清水幾太郎の思想遍歴考

 (最新見直し2006.10.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 在地型社会主義の研究上、清水幾太郎の思想遍歴と噛み合わせてみるのも面白いと気づいた。そこで、本サイトを設ける。直接の契機は、ネット検索で大嶽秀夫氏の「新左翼思想化としての清水幾多郎」を知ったことにある。れんだいこは、この記述により清水氏に興味を覚えた。もっとも受け取り様は別で、れんだいこ独眼流の清水幾多郎論になるだろう。お楽しみあれ。

 2006.10.30日 れんだいこ拝


【清水幾多郎の履歴】

【60年安保闘争時の思想と行動】

【その後の思想遍歴】

【晩年の思想】

【れんだいこの清水幾多郎論】
 清水幾多郎の思想遍歴は、れんだいこ史観に従えばよく見えてくる。逆に云うと、れんだいこ史観を通さねば理解できにくかろう。これを冒頭の辞とする。

 清水は、自身がどう了解していたかは別として、本来的に左派系知識人である。戦後日共運動が徳球ー伊藤律系執行部の下に展開され続けていたならば、恐らく一級の日共イデオローグとして自己形成していた可能性が見て取れるように思われる。だがしかし、日共は、1955年の六全協で徳球ー伊藤律系から名うての反革命である宮顕ー野坂執行部へと転換した。「50年分裂の解消」という功利的美名の下にこれが押し進められ、多くの者は「50年分裂の解消」に意義を求めて追随した。だがしかし、これにより日共は大きく変質した。

 清水は、これを嗅ぎ取っていた。清水のブント運動支持はこの精神を背景に考えられるべきであろう。清水は、反革命指導部に乗っ取られた日共の反革命運動を苦々しく思い、これに抗する形で党派形成したブントに親近感を持った。それが、60年安保闘争時の清水のパトスとなった。清水は、吉本隆明らと共にブント支持派知識人として登場し、ブント運動と連衡した。

 その後、。





(私論.私見)