使(すまひことりづかひ)」、または「相撲使(すまひのつかひ・略称と考えられる)」は、 2~ 3月に任命されて各地に派遣され、相撲人を「部領(ことり)」し、 1ヶ月前ぐらいに京に入ることになっていた。 相撲人には多くの特権が用意されていたが、その多くが農民の出であり、農繁期に召し出されることから、 逃亡や遅刻が間々あり、挙句には取っ捕まって投獄されたケースもある。また、相撲人の選出は国司・郡司の責任であるから、国司・郡司への処罰もあった。 逆に、屈指の強豪を取るべく左右の近衛府が争い、白河上皇の裁断を仰ぐ破目に陥ったことすらあったが、これは珍しいことで、 やはり相撲人の貢進は遅々として進まないのが実情、幾度となく勅令によって「進んで貢進せよ」と促した。 しかし、人材が届いてこないばかりか、弱々しくて使い物にならない「相撲人」が来てしまうことまであったというからたまったものではない。 面白いことに、訴えの為に京にやってきた百姓や、京にいる者などのうち「これは使えそうだ」という者、 つまり、なりがでかくて力がありそうな素人を相撲人にしてしまうこともよくあった。

 「西宮記」(源高明著の有職故実書)、「北山抄」(藤原公任著の有職故実書)、「江家次第」(大江匡房が記した儀式記録)等々が、相撲節の性格が9世紀末辺りから変容を見せ始めたことを明らかにしている。相撲司の編成・設置がなくなり、代わって左右の近衛府内に相撲所を置いて相撲節を司らしめたこと、 「占手相撲」が廃絶したことが変化の特徴として挙げられる。

 868(貞観10).6.28日、それまで式部省が管轄していたのが兵部省管轄に改められ、それより早く88世紀後半には式場も神泉苑から紫宸殿などの内裏に移り、略式の儀式になっていた。初日に17番程の取組を中心とした儀式(「召合」)が行われ、 2日目は「追相撲(お好み勝負)」「抜出(トーナメント)」といった特別取組が行われる。 加えて期日も変動があり、文武天皇( 697~ 707)の頃に 7月 7日と決められたと伝わり(証跡なし)、ずっと守られてきたのが、 天長 3年( 826)平城天皇の命日のためという理由(「国忌(こき)を避ける」)で 7月16日に移され、30年ほどは 7月半ばに行われてきたが貞観年中( 859~77)からは 7月下旬となり、 7月が大の月の場合28~29日、小の月の場合27~28日に原則として行われるようになった。

 1031(長元4) 年、7月、大の月であったが、28日は陰陽道でいう忌日の一つ(「坎(かん)」)であった。議論の末、右近衛大将藤原実輔は、定例通りの期日で可ならんかという当初の意見を変え、相撲召合は「臨時の小儀」ゆえ期日変更は構わず、節会に準ずべきものならず(節会は重大な国家の年中行事ゆえ期日は固定される)、とした。 このため、期日は29-30日とされ忌日を避けた。遂に「相撲節」は「臨時の小儀」にまで格下げされた意識しか持たれなくなった。「七夕」における農耕儀礼との関連が意識されなくなったことと、 「服属儀礼」の意識も喪われたこと、つまり単純な娯楽のための一行事となったことを意味する。

 1174(承安4)4、最後の相撲節。「世襲相撲人」の家柄の者が登用された相撲人の大部分を占めたという(そこに登場する者が、姓を変えて記されているという。 12世紀になると、相撲人のうちに世襲された者が見られるようになってきた。相撲人が低い地位の者として見られていたことの証ではないかと推測されている)。 それに、同じく12世紀の相撲人には高齢者が見られるという。「世襲」と一緒に考えると、「格闘」の部分は薄れ、 この時期に至って「技芸」としての、様式化した相撲がおおよそ成立し演ぜられたものと考えられる。

 以下、相撲節の内容を略述する。

  2~ 3月頃に相撲使が定められ、差し遣わされた相撲使は相撲人を従えて帰京する。 相撲人の貢進期限は、当初は 6月20日となっていたが、弘仁元年( 810) 7月 9日の詔で「見つけ次第期日に関係なく進めよ」と改められた。 また、陽成天皇の元慶 8年( 884)に出た詔では 6月25日と改められたものの、その後この期限は守られていないようだ。

 相撲司が編成される場合は節の 1ヶ月ほど前である。これは既述の通り。 7月10日前後には「召仰」がある。これは相撲を行うべしとの勅を上卿が受け、これを左右近衛府の中将以下に伝えるものである。 その後左右の近衛府に相撲所が設けられ、楽などの打ち合わせも行われる(楽や舞は忌日や月蝕などのため行われないこともあった)。

 稽古も始まる。稽古は「内取」と呼ばれ、左右の近衛府で行う稽古を「府の内取」という。各近衛府毎別々に行い、互いの様子は秘せられていたらしい。 その後、稽古を天覧に供する。これは「御前の内取」という。これも左の後に右が行ったともいう。この稽古を見て実力を測り、当日の序列や取組を決定するのである。

 そして、召合当日を迎える。天覧・大臣以下列席の許、相撲が行われる。この相撲の(現代から見ての)特徴は、 まず、土俵等の境界線がないことである。つまり、相手の手を着かせる、膝を着かせる、或は何とかして倒すということによって勝負をつけることになる。 そして驚くことに、髪を掴んだら反則とされ拘禁された相撲人もいるという。もう一つの特徴は、行司のような勝負判定人がいないということである。 左右各々より「相撲長(すまひのおさ)」というのが出てくる。これは進行役である。「奏名(ふしやう)」が呼び上げ、 「立合(たちあはせ)」というのが左右に一人ずついて、相撲人を立ち合わせる。 勝負がつくと、勝った方の近衛次将が指示し、「籌刺(かずさし)」が矢を地に突き刺し、勝ち方が勝鬨の声を上げる。この声を「乱声(らんじやう)」という。 「立合」は「立合舞(たちあひまひ)」を演じ、楽も奏される(左が勝てば「抜頭(ばとう)」、右が勝てば「納蘇利(なそり)」)。他方、負けた方の立合と籌刺とは退き、交代する。 嘗て占手が相撲を取った頃は、占手相撲については楽だけで、舞はなかった。 勝負がもつれた場合は、次将が意見を「出居(いでゐ)」に申し立て、判定がつかない場合は、上卿が次将を呼んで聞いたり公卿に意見を求めたりするが(現代風に言う物言い。「論」・「勝負定」)、 それでも分明ならざるときは、天皇の裁断を仰ぐ。これは「天判」といい、「持」といういわば「無勝負」もあった。 また、相撲が長引いた場合は、途中でも下げられて次の相撲に移ってしまう。 左から出てくる相撲人は葵(占手は桔梗だった)の造花、右の相撲人は瓠(=夕顔)の造花を頭髪につけて登場した。 そして勝った側は次に登場する相撲人の頭に自分の造花をつけさせる(「肖物(にるもの)」)が、負けた側は新しい造花をつける。 最後には「千秋楽」「万歳楽」が奏されて終わる。

  2日目には、前述の通りの特別取組が行われ、勝負のはっきりしない相撲を取り直す場合もあった。 大体大雑把に言えばこのような感じであった。また、事前に天皇が「相撲人御覧」と言って相撲人を見、場合によっては選り抜くこともあった。 節の後には、近衛大将が自分の府のほうの相撲人や関係者を招いて宴会を開き、禄を給う習慣があった(「返饗(かへりあるじ)」)。 また、童子による「童相撲(わらはすまひ)」や、臨時の相撲などでも相撲節を擬して行った場合がある。

【節会相撲勅命】
 869(貞観11).4月、貞観格式に相撲節儀を制定する。

 隆盛を極めた相撲節も、その性質に変化が見られ、その存在も案外軽く見られるようになり、12世紀にはあまり行われなくなった。

 1122(保安3)年、相撲節の後、長い空白期間ができた。天養 2年(1145) 7月27日に相撲召合の予定があったが、 「天変あるによりて停止せら」(相撲大鑑)れてしまった。「天変」とはここでは彗星(それもハレー彗星、近日点通過はユリウス暦1145年 4月22日(「星の古記録」斉藤国治著))の出現のことで、 3月30日と 4月 1日に相撲使が任命されたが、彗星は不吉であるという意見から 7月22日に久安元年と改元されるなどのゴタゴタで、中止となった。 相撲節復活は保元 3年(1158)を待たねばならない。 2年前の保元の乱のあと、朝廷は信西藤原道憲の天下となった。 「保元元年よりこのかたは、天下大小事を心のまゝにとりおこなひて」(平治物語)、大内の修造を遂げ、また旧制の復古を図った。 「内宴、相撲の節、久しく絶たる跡をおこし、詩歌管絃のあそび、折にふれて相もよほす。九重の儀式むかしをはぢず、万事の礼法ふるきがごとし」(平治物語)。 相撲節復活( 7月も 8月も忌月だということで、 6月に開催された)もその一つである。しかし慣例化するに至らぬうち、翌年の平治の乱でまた頓挫してしまう。 16年後(中絶期間中も御白河院は相撲見物をやっているし、相撲御覧の儀も数度あった)、承安 4年(1174)の相撲節は 7月27~28日に召合・抜出の式が行われた。 召仰は 7月 5日、この時の詳細な記録は「玉葉(九条兼実の日記)」にあるが、その記録は生かされず、相撲節は全く行われなくなってしまった(朝廷を挙げての儀式である相撲節は消えても、相撲見物はちょくちょく行われていた)。ただでさえ相撲節に対する意識が低下しているところへ、相撲人調達・費用調達の機構が麻痺したところで、 再構築しようとは思うまい。こうして相撲節は過去のものとなっていった。

【最後の節会相撲】
 1174(承安4).7.27日、高倉天皇の天覧相撲(相撲節)が15年ぶりに開かれた。これが最後の節会相撲となった。

【伊豆柏峠で河津三郎と俣野五郎の相撲】
 1176(安元2).12月、伊豆柏峠で河津三郎と俣野五郎の相撲が行われた(曽我物語)。

【約400年に及んだ節会相撲の儀式が途絶える】
 1180(治承4).4月~寛治1年(1185年)3月、源氏・平家の合戦(源平の争乱)が起こり約400年に及んだ節会相撲の儀式が途絶えた。







(私論.私見) 。