相撲史その7、輪湖時代より

 更新日2017(平成29).11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
  ここで、「相撲史その7、輪湖時代より」をものしておく。「日本相撲史概略」、「相撲の歴史」、「相撲界のこれまでの主な不祥事、事件、トラブルなど」、「大相撲事件史」その他を参照する。

 2015.1200.01日 れんだいこ拝


【輪湖時代】
 昭和47年頃からは輪島と北の湖が争う「輪湖時代」と呼ばれる。輪島は185センチ、132キロ。 恵まれた体格をもち、ふてぶてしいほど強靱な精神力の持ち主でもあった。北の湖は179センチ170キロ。巨体ながら器用さも持ち、独特の躍動感ある相撲が魅力。大鵬の記録を破り、最年少横綱昇進を果たしていた。

北京上海で相撲公演
 1973(昭和48)年、4月、日中国交正常化を記念し、武蔵川理事長を団長とする幕内・十枚目力士全員が中国を訪問。北京上海で相撲公演。

行司部屋を解散
 1973(昭和48)年、5月、行司部屋を解散し旧に復する。

【名勝負物語/輪島○(寄り切り)●貴ノ花
 1973(昭和47)年、9月場所千秋楽。輪島○(寄り切り)●貴ノ花。突っ張り合いからがっぷりの左四つに渡り合い、吊り合いを経て輪島が下手投げから寄り立てた。貴ノ花はこれを残してグイグイと吊り合い寄り合いの角逐を演じた。そのうちに両者の廻しが緩み行司待った。再開後も同じように吊り合い寄り合いで観戦の皇太子一家にも手に汗握らせた。かくて水が入る。開始の合図がかかるや輪島は右を巻き替えて両差し、すぐさま向正面に吊る。貴ノ花は必死に堪えて左を巻き替える。しかし輪島は下手投げからまたも右を巻き替え、グイグイ寄り立て赤房に寄り切った。テレビの実況は北出アナ「次の時代を作る二人」。解説は玉の海「どちらにも勝たせたいですな」。

 昭和47年、アメリカ出身の高見山が初優勝し、"ジェシー台風"と呼ばれた。このとき、当時のニクソン大統領から祝電が届いたそうです。

新理事長に春日野就任
 1974(昭和47)年、2月、新理事長に春日野就任。

【年寄・8代高田川が高砂部屋から分家独立して高田川部屋を創設
 1974(昭和49).4月、3月場所に現役を引退して高砂部屋の部屋付き親方となった年寄・8代高田川(元大関・前の山)が、内弟子8人を連れて高砂部屋から分家独立して高田川部屋を創設した。8代高田川は小結・前乃臻剣晃、幕内・鬼雷砲などといった関取を育て上げる。

九州・福岡スポーツセンターより九電記念体育館に会場変更
 1974(昭和47)年、11月、九州・福岡スポーツセンターより九電記念体育館に会場変更。

【名勝負物語
 1974(昭和49)年、7月、7月場所、北の湖が14日目が終わった時点で13勝1敗で単独トップに立ち、横綱昇進はほぼ手中に収めていた。千秋楽は1差で追う横綱輪島との対戦。21歳の“怪童”が勝てばすんなり優勝だったが、土俵際まで攻め込みながら最後は輪島の“黄金の左”下手投げに屈した。決定戦もまるで再生映像を見るような同様の展開で左からの下手投げに沈んだ。本割、決定戦と屈辱の2連敗。つかみかけた賜盃は手元からすり抜けた。「先を走っていたのに、連敗して恥ずかしさと悔しさしかなかった。でも、あの時の悔しい気持ちを常に持っていたから、いつか追い越してやろうという気にもなれた。それで10年間、横綱でいられたと思う」とのちに語っている。

【名勝負物語/大関・貴ノ花○vs横綱・北の湖●
 1975(昭和50)年、3月、3月場所、大関貴ノ花が初優勝を果たした優勝決定戦。
 千秋楽、北の湖-貴ノ花。1敗の貴ノ花は最難関たる北の湖戦を突破して悲願の初優勝を決めたいところだったが、横綱北の湖が立ち合いやや右に立って上手を取り、左からは挟みつけ、さらに下手を引いた。貴ノ花は右で横綱の下手を切ろうとしたが成らず。横綱は寄って出て左下手投げを打つと貴ノ花は堪えて土俵中央に戻る。横綱はなお攻め立てて向正面で強引に上手投げ、吹っ飛ばして貴ノ花を破り、決定戦に持ち込んだ。決定戦は、北の湖が突っかけると貴ノ花も突っかけるという、当時としてはよくあったこととはいえ非常に見苦しい駆け引きの後、3度目で立って北の湖が同じように右上手を取る。貴ノ花は左から入って右も差そうとしたがこれは駄目。北の湖は正面に下がりながら無理矢理の上手投げ、そしてつり。貴ノ花は巧く足を送って体勢を立て直し、右も入れ、そして左を深く、右を浅くして引きつけると横綱は棒立ち、貴ノ花は西にグイグイ寄り立て遂につり気味に寄り切った。その瞬間、観客が投げた無数の座布団で、天井が見えなくなったという。悲願の初優勝を果たした。表彰式では兄であり、師匠でもある二子山親方(初代横綱若乃花)から優勝旗を手渡されるという感動のシーンもあった。

輪島ゴルフ事件
 1975(昭和50)年、5月、5月場所直後、横綱の輪島が、場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。

輪島ゴルフ事件
 1975(昭和50)年、9月、二所ノ関の後継になれなかった押尾川が反旗。

 長年、「分家独立を許さず」の不文律の下で独立を認めてこなかった出羽海一門に対して「分家独立を奨励す」の下で独立を奨励してきた二所ノ関一門。二所ノ関一門でも片男波独立騒動のようにトラブルになったケースはあるが、それだけではない。二所一門の本家である二所ノ関部屋は大鵬を輩出し一時代を築いたが、大鵬独立後は急速に勢力が衰えていった。加えて元大関・佐賀ノ花の二所ノ関自身の体調が思わしくなくなり1964年、困ったおかみさんは現役大関・大麒麟に後継者になって欲しいと懇願した。大麒麟は1964年11月場所4日目に突然の引退を表明。師匠の病状はかなり悪化しており、引退し押尾川を襲名した。1965年3月28日に二所ノ関が亡くなる。周囲も押尾川が後継になるだろうと思っていたが。ここで大鵬の後援会長である萩原吉太郎氏から待ったがかかった。萩原氏は二所ノ関死去後は大鵬が二所ノ関を継ぐという念書が存在すると主張、一方の押尾川も後継になるべく師匠の体調面を考慮しわざわざ現役引退をしたのだからそんな話は飲めるわけがない。両者の主張は平行線を辿り、ついに5月場所が近付いてきた。師匠がいない力士は本場所に出場出来ない。一時的に最長老である元幕内・十勝岩の湊川が暫定的に二所ノ関を襲名し5月場所はなんとか乗り切った。場所後に大鵬が二所ノ関後継辞退を表明。大麒麟が後継の座に収まり解決かと思われたが、事態はさらに深刻化する。暫定二所ノ関の下で臨んだ7月場所は平幕・金剛が予想外の快進撃を見せ優勝。金剛は場所後に関脇まで昇進し、この男こそ二所ノ関後継に相応しいとする声が広がり始めた。さらに金剛は9月5日に先代二所ノ関の次女と婚約を発表。形勢は完全に逆転した。この動きを事前に察知していた押尾川は前日の4日に強硬手段に出た。小結・青葉山、幕内・天竜の含む16名を引き連れ東京は谷中にある瑞輪寺に籠城した。独立問題はこの後も話し合われたが、合意には至らず9月場所を迎えた。やはり師匠のいない力士は本場所に出場出来ないので一時休戦し、力士は部屋に戻り土俵に上がった。場所中も一門内で話し合いは持たれ、小結・青葉城を含む6名の力士の移籍と部屋独立で合意が結ばれた。天龍は押尾川部屋への移籍を強く望んでいたが叶わなかった。嫌気のさした天龍は66年9月場所後に廃業し、プロレスラーに転身した。(「押尾川独立騒動 」)。

トンガ力士廃業事件
 1975(昭和50).10月、九州場所前、朝日山部屋継承問題に巻き込まれトンガ力士が廃業した。国会文教委員会の答弁でも言及される。トンガ力士6名が朝日山部屋の新師匠に従わず廃業。

 南太平洋に浮かぶトンガから新弟子が入門してきたのは1974年10月。きっかけは朝日山部屋後援者の娘がニュージーランドに留学し、トンガ国王の娘と知り合いになったことから始まる。交流を通して国王にも相撲の話が伝わり「我が国の国技にしたい」と要請を受け、朝日山部屋のメンバーがトンガを訪問した。メンバーは元関脇・二瀬川の朝日山親方、高鐵山、若二瀬の3名である。「親善大相撲指導団」ということで協会から派遣された。以上が公式の訪問経緯であるが、そもそもこの指導団の目的は朝日山部屋の後援者がトンガの油田採掘の権利を狙っていてその為に駆り出されたに過ぎないと高鐵山は後に告白している。経緯はともかく、現地で若者相手に相撲指導を行った。その中で素質のある若者を国王の依頼、もしくは朝日山親方が連れ帰りたいと言いだしたの両方の説があるが、連れ帰った。連れ帰ったのは4名。秘密警察の椰子ノ島、近衛兵の南ノ島、高校生の日ノ出島、高校生の福ノ島である。そのまま日本に連れ帰るつもりだった「親善大相撲指導団」だったが、国王の許可があれば日本に入国し力士として活動できると勘違いしていた為、ハワイで高鐵山が監督する形で4名の新弟子は足止めを喰らう。当初からドタバタしていた。なんとか日本に入国したが高鐵山も最初から「こりゃとても日本では無理だな」と不安視していた。言葉も通じず、寒さもダメでちゃんこも食べず蒸した鳥ばかり食べる。日曜日は稽古を休む(トンガ力士はクリスチャン)と特別待遇をせざるを得なかった。さらに追加で高校生の幸ノ島、高校生の友ノ島も入門し総勢6名となったトンガ人力士。持ち前の運動神経を活かし、出世は比較的早かった。しかし、朝日山親方が1975年10月14日に亡くなる。部屋は元小結・若二瀬の北陣が朝日山を襲名し、部屋を継いだ。ここで先代の妻と新朝日山がゴタゴタを起こしてしまった。トンガ力士6名は先代夫妻に恩義を感じており新しい朝日山には従えないと主張し、そのまま1976年10月13日に廃業となってしまった。まだ、外国人など珍しい時代。6名は入門の時から注目され、廃業の際も騒ぎとなった。国会でも取り上げられ理事長が事情聴取まで受けた。福ノ島と椰子ノ島は2年で幕下まで昇進していただけに惜しまれる。国際問題に発展するのではないかと危惧もされたが、協会が元幕内・柏戸の伊勢ノ海らをトンガに派遣し、事情を説明したところ国王も納得したと言われている。 (「トンガ力士廃業騒動」)。

財団法人設立五十周年記念式典
 1975(昭和50)年、12月、財団法人設立五十周年記念式典を東京会館にて挙行。

横綱審議委員会委員長に石井光次郎就任
 1976(昭和51)年、1月、横綱審議委員会委員長に石井光次郎就任。

ブラジル相撲指導
 1976(昭和51)年、7月、君ヶ浜他二名は、ブラジル相撲協会の要請で相撲指導のため渡伯。

陸奥嵐、白田山、暴力団員口論事件
 1976(昭和51)年、山口組No3であった佐々木組の佐々木道雄組長が組員2人と女性2人そして宮城野部屋の陸奥嵐、白田山を連れ赤坂のソウルハウスで飲んでいたところ、陸奥嵐が、佐々木組長に「小指がないそんな指でよくゴルフが出来ますね」と口を滑らせ、コップを投げつけられるほどに佐々木を怒らせた。まんが悪くそのコップが別のボックスにいた山口組福井組組員に当たり大喧嘩となり、佐々木組組員武田義道がSW380を天井に発砲した。白田山が佐々木と知り合いで、陸奥嵐は組長と未知の仲だった。相撲協会は陸奥嵐と白田山を減給処分にしたという。これが暴力団排除徹底の契機となった。この事件により、白田山の連続出場が不名誉な形で止まった。

【元小結・国登の佐ノ山が泥酔。物言いの協議に参加できず
 1980(昭和55).11月、元小結・国登の佐ノ山泥酔事件発生。1980.11月場所12日目、序二段の取組で物言いがついたが、5人の勝負審判が土俵に上がり協議が始まるところ、元小結・国登の佐ノ山が上がって来ずと云う椿事が発生した。諸説あるが協議に加われなかったことは一致している。真偽は不明だが、日本語版ウィキペディアでは競技終了後に土俵に上がり、しかも降りるときに土俵に草履を置き忘れるというおまけもついたとか・・・。いずれにしても泥酔で協議に加われないということはとんでもない大失態で、翌日の理事会で佐ノ山は勝負審判を解任された。参考までに序二段の取組が行われる時間帯は午前中である。佐ノ山は勝負審判を解任されたが1990.4月の停年まで務めあげた。(「勝負審判泥酔事件 」)。

【名勝負物語
 1981(昭和56).1月、初場所、千秋楽、関脇千代の富士が決定戦を制して初優勝を決めた。
 北の湖は10日目苦手の朝汐に突き落とされたが、13日目に若乃花、14日目には輪島を倒し13勝 1敗で千秋楽に千代の富士と対した。本割は北の湖が上手を引きつけて向正面に吊り出し決定戦に持ち込んだ。 決定戦は左四つとなったが横綱上手が取れない。強気の北の湖は右で抱えたまま出たが千代は崩れず、千代の富士の右上手出し投げ決まって初優勝、場所後大関に推された。
 昭和56年 1月千秋楽 8○北の湖(吊り出し)千代の富士●1
 北の湖が突きから右差し、千代の富士が左を巻き替えてがっぷりの左四つ。 胸が合い、一呼吸から北の湖が腰を下ろしてエイと吊り上げ、バタバタとやって残そうとする千代の富士を向正面に吊り出して相星、北の湖は左膝から崩れたが、執念で優勝決定戦とした。
 昭和56年 1月決定戦 -●北の湖(上手出し投げ)千代の富士○-
 決定戦は千代の富士のぶちかましを北の湖両手を出して受けたが千代の富士右上手を取って頭をつける。 北の湖は得意四つだが上手が引けない。横綱強引に右から抱えて出るが千代の富士堪えるや右上手出し投げを強襲、 見事に決まって横綱は右膝から崩れ、千代の富士の初優勝が決まった。

 ウルフフィーバー
 最後の大横綱は、千代の富士でした。183センチ126キロの体格は、体脂肪率がきわめて低い、まさに鋼の肉体。鍛え上げられた筋力で投げ飛ばす相撲は、絶大な人気を誇りました。その鋭い風貌はウルフと呼ばれ、まさに国民的大スターです。

輪島が3月場所途中に引退表明
 1981(昭和56)年、3月場所途中に引退を表明。師匠の長女とも結婚していたので部屋を継ぐ準備は万全だった。引退と同時に花籠を襲名しそのまま部屋の師匠に収まった。先代は定年まで年月を残していたが角界を去った。

「さよなら貴ノ花」かわいがり映像放送事件
 1981(昭和56)年、貴ノ花がかわいがりされている映像がNHKで放送される事件が起こった。部屋全体がしばらくNHKの取材を受け付けなくなった。これを機に稽古場から竹刀が姿を消した。

メキシコ相撲公演
 1981(昭和56).6月、春日野理事長を団長とする幕内・十枚目力士全員、メキシコシティーにて相撲公演。

横綱審議委員会委員長に高橋義孝就任
 1981(昭和56).9月、横綱審議委員会委員長に高橋義孝就任。

【九州・九電記念体育館より福岡国際センターに会場変更
 1981(昭和56).11月、九州・九電記念体育館より福岡国際センターに会場変更。

輪島夫人が自殺未遂騒ぎ
 1982(昭和57).4月、輪島夫人の自殺未遂騒ぎ。原因は花籠の先代遺族との金銭トラブルではないかと云われている。夫人は両方の立場でありまさに板挟み状態だった。

【蔵前国技館閉館式】
 1984(昭和59)年、10.4日、蔵前国技館閉館式。       

【新国技館落成式】
 1985(昭和60)年、1月、現在の東京両国・新国技館開館成式。(新・両国國技館)。

【北の湖の功績に対し、一代年寄名跡を認める】
 1985(昭和60)年、1月、北の湖の功績に対し、一代年寄名跡を認める。

ニューヨークにて相撲公演】
 1985(昭和60)年、6月、春日野理事長を団長とする幕内・十枚目力士全員、ニューヨークにて相撲公演。

財団法人設立六十周年記念式典
 1985(昭和60)年、12月、財団法人設立六十周年記念式典を国技館にて挙行。。

現役力士の運転を禁止
 1985(昭和60)年、水戸泉と蔵間が相次いで交通事故を起こす。これがきっかけとなり、相撲協会は現役力士の運転を禁止した。

【輪島廃業事件】
 1985(昭和60).10.25日、花籠の妹が経営していたちゃんこ店が倒産。輪島(1981年に引退し花籠部屋を継承、12代目親方)が、年寄名跡「花籠」をこの店の借金の担保に入れていたことが判明した。事態を重く見た協会は九州場所中に花籠を委員から平年寄へ二階級降格に処した。借金の総額は3億円以上とも言われ、借金の返済を求めて債権者が部屋に集結し騒ぎにもなった。9月、先代夫人が年寄名跡を買い戻す。5月末から3ヶ月以上も名跡が金融業者の手に渡っていたことになる。11月、夫人である先代長女とも離婚。12.21日、理事会で花籠の廃業が決定する。弟子たちは元大関・魁傑の放駒部屋に移籍した。型破りさが売りの輪島だが少し破り過ぎた感は拭えない。輪島はその後タレントとしてTVなどで活躍している。(「輪島廃業事件」)。 花籠部屋は90年代に一度再興されたが経営難により10年ほどで再び閉鎖された。

 54代横綱・輪島は、北の湖と輪湖時代と呼ばれる一時代を築き、優勝回数14回を数えた名横綱である。2015.2月現在、唯一学士の称号を持つ横綱でもある。現役時代は角界の常識をいくつも破ってきた。学生時代に十両・貴ノ花(後の大関)に稽古で勝ち、いくら学生横綱と言えど関取には敵わないという定説を破る。下手投げの力士は大成しないというジンクスも破り横綱まで昇進した。ランニングは腰を軽くするからと角界ではタブー視されていたが、そんなことはお構いなし。積極的に取り入れた。横綱まで本名を押し通したのも輪島のみである。

【大関・若島津が紅白歌合戦に7度出場した歌手の高田みづえと結婚】
 1985年、大関・若島津が紅白歌合戦に7度出場した歌手の高田みづえと結婚。夫の引退後は、松ヶ根部屋(現在は二所ノ関部屋)のおかみさんを約30年続けています。

カナダ人力士、琴天山が失踪
 1986(昭和61)年、7月、7月場所、期待されたカナダ人力士、琴天山が相撲界の水になじめず土俵に上がらず失踪してしまう。序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝していたので、無敗のまま廃業となった。

北尾横綱昇進
 1986(昭和61)年、7月、5月場所で12勝3敗で準優勝、この場所14勝1敗で優勝同点の北尾の横綱昇進が横綱審議委員会で討議され、「優勝経験のない力士が横綱になるのはおかしい」、「精神面に甘さがある」との意見が出たものの、結局横綱に推薦された。(千代の富士の一人横綱、保志が大関確定的で北尾を昇進させないと史上初めての6大関になってしまうためと言われている)

【パリ相撲公演】
 1986(昭和61)年、10月、春日野理事長を団長とする幕内力士、パリにて相撲公演。

【新理事長に二子山就任】
 1987(昭和62)年、2月、新理事長に二子山就任。

【北尾騒動】
 1987(昭和62).12月、横綱双羽黒が、ちゃんこの味付けをめぐって師匠立浪親方と衝突し、仲裁しようとした後援者や親方夫人(女将)に暴力を振るってけがをさせて部屋を飛び出す騒動を起こした。立浪親方は日本相撲協会に破門同然の形で「廃業届」を提出した。 横綱・双羽黒がおかみさんを突き飛ばし脱走、廃業。(「北尾騒動」)。

【九重部屋序二段の市川(16歳)自殺事件】
 1988(昭和63)年、九重部屋序二段の市川(16歳)自殺事件。当時部屋付き年寄であった君ヶ濱の財布を預かっていたところ紛失してしまったことを苦にした。メディアが真相究明に力を入れる。北の富士の九重親方が報道陣の前で深々と頭を下げる。

【サモア力士南海龍廃業】
 1988(昭和63)年、9月場所、サモア力士の南海龍が酒の飲み過ぎにより休場する失態を起こす。場所後に、師匠の髙砂親方「酒と相撲とどっちをとるんだ」の問いに「酒」と答えサモアに帰国してしまう。その後廃業。

【ハワイ勢力士が台頭】
 昭和から平成へと元号が変わる頃、ハワイ勢力士が台頭した。小錦は187センチ275キロという圧倒的な体躯を持ち、突きと押しはすさまじい威力を持った。外国人初の大関となり、横綱挑戦を目指したものの、あと一歩というところで及ばなかった。

【モンゴル勢の旭鷲山ら6人が大島部屋に入門】
 1991(平成3)年、元大関旭国のスカウトでモンゴル勢の旭鷲山ら6人が大島部屋に入門した。その後、3人は帰国し、元小結旭鷲山、元関脇旭天鵬(現友綱親方)、元幕下旭天山が残った。

【横綱不在場所】
 平成4年夏場所直前に横綱・北勝海が引退した平成4年名古屋場所から平成5年初場所までの4場所、平成4年九州、5年初場所と大関・曙が連続優勝で横綱昇進、翌春場所から登場までの間、横綱が不在だった。

【若花田も幕内優勝し若貴兄弟が同時に大関へ昇進】
 1993(平成5)年、若花田も幕内優勝を果たして、兄弟同時に大関へと昇進。

【65代横綱・貴乃花光司誕生】
 1995(平成7)年1月、65代横綱・貴乃花光司誕生。

【若貴ブームとハワイ勢の快進撃続く】
 平成の前半は若花田(のちの二代目若乃花)・貴花田(のちの貴乃花)兄弟が相撲ブームを牽引した。兄の若花田は180センチ134キロ。巧みな足捌きの技巧派。弟の貴花田は、185センチ161キロ。隙の無い取り口で圧倒的な強さを誇り、数多くの最年少記録を打ち立てた。

※平成7年十一月場所・史上初の兄弟による優勝決定戦

【曙、武蔵丸らハワイ出身力士の活躍】
 若貴と覇を競ったのがが曙、武蔵丸らハワイ出身力士で曙は外国人力士初の横綱に昇進した。

【金剛麻雀賭博事件】
 1995(平成7).1月、金剛麻雀賭博事件。二所ノ関親方(元関脇金剛)が麻雀賭博で、指定暴力団山口組組員ら7人と共に逮捕された。捜査4課は掛け金や場所代など160万円を押収。二所ノ関親方は審判委員解任、6カ月間20%の減俸、3月場所中の謹慎などの処分を受けた。後に協会理事になっている。

【元横綱・千代の富士の九重親方が申告漏れで修正申告】
 1995(平成7).6月、元横綱・千代の富士の九重親方が約1億3000万円の申告漏れで修正申告に応じ追徴課税。理事長より口頭注意をうける。

若貴兄弟で優勝決定戦
 1995(平成7)年、兄弟での優勝決定戦。大相撲史上初めてのこと。結果は兄の意地を見せて若乃花が見事勝った。

【貴乃花が怪我に悩まされてブームに陰り】
 1996年以降、貴乃花が怪我に悩まされてブームに陰りが出た。  

【大鳴戸親方怪死事件】
 1980年に小学館の「週刊ポスト」で元十両・四季の花範雄の八百長告発手記が掲載され、それから20年あまりも元力士や大相撲関係者の証言が「大相撲八百長告発シリーズ」として連載された。1996年、2月、11代大鳴戸親方(元関脇・高鐵山 本名:菅孝之進。部屋持ち)と元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎氏の共同による「告白手記」が「週刊ポスト」誌上で14回にわたって連載された。八百長問題にとどまらず、角界の乱れた女性問題から、大麻の蔓延、角界と暴力団の関わりまでを暴露し、非常に衝撃的な内容だった。1995年1月に協会を去った元大鳴戸親方(元関脇・高鐡山)はその後、八百長などの経緯をまとめた「八百長―相撲協会一刀両断」(1996年、ラインブックス)という「暴露本」を出版した。

 タイトルだけ見ると八百長告発本だが、内容は相撲界の悪癖に対する批判、特に年寄名跡が高額な価格で売買されている上にそれを申告せず事実上の脱税行為が横行している点、北の富士に対する非難が中心である。この本の中で数多くの証言が紹介されたのが橋本成一郎氏である。この人物は北の富士の後援会副会長を務めた人物とされる。二人で八百長告発を週刊誌上で展開していた。

 1996(平成8).4.14日午前4時45分、大鳴戸親方と、元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎氏が4.26日に日本外国特派員協会で会見する予定になっていたが、記事掲載の2カ月後、同親方を含む告発者2人が同日に同じ病院(愛知県豊明市の藤田衛生大病院)、同じ死因(レジオネラ肺炎、心不全)で死亡した。八百長告発の中心人物が同日、同病院で同様の死因で亡くなったが公式には病死とされた。情報の中では「同時」とか「数分違い」に亡くなったとしているものもあるが誤りで、両者が亡くなった時刻は12時間以上離れている。元大鳴戸自身は1993年の脳梗塞を患い、糖尿病や心臓病との闘病中であった。そうは言っても同日、同病院、同じ死因では世間の良からぬ憶測を呼ぶのも無理もない。


 境川理事長(元横綱・佐田の山)らが東京地検で八百長を否定し、協会は20人以上に事情聴取した。事件の1ヶ月後の5月22日、日本相撲協会が、週刊ポストの記事の一部に対して、発行元の小学館などを名誉毀損容疑で刑事告訴した。元々の告発者である二人がすでに死亡していることもあり、98.4月に嫌疑不十分でので不起訴処分になっている。大鳴戸親方怪死事件は、八百長告発に絡む相撲界最大の闇とも言える事件になっている。

【貴ノ花申告漏れ事件】
 1996(平成8).7月、元大関・貴ノ花の二子山の申告漏れが発覚 。元大関・貴ノ花の二子山親方が前年までの3年間で約3億円の申告漏れ。若乃花も申告漏れが発覚し、それぞれ理事長が口頭注意をうける。

 1996.9月、元大関・貴ノ花の二子山が二子山の年寄株取得の際に後援会から贈与された3億円を申告しなかった一件が発覚した。年寄株が高額で売買されており、この取引には税金がかかるはずが大きな問題になってこなかった。二子山株の元の所有者は元横綱・若乃花(初代)である。若乃花は貴ノ花の実兄である。実の兄弟間での3億円のやりとりで相撲界の年寄株売買の実態の一例が明るみに出ることになった。そもそも貴ノ花は年寄・藤島として活動していた。二子山の停年に伴い、部屋を吸収合併をすることになり二子山の名跡を買い取ったことになる。二子山(貴ノ花)は元横綱・若乃花も3億円の所得の申告漏れを指摘されたことにより、巡業部長解任、相撲博物館館長辞任となり角界を去った。当時の理事長である元横綱・佐田の山の境川が「売買禁止」を柱とした改革に乗り出そうとしたところ親方衆から猛反発。結局、売買は実効性を持った形で禁止されることはなかった。境川の理事長任期終了後、元大関・豊山の時津風の理事長時代に辛うじて年寄株の貸借が禁止されることになった。しかし、名義を変更せず貸すという新たな手法がすぐに出来上がりすぐに有名無実化したことにより2002年9月には貸借OKとなった。(「貴ノ花申告漏れ事件」)。

【前乃森失踪事件】
 1996(平成8).11月、山響親方(元小結 前乃森)が、11月場所後に失踪。翌1月場所中も現れなかったため、職務放棄として相撲協会よりはじめての解雇処分になった。

 幕内では5人による優勝決定戦が行われた1996年11月場所後に元小結・前乃森の山響が突如として失踪した。翌97年の1月場所にも姿を出さず、無断欠勤。協会は1月31日に当時としては異例の解雇処分を下す。一体なぜ失踪してしまったのだろうか。背景には年寄株・山響を巡るトラブルがあったとされる。山響は借株で、取得を目指そうとしたが、その過程で問題が生じたという説が有力である。捜索願も出されたものの、前乃森は無事で最近は公の場にも姿を現すようになっている。(「前乃森失踪事件」)。

【66代横綱/若乃花勝誕生】
 1998(平成10).1月、日本相撲協会理事選挙で、8代高田川が、高砂一門内の候補者一本化に反対して立候補し理事に当選した。これを「高田川の乱」と云う。それまで、角界は「5つの一門」の各一門約20人がそれぞれ2人の定数10人理事を送りこむ構図が定着し、2年に一度の理事選は無投票で決まるのが慣例だった。他の一門を切り崩すようなことも起きず、各一門内の事前調整ですんなりとの理事が決まってきた。この“お決まりレース”に波乱を起こしたのが「1998高田川の乱」だった。その背景には境川理事長(元横綱・佐田の山)の年寄株制度改革に対する親方衆の反発があった。既得権を守ろうとする彼らに担ぎ出される形で、当時の高田川親方(元大関・前の山)が出馬表明。高砂一門内の調整を無視する形で理事選に立候補し、11人の候補者による初の理事選が行なわれた。この選挙で高田川親方は見事に当選したが、高砂一門から破門されるという騒動に発展した。8代高田川は理事に2期連続して当選したものの、どこの一門にも属さない無所属の部屋となった。

【66代横綱/若乃花勝誕生】
 1998(平成10).5月、66代横綱/若乃花勝誕生。若貴時代を築く。

【相撲協会が申告漏れ。約1億円の追徴課税】
 1998(平成10).6月、相撲協会が地方場所の経費など前年までの3年間に総額3億5000万円の申告漏れ。約1億円の追徴課税。

【北の富士・当時陣幕親方が相撲協会を退職】
 1998(平成10)年、当時の境川理事長が打ち出した改革案が親方衆の猛反発に遭い、理事候補選が初の選挙戦に突入した。高砂一門は共倒れを避けるために、候補者を1名に絞る方針を打ち出した。その候補者を決める決選投票で、当時広報部長という要職にあり、次期理事長とまで目されていた北の富士・当時陣幕親方が高砂親方(元小結・富士錦)に敗れた。この事をきっかけに、北の富士は即座に相撲協会を退職した。

【若貴絶縁騒動】
 1998(平成10).9月、貴乃花が「(若乃花について)相撲の基本がない」などと発言したと報じられ、父・二子山親方は「貴乃花は洗脳されている」と発言。兄弟横綱不仲が明るみに、世間は大騒ぎ。

 65代横綱・貴乃花と66代横綱・若乃花は実の兄弟ですが、口もきかないくらい仲が悪い―。この騒動は一言で言えばそれだけのことだが、当時のTV、新聞は競って取り上げ世間は大騒ぎになった。若貴フィーバーも1998年5月場所後に若乃花が横綱昇進し完結し、フィーバーも一段落していた1998年9月1日、スポーツ紙に衝撃的な記事が掲載された。「若乃花の相撲には基本がない。どうやって横綱の地位を守れるのか、私には不思議です。もう若乃花と話す必要はない」。これは弟の横綱・貴乃花のコメントである。絶縁宣言が飛び出した。当時は若貴兄弟、実父であり師匠でもある元大関・貴ノ花の双子山やその妻である憲子さんまで含めて世間はこの一家を「理想の一家」として見てきたところがあった。若貴が幼い頃から家族でイヴェントがあればTV局が密着レポートと称して放送していた。それだけに社会に与えた衝撃は大きかった。当初は真偽が分からない噂に過ぎなかったが、9月9日に双子山がTV番組で「貴乃花は洗脳されている」と発言。同時に親子であり師匠と弟子なのにもう2年以上会話がないことも明らし、洗脳している人物は東京は四谷で開業している整体師と証言した。迎えた9月場所6日目、新横綱・若乃花は出島に敗れ横綱初黒星を喫する。すると待ってましたと貴乃花が「相撲はそんなに甘くない。やることをやらなければ負ける」と嫌味発言.。新聞各紙に掲載された。こうなると相撲フィーバーの主役・貴乃花は悪者扱いに。従来は考えられなかった「貴乃花負けろ!」のヤジが9月場所では飛び交った。ワイドショーは連日報道合戦、ファンは貴乃花の変貌ぶりに心配を募らせた。しかし、1999年に入ると当時かなり話題になった評判の良い缶コーヒーのCMに出演し、ファンを少し安心させた。さらに関係者の努力も実り関係は修復される。兄弟和解の握手をがっちりと交わして全国の相撲ファンを一安心をさせた。その後も兄弟同士で相手を尊敬するコメントを出し合うなど、解決したかに思えた。(「若貴絶縁騒動」)

元大関・霧島の陸奥親方が申告漏れ、追徴金
 1999(平成11).4月、元大関・霧島の陸奥親方が5年間に約2億2000万円の申告漏れ。約9000万円の追徴金。相撲協会より6カ月間20%減給の処分。

元小結・板井圭介が八百長を暴露
 2000(平成12).1月、元小結・板井圭介が週刊現代で八百長の存在を告発し、日本外国特派員協会で2度の講演も行い、横綱・曙以下20数名の八百長力士の実名をあげて八百長告発した。 記者から「板井さん、八百長の証拠はありますか?」と聞かれ「私自身が証拠です!」と名言を吐いていました。また板井は「全力士の80パーセントは八百長に手を染めていた」とも。協会は名誉毀損であるとの抗議文を送付。法的手段も検討したが、現役、親方含めて22人から事情聴取して八百長を否定。騒動に幕を引いた。「板井圭介 いたいけいすけ 八百長告発暴露力士 会見 大鳴戸親方 その後 現在、「板井圭介 いたいけいすけ 八百長告発暴露..」。

三代目若乃花が引退
 2000(平成12).3.16日、春場所5日目、黒星を喫した三代目若乃花が29才で引退した。年寄藤島を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない2000年12月18日に突如日本相撲協会を退職。その後はタレントに転身。芸能界入りしマルチタレントとして、バラエティ番組を中心に出演するも、2007年には妻であった花田美恵子さんと協議離婚。2011年4月9日より、風水建築デザイナー直居由美里のアドバイスで芸名を「花田虎上」(はなだまさる)に改名。

三代目若乃花が引退
 2000(平成12).6月、元小結・旭鷲山が八百長を告発した週刊ポストから和解金をふんだくる。元小結・旭鷲山が、2000.6月、週刊ポストに八百長を報じられ、名誉毀損として個人での提訴に踏み切った。東京地裁で出版社側の申し入れを受け、謝罪記事の掲載と数百万円の和解金で決着した。

闘牙が自動車人身死亡事故を起こす
 2000(平成12).12月、闘牙が自動車人身死亡事故を起こす。理事会は翌初場所への出場辞退を勧告。師匠の高砂親方へも「役員待遇」から「年寄」二階級降格の処分。

モンゴル勢の台頭
 平成10年代になると、相撲の勢力図が変わる。若貴もハワイ出身力士も姿を消す一方、朝青龍を皮切りにはじめとするモンゴル人力士が台頭してきた。圧倒的に強く、愛嬌もあったのが朝青龍。独特の魅力があった。白鵬とのモンゴル勢同士の対決は好カード。朝青龍引退後も、白鵬、鶴竜、日馬富士ら、そうそうたるモンゴル勢力士が土俵を席巻した。

新弟子採用検査改正
 2001(平成13).1月、決まり手を82手にする。新弟子採用検査が改正される。体格検査基準が2つに区分された。第1検査:身長173cm以上、体重75kg以上。第2検査:第1検査の基準に達しない者で身長167cm以上、体重67kg以上の者の場合、運動能力検査を行う。幕下付け出し制度が一部改正された。アマチュア相撲の成績により「幕下10枚目格」、「幕下15枚目格」に付け出す。

【貴乃花が満身創痍の優勝】
 2001(平成13).5月場所の千秋楽。前日の武双山との取り組みで右ひざに大けがを負った貴乃花だが、周囲の勧めを振り払い、優勝を賭けて武蔵丸と相対する。しかし、あっけなく負けてしまい、再度武蔵丸との優勝決定戦が行われることになる。実はこの優勝決定戦の土俵上、通常の所作の流れでしゃがみこんだとき、膝が外れてしまったというのだ。しかし、塩を取りに行き膝を回しているうちにうまいことはまり、執念の一番で武蔵丸を下し、22回目の優勝を飾る。まさに満身創痍での優勝だったが、次の場所から7場所連続で休場を強いられることになる。

【九重部屋壮絶リンチ騒動】
 速報フラッシュエキサイティング12/1号に、「九重部屋壮絶リンチ証拠写真」という記事が出ている。02年3月場所直前に廃業した九重部屋の元力士、河内の父親の告発である。「エアガンで全身銃撃傷だらけ」という元力士、河内の上半身の写真が掲載されている。八百長大横綱、国民栄誉賞の元千代の富士の部屋である。現役当時から、暴力傾向と暴力実績のある男だ。00年5月に河内が家に帰ってきた。どうしたと聞けば、千代天山にエアガンの標的にされたという。服を脱がせると全身にアザがあり、瞼にもアザがあって、目を覆うばかりだった。千代天山の付け人になってから、エアガンの標的にされ、二メートルの至近距離から一日に30~50発、それが一週間続いた。九重親方に相談するも、取り合ってもらえない。逆に、兄弟子の千代の花からチクったとして、暴行を受ける羽目に。挙げ句の果てに、荷物をまとめて帰れと言われた。帰ってきた息子を病院に連れて行くと「多発打痕症」で全治十日という診断をうける。武道家の父親はそれでも、彼を部屋に戻してしまう。待っていたのは地獄のような日々だった。力士たちからは無視され、稽古にかこつけて、いじめが行われるようになる。付け人も千代大海に代わり、さらにいじめがエスカレートしていく。湯船に突っ込まれたり、蹴りが入ったり、石けんを取ろうとした彼に、千代大海が小便をかける。あるいは、消毒薬を塗られ、そこに火を付けられたことも。02年3月に、決定的なことが起こる。河内は意を決して、千代大海に殴られていることを九重親方に直訴した。「耐え難いことがある」というと、九重も「俺も耐え難いよ」と言い放つ。親方は実家に電話して帰らせるからと告げた。それから、二時間後に本人から電話が入った。せっぱ詰まった声で「殺される」と。「千代大海がハサミを持って追いかけてきた」。警察に助けを求めろと父親は告げて電話を切った。02年3月に河内親子は告訴を決意した。千代天山を刑事告訴、九重親方千代天山らに対する民事訴訟を起こした。入門したときには93キロあった体重が、大きくなると思って帰ってくると思っていたのが、70キロぐらいになっていた。廃業してすぐに告訴しようと思ったが、ちょうど千代大海が横綱をねらう場所だったので、それを過ぎてから告訴したのだという。裁判は03年5月に和解が成立。刑事告訴については、検事から、千代天山の将来を考えてやってはと言われ、取り下げた。「子を持つ親の立場として、若い芽を潰すことは忍びなかったのです」。ところが、その後、何の詫びの言葉もないのだという。全く善意も、配慮も通じない連中だ。和解から五ヶ月、音沙汰なしの九重部屋に謝罪を求めると、ようやく紙切れ一枚が送られてきたのだという。

【貴乃花が現役引退】
 2003(平成15).1月、初場所9日目、平成の大横綱・貴乃花光司(貴花田→貴ノ花→貴乃花)が初場所限りで現役を引退、一代年寄として部屋付き親方になった。

 ブルガリア出身の琴欧洲、エストニア出身の把瑠都ら外国人力士も活躍した。





(私論.私見)