相撲史その2、武家の時代の相撲史


 更新日/2024(平成31→5.1栄和改元/栄和6).2.12日

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 2015.12.01日 れんだいこ拝


 相撲は武士が鎧(よろい)を着たまま戦う、通称「武者相撲」なる実戦訓練の一種で、「戦争ごっこ」のようなものだった。

 武家の世になるやむ相撲は盛んになった。「吾妻鏡」所載の相撲記事。鶴岡八幡宮において放生会などの祭礼に奉納される相撲の記事が目につく。頼朝の臨席もあり、その頼朝が武士や相撲人を召しては相撲見物を楽しんだという次の記事がある。
 建久二年三月小三日、辛亥、鶴丘宮の法会、童舞十人箱根の垂髪、有り、又臨時祭、馬長(あげうま)十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番、幕下御参宮…(巻十一)

 建永元年六月小二十一日、辛未、御所の南庭に於て相撲を覧る、相州、大官令等候せらる、南面の御簾を上ぐ、其後各庭の中央に進みて、勝負を決す、朝光之を奉行す、向後相撲の事を奉行す可き由と云々。
 一番  三浦高井太郎   三毛大蔵三郎鎮西の住人
 二番  持波多野五郎義景   大野藤八
 三番  広瀬四郎助広相州の侍   石井次郎義盛の近臣の侍、
 禄物有り、兼ねて廊根の妻戸の間に置かる、羽、色革、砂金等之を積む、事終りて後、左右に之を賜はる、 勝負を論ぜず、悉く以て之を下さる、負方逐電すと雖も、之を召し返さると云々、(巻十八)

 鶴岡八幡宮における「競馬・流鏑馬・相撲」は、政権を担った頼朝が東国武士を一ヶ所に集結させ、 頼朝自らの主導によって奉仕させるという、いわば主導権の発露と想像される。これはその後の将軍にしても変わらない。なお、鶴岡八幡宮は、康平6年(1063)源頼義が前九年の役で阿倍氏を追討し、奥州を平定して鎌倉に帰った際に、 鎌倉郷由比の地に石清水八幡宮の分社(若宮八幡)を勧請したのが始まりとされる。源氏の氏神とされるが、これは義家(頼義の息子)が石清水八幡宮社前で元服したのが機縁である。 その後、頼朝が鎌倉に入って現在の地に八幡宮を移し祀ったものであるという。この八幡宮で行われる放生会は、石清水八幡宮でのそれを模したもので、 奉納される相撲も同じく石清水八幡宮と同様に行われた。石清水八幡宮での相撲は、相撲節を模倣したものと考えられていることから、 鶴岡八幡宮での相撲も、相撲節の様式を継承したものといえる。

 伊豆に流されていた頃の頼朝の前で、余興の相撲が行われたというのは、「曾我物語」にあるエピソード。
 頼朝はたいそう落ち込んでいた。それを元気づけるべく、武士たちが考えたのが「巻狩に連れ出すこと」だった。 その宴会の中で、若い連中に相撲を取らせようという話になった。幾番となく取り進んでいくうちに、登場したのは俣野五郎景久。 この男は「すまひの大番つとめに都へのぼり、三年のあひだすまひになれ、一度も不覚をとらぬものなり。其ゆへに院・内の御めにかゝり、日本一番の名をえたる」大物である。 31番を勝ち抜いた。しかしその行く手を阻まんものと、河津三郎祐泰が立ち上がった。河津は力一方で、技も何もない。 いざ両人闘ってみると、河津は俣野の両腕を引っ掴み、そのまま捩じって膝を着かせてしまった。俣野は、「木の根に躓いた」とてもう一番挑んだが、 今度は目よりも高く差し上げられ、そのまま叩きつけられてしまったのであった。
(ここまでの原文)
 さて河津(これは巻狩の主催者であるところの伊東祐親の嫡男)は男を上げたが、帰る途中、伊東氏と所領をめぐって争っていた工藤氏(同族である)に討たれ殺害された。 これが発端となり、河津の息子たちである曾我兄弟の仇討ちに発展する。

 河津の相撲は「ちからは強くおぼゆれども、すまひの故実は候はず」という不細工なものだが、 「すまふはちからによらず、手だに勝ればみぎはまさりのあい手をうつもの」という記述もあり、 加えて「聞つるに似ず、さしたるちからにてはなかりけり」と河津に言われた俣野は、前述の通り京で修行して「日本一番」という称を得たという。 とすれば、京における相撲は、「相撲節」を通して洗練された格闘競技であり、俣野はその練り上げられた技術を自家薬籠中のものとした名力士であったのであろう。 また、「古今著聞集」には、長居という東国最強の相撲人との対戦を頼朝に命ぜられた畠山重忠が、 金剛力を振るって長居の肩を砕いたという記述がある。

 これらから窺われることは、勝者の「(組み打ちに至る格闘的な)相撲」と敗者の「(京で洗練された技芸的な)相撲」との間の(大袈裟に言えば)「異種格闘戦」であったことであろう。 要するに、「相撲」は二極分化してしまったのである。そして、前者の「相撲」は、「武芸」として発展するでもなく、「組み打ち=格闘」に「成り下がって」しまった。 執権北条時頼が「近年、相撲などの武芸が廃れ」ていると慨歎し、建長 6年(1254)閏 5月 1日に、武士を引っ張り出して相撲大会を催したという記事もあるのだが、 武士・御家人自らが相撲をお勤めすることは殆どなくなり、代わって御家人が進めた相撲人(それも技芸を持った相撲人)によるお勤めが多くなった。 さて、祭礼における相撲では、技芸としての相撲を必要とした。前述のような鶴岡八幡宮での相撲人は、鎌倉初期には大体東国の武士であった。 しかし、数十年も経つと武士でない相撲人も見られるようになり、終には専門の職人たる相撲人が占めていくようになったものと考えられている。 平安時代、相撲節に出た相撲人は、節の後も京にいて、貴族の娯楽のために召し出されて相撲を披露したり、 寺社の祭礼の相撲を勤め上げたりしていたが、相撲節が絶えた後も完全に失業したわけでもなくて、 御家人となる者もあれば、寺社に雇われて(元来寺社の相撲は国家が集めた相撲節のための相撲人を「流用」していたが、 その相撲人を集める機構が瓦解し、再建努力が払われた形跡もないらしいため、寺社自らが調達する必要が出た)相撲人として働く者もあったらしい。 その後者が「職人たる相撲人」の源であろうと思われる(京都辺りの寺社に雇われて奉納相撲を勤めた相撲人集団を「京相撲」や「京都相撲」と呼んだ)。 武士の側から見ると、技芸としての相撲を自分たちが演ずることはなくなり、せいぜい鍛錬のために行うぐらいのものとなった。 逆に、「生年十二ノ春ノ比ヨリ好デ相撲ヲ取ケルニ、日本六十余州ノ中ニハ、遂ニ片手ニモ懸ル者無リケリ」と称えられる、 自称「薩摩氏長(仁明天皇( 833~50)の頃の相撲節の強豪・伝説の相撲人)ガ末」の武士・妻鹿孫三郎長宗などの記事が「太平記」に出てくるが、 彼は日本全土で相撲を取ったのではなく、「それぐらい物凄い強さを持った武士なのだ」という意味である。兎も角も、武士の側からすれば、相撲なる芸能は「見るためのもの」であったようだ。

 
 1189(文治5).4.3日、源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮にて将軍上覧相撲を行う(吾妻鏡)。将軍家上覧相撲の始まり。 さながら武士による総合スポーツイベントで、 相撲だけでなく、流鏑馬、古式競馬も併催された。

 
 1257(正嘉元).10.15日、宗尊親王、北条時頼の上覧相撲が行われた(吾妻鏡)。

 
 室町時代(1333年)~(1573年)、足利将軍家もしばしば相撲見物を行っている。この頃から、諸大名が相撲を見物するようになる。また、相撲を主題にした能楽/狂言が武家や民衆の間で好まれるようになる。足利時代末頃職業相撲が発生した。
 時代は足利氏の天下となるが、足利将軍の上覧相撲も、大名の相撲見物も、よく行われた。 その場で相撲を取ったのは、やはり京で活動していた相撲人であり、さらに加えて諸国から上ってくる相撲人であったろう。 このような場での相撲に出ることによって、あわよくば禄にありつけるからである。 織田信長も相撲は好きだった。これは有名な話である。信長は、近江国の相撲人を集めた相撲をよく行い、 後には近江国と京の相撲人を召して行っている。その数は数百人から千数百人になる。ただ、その顔触れは大部分が固定されている。 しかも、特に優れた相撲人は、御家人にされたり、知行を与えられたりなどして、召し抱えられたのである。 この頃になると、豊臣秀吉をはじめとし、相撲人を抱えるのはよく見られるようになっていたし、公家の中にも抱え力士を持つものが存在したという。 大名にとっても、相撲はやはり見物するもので、そのために優秀な相撲人を召し抱え、育てた。相撲人は、抱えられることによって「禄にありつき」、安定した収入を得られるようになる。 こうして、近世の相撲史上何かにつけ話題となる「大名抱え」「抱え力士」の基礎と思しきものができていった。

 
 1570(元亀元).3.3日、織田信長が狛江・常楽寺にて相撲上覧を行った(信長公記)。鎌倉時代から戦国時代にかけては武士の時代。武士の戦闘の訓練として盛んに相撲が行われた。織田信長は深く相撲を愛好し、元亀・天正年間(1570~92年)に近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えた。この時代から四股名が登場している。力士がプロとして各地を巡業し食べて行けるようになった。

 
 天正6年(1578年)2月29日織田信長の上覧相撲が安土城にて行われた。信長亡き後も豊臣秀吉、秀次の上覧相撲が行われた。

 
 1596(文禄5)年、関西の職業相撲の団体約10名が九州・筑後に巡業。(義残後覚)

 江戸時代から変わらぬ姿
 大相撲は、長い歴史の中で次第にルール化され、洗練され、様式化されてスポーツとしての形態を整え、我が国固有の伝統文化となったのである。土俵入り、番付表、化粧廻し、髷、着物、相撲の取組。江戸時代と変わらぬ姿を、すぐそこで見ることができる大相撲。

 歌川豊国(三代)画「東ノ方土俵入之図」弘化2年(1845)
※弘化2年(1845)十一月の東方幕内力士による土俵入りが描かれています。

 日本の文化に深く根ざし、いつも人々の生活とともにあった相撲。相撲には歴史・文化・神事・競技など様々な側面があり、それぞれ奥深い要素を持っている。戦国時代より登場した行司、江戸時代より続いている土俵入り、化粧廻しなど、長年続いてきた文化を、会場で是非ご体感ください! 角界最高位の横綱の土俵入りには、五穀豊穣と平安の祈念が込められている。横綱にはそういったことから、「心技体」で、すべての力士の模範となり得る威厳で、しかも高貴な品格が求められてきた。
 江戸時代に入ると 京都、江戸、大阪に於いて興行としての勧進相撲が盛んに行われる様になッた。本来、勧進相撲とは神社仏閣の再建や修繕費用が必要な時、相撲の興行を行い興行収益の一部をそれに充てる事を目的にした。当時、各地に相撲を生業(なりわい)とする、いわゆる力自慢の職業的な力士集団が生まれており、全国各地での寄進をする勧進相撲に参加した。江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになり、興行目的の相撲も勧進相撲と呼ぶ様になったのは幕府寺社奉行の許可を必要としたといういわば特殊な事情があった故である。

 興行を行うと太鼓櫓(やぐら)を立て早朝から太鼓を鳴らす、近隣に力士と言う大男が闊歩し人の出入りが激しくなる、その為 どうぞ御免下さいと言う意味の奉行の許可を必要とした。現在でも大相撲の巡業の主催者を勧進元と呼んでおります。許可が下りた事を祝う事を御免祝いと言い太鼓櫓を立て蒙御免の立て札(御免札)を立てる事ができる。(御免札)は興行が許可された証です。現在でもこの慣習が引き継がれ大相撲の本場所前には所管の関係各所の許可を得た後 必ずこの御免祝いを行い所轄の自治体関係、消防、警察関係者、保健所、報道関係者を招いて場所開催の日程を報告します。基本的に御免祝いが済んではじめて 太鼓櫓の設営、桟敷の構築、土俵造り等 興行準備作業に入れます、場所直前に大きく相撲字で書かれた御免札を立て初日を迎える。この様な点からも相撲という競技の特殊性と歴史の重みが感じられる。
 前述の「京相撲」若しくは「京都相撲」の如き専門的相撲人集団は、京都近辺の寺社で奉納相撲が行われるときには当然雇い入れられ、 これを勤め上げるのだが、京以外の寺社にも招かれることがあった。相撲節の故実に通暁していることを買われてであり(誰も彼もが直接相撲節相撲人との連続性を持っているというわけではないが)、 鶴岡八幡宮や出雲大社などの大寺社の記録に窺うことができる。但し、出雲の場合は、元来は出雲国内から相撲人を召し出していたのだが、 恐らく様式の整備を目的としたのであろう、態々京都から相撲人を呼んで行うようになったという。その「京相撲」を雇うのに費用が嵩んで、 終には訴訟沙汰に発展したこともあった。こうして、「相撲を見せる」ことを専門とした、高度かつ専門的な芸能者集団が成立したものと考えられる。

 兎に角、専門的相撲人が擡頭したことで、つまり「見る」ためのものとしての相撲が確立してくると、 いよいよ勧進相撲から現代の大相撲に繋がる、「銭を取って客の観覧に供する」興行へと話が進む…かと思えば、そうでもない。 元来「勧進」とは「営利」を目的とするものではないのだから。

 抑々「勧進」の目的とは、まず寺・神社・橋などを建てる際に資金を集めるための募金活動、つまり喜捨による功徳を説き、それを募ることであった。 ところが、資金調達の効率化の側面を持つ変化が生じた。荘園などにおける租税取りや、芸能の見物料徴収がそれである。 相撲は無論後者に入る。「新形態の」勧進、つまり大衆受けしない限りは銭は取れない。そのためには技芸が極めて高度でなければならず、 自然、その技芸を演ずる者は、専業化して専一に芸を磨くことになったろうし、収入を得て生業とするを得たろう。 田楽などの勧進興行は13世紀の末頃には見られるが、相撲の場合、観衆から銭を取って行う興行の記録は殆ど見当たらず、 14世紀になってやっと見つかる(七十一番歌合)。しかし、営利興行の印象が濃い「勧進相撲」の語は、案外早く15世紀には出てくるのである。 「看聞日記(伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記)」応永26年(1419)10月の条である。

三日。晴。(中略)抑法安寺為造営有勧進相撲。今夜始之。可有三ヶ月云々。他郷者共群集。 密々見物ニ行。薬師堂内搆桟敷。椎野。三位。重有・長資朝臣相伴。深更相撲了。勧進相撲目珍事也。此間諸方有此事。(後略)
四日。雨降。(中略)相撲依雨延引云々。
五日。晴。(中略)彼相撲今夜千人許群集云々。及暁天取之。不見物無念也。
六日。晴。相撲密々見物。三位。重有。長資等朝臣。慶寿丸。寿蔵王。梵祐喝食等相伴。 今夜相撲更不寄。無人也。御所侍善祐取之。負了。而善祐申所存。勝負相論。行事批判猶不用之間。 行事無興。其後早出了。其以後無指相撲。深更事了。後日善祐突鼻了。

 しかも、ここに出る「勧進相撲」は、本来の「勧進」に近く、資金集めの目的は、「法安寺為造営(法安寺造営のため)」であった。 「勧進相撲目珍事也(勧進相撲めづらしき事なり)」ではあるものの「此間諸方有此事(この間諸方にてこの事あり)」ともいうから、「勧進相撲第一号」ではないとはいえ、 まだ始まって間もないものと考えられる。この勧進相撲に出場した相撲人がどのような面々かは史料に何も書かれていないというが、 この頃にはすでに興行で得た収入で生活し、維持される芸能者の集団ができていたとされている。

 「大友興廃記(杉谷宗重の著せる戦国大名大友家の興亡を描いた戦記)」や「義残後覚(愚軒が著した雑話集)」には、京都から下ってきた相撲人の話や、 後者には京都における勧進相撲の話も出てくる。

 京伏見はんじやうせしかば、諸国より名誉のすまふども到来しけるほどに、内野七本松にて勧進すまふを張行す。 くわんじんもとの取手にハ、立石・ふせ石・あらなみ・たつなみ・岩さき・そりはし・藤らふ・玉かつら・くろ雲・追風・すぢがね・くわんぬきなどをはじめとして、 都合三十ばかり有けり。よりには、京・辺土・畿内、さてハしよこくの武家よりあ(つ)まりてとりけれども、さすかに勧進すまふをとるほどのものなれハ、いつにてもとりかちけり。(「義残後覚」)

 既に、諸国から集まって諸国へと巡業する(九州や秋田の勧進相撲の記事も存在するという)相撲人の集団ができていて、勧進相撲もよく行われるようになっていたらしい。 また、「さすかに勧進すまふをとるほどのものなれハ」というから、相撲人が高度な技芸を専門とする職人であることもわかる。

 当時の勧進相撲の形態として、「元方(勧進元側の相撲人)」と「寄方(近隣から集まった相撲人)」との対抗だったことと、 勝抜制だったということが特徴的であった。最後まで残った者は「関を取る」と言われたという(「関取」の語源と考えられている)。

 近世に入る。三都がメインとなる。その記録をあっさりと辿る。

 京における勧進相撲は「義残後覚」の記事の後は、慶長10年(1605) 7月23日山城国醍醐郷での郷民による勧進相撲の記録(「義演准后日記」)、 寛永21年(1644)山城国愛宕(おたぎ)郡田中村なる干菜山光福寺の住持宗円が鎮守八幡宮再建のための勧進相撲を願い出て許可を受け、 翌正保 2年(1645) 6月に鴨の糺ノ森で10日間興行があったという記録(「古今相撲大全」)があるが、 その後暫く途絶える。

 大坂の勧進相撲は確実な記録が18世紀にならないと出てこない。「灘のひゞきといふ讃州の相撲」が興行したと「相撲家伝抄」にあり、 また同書には、寛文年間(1661~73)に行司小作兵庫が恵比寿島で興行したものの喧嘩口論のため停止(ちょうじ)された、とあることはある。

 江戸の勧進相撲は、明石志賀之助に関する記事が「古今相撲大全」にあるが、信用に足るものではない(「横綱」について参看)。 「相撲家伝抄」には、古閑貫(こかんぬき)なる相撲取が神田明神原で興行したのが初めという。これも信じられるものとは言えない。 寛永期(明石志賀之助の興行は寛永元年(1624)とされているが)には江戸で勧進相撲がよく行われていたということがわかっているが、 慶安元年(1648) 2月28日に勧進相撲の禁令が出たため、数十年の中絶がある。この禁令は京も大坂も準じているため、勧進相撲はパッタリと止んでしまった。

 表札が江戸市中の盛り場の辻々に立てられたという慶安の禁令は以下の如し。

一、辻相撲取申間敷事。
一、勧進相撲とらせ申間敷事。
一、相撲取共の下帯、絹布にて、仕間敷、屋敷方へ被呼候共、布木綿の下帯可仕事。

 慶安 4年(1651) 7月には、

一、志こ名之異名を付候者有之候はゞ、早々可申上候、いにしへより相撲取候もの、異名付候共向後は名堅可為無用事。

と、四股名をも禁ぜられてしまった。なお、四股名らしいものが文献に登場するのは、「大友興廃記」が最初とみられる。 さらに寛文元年(1661)には芝居・相撲・能に関する触れが出た。相撲の部分は次の通り。

一、勧進相撲毎々より町中にて御法度に候間、弥其旨相心得、町中に而為仕申間敷候事。

 また(依然として)勧進相撲を町中で行うことは禁ぜられている。ただでさえ勧進相撲の興行は定期的なものでないのに、 これを禁止されては相撲取は生活に困ってしまう。恐らく専門の相撲取は各藩に技量を売り込んで、力量のある者は藩抱えになったのであろう。 ちょうどこの時期は、大名による力士抱えが大変多くなりゆく時代であった。 力ある相撲取を抱え、各藩毎に競い合い、他藩に負けまいとしたであろう(無論抱えられた相撲取は生活の安定を掌中にし、対抗意識を植えつけられて錬磨に励んだと思われる)。

 元禄時代になり、幕府の方針が変わって、勧進相撲が許可されるようになってきた。但し、あくまで公共投資用の資金調達目的に限られた。 ちょくちょく出された禁令が、町人の相撲(見物)熱昂揚の証左であると見るならば、逆にこの熱を利用しようと考えたのかもしれない。 京における勧進相撲の再開は、元禄12年(1699) 5月の岡崎天王社修復のための勧進相撲( 7日間)が初めである。 大坂周辺では困窮救済を目的とした勧進相撲が見られ、江戸の場合は貞享元年(1684)に雷権太夫以下が寺社奉行本多淡路守に願い出て、深川新開地繁盛を名目に深川八幡宮境内で晴天 8日間の勧進相撲を行ったのが、 江戸勧進相撲再興の事蹟であるとされている。三都とも、その後勧進相撲は年に数回程許しが下りている。 また、この頃の勧進相撲からは、抱え力士を中心とした相撲取の集団が挙って興行に参加するようになった。 段々に勧進相撲は申請すれば許可が下り、定期的な興行が打たれるようになり、そればかりか「渡世のため」という「勧進」から逸れた目的でも許可が下りるようになった。 そして、主催(勧進元と、それを補佐する差添)も町の興行師から、相撲取の手に移り始めていた。この間、辻相撲の禁令は度々出されたが、そこには衰えない相撲熱が垣間見える。 だが、順調に興行が続けられていたところに、正徳の禁令(正徳元年(1711)の触れ)が出された。 これは何かといえば、勧進相撲といいながら世渡りの金稼ぎのための興行が打たれるようになったことに対する幕府の猛反撃である。 武家に召し抱えられた者こそが「実の相撲取」とされ、そうでない者との差、つまり渡世のための興行によって金を稼ぐ者との差が明確にされてしまったのである。 幕府は態度を硬化させ、江戸においては享保の末から寛保の初めまで(つまり1740年代はじめまで)、勧進興行がまるで認められなかったという。

 正徳禁令が出た時には、もう相撲取は相撲興行を世渡りの手段として認識していたらしい。 しかも、江戸で勧進相撲が行われなかった間、京坂では相変わらず行われていた。つまり、相撲取は京坂で主に活動するようになり、 自ら京坂の勧進相撲は隆盛に向かった。京都における興行の番附記録は、上記の元禄12年のもの(大江俊光記)が最も古いという。 当時は板番附であったが、享保頃から木版刷りで発行されるようになった。享保 2年(1717)のものから現存する。 大坂の番附記録は、元禄15年(1702) 4月の堀江勧進相撲公許興行のものが最古で、京都と共に享保年間からの番附は多く残る。 そして興行の際には散在する有力な力士団(主なところでは秋田・南部・津軽・仙台・大坂・京・尾張・紀伊・讃岐・播磨・因幡・長崎・肥後・薩摩)から、相撲取並びに行司が参加する。 京坂興行は、殊に享保から宝暦期(1716~64)にかけてはまさに檜舞台で、幾多の名力士が出て人気を呼んだ。 例えば、谷風梶之助(讃岐谷風)・八角楯之助(待ったの開祖とされるが、研究熱心の力士)・相引森右衛門(美男と伝わる人気力士)・丸山権太左衛門( 3代横綱に据えられている強豪)・阿蘇ヶ嶽桐右衛門(司家門人となった大関)などが有名である。

 いつしか勧進相撲は、名目はどうあれ許可を求めればすんなり下りるようになり(「勧進」の名は寺社奉行の許可を求めるためにずっと残り、明治になって一旦 7年12月に消え、「勧進元」も「願人」と改まったが、「勧進相撲」の後こそ復活しなかったものの42年 6月から何故か「勧進元」が蘇り、とうとう昭和19年まで使われ続けた)、 また相撲取のうち、実力者や人気者は興行あるごとに招かれ、常に上位に格づけされるようになった。つまり、興行に連続性が認められるようになったのである。 こうして、相撲取にとっては渡世の手段として、民衆にとっては娯楽として、定期的な興行体制が築かれつつあった。

 さらに、江戸において勧進興行の一切が解禁され(寛保 2年(1742))ると、翌年には京の番附に江戸力士源氏山住右衛門・綾川五郎次らが登場、 そして江戸は、瞬く間に京坂と並び称される興行の中心地として体制が整っていった。 江戸相撲の他の特徴としては、興行はすべて渡世のためのもので、勧進元は元相撲取である年寄がこれを務めたということが挙げられる。 春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」が行われる体制が、遂に確立した。
 以降は江戸を中心に記述するが、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を行う体制が確立したこの時代を記述するに当たっては 「江戸べったり」だと、片手落ちの相撲史になってしまう。江戸相撲・京都相撲・大坂相撲の各々が独立した相撲集団であるのではなく、 各国にある相撲集団が勧進元との契約によって招かれて相撲興行に参加するという「合併相撲」を打つ形であるから、なおさらである。

 さて、勧進元等の興行責任者は、江戸の年寄にせよ京坂の頭取にせよ大差なく、順繰りに務めることになっていた。 その年寄や頭取が相撲取乃至行司の出身者で固定されるようになったのは、江戸の場合は明和の頃(1764~72)であろうと考えられており、 また、名跡が固定化したのはさらに後のことである。また、大坂頭取には侠客などがいた。 年寄や頭取は、勧進相撲を組織し運営するばかりでなく、相撲取出身者として弟子を取り、 小団体を成していた。江戸番附に見られる「江戸」頭書の相撲取は、そうした小団体(部屋に相当すると考えられる)所属の相撲取であろう。 同じく、江戸番附を見れば、他に「九州」「奥州」といった頭書の相撲取が多数おり、場合によっては番附の一方を占めることもあった。 これらは、地方各地の相撲集団に属する相撲取である。そして、図体の大きな者を大関はじめ上位に据える「看板相撲」がこれに加わる(客の興味を惹く役割を果たしたが、不出場の場合が多い)。 これが大雑把なところの興行形態であった。

 三都興行が軌道に乗り、相撲興行の中心地となると、実力上位の相撲取はだいたいいつも三都の興行に顔を出し、 地方集団の相撲取も三都の年寄・頭取の許に弟子入りし、腕を磨く。三都が相撲取を育成する面でも中心地域になったためである。 果然、番附の顔触れも明和ごろにはほぼ一定になり、三都の相撲取と藩抱えの相撲取との混成となった。

 その後には、三都のうち、江戸が中心地としてのし上がるようになった。これは、大名抱えの関係と考えられる。 そもそも江戸には大名屋敷がある。参覲交代制度のお蔭である。相撲取にとって、禄にありつかんとして大名に抱えられようと欲するならば、 上方よりも江戸で活動するのが早道となる。そうして、抱えられたとする。相撲取りを抱える側の大名は、参覲交代により自国と江戸を往復する。 相撲取もつき従う場合が殆ど。こういう生活の大名が、相撲取を修行させるために部屋に預けようとするならば、当然江戸年寄に預けようとするだろう。 この流れに沿い、京坂頭取の弟子も、江戸年寄に弟子入りする場合が間々見られる。このように、三都中心の鼎立体制から、江戸を中心とし上方がそれに附随する形へと変化していった。 大名の抱えに関しては、それが顕在化する時代を主に記す次項に譲る。

 「年寄」「頭取」が登場してきたが、その起源は以下の如く説明されている。江戸の場合を掲げているが、上方でも同様に考えられている。

 もと力士として大名、旗本に抱えられていたのが、老齢になって暇を出され、これを相撲浪人といった。 相撲興行はこれらの浪人が中心で、相撲集団を監督して、喧嘩が起こらぬよう取り締る責任者であった。 貞享元年の公許興行は、勧進元の雷権太夫以下十四名が「株仲間」を組織して、毎年願い出てやっとこの年に認可を得たのである。
 この年寄制度の原型といえる十五人の株仲間も七年後の元禄四年になると二十人に増え、その顔ぶれも雷、大獅子、中川の三人だけ残して変り、いまに残る年寄名としては大竹(大嶽)、尾上、浅香山の名が見える。 当時は一代年寄で消えていく者が多く、これは年寄創成期ころの通常といえよう。
 この相撲年寄も、専業とする者だけに興行許可を与えるという幕府の方針が決まったのは、享保年間からである。 それからは、年寄株仲間が結束し、年寄名跡がしだいに重んじられてきた。(別冊相撲「国技相撲の歴史」)

 なお先代の跡を襲ぐケースもあれば、現役時に何らかの資格(詳細不明)を得て年寄となり、それが受け継がれる場合もあり、 従って人数は増加する一方であった。江戸末には50人に達し、明治半ばには80の多きを数えたが、明治22年東京大角力協会設立時の申合規約で88家の名跡が定められた。 大正末に大阪協会と合併した際に17家が加わり、その後休眠させられていた大阪協会の名跡を改称の上復活させたり、 また根岸家が昭和26年に廃家となり一市井人と変わり、また昭和34年に木村庄之助と式守伊之助が年寄兼務でなくなるなどあり、 現在は 105家(及び特例の一代年寄)で固定された。また、平成10~18年には準年寄制度も存在した。元来大坂の弟子だったものが後に江戸でも弟子入りした場合は、 継承時には元来の系統が重んぜられたことから、大坂の名跡を継ぐ場合が多かった。

 さて、制度とくれば「相撲会所」である。ここでも江戸を例に取る。会所は年寄による組織で、力士らが運営に容喙することは許されない。 逆に言えば、会所が成立するということは、年寄による相撲興行及び力士の独占支配が成り立っているということである(これは部屋制度などに窺うことができるが、省略する。相撲部屋制度の確立も18世紀末頃と思われる)。 力士らをまとめ、興行の権益を独占し、収益を年寄を通じて分配する組織である。上下関係で完全な統制が図られた。 勧進元・差添といった興行責任者を順繰りに務めるのは、「歩持(ぶもち)」という主だった年寄で、また、世話人は 2人、当初は雷ともう一人(順繰りに交代)であったが、 錣山喜平治の就任(宝暦13年(1763))以降は、両者がそのまま務めた。他方が退いたあとを誰かが継ぐというようになった。 その後文政(1818~30)辺りから、筆頭・筆脇と呼ばれて権勢を大いに振るうようになった。何しろ筆頭・筆脇は引退までその座にいられるのだから、やりたい放題。 経理は年寄にさえも示さず、収益も上層の年寄で占め、番附編成は両人に三河屋治右衛門(後根岸)と 3人で(船の上で盃を交わしながらと伝わる)やり、 つまり会所は独裁に近い組織になり、長くその傾向が匡されなかったのである。好取組で沸く相撲興行の裏は、見たところ極めて強引な手法で統制されていたのである。
 「武家相撲」に取って代わり、主役となっていくのが「勧進相撲」。「勧進」というのは寺社仏閣のメンテナンス費用のためにお金を集めるよというもので、。現代的に言うならば「チャリティ相撲興行」みたいもの。勧進相撲は、京都で盛んに行われた。江戸時代に入ると、全国の都市部でも相撲が行わた。幕府は、相撲を危険視し禁止にしたこともあったが、娯楽を求める人々のパワーがすごく制御できなかった。江戸の場合、相撲は勧進相撲と同様に寺社境内で行われるた。京都と異なり、江戸は禁令によって街中での相撲が禁止されたため、人が集まり広い場所を確保できる寺社境内で行うようになった。初期は、・勧進相撲が特に盛んであった京都 、・豪商がスポンサーとなって人気実力ともにスター力士が揃っていた大坂という二都のほうが江戸よりも優勢で、「江戸相撲は二流」とまで言われていたが、江戸が都市としての力を増した宝暦・明和年間から状況が変わる。関東や東北出身の力士も実力をつけてきて、京阪の名力士にも負けない強さと人気を持つようになった。このころから江戸・大坂の年二回、二場所制度となった。一場所は晴天の十日間とされた。

 1605(慶長10).7.23日、山城醍醐(寺?)で勧進相撲が行われた。義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき)。 


 1645(正保2).6月、京都・糺森(ただすのもり:下鴨神社の森)にて公許勧進相撲が行われる。これが、京都勧進相撲の始まりと云われている。

 1648(慶安元)年、勧進相撲興行に際して、勝敗を巡って士・観客の喧嘩(けんか)が絶えず、浪人・俠客(きょうかく:昔のヤクザ)らが加わりいざこざが増えた。幕府は、「(当時、反幕府だった)浪人集団との結びつきが強い」という理由で、辻相撲・勧進相撲を禁止する触れが出される。

 1684(貞享元年)、江戸深川・富岡八幡宮の境内で雷権太夫(年寄)が興行を許可され、勧進相撲興行が再開される。これを江戸の勧進相撲と云う。富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の神社といわれている。しかし、これ以降しばしば辻相撲の禁止令が出る。後世の明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する横綱力士碑が建立された。新横綱誕生時には新横綱の土俵入りが奉納される。維新の志士・伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名も見える。

 1699(元禄12).5月、京都・岡崎天王社(おかざきてんのうしゃ)にて、勧進相撲興行が再開される。北小路日記(大江俊光記)。子番付の記録として最古のもの。三役の名称を初めて見る。

 1702(元禄15).4月、大阪・堀江にて寄進をしない興行目的の勧進相撲が公許される。これを大坂の堀江勧進相撲と云う。大坂番付の最初。この勧進相撲がその後大きく発展し現代の大相撲の礎となったと言える。享保年間(1716~1735年)の頃から大阪及び京都番付が見られるようになった。

 1724(享保9).6月、東京・深川八幡社地興行行われる。江戸相撲興行の記録。

 1757(宝暦7)年、江戸相撲の組織が整い始め、江戸相撲独特の縦型番付が最初に発行された(京都・大坂は横番付)。これをもって江戸相撲の独立と考えられる。

 1761(宝暦11).10月、蔵前八幡社で開かれた場所の番付の勧進相撲の文字が勧進大相撲となった。

 1762(宝暦11)年、この場所の番付から、勧進相撲から勧進大相撲と記すようになる。

【大相撲ライバル物語/谷風と小野川】
 谷風は、1750(寛延3)年、陸奥国(むつのくに)宮城野郡霞峰村(現、仙台市)の農家に生まれた。幼名を与四郎といい、身体が大きく、力も飛び抜けて強かった。19歳の時に、興行に来ていた江戸相撲の力士・関の戸億右衛門(せきのとおくえもん)の目に止まりスカウトされて入門した。その後昇進して、安永5年(1776)10月には関脇に進む。身長190センチ、体重161キロという。天明2年には大関に昇進し、63連勝という大記録を樹立した。江戸の「かわら版」は「生涯無敵」と伝えた。江戸っ子も谷風の強さにすっかり惚れ込み、ファンの数は増すばかり。この時、谷風は32歳。多くの錦絵(ブロマイド)も発売されて飛ぶように売れたという。

 小野川は、1758(宝暦8)年、近江国坂井川(現、大津市)の農家に生まれた。早くから相撲取りになろうとプロの道を目指した。安永4年(1775)大坂相撲の草摺岩之助の弟子になり、翌年に初土俵を踏んだ。3年後の安永8年、小野川喜三郎として幕下に進み、この頃から江戸に行くことを決意した。小野川は身長176センチ、体重131キロで、谷風より一回り以上も小柄だった。年齢は8歳下。江戸に出た小野川はたちまち頭角を表し、天明2年に入幕し、その2年後には小結、関脇と出世した。 

 この時代の力士は、有力大名のお抱えになることが多く、谷風は仙台藩伊達氏の、小野川は久留米藩有馬氏のお抱え力士だった。また相撲興行も現在と違って、1年に春・秋の2場所だけで、その1場所も屋外だから晴天の日だけ8日間と短かった(寛政年間からは青天10日間に延長)。

 1780(安永9)年10月場所、谷風と小野川の初顔合わせ。谷風が関脇、小野川が幕下。谷風が突き出しで貫禄勝ちした。

 1782(天明2)年2月、浅草八幡宮境内での春場所の7日目、天下を沸かせ、かわら版が売れる2人の対決となった。新入幕の前頭・小野川喜三郎(おのがわきさぶろう)が63連勝を誇る大関・谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)を終始攻めまくり、押し倒した。

 寛政7年(1795)谷風が死去するまでに2人の取組みは16戦。成績は谷風の6勝3敗。2分け、2預かり、3無勝負という。 

 1791(寛政3)年6.11日、その9年後、江戸城で行われた11代将軍・家斉(いえなり)上覧の横綱同士の江戸城決戦相撲。結果は、重文の姿勢で立った谷風に対して小野川が「待った」の仕草を見せたため、行司は軍配を谷風に上げた。「相撲は気を尊ぶ。受ける気がない待ったは、横綱ではない」としての負けであった。「かわら版」は「さすがの小野川もひと言もなく赤面しきり」と書いた。

 2人の横綱は相撲という世界を広く天下に知らせただけでなく、その人気の裾野を広げ、現代の相撲人気の基礎を作った功績が大きい。

 1789(寛政元).11月、小野川喜三郎と谷風梶乃助に吉田司家(大相撲の宗家で、代々「追風」の号を名乗る)より横綱土俵入りの免許がおり、これが歴史上実質的に現在の横綱制度の始まりとされている。やがて谷風、小野川、雷電の3大強豪力士が出現し、将軍上覧相撲も行われ相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至った。相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになった。

【十一代将軍家斎の文化業績】
 十一代将軍家斎は芸能が好きであった。在位50年、年号は文化、文政。妻妾の数が多く、実子が52人いたという。この御代の文化面での業績が注目される。相撲は、初代横綱明石以来150年間に二人の横綱をだしただけであったが、名力士谷風、小野川の台頭で、本所回向院の勧進相撲が人気を集めていた。

 1790年(寛政2)年、江戸城内吹上御苑で将軍の上覧相撲が行われた。この時初めて綱を締めた最高力士の土俵入りが行われている。それまでの横綱は、寺社建立の地鎮祭に、最高力士が身を清めるため綱を締め、力強い四股を踏んで、土地を踏みしめる行事であった。横綱土俵入りは、後に8代横綱不知火、10代横綱雲竜によって型がつくられるが、初めての経験の谷風、小野川は立派に務めた。このため、4代横綱の谷風を初めての横綱という人もいる。吉田司家が授与した最初の横綱でもあったから。家斎の文化業績はいろいろある。寺社の建立、移動、北海道有珠善光寺にも記録が残っている。

【十一代将軍家斎の上覧相撲】
 1791(寛政3)年6月、江戸城吹上で11代将軍徳川家斉の上覧相撲があった。谷風梶之助と小野川喜三郎の上覧相撲があり、このとき谷風が将軍家より弓を賜り、これを手に土俵上で弓を受け「敬い奉げて四方に振り回し」舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。

【スター力士6名】
 相撲人気の高まりとともにスター力士が誕生した。代表的な6名の力士は次の通リ。
明石志賀之助 下野国宇都宮 寛永年間頃に活躍。日本相撲協会が初代横綱に認定している。四十八手を整備したとされ、朝廷からも「日下開山」(無敵の芸能者)の称号を受けるほど。身長251センチ、体重184キロ ※数字は当時の誇張があるかもしれない。
第2代谷風梶之助 陸奥国宮城郡 安永から寛政年間に活躍し、第4代横綱となった。19才で江戸に出てきて、その巨大な体格と力強さで、連戦連勝を誇るも、流感に罹り44才で死亡。身長189センチ、体重169キロ
小野川喜三郎 近江国京町 谷風梶之助と同時代に活躍した。第5代横綱。徳川家斉のリクエストで、谷風と対戦したこともある。176センチ、116キロと小兵ながら、流れるような技で観客を魅了した。
雷電為右衛門 信濃国小県郡 寛政から文政年間に活躍した伝説的な力士。長い相撲の歴史の中でも驚異的とされる勝率九割四分八厘を誇る。ただし、横綱にはなっていない。身長197センチ、体重169キロ
阿武松緑之助 能登国鳳至郡 文政から天保年間に活躍し、第6代横綱となる。173センチ、135キロ。慎重な性格でよく「待った」をかけるため、当時は「ちょっと待った」と言った相手に対して「阿部松かよ」と返すのが流行したとか。
稲妻雷五郎 常陸国河内郡 阿武松と同時期に活躍した、第7代横綱。188センチ145キロ。阿武松とは対称的で「待った」が嫌いな性格。阿武松と稲妻の二人はライバルとして有名になる

 こうした力士は現在においてもその名が知られており、まさにレジェンド級。例えば宮城県では谷風の像が造られており、今も町の人々に親しまれている。

 1797(寛政9)年、伊勢ノ海襲名(相続)問題で柏戸宗五郎訴訟事件。

 1805(文化2).2.16日、春場所中、「め組の喧嘩事件」事件があった。(「ウィキペディアめ組の喧嘩」)

 め組の喧嘩(めぐみの けんか)は、文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職(とびしょく)と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた。

 芝神明宮境内で開催中だった相撲の春場所を、め組の鳶職・辰五郎と長次郎、その知人の富士松が無銭見物しようとしたのが喧嘩の発端。芝神明宮界隈はめ組の管轄であり、辰五郎らは木戸御免を認められていたが、富士松はそうではなかったため、木戸で口論となった。そこへ力士の九竜山が通りかかって、木戸番に味方したので、辰五郎らは一旦引き下がった。相撲場を去った辰五郎たちは芝居見物に向かったが、同じその芝居小屋へ何も知らずに九竜山がやって来て、先刻の恨みが再燃。他の見物客らもあおってその巨体を野次り満座の中で恥をかかせる。九竜山はこらえきれずに辰五郎を投げ、芝居を台無しにしてしまう。火消しの頭や相撲の年寄も仲裁に入って一旦は収まりかけたが、同部屋の力士四ツ車が九竜山をあおって復讐をたき付け、部屋から力士仲間を応援に呼び集めた。これに対して火消し衆も火事場支度で応戦、さらには火の見やぐらの早鐘まで鳴らして仲間に動員をかける。火消し衆は江戸町奉行、相撲側は寺社奉行と、それぞれを管轄する役所へ訴え出て事態の収拾をはかったが、もはやいかなる仲裁も用をなさないまでに騒動は拡大していた。与力、同心が出動して乱闘に割って入り、火消しと力士合計36人が捕縛された。江戸時代のこの時期の同様の騒動には、鳶職人700人が7時間に渡って鬩ぎ合ったものなどもあり、けが人は出たが直接の死者はなく(当事者のひとり富士松が乱闘中にうけた刀傷が原因となって取調べ中に牢死している)「め組の喧嘩」は規模としては小さい。庶民の注目を集めたのは、事後処理が相撲興行を取り仕切る寺社奉行と、町方の事件を裁く町奉行、後には農民の訴訟を取り扱う勘定奉行も乗り出して、評定所の基本的な構成員である三奉行の協議によって進められるという、当時とても珍しい形をとったためだった。

 裁きは9月になって下ったが、全体に相撲側に甘く、火消し側に厳しいものとなった。そもそもの発端が火消し側にあったことと、また、特に非常時以外での使用を禁じられていた火の見櫓の早鐘を私闘のために使用、事態を拡大させた責任が重く見られたためである。早鐘に使用された半鐘は遠島扱いになり、辰五郎は百叩きの上江戸追放、長次郎と早鐘を鳴らした長松が江戸追放。その他の鳶は説諭と罰金と比較的軽く済んだ。力士側では九竜山のみ江戸払いを命ぜられ、他にお咎めはなし。騒動の後2ヶ月に渡って中断していた春場所は4月になってようやく千秋楽を打ち上げた。遠島になった半鐘は、明治時代になってから芝大神宮に戻されている。

 時の三奉行は次の通り。


雷電為右衛門(らいでんためえもん)も江戸期に258勝14敗(勝率9割4分8厘)の驚異的な数字を残して今なお伝説になるなど、日本の歴史と共に歩んできてました。

文政8年(1825年)2月11日は、その雷電為右衛門の命日。


 1833年(天保4).10月、この場所より、江戸・本所回向院(ほんじょえこういん、浄土宗の寺)境内が定場所となった。

 浪曲「天保水滸伝・大利根河原の決闘」。主人公「笹川繁蔵」は江戸相撲・千賀ノ浦の弟子。しこ名が「岩瀬川」。喧嘩相手の「飯岡助五郎」は、年寄「友綱」の弟子。2人とも引退後、相撲勧進元になり、下総の「興行権」を争った。景気づけに、繁蔵は大前田英五郎、国定忠治、清水次郎長という大親分を集め、花会(サイコロばくち)を開いている(天保13〈1842〉年7月27日)。江戸時代「相撲」はヤクザの資金源だった。伝記『東海遊侠伝』で、“男の中の男”として描かれた「吉良の仁吉」を筆頭に、大前田英五郎、江戸屋虎五郎、法印大五郎……。大親分はなぜか、草相撲の横綱だった。ヤクザが絡めば喧嘩は付き物である。わざと喧嘩を演出して、相撲人気を煽(あお)ったこともある。

 1849年(嘉永2).4月、江戸城吹上で将軍家慶の上覧相撲。

 1851(嘉永4).2月、弟子を優遇する秀の山に他力士が激怒、ストライキに。本中力士(前相撲と序の口の間力士)百余名が、回向院念仏堂に籠城し、中改め(現在の審判委員)を務めていた秀の山と相撲会所に取り組み日数の不公平を抗議した。結局は本中力士たちの殺気により、会所の幹部が回向院に駆けつけ要求に応じ、秀の山を説得し詫びさせ丸く収まった。

 歴代横綱の中で最も背が小さい9代横綱・秀ノ山。小さな体を持ち前の負けん気でカバーした相撲人生であり、引退後も年寄として協会運営に参加。テキパキとした仕事ぶりは高い評価を受けていた。そんな彼が事件を起こしたのは1851年。中改め(現在の審判委員に相当)を務めていた秀ノ山は自分の弟子2名を優遇して他力士のストライキに発展した。当時は入門志願者が激増していた時代で前相撲と序の口の間に位置する本中力士が100名を超えている状況。かつては本中力士は2日に1回のペースで取組を行っていたが、それも3~4日に1回というペースに落ち込み昇進が遅れる力士が続出した。その情勢下で秀ノ山は赤沼と萩ノ森という弟子2名を必ず2日に1回のペースで土俵に上げていたので他の本中力士は激怒。2月場所5日目に結束して1人も場所入りしないストライキにうってでた。ストライキ力士達は回向院の念仏堂に籠城し、秀ノ山と会所(現在で言う協会)に反省を求めたが、会所側は番付にも載らない本中力士を甘く見て、前相撲や相中力士を繰り上げて開催を強行した。これに本中力士サイドは激昂し、「斯くなる上は秀ノ山を打ち殺して一同揃って脱走するより他に手は無し」と決議し、竹槍で武装し襲撃準備を進めた。さすがの会所側も事態の深刻さをようやく理解し、秀ノ山を引っ張り出し、回向院に駆け付け謝罪。一応の決着を見た。(「嘉永事件」)

 1853(嘉永6).6.3日、ペリーの率いる黒船が浦賀に来航した。横浜にて力士一同米俵を運び怪力を誇示した。

 1854(嘉永7).2月、歴史的な戦いがペリー提督の前で行われた。日米和親条約が締結された嘉永7年(1854年)2月26日。大関・小柳常吉、鏡岩以下38力士が、力技披露のために幕府から横浜に招集された。土俵入りやけいこ相撲、米俵運びなどを見せたところ、米国側の随行レスラーとボクサーが「チャンピオンに挑戦したい」。指名された小柳と米国人ボクサーの間でこんなやりとりがあった。「投げ殺してもかまわぬか」「かまわん。だがな、殴り殺すことも許されるのか」。殺伐とした中で、小柳と身長208センチの幕内力士、白真弓が出陣して相撲技で粉砕した。面目をつぶされた米国側は、レスラーのウイリアムスとブライアン、ボクサーのキャノンが3人で同時に小柳に襲いかかった。小柳は、キャノンのパンチをかわして小手投げを打って踏みつけ、タックルにきたブライアンを小脇に抱え込み、ウイリアムスを足払いで倒した後にベルトをつかんでつるし上げてしまった。一瞬の圧勝劇だった。

 1864(元治元).12月、禁門の変で敗れた長州では藩論が尊王攘夷より公武合体論が主流を占めてきた。これに危機感を感じた高杉晋作は功山寺で再度挙兵する。この時呼応したのは当初、伊藤俊輔(博文)の率いる力士隊約30人と、石川小五郎の遊撃隊約50人だけであった。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年3月には公武合体派等の保守派を排斥して高杉晋作、伊藤博文等の尊王攘夷派が勝利し、藩の実権を握る。その後徳川幕府による第2次長州征伐(1866年慶応2年6月)に対して備えをし、これに勝利し第2次長州征伐を制止した。この戦いには坂本竜馬の亀山社中も高杉に加勢し勝利に貢献している。これを機に、長州藩は倒幕に向けて一気に動き出した。坂本竜馬仲介の 薩長同盟、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て慶応4年4月11日 江戸城無血開城、江戸時代が終焉。力士を抱えていた大名が崩壊し力士達の環境も変わって行く事になる。 明治維新時では多くの力士が勤皇の志士となって働いている。

【土俵入りの型としての「不知火型」と「雲竜型」】
 横綱の土俵入りには「不知火型」と「雲竜型」がある。いずれも幕末の人気力士が由来である。「雲竜型」の雲龍久吉(1823-1890年)は 筑後国山門郡出身の第10代横綱。8才で両親を失った苦労人で、弟妹の成長を見届けてから力士の道へ。デビュー直後から圧倒的な強さを誇り、人気抜群となる。一方、「不知火型」の不知火光右衛門(1825-1879年)は、肥後国菊池郡出身の第11代横綱。スタイル抜群、色白のイケメンで土俵入りの美しい姿が大人気となった。この二人の土俵入りが素晴らしく人気を二分したために「不知火型」、「雲竜型」として定着した。途中で、「不知火型」が雲竜の型。「雲竜型」が不知火の型に入れ替わったという。※不知火型土俵入り(白鵬)※雲竜型土俵入り(鶴竜)






(私論.私見)