相撲史その6、戦後

 更新日2017(平成29).11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
  ここで、「相撲史その6、戦後」をものしておく。「日本相撲史概略」、「相撲の歴史」、「相撲界のこれまでの主な不祥事、事件、トラブルなど」、「大相撲事件史」その他を参照する。

 2015.1200.01日 れんだいこ拝


【被災した国技館で戦後初の10日間の本場所興行】
 1945(昭和20).11月、後初の本場所(秋場所)を、被災破損した国技館にて、晴天10日間の本場所興行が行われた。

【国技館接収事件】
 1945(昭和20).12.26日、国技館が進駐軍(連合国軍最高司令官総司令部)に接収された。翌昭和21年9月24日改装修復し「メモリアル・ホール」と改称する。

 進駐軍が土俵を16尺(4.84メートル)に拡大した。当時の人気力士で、戦時中も相撲をとり続けた双葉山は、これを機に引退を決意した。69連勝の偉業を残した、誇り高き双葉山のこと。日本人が決めるのではなく、進駐軍が伝統の国技に口を挟んだことに、腹を立てたようだ。ちなみにこの16尺土俵は不評であり、現在の15尺にすぐ戻された。双葉山が去ったあとの昭和21年(1946年)、国技館は進駐軍によって白く塗り替えられ「メモリアル・ホール」という、葬儀会館のような名前にされた。

【本場所(夏場所)中止事件】
 1946(昭和21)年、被災した国技館の修理が遅れ本場所(夏場所)が初めて中止された。

【メモリアル・ホールにて、十三日間の秋場所を興行】
 1946(昭和21).11月、メモリアル・ホールにて、十三日間の秋場所を興行。力道山新入幕する。復員してきた力士たちはさしもの巨体も肉が落ちていた。兵役中の髪型が丸刈だったため、髷が結えるまで髪が伸びないザンバラ頭の力士も大勢いた。場所開始後も、マラリアがぶりかえしたり、栄養不良の肉体が音を上げてしまったり、途中休場する力士が相次いだ。それでも双葉山の弟弟子・羽黒山が全勝優勝を果たし、相撲の復活を印象づけた。

【相撲くじ発売(この場所限り)】
 1946(昭和21).11月、相撲くじ発売(この場所限り)。大蔵省・勧銀・相撲協会の協力により発売された。

【璽光尊事件(じこうそんじけん)】
 1947(昭和22).1.21日、璽光尊事件(じこうそんじけん)が石川県金沢市で発生した。太平洋戦争中、璽光尊(長岡良子)が主宰する宗教団体「璽宇」結成され、1946(昭和21)年秋頃より石川県金沢市に本拠地を構えた。璽宇は、当時連合国軍最高司令官総司令部によって無許可の掲揚が禁じられている日章旗を堂々と掲揚したり、天変地異が起きると喧伝するなど奇異な言動が注目を浴びていた。そして元横綱の双葉山定次や囲碁の棋士として有名な呉清源も信者であったことから全国的にも話題となっていた。石川県警察部では、人心の不安を煽っていること、統制物資である米を大量に所持していたことから食糧管理法違反の疑いで璽光尊に出頭を求めた。しかし璽光尊本人は出頭せず、幹部が代わりに出頭した。1947(昭和22).1.21日午後10時頃、夜行列車で逃亡を図っていることが判明したため警官隊は先手を打って本拠地を急襲した。本拠地では璽宇の信者が抵抗し、公務執行妨害で璽光尊や双葉山ら8人が逮捕された。特に双葉山は大暴れしたため、20人以上の警官で対応しても逮捕までに15分かかったと云う。璽光尊は精神鑑定にかけられ、「誇大妄想性痴呆症」と診断されたため、まもなく釈放された。食糧管理法違反も「違法性なし」と判断されて不起訴となった。大捕物の割りに厳罰にならなかったのは、有名人の双葉山や呉清源を「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。とはいえ、戦前の国民的英雄だった双葉山に失望した国民も多かった。
 その1人が第35代横綱・双葉山。白鵬本人も尊敬する横綱で、1939年の初場所まで続いた69連勝の記録は、76年がたつ現在も破られていない。だが、実はこの双葉山、引退し、断髪を済ませた後の47年に逮捕されている。理由は、双葉山がハマっていた新興宗教だった。当時、石川県金沢市で璽光尊(じこうそん)を名乗る女性教祖が戦後の世直しと称し、「東京が火の海になる」などの過激な予言で信者を集めていた。事態を重く見た当局は同年1月に教団を摘発。内部に踏み込むと、そこにいたのは何と、教祖を守ろうと仁王立ちになっている双葉山だった。太鼓のバチを振り回して複数の警察官と大立ち回りを演じた双葉山は、教祖らとともに逮捕。これがきっかけとなり、双葉山はマインドコントロールから覚めるが、社会を大きく騒がせた。

【明治神宮外苑にて興行】
 1947(昭和22).6月、明治神宮外苑相撲道場で夏場所、晴天10日間の興行が続行された。この場所から各段ごとに同成績力士が優勝決定戦で優勝を争う制度が定められた。幕内では9勝1敗が4力士いて四つ巴戦となる。東横綱羽黒山、西大関前田山、西張大東富士、東8力道山。この場所が東西制最後の場所となる。最後の優勝旗旗手は、優勝決定戦に残った力道山である。

【本場所途中打切り事件】
 1947(昭和22).6月、明治神宮外苑相撲場で行われた6場所4日目、NHKが正午のニュースで中止と誤報した為、会場に姿を見せず休場扱いになる力士が続出した。客席に目を転じると観客も妙に少ない。確認してみると、NHKの正午のニュースで「本日の大相撲は中止」と流れていた。協会は取組を途中で打ち切り、入れ掛けという通常は雨天で行う措置を取った。なぜ、中止という誤報が流れたかは未だによく分かっていない。

【勝敗を当てるクジを発売】
 1947(昭和22)年、勝敗を当てるクジを発売した。不評により1場所で打ち切った。

【明治神宮外苑にて秋場所を10日間興行】
 1947(昭和22).11月、明治神宮外苑にて秋場所の晴天11日間興行が行われた。この場所から、一門系統別部屋総当り制となる。(復活)

【殊勲賞、敢闘賞、技能賞が設定】
 1947(昭和22).11月、明治神宮外苑にて秋場所で、殊勲賞、敢闘賞、技能賞が設定された。

【明治神宮外苑にて夏場所の晴天11日間興行】
 1948(昭和23).5月、明治神宮外苑にて夏場所の晴天11日間の興行。

【大阪仮設国技館にて本場所11日間興行】
 1948(昭和23).10月、大阪仮設国技館にて本場所11日間興行。

【浜町仮設国技館にて13日間興行】
 1949(昭和24).1月、浜町仮設国技館にて13日間興行。(昭和十九年(1944年)春より五年ぶりの春場所復活)。浜町は、生井一家の縄張りで新田新作は関東国粋会系生井一家人形町貸元として博徒であり、新田組組長であった。新田新作は、戦時中から川崎の米軍捕虜施設に潜り込んでは米兵たちに野菜や酒を与えていたという。当時は、日本人ですら手に入れろことが困難な時代であった。新田建設という土建業も営んでおり焼跡の整理や強制疎開指定の建物の取り壊しを請け負っていた。戦後はGHQが名指しで復興を任された。当時の金額で3,000万円を投資し浜町に仮設国技館を完成させた。(この年の春夏の二回のみの使用で終わった)

【浜町仮設国技館にて夏場所15日間興行】
 1949(昭和24).5月、浜町仮設国技館にて夏場所15日間興行。

【大阪で十五日間秋場所興行】
 1949(昭和24).10月、大阪で十五日間秋場所興行。

【横綱・前田山のシールズ事件】
 1949(昭和24).10月、大阪で開催された10月場所を、横綱・前田山は初日こそ勝ったものの、そこから5連敗を喫し休場に追い込まれた。前田山はそのまま帰京、そこで事件は起きてしまう。その休場中の前田山が来日中の米国サンフランシスコ・シールズと巨人軍との戦後初の日米野球を後楽園球場で観戦し、関係者の誘いに乗ったとは云えグランドに降りてオドール監督と握手した。これを新聞社の記者が写真撮影し、次の日の朝刊にその写真が掲載されたことで大騒ぎになった。協会は前田山を大阪に呼び戻し、前田山は謝罪した。しかし、協会は受け入れず、千秋楽に強制的な引退に追い込まれた。これをシールズ事件と云う。ちなみに前田山の横綱通算成績は24勝27敗25休。勝率はなんと5割を切っている。歴代横綱の中で勝率が5割を切っているのは前田山だけである。

【東京蔵前・仮設国技館にて15日間興行】
 1950(昭和25).1月、東京蔵前・仮設国技館にて15日間興行が行われた。仮設の蔵前・国技館はその後何度も改修された。天井はなく屋根の鉄桟が丸出しではあるが観客の熱気でいわゆる鉄桟を揺るがす大相撲が繰り広がれていった。昭和60年1月、現在の東京両国・新国技館開館時この雰囲気の伝統を残す為、蔵前同様天井を造らない事になる。

【羽黒山、照国、東富士の三人の横綱が相次いで休場】
 1950(昭和25).1月、羽黒山、照国、東富士の三人の横綱が相次いで休場し、横綱の権威が問題となり、横綱降格論が起こる。これをきっかけに横綱審議委員会が発足する。
 横綱はどんな成績でも大関に降格をすることはない。相撲を少しでも見る人なら知っている常識であり、明治以降の伝統でもある。この常識が崩されたのが1950年1月18日である。前年の11月場所に起きたシールズ事件により前田山は強制的に引退、横綱を見る目が厳しくなる中で迎えた1950年1月場所は目を覆いたくなるような場所となった。羽黒山、東富士、照國の横綱3名体制で場所は始まった。初日こそ3横綱揃って白星、大関は汐ノ海が吉葉山に敗れたものの他の3大関はきっちり勝って締まったスタートを切った。ところが、2日目に照國、東富士がともに敗れる波乱。ここまではよくあるが、3日目から東富士が左足首捻挫で休場、4日目からは照國も休場。信じられない光景はまだ続き、残った羽黒山に期待したいところだが、これも5日目から右足首を痛めて休場。3横綱が揃って序盤で消え去った。ファンは激怒。協会には非難が殺到し、本場所5日目の1月18日に緊急理事会をを開催し驚愕の決定をする。「横綱と言えど、2場所連続で負け越し、または休場の場合は大関の地位に落とす」。横綱も降格する-。この決定の直後から世論は一変する。横綱に対する怒り、非難はかき消され、一転して「横綱を守れ!」の大合唱となる。大騒ぎの中、責任を感じさすがに悪いと思った東富士が7日目から再出場、11日目からは羽黒山も土俵に戻ってきた。この騒動の場所で優勝したのは大関の千代の山。千代の山は新大関の前場所も優勝しており横綱昇進は間違えないケースだが、不幸にも混乱の最中。昇進は見送りとなる。千秋楽翌日の1月29日、協会は横綱降格ルールを白紙に戻すこと、併せて横綱審議委員会を設けることで事態はようやく沈静化に向かった。明治以降の「横綱は降格しない」という不文律は徳俵で残ったのである。

【大関・千代ノ山が10月場所、1月場所を連覇するも横綱になれず】
 1950(昭和25).1月、大阪秋場所千秋楽。大関・千代ノ山(出羽海部屋)13勝2敗にて優勝。 大関千代の山は前年の10月場所に続く1月場所を連覇するも横綱になれなかった(1月場所、3横綱すべて休場のためか?)。

【横綱審議委員会発足】
 1950(昭和25).5月、横綱審議委員会発足。初代委員長は酒井忠正。

【大阪で十五日間秋場所興行】
 1950(昭和25).9月、大阪で十五日間秋場所興行。

吉田司家の権限を変革】
 1951(昭和26).1月、春場所十四日目に、大阪で吉田司家代表と協議した結果、長年にわたる司家の権限を変革する。

優勝額が復活
 1951(昭和26).5月、前場所優勝の照國より優勝額が復活し、戦後初の掲額となる。

吉田司家の権限を変革】
 1951(昭和26).5月、年寄根岸家が廃家となる。

年寄高砂が、八方山・大ノ海・藤田山と渡米
 1951(昭和26).6月、年寄高砂が、八方山・大ノ海・藤田山と渡米する。

【武蔵川一行がブラジル相撲協会の招きで渡伯】
 1951(昭和26).8月、武蔵川一行がブラジル相撲協会の招きで渡伯する。

【武蔵川一行がブラジル相撲協会の招きで渡伯】
 1951(昭和26).9月、大阪で十五日間秋場所興行。

【力士幟(のぼり)復活】
 1952(昭和27).1月、明治42年1月の東京本所・回向院以来43年ぶりに力士幟(のぼり)が復活した。弓取式を連日行うことになる。

【進駐軍の占領が終わりメモリアル・ホール接収が解除される】
 1952(昭和27).4.28日、締結された日米行政協定に従い、日本国との平和条約が発効され、進駐軍(GHQ/SCAP)の占領が終わる。⇒メモリアル・ホールの接収を解除される。

【四本柱を撤廃して吊り屋根に四色の房を吊るす】
 1952(昭和27).9月、四本柱を撤廃して吊り屋根に四色の房を吊るす。青・赤・白・黒の房の色は方角を守る神4守神を意味する(東・青龍神)(南・朱雀神)(西・白虎神)(北・玄武神)。又、春夏秋冬の意味も併せ持って表現している。向正面東側:赤房、同西側:白房、正面東側:青房、同西側:黒房。
 現在の審判は土俵下にいるが、昭和5年までは土俵の上、柱前にいた。昭和27年(1952年)にこの柱を撤去し、現在のつり天井式にした。力士の接触事故を防ぐように進化させている。

明治神宮奉納全日本力士選手権大会復活】
 1952(昭和27).10月、明治神宮奉納全日本力士選手権大会復活する。

東冨士・朝潮の一行が沖縄へ初巡業
 1952(昭和27).11月、東冨士・朝潮の一行が沖縄へ初の巡業。

大阪で初の王座決定戦を興行
 1952(昭和27).12月、大阪において初の王座決定戦を興行。

【年4場所となる】
 1953(昭和28).1月、春・夏・秋・冬の四場所制となる。大阪を春(三月)、東京が初、夏、秋の年4場所となる。

【鏡里の横綱推挙に対し横審が正式決定を二日間も持ち越す】
 1953(昭和28).1月、1月場所後、優勝した鏡里を協会が横綱に推薦したが、段取りの悪さからか横審が正式決定を二日間も持ち越した。

【鏡里の横綱推挙に対し横審が正式決定を二日間も持ち越す】
 1953(昭和28).2.1日、NHKが日本で始めてテレビ本放送を開始

【横綱千代の山が横綱を返上し大関からやり直したいと申し出る】
 1953(昭和28).3月、3月場所の成績不振で休場した横綱千代の山が横綱を返上し大関からやり直したいと申し出る。まだ若い横綱であり、再起に期待する方針により横綱返上は認められなかった。 千代の山は歴史上初めて吉田司家にお伺いを立てず協会が独自に免許を授けた横綱である。

 1951年5月場所で14勝1敗の成績で優勝し、横綱に昇進したがその後はスランプに陥り優勝から遠ざかっていた。それでも52年中は全場所で2桁勝利を挙げて横綱としての最低限の責任を果たしていたが、53年は大崩れ。1月場所は3日目から扁桃腺炎で休場し、11日目から再出場して4勝4敗7休と不本意な成績に終わる。3月場所でも初日こそ平幕の時津山に勝ったものの、2日目から松登、二瀬山、清水川、若ノ花に4連敗を喫し休場に追い込まれる。真面目な千代の山は横綱としての責任を果たせていないことに悩んだ。彼が思わず部屋付き親方である元横綱・安藝ノ海の藤島に「横綱の名誉を傷つけたので横綱を返上し、大関からやり直したい」と漏らした一言が「横綱返上宣言」と受け取られ世間を騒がせた。結論から言うと師匠である元横綱・常ノ花の出羽海が説得して撤回し、収拾に向かった。協会側としては申し出を認めれば300年の伝統を誇る横綱の権威を失墜させることになり、当然受理は出来ない。とは言っても横綱降格騒動からわずか3年の出来事であり、横綱の地位が揺れた時代でもあった。この後、千代の山は1955年2連覇を達成し、57年1月場所では全勝優勝を飾っている。常人には想像も及ばないようなプレッシャーがかかる横綱の重みが垣間見られた出来事である。双葉山でさえ次のように語っている。
「私の現役時代を考えても、不調の場合、大関に下げてもらえるというなら、もう少し気楽に取れていたと思う」。(「千代の山横綱返上問題」)

【鏡里の横綱推挙に対し横審が正式決定を二日間も持ち越す】
 1953(昭和28).5月、テレビの実況中継放送開始。

【雪の全勝行進-大相撲史上最高の優勝パレード-】
 1954(昭和29)年、1月場所、戦争に召集され、その後は捕虜になり伸び盛りの5年間を失うなど数々の不運の宿命に苦しんだ吉葉山潤之助が最初で最後の15戦全勝優勝で、横綱昇進を決めた。千秋楽にあたる1.24日、東京の積雪は31.5㎝を計測する大雪となった。横浜では40㎝、立川も40㎝、浦和は43㎝が記録されている。この日は吉葉山の優勝を見ようと早朝から国技館は満員。吉葉山が千秋楽で鏡里を大相撲の末に破ると観客は大狂乱。表彰式では自然発生的に3回、満場の歓呼が起きた。当時の新聞は「いつもの千秋楽にはない感激の場面だった」と絶賛。国技館前には2台のオープンカーが用意されたが、既に全国から駆け付けたファンに取り囲まれている。立往生状態。車に乗り込み賜杯を手にファンに手を振る吉葉山。大雪の中、車はファンをかきわけながら浅草橋を抜け両国橋を渡ってから東両国の高島部屋に到着。車が到着すると割れるような祝福の歓声があがった。部屋では盛大に宴が行われた。この吉葉山の雪中パレードが史上最高の優勝パレードとして名高い。

【東京蔵前・国技館の改修が済み開館】
 1954(昭和29).9.18日、東京蔵前・国技館の改修が済み開館式挙行。同時期に、相撲博物館も併設した。木製鎌倉彫りの記念品が作られた。(裏書きは、蔵前国技館落成記念 財団法人大日本相撲協会)

【第一回伊勢神宮奉納相撲】
 1955(昭和30).3月、第一回伊勢神宮奉納相撲を内宮で行う。

【昭和天皇が戦後初の大相撲御観覧】
 1955(昭和30).5月、夏場所10日目 蔵前・国技館にて 昭和天皇の戦後初の大相撲御観覧があった。18年ぶりの天覧相撲。御製の句「ひさしくも 見ざりしすまひ 人びとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ」を残された。悲惨な戦争と戦後処理の終わった安堵感、平和の喜びが感じ取れる。御製の句碑が現・国技館正面横に立てられている。

【決まり手を68手と制定】
 1955(昭和30).5月、夏場所、決まり手を68手と制定する。

【1場所限りのナイター興行】
 1955(昭和30).9月、9月場所、打ち出し(終了時刻)は午後8時の1場所限りのナイター興行が行われ、横綱・鏡里が優勝した。13勝した松登と千代の山と引きわけた若ノ花が場所後に大関昇進するなど盛り上がった場所となった。しかし、評判はいまひとつで1場所限りの興行となった。

【前相撲制を復活】
 1956(昭和31).1月、昭和二十一年秋場所以来中絶していた前相撲制度を六日目から復活。

【1場所限りのナイター興行】
 1956(昭和31).9月、昭和天皇御製記念碑の除幕式。昭和三十年夏場所の天覧の際の御製「ひさしくも見ざりしすまひ人びとと手をたたきるる見るがたのしさ」(宇佐美宮内庁長官の書)。

【11月に九州本場所を設け年5場所となる】
 1957(昭和32).1月、この年より11月に九州本場所を設け年5場所制とする。本場所呼称は各月名を冠して1月、3月場所の様に呼ぶことにした。

【衆議院文教委員会での八百長質疑】
 「若瀬川 1957年(昭和32年)の大相撲八百長疑惑 国会招致された「チョンマゲ参考人」」。
 1957(昭和32).4.3日、衆議院文教委員会でのやりとりから抜粋。質問者は川崎秀二衆議院議員。答弁したのは参考人若瀬川(西前頭6枚目)。
川崎  相撲を愛するファンとして、今どうも五場所でも十二日目以後の横綱同士の相撲は半分が真剣で半分が八百長くさい、というのはつまり七番か八番か、幾らあるか、そのうち半分はほんとうで半分は八百長くさいという評判が今日あるのです。 (中略)場所によって星の借り貸しをしておる。こういうことがもっぱら言われておるのです。
若瀬川  僕ら相撲取りが今聞かれたような十三日目以後は八百長だとか、そういうことを聞くだけでも頭の痛くなるような、僕らの一番いやがることであります。それはその人が自分の心の持ちようによって、見るものも自然と変ってくるんじゃないかと思うのであります。この相撲は初めからくさいと思って見られれば、それはあるいは――くさくないと僕は断言しません。その人の気持の持ちようであります。しかし僕ら青年時代を相撲いちずに生きてきたものは、そういうことは聞くにたえないことであります。われわれ力士は天下の関取りでございますと言って大きな顔をして道を歩けるのも、日本古来の国技の相撲で、八百長というものが全然ないと断言できるから大きな顔をして歩けるのであります。しかしどういうのを指されたのか知りませんが、そういうことを奮われるということは、現在われわれ力士会の不徳のいたすところでありますから、僕は力士会へ帰った場合は糾明するつもりでおります。
川崎  今の信念を伺って、あなたに対しては非常に敬意を払いますし、そういうふうにだんだん全力士がなるような雰囲気を作って、ますます発展されるように祈るわけであります。きょうは質問でありますので、いろいろ非常に気持の悪くなることも申し上げなければならぬのは非常に残念でありますが、いろいろ問題点を洗ってみたいと思うのです。

●若瀬川(わかせがわ)泰二の経歴

・しこ名 若瀬川(わかせがわ)泰二(たいじ)
・1929年生まれ、兵庫県出身。
・所属 伊勢ヶ濱部屋。・幕内成績 352勝395敗19休。・最高位/小結。引退後は能弁で人情味あふれる人柄で人気の相撲解説者「若瀬川忠男」として活躍した。

【現役の出羽海理事長が自殺未遂事件】
 1957(昭和32).5月、国会での追及を苦に(?)、現役の出羽海理事長が自殺を図る。

 この年3.2日、国会の衆議院予算委員会で社会党の辻原弘市議員が灘尾弘吉文部大臣に対して相撲協会の財団法人としてのあり方を質問をした。これを受けた協会は迅速に反応。早速改革案を作成し3.23日に提出した。主な内容は以下の通り。☆寄付行為の改正。☆十両以上の力士に月給制を導入する。☆十両以上の力士を社会保険に加入させ、相撲協会の負担で民間保険会社の傷害保険にも加入させる。☆15場所以上協会に在籍した幕下以下の力士にも退職金を支給する。☆茶屋制度は存続。しかし、桟敷販売に規制を加える上に協会が茶屋に払っていた手数料を全廃する。☆桟敷席の当日販売分を増やす。4.3日、衆議院文教委員会でもこの問題が取り上げられ、協会から元幕内・出羽ノ花の武蔵川理事が理事長代理として出席した。元横綱・常ノ花の出羽海理事長は病気という理由で欠席した。この委員会では武蔵川理事が思いのほか優れた答弁をし話題にもなる。4.11日、文教委員会は相撲協会改善策として以下の内容を灘尾大臣に提出した。☆広く相撲を普及させる為の相撲専修学校の設立。☆茶屋制度をなるべく廃止する。☆桟敷席を椅子席に改める。☆力士の待遇改善。改革機運が盛り上がった矢先の5.4日、出羽海が国技館の割腹自殺を図った。幸いにも発見が早かった為に一命は取り止めた。自殺を図った短刀は相撲博物館から持ち出したものだった。遺書も応接室に置かれていた。自殺のはっきりした原因は不明だが、国会で取り上げられた問題が一因になっていると見られている。特に茶屋制度に関しては運営が出羽一門関係者によってほぼ独占状態であり、茶屋制度の廃止は彼らにとって死活問題になる。2012年1月現在でも案内所14番、白豊は当時の出羽海の常ノ花の長女が経営している。理事長は元横綱・双葉山の時津風が就任した。改善策の中で実行に移されたのは力士のサラリーマン化のみだった。まず大衆に相撲を広めるはずの相撲専修学校は相撲教習所という協会に入った新弟子を養成する機関にとどまった。茶屋制度なるべく廃止については、相撲サービス会社という謎の会社を立ち上げただけで既得権益は守られた。そして桟敷席を椅子席に改めるは、2階席に椅子席が導入され一定の前進があった。(「出羽海理事長自殺未遂事件」)。

【新理事長に時津風就任】
 1957(昭和32).7.5日、新理事長に時津風就任。

【ルール改正/大関が三場所連続負け越したときは降下することに決定】
 1957(昭和32).7月、大関が三場所連続負け越したときは降下することに決定。

【相撲茶屋名を廃止、相撲サービス株式会社設立】
 1957(昭和32).9月、相撲茶屋名を廃止し、一番から二十番までの番号に改め、相撲サービス株式会社を設立。

【協会運営審議会を設置】
 1957(昭和32).9月、協会運営審議会を設置、会長・菅礼之助。

【名古屋場所を設け年6場所制になる】
 1958(昭和33).1月、この年より7月に名古屋場所を設け年6場所制とする。

【財団法人大日本相撲協会が財団法人日本相撲協会となる】
 1958(昭和33).1月、財団法人大日本相撲協会が大日本の「大」をとって財団法人日本相撲協会となる。財団法人日本相撲協会が公表している寄附行為 第 2 章にこの法人の目的が記載されている。(相撲道の維持発展と国民の心身の向上に寄与することを目的とする)

【検査役の物言いの協議に短波マイクを使用】
 1958(昭和33).1月、十枚目以上の取組は、検査役の物言いの協議に短波マイクを使用することになる。

【行司部屋を独立】
 1958(昭和33).1月、行司部屋の独立。

【栃若時代が到来】
 1958(昭和33).3月、45代横綱・若乃花幹士の誕生により栃若時代が到来、テレビの普及に伴いその後、大鵬・柏戸の時代、北の湖・貴乃花の時代、千代の富士全盛の時代へと時代が移って行った。

【電光表示掲示板を新設】
 1958(昭和33).5月、電光表示掲示板を新設、十枚目以上の勝負を明示する。

【両国の旧国技館を日本大学に譲渡】
 1958(昭和33).6月、両国の旧国技館を日本大学に譲渡され「日大講堂」となる。

【第一回熱田神宮(名古屋)奉納横綱土俵入り】
 1958(昭和33).7月、第一回熱田神宮(名古屋)奉納横綱土俵入り。

【行司の年寄襲名制度を廃止】
 1958(昭和33).7月、行司の年寄襲名制度を廃止。

【木村庄之助・式守伊之助両家を年寄名から除く】
 1959(昭和34).1月、木村庄之助・式守伊之助両家を年寄名から除く。

【土俵の塩でゆで卵事件】
 1959(昭和34).3月、観客の一人が土俵の塩を持参したゆで卵につけて食べる。観客が土俵の塩を持参したゆで卵につけて食べるという信じられないような珍事があったのは1959年3月場所6日目。男性が東の塩に近づき、左手に持っていたゆで卵に右手でつまみあげた塩をかけた。そしてそのゆで卵を食べてしまった。観客の反応は大爆笑だったと伝えられる。都市伝説ではないかと思われるかもしれないが、これは実際にあったことで、相撲通には有名な話である。ところで男性はなぜ塩をつけに行ったのだろうか。シンプルに考えれば、ゆで卵を持ってきたが塩が足りずにあまりおいしくなくて、塩が土俵にあるから使わせてもらった解釈するのが自然である。1959年は今よりも塩の価値が高かったことは恐らく間違いないだろう。ただ、相撲を見に来られるくらいの人が手にいれるのも困難だったほどとも思えないが、筆者(1985年生まれ)は当時を知らないのでなんとも言えない。(「土俵の塩でゆで卵事件」)

【NHKに加え、民放4局でも大相撲中継】
 1959(昭和34).3月、夢の時代!NHKに加え、民放4局でも大相撲中継。(「NHK、民放4局が大相撲中継!」)

【横綱一代年寄制廃止】
 1959(昭和34).9月、横綱一代年寄制廃止。但し、引退後五年間は年寄名跡なしでも年寄として委員待遇を受けることができる。

【行司定員制実施】
 1960(昭和35).1月、行司定年制実施と共に、行司定員制も実施。副立行司の廃止。

【決まり手を70手と改定】
 1960(昭和35).1月、決まり手を70手と改定。

【若者頭、世話人、呼出、床山、職員の定年制決定】
 1960(昭和35).1月、若者頭、世話人、呼出の名が番付より消える。若者頭、世話人、呼出、床山、職員の定年制も決定。

【年寄定年制が決定】
 1960(昭和35).1月、年寄定年制が決定、施行は翌昭和三十六年一月一日とする。

栃若時代
 栃錦と初代若乃花の「栃若時代」を迎えた。栃錦は177センチ132キロ、技能派。 若乃花は179センチ107キロ。オオカミと呼ばれ、鋭い変化技を持ち味とする。小兵の二人がバッタバッタと力士たちをなぎ倒す様に、観客は熱狂。テレビ中継が始まると、彼らの取り組みを見るべく、人々は画面に身を乗り出した。世相はちょうど高度経済成長期にさしかかるころ、日本が上り調子の時代にぴったりと合致した、名力士の活躍となった。

【名勝負物語/栃錦ー若乃花】
 1960(昭和35).春、東横綱の栃錦(34歳)ー西東横綱の若乃花(31歳)が千秋楽で全勝対決。歴史に残る名勝負となった。

【柏鵬時代時代】
 春場所の大鵬(19歳)は前頭13枚目、五月場所では4枚目。柏戸(21歳)は春場所小結、五月場所は関脇。この頃から柏戸が引退した昭和44年までを「柏鵬時代」という。「栃錦若乃花時代」(栃若時代)はラジオ時代だったが、「柏鵬時代」はテレビが全国的に普及した時代に牽引した。

 栃若時代のあと柏鵬時代を迎える。大鵬はウクライナ人コサック騎兵の息子、183センチ、157キロという恵まれた肉体と、堅実で冷静な取り組みが持ち味。 そのライバルが柏戸で、188センチ143キロ。 速攻を好む豪快な取り口。子供や女性、広い層に好まれた大鵬をさして「巨人・大鵬・卵焼き」。通を自認する男性に好まれる柏戸をさして「大洋・柏戸・水割り」。そんな言葉も生まれた。こちらも高度成長期を象徴する黄金の名カードとして、伝説となった。

 大鵬幕の内通算746勝144敗、柏戸599勝240敗。朝潮は431勝248敗、若秩父は367勝398敗。

 大鵬は先代貴乃花に敗れて引退、その貴乃花は千代の富士に負けて引退、千代の富士は貴花田(後に貴乃花)に負けて引退という、因縁じみた幕引き劇。

【昭和天皇・皇后おそろいでの天覧相撲】
 1960(昭和35).5月、昭和天皇・皇后おそろいでの天覧相撲。

【国技館の優勝額満額整理】
 1960(昭和35).9月、国技館の優勝額満額となり、先に掲額されたものより順次下ろす。

【勝負検査役は弓取式終了まで席にいることになる】
 1960(昭和35).9月、弓取式終了まで勝負検査役は席にいることになる。

【財団法人設立三十五周年記念式典を国技館にて挙行】
 1960(昭和35).12月、財団法人設立三十五周年記念式典を国技館にて挙行。

【力士の控え座布団の定め】
 1961(昭和36).5月、力士の控え座布団は、各個人用のものをやめる。

【片男波独立騒動】
 1962(昭和37).5月、片男波独立騒動に巻き込まれた力士が一時廃業状態に。元関脇・玉乃海の片男波と元大関・佐賀ノ花の二所ノ関の間に弟子移籍を巡る問題が勃発した。1961.1月場所後に引退し独立した片男波は二所ノ関から「独立後一年経過したら預り弟子を連れて行って良い」という約束が交わされていたと主張する。預り弟子とは引退後独立を視野に入れる関取が現役中から弟子を集め、現在の師匠の下に預け、独立後に引き取る弟子のことである。片男波も現役時代から弟子を集め、その数は20人以上となっていた。自分が連れてきた弟子には四股名に自身の現役時代の四股名から「玉」の字を入れていた。ところが、二所ノ関は弟子の移籍に消極的で約束が守られていないとして62.5月場所直前、弟子に引き揚げを呼び掛け19名が応じた。強硬手段に二所ノ関も反発し、関取2名と期待の幕下である玉兜、玉乃島の計4名と6名の未成年力士を除いた9名の廃業届を提出した。本来の手続きは師匠が協会に届けを提出し理事会の承認を得なければならない。今回の移籍は本来のルールに乗っ取ったものではない。しかも場所直前のタイミングでだまし討ちに近いものを二所ノ関は感じたのだろう。ではなぜ二所ノ関は移籍を認めなかったのだろうか? 20名近くも引き抜かれれば、部屋へのダメージは大きい。部屋から活気は無くなるし、力士の頭数だけ協会から支給される力士養成費は部屋の貴重な収入だ。だが、実は二所ノ関が移籍を認めなかったのは2名の関取と期待の幕下である玉兜、玉乃島の計4名のみで残りの15名に関しては認めていた。二所ノ関は「4名は2年間待つように」と主張した。二所ノ関は1964年の理事長選を目指しており、2年後の選挙での2名の関取に加えそれまでには関取になっているだろう両幕下力士の4票を確保しておきたかったと思われる(当時は関取以上に投票権があった)。さて、土俵に上がれなくなった9名の力士を何とかして救済しようという動きが活発化し出したが、既に本場所が始まっている状況。二所ノ関が折れる形で本場所5日目にようやく復帰願いが協会に提出され、9日目から復帰が認められた。地位に関しては現地位より10枚下げられ、二所ノ関、片男波の両親方は謹慎も併せて発表された。一応の決着はしたものの現役力士を巻き込んだ大混乱となった。(「片男波独立騒動」)

【名勝負物語/柏戸○(寄り切り)大鵬●戦】
 1963(唱和38).9月、大相撲秋場所の千秋楽、柏戸、大鵬の横綱同士の全勝相星決戦になった。それまで4場所連続休場の柏戸は「勝ち越せれば」と云われていた。ところが蓋を開けてみれば初日から破竹の14連勝。一方の大鵬も14連勝。5月場所で初めて6連覇を達成し向かうところ敵なしといった感じだった。大鵬圧倒的有利の下馬評を覆して、柏戸が寄り切って勝った。優勝後の柏戸の男泣きがとても印象的。

【作家・石原慎太郎氏「八百長発言」で謝罪】
 1963(唱和38)年、作家の石原慎太郎が、63年秋場所千秋楽の大鵬―柏戸戦について新聞紙上で八百長と発言。協会は名誉毀損(きそん)で告訴し、石原慎太郎の謝罪を受けて取り下げた。

 当時、ケガや病気続きで休場の多かった柏戸に対して解説者の元力士・玉の海が「柏戸に勝たせたいねぇ」と発言するなど、柏戸に対して同情する空気ができていた。休場から再起をかけた秋場所千秋楽で、柏戸が大鵬との取り組みを制して全勝優勝を果たし、日本中が感動の渦に。しかしこの柏戸の優勝決定戦後、当時作家だった石原慎太郎氏が新聞に「あれは八百長ではないか?」という文章を掲載した。当時の時津風理事長が対戦相手の大鵬を問い詰めたが、大鵬自身は「絶対に八百長はやっていない」と断言した。これを受け日本相撲協会は石原慎太郎氏を名誉毀損で告訴する準備を始めたが、石原氏が謝罪することで相撲協会は告訴を取り下げ、この件は決着を一応の決着をみた。有名人が大相撲の八百長疑惑について公に口にしたのはこれが史上最初ではないだろうかと思われる。ちなみにこの1963年の大鵬-柏戸戦は、高鐵山という元力士が「八百長」という自著の中で「初めて大掛りな注射相撲(八百長相撲)をしたのが柏戸さん」と記している。真相はどっちなのか…。  

 大相撲の八百長問題に関して、石原慎太郎東京都知事が2月4日に「今さら大騒ぎするのは片腹痛い。私の知っているかぎり相撲はそういうもの。(八百長は)昔から当たり前のこととしてあったんだよ」と発言した。「歌舞伎の大見えを堪能して見るみたいに、だまされて見て楽しんでればいいんじゃないか。そういうものだ、相撲ってものは」。相撲が国技とされていることに対しても、「日本の文化の神髄である国技というのは 、ちゃんちゃらおかしい。私はそれ(八百長)を知っていたから横綱審議委員を固辞した。ならなくてよかった」。その石原慎太郎氏は、実は過去に大相撲のある取り組みを「八百長」と発言し、物議を醸したことがあった。

【佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒死事件】
 1963(昭和38).11.11日、11月場所2日目、フグを食べた6名が中毒になり、うち2名が死亡。11月場所の開催地・福岡はフグの名産地として知られている。佐渡ヶ嶽部屋の三段目以下の力士6名がフグを調理し夜のちゃんことして食べたところ中毒症状が出て6名が病院に運ばれた。12日に1名、14日に1名と計2名が亡くなった。6名はいずれもこの日のちゃんこ番を務めていて、他力士が食べた後に毒がある内臓を鍋に入れて食べてしまった。後の関脇・長谷川もちゃんこ番だったが、腹痛で消火の良いうどんを外食していて難を逃れた。場所中の悲劇に勝負検査役だった師匠の元小結・琴錦の佐渡ヶ嶽は検査役を辞した。亡くなった力士はいずれも18歳。悔やまれる死である。(「佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒死事件」)。

【部屋別総当り制の実施】
 1965(昭和40).1月、部屋別総当り制の実施(一門系統別の廃止)。

【物言い制改革】
 1965(昭和40).1月、検査役の物言い協議に使用していたマイクをやめ、協議の経過を正面検査役から発表係を通じて説明することになる。

【柏鵬拳銃密輸事件】
 1965(昭和40).5月、5月場所、廃業した元力士の草深朋明(元大関若羽黒朋明)が拳銃を不法所持し、暴力団関係者に売却した容疑で逮捕された。草深の供述に基づき立浪部屋などを捜索した結果、拳銃3丁が押収された。

 5.11日、九重親方(元横綱千代の山雅信)が拳銃1丁と実弾5発を持って警察に出頭。「弟子から預かった」と証言し、前頭3枚目の九重部屋の北の富士勝昭が拳銃を不法所持していることが判明する。捜査当局は本場所中であったことを考慮し相撲協会に調査を求めた。相撲協会による調査の結果、北の富士の他に二人の現役力士、横綱柏戸剛と横綱大鵬幸喜が拳銃を不法所持していることが判明する。
5.24日、本場所終了後、柏戸が、6.1日、大鵬がそれぞれ警察に出頭。二人はそれぞれ「拳銃は隅田川に捨てた」と証言する。両横綱の証言に基づき警察は隅田川を捜索するが拳銃は発見されなかった。警察は九重、柏戸、大鵬、北の富士と密輸入に関与していた豊国範の5人を書類送検した。6.15日、柏戸・大鵬の両横綱が罰金3万円(現在の貨幣価値にして約15万円)の略式起訴処分を受けた。相撲協会からの処分はけん責処分にとどまった。
 協会の2枚看板である現役横綱の柏戸、大鵬の2名が拳銃を密輸し、書類送検されている。発端は5月場所3日前の1965年5月6日、元大関・若羽黒の草深朋明氏が拳銃を不法所持していた上、暴力団にも売り渡していた容疑で逮捕される。この時点で草深氏は既に協会員ではない立場であったが、事件は思わぬ方向に角界に飛び火する。5月場所3日目にあたる5月11日、元横綱・千代の山の九重こと杉村昌治氏が拳銃1挺と実弾5発を持って出頭し取り調べを受ける。弟子から預ったという証言し、九重部屋の現役力士が拳銃を不法所持していることが発覚。この時点では捜査当局は場所中である事を考慮し、協会による独自の調査を求めた。協会の調査の結果、他に現役関取2名が拳銃を所持していた事が判明。それが柏戸、大鵬の両横綱であった。現代なら発覚した段階で暫定的に出場停止処分を受け、場所後に引退に追い込まれるパターンだろうがこの時代は元気とは言えないまでも翌日以降も土俵に上がり続けている。5月場所では2場所連続全休明けの柏戸は13日目に大鵬との一番を制するなど9勝6敗と最低限の成績は残したが、大鵬は同じ9勝6敗でも酷評され、ついには元横綱・双葉山の時津風理事長からも「事件は忘れて集中しろ」と叱咤される。場所が終了し、まず5月24日に柏戸こと富樫剛氏が出頭。次いで6月1日に大鵬こと納谷幸喜氏も出頭した。両横綱とも拳銃は隅田川に捨てたと述べ、証言に基づいて捜索が行われたが、発見されなかった。6月15日、両横綱は罰金3万円の略式起訴処分を受けた。この他に元横綱・千代の山の九重、豊国、北の富士が書類送検され一応の決着がついた。協会からの処分は譴責(事実上のお咎めなし)で済んだ。ちなみに世論はどうだったかと見ると実に時代を感じさせ興味深い。「現役横綱2人がピストル不法所持!」という見出しの記事は現在なら一面トップ記事だが、当時はスポーツ新聞の相撲欄に片隅に約10行の扱いであった。(「柏鵬拳銃密輸事件」)。

【名古屋・金山体育館より愛知県体育館に会場変更】
 1965(昭和40).7月、名古屋・金山体育館より愛知県体育館に会場変更。

【力士一行四十八名がソ連興行
 1965(昭和40).7月、出羽海取締役を団長に、大鵬、佐田の山、柏戸、栃ノ海の四横綱、三大関ら幕内力士一行四十八名は二十五日ソ連へ出発。モスクワハバロフスク公演。⇒八月十日帰国。

【勝ち力士の手刀】
 1965(昭和40).7月、勝ち力士が行司から賞品を受ける場合、必ず手刀を斬って受ける。。

【九重独立騒動】
 1967(昭和42).1月、九重が出羽海部屋から独立も一門からは破門。

 常陸山を開祖とし角界随一の超名門である出羽海部屋。かつてこの出羽海部屋は「分家独立は許さず」という不文律の下で一致団結を保ってきた。その不文律にチャレンジしたのが元横綱・千代の山の九重である。1月場所千秋楽翌日、意を決した九重は大関・北の富士を含む13名の力士を引き連れ独立を申し入れた。鉄の結束を誇っていた出羽海部屋の親方たちは激怒した。特に大関・北の富士は九重が入門させた事に違いはないが、独立させろ、大関よこせとは何事かということで猛反発を浴びた。九重が独立を決意した動機は自らが継承するはずだった出羽海部屋の継承が絶望的になったからだと云われている。当初は周囲も6回の幕内最高優勝を数えた実績充分の九重と考えていた。ところが、元幕内・出羽ノ花の武蔵川の巧みな策略により、九重に出羽海継承の芽は断たれた。1967年1月31日、独立を申し入れた九重に武蔵川から出羽海へと名跡を代えた総帥から以下の裁定が下った。「部屋の独立は承認する。ただし、3人は親が反対している。あとは連れて行って良い。その代わり今後は一門ではない」。予想外の結果に出羽海部屋大広間はどよめきに包まれた。九重部屋に移籍したのは大関・北の富士、幕内・禊鳳、十両・松前山、幕下・若狭山、千代の海、三段目・見崎山、松前洋、序二段・千代櫻、千代の岩、千代の花の10名。10名は九重部屋力士として1967年3月場所の土俵に上がり、北の富士は優勝、松前山も十両優勝で九重部屋は幸先良いスタートを切った。一門を破門された九重部屋は高砂一門に拾われ今に至っている。(「九重独立騒動」)。

【内閣総理大臣賞が新設される】
 1968(昭和43).1月、内閣総理大臣賞が新設された。幕内優勝力士に贈る。

【理事、監事は立候補制】
 1968(昭和43).2月、理事、監事は立候補制とし、連記制を単記制に変更する。

【取締制度を廃止】
 1968(昭和43).2月、取締制度を廃止。

【勝負検査役の名称を、審判委員と改称】
 1968(昭和43).2月、勝負検査役の名称を、審判委員と改める。

【勝負検査役の名称を、審判委員と改称】
 1968(昭和43).12月、時津風理事死去、国技館にて協会葬。新理事に武蔵川就任。

【横綱審議委員会委員長に舟橋聖一就任】
 1969(昭和44).1月、横綱審議委員会委員長に舟橋聖一就任。

【勝負判定についてビデオを参考資料として使用】
 1969(昭和44).5月、勝負判定についてビデオを参考資料として使用する。

【海乃山ビンタ事件】
 1969(昭和44).5月、5月場所10日目、敗れた海乃山が勝った前の山にビンタ 。上位キラーとして60年代の上位の土俵を沸かせた元関脇・海乃山が物議を醸したのが前の山戦。取組は前の山が寄り切って海乃山を破った。勝負がついた後に黒房下で海乃山が前の山の顔をビンタした。協会から直接的な処分を受けることはなかったものの、江馬盛さんが読売新聞社の『大相撲』六月号で「土俵上の作法の乱れについて今場所とくに感じたのは、海乃山が前の山に寄り切られて黒房下で頬をパチンとひっぱたいた」と指摘した。世に「海乃山ビンタ事件」と云う。

【大関降下規定改正】
 1969(昭和44).7月、大関は連続二場所負け越して関脇に降下、翌場所十勝以上で大関に復帰できると改正する。

【“大鵬”の一代年寄名跡が特別に認められる】
 1969(昭和44).8月、大鵬の三十回優勝の功績に対し、“大鵬”の一代年寄名跡を特別に認め九月場所初日土俵で表彰することが決まる。

【蔵前国技館の改修工事着手】
 1970(昭和45).1月、1月場所後、蔵前国技館の改修工事着手。

【力士の控え座布団復活】
 1970(昭和45).3月、力士の控え座布団復活する。幕内のみ。

【仕切り線の間隔を10センチ広げて70センチに改定】
 1970(昭和45).5月、仕切り線の間隔を10センチ広げて70センチに改定。

【取組編成要領を制定】
 1971(昭和46).6月、取組編成要領を制定。幕内下位でも大きく勝ち越した力士を横綱、大関と取り組ませることができることとした。

【第一回全国中学校相撲選手権大会を蔵前国技館にて開催
 1971(昭和45).8月、第一回全国中学校相撲選手権大会を蔵前国技館にて開催する。

北の富士祝儀事件
 1971(昭和46).11月場所、横綱北の富士が暴力団関係者からの懸賞金などを受けとっていたとして戒告処分。事件そのものについても文部省(当時)が警告文書を出すなど、土俵外のトラブルが発生した。土俵でも一人横綱の最初の場所こそ優勝を果たしたが、その後は不振が続いてしまう。

無気力相撲事件
 1972(昭和47)年、3月場所で、大関同士の前の山と琴櫻の一戦が無気力相撲と判断され、両力士注意処分を受けた。






(私論.私見)