出雲王朝の国家形成と国譲りの神話考

 (最新見直し2006.12.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 国譲り神話は日本神話の粋である。これを何とかれんだいこ綴りしてみたい。何度も書き換え、語り継ぐに値する神話をものしてみたい。

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【アマテラスが「天壌無窮の神勅」発令譚】

 高天原に住むアマテラス王朝派が、出雲の大国主率いる国津神の出雲王朝の平定に乗り出すことになった。アマテラスは、知恵の神オモイカネと謀り、天の安の河原に神々を集め、「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している。中でも大国主率いる出雲が強大国である。豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が治めるべき地として相応しい。天壌無窮の地なり。出雲に使者を派遣せよ」と指令した。この時の宣言が、「天壌無窮の神勅」と云われるものである。日本書紀巻第二は次のように記している。
 「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ我が子孫の王たるべき地なり。宜(よろ)しく皇孫をして統治に当たらせるべし。行牟(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんことを。まさに天壌無と窮り無けむ(天壌無窮なるべし)」。
 (私論.私見)

 「アマテラスの天壌無窮の神勅発令譚」は、高天原王朝による出雲王朝征伐指令を説き聞かせている。

【高天原王朝の出雲王朝討伐失敗譚】

 アマテラスの息子のアメノオシホミミの命が「言向和平」(ことむけやわす)為に派遣され、大国主が治めている葦原中国へ向かおうと天の浮橋を渡った。しかし、それから先は抵抗が強く進むことが出来なかった。このままでは葦原の中つ国を平定することは叶わないと考えたアメノオシホミミの命は、再び高天原へ戻り、アマテラスに伝えた。アマテラスとタカミムスヒの神は、天の安河に神々を集め談じ合った。その結果、アメノオシホミミの命の弟のアメノホヒの神が派遣されたが、大国主に靡いてしまい、3年たっても復命しなかった。

 再び神々が集まって相談した結果、アマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦が派遣された。先に送り込まれたアメノホヒの神が失敗したのは、武器を持たずに出かけたせいかも知れないと考えた神々は、アメノマカコ弓とアメノハハ矢を援軍として同行させた。ところが、大国主は、ウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせ、アメノワカ彦はシタテル姫の美しさにみとれ、これを妻として住まい始めた。こうして又も篭絡された。

 8年経過した頃、アマテラスとオモイカネの命は、キジの鳴女を送った。キジは、アメノワカ彦の屋敷の木の枝に止まり、「なぜ8年も報告を怠っているのか」となじって鳴いた。アメノワカ彦は、アマノサグメの進言を受けて射かけたところ、鳥の胸を貫いて高天原まで飛んでいった。タカミムスヒの家の壁に刺さった。タカミムスヒが、「アメノワカ彦に邪心が無ければ当るな。高天原に背いているなら射殺せ」と念じて矢を放った。その矢がアメノワカ彦に当って死んでしまった。
 アメノオシホミミの命=アメノホヒの命、天忍穂耳命、天穂日命、天菩比神とも記される。アメノワカ彦=天若日子、天稚彦。アメノマカコ弓=天之麻迦古弓。アメノハハ矢。ウツクシ二玉神=顯國玉神。シタテル姫=下照比賣。
(私論.私見)

 「高天原王朝の出雲王朝討伐失敗譚」は、天孫族の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを暗喩している。

【高天原王朝の切り札としてのタケミカヅチの男の登場と出雲王朝討伐譚】

 アマテラスは次に、天の安の河の川上に住む天の岩屋にいる剣の神であるイツノヲハバリ神に白羽の矢を立てた。イツノヲハバリ神は、息子のタケミカヅチの男を推薦し、フツヌシ神も同行させることになった。こうして、アマテラスは、アメノトリ船神をそえて、葦原中つ国へ遣わした。これが三度目の派遣となった。今度の軍使は篭絡されることを厳に戒め、降伏するかさもなくば戦争によって決着させるとの決意で向った。
 イツノヲハバリ神=伊都乃尾羽張神。タケミカヅチの男=(古事記)建御雷之男神、(日本書紀)武甕槌。フツヌシ神=(日本書紀)経津主神、布都努志命。アメノトリ船神=天鳥船神。アシハラナカツクニ=葦原中国。
(私論.私見)

 「高天原王朝の切り札としてのタケミカヅチノ男の登場と出雲王朝討伐譚」は、高天原王朝の最後の切り札として軍神タケミカヅチノ男が派遣されることになったことを明らかにしている。

【高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判譚】

 高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主の命は、出雲のイナサの小浜で談判することになった。 タケミカヅチとフツヌシの軍使は、アメノトリ船と共に降り立った。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいた。こうして武威を示した。次のような問答が交わされた。
タケミカヅチ  「今より、アマテラス大御神、タカギの神の命を伝える。お前達が領有しているこの葦原の中つ国は、アマテラス大御神の御子が統治すべき国である。天神に奉ることを了解するかどうか返答せよ」。
大国主  「私達は、今まで農業を主として平和な共同体を築いてきた。ここで戦争をすると勝敗は別として元も子もなくなる。子供達が反対しなければ私は従う。私の一存では行かない。我が子が返答することになるでせう」。
タケミカヅチ  「子供たちの誰が権限を持っているのか」。
大国  「事代主とタケミナカタの二人です。事代主は文をタケミナカタは武を受け持っております。その二人の了承を取り付けてください」。

 大国主の命は即答を避け、判断を事代主とタケミナカタに委ねた。
 イナサ=伊奈佐、稲佐。十握剣=とつかのつるぎ。コトシロ主=言代主神。タケミナカタ=建御名方神。
(私論.私見)

 「高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判譚」は、高天原王朝と出雲王朝の談判の様子を明らかにしている。

【出雲王朝の文人頭、事代主との談判譚】
 大国主の云う我が子とは、兄であり文人頭の事代主(コトシロ主)と弟であり軍人頭のタケミナカタを意味していた。
 この時、事代主は、美保の崎にいた。アメノトリ船が向かい連れて来た。タケミカヅチが、大国主の命に対して述べたと同じ事を伝えると、「かしこまりました。この国は、アマテラス様の御子に奉りましょう」とといい残して、拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった。事代主は、後々に恵比寿様として七福神に入れられ奉られることになる(「日本神道の発生史及び教理について」)。
(私論.私見)

 「出雲王朝の文人頭、事代主との談判譚」は、国津族の文人頭、事代主が苦衷の末「国譲り」に応じ、同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに投身自殺したことを明らかにしている。

【出雲王朝の軍人頭タケミナカタとの談判譚】

 タケミナカタは承知できないとして応じなかった。次のような問答が交わされた。
タケミナカタ  「人の国に勝手にやって来て、無理難題ぶつけている奴はお前か」。
タケミカヅチ  「そうだ。この国をもらい受けに来た」。
タケミナカタ  「そんな暴力が許されると思うのか」。
タケミカヅチ  「これはアマテラス様のご命令だ」。
タケミナカタ  「ならば一戦交えるのみである」。

 こうして談判は決裂し、戦闘することになった。神話では、二人の力比べが始まり相撲をとったことになっている。タケミナカタがタケミカヅチの手を握り投げようとしたところ、タケミカヅチの腕からサキがツララになり、冷たさと硬さと滑り易さでその力をうまく示すことができなかった。もう一度掴みなおすと、タケミカヅチの腕は一瞬にして鋭い刃の剣に変わった。次に、タケミカヅチが同じようにタケミナカタの手を握ると、易々と手を握りつぶした上に、そのままタケミナカタの巨体を投げ飛ばしてしまった。

 この逸話は、当初は互角伯仲し勝負がつかなかったが、タケミナカタが次第に劣勢となったことを暗喩している。こうして、タケミナカタの軍勢は、シナノの国の諏訪湖(信州諏訪)まで逃げた。タケミカヅチが追撃し、再々度対峙した。しかし、決着がつかず、長期戦化模様を危惧したタケミカヅチと形勢不利を認めたタケミナカタは、手打ちすることになった。1・タケミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。2・アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認めよ。双方これを受け入れ和議がなった。以降、タケミナカタはヤサカトメの命を妻に娶り、諏訪大社の主祭神に納まった。
 シナノの国=科野国、信濃国(現在の長野県と比定されている)。ヤサカトメの命=八坂刀売命。
(私論.私見)

 「出雲王朝の軍人頭タケミナカタとの談判譚」は、出雲王朝の軍人頭タケミナカタが「国譲り」に応ぜず、各地で戦闘を続け諏訪国に逃げ、決着つかず高天原王朝のタケミカヅチ優勢のままで両者が手打ちしたことを明らかにしている。

【タケミナカタのその後、諏訪大社譚】

 タケミナカタはその後、産業の神、戦の神として諏訪大社を祀っていくことになった。諏訪大社社伝は、「712(和銅5)年、タケミナカタが諏訪に封じ込められた」と語る。諏訪大社はその後全国に系列神社を組織していくことになる。

【高天原王朝と出雲王朝の国譲り最後の談判譚】
 
 タケミカヅチはこうして事代主とタケミナカタの双方を平定した。遂に、タケミカヅチと大国主の命の最後の談判が行われることになった。次のような問答が交わされた。
タケミカヅチ  「お前が申し出た二人の子は、アマテラス様の御子の命令に従うと申した。改めて問う、お前はどうなんだ」。
大国主  「子供が従うことになった以上私も、葦原中国を献上しアマテラスの支配に任せよう。ただ、私どもが創始した母里の国を献上する代わりに、私の住む地を神領地としてそこに宮殿を建て、私どもが神々を祀る祭祀権は認めていただきたい。それさえ保障されるなら私は顕露事の政治から身を引き、幽事のみ治め幽界(黄泉の国)に隠居することを約束する」。
タケミカヅチ  「願いを聞き届けよう」。
大国主  「もう一つ。我が王朝の有能な子供たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆が倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。
タケミカヅチ  「承った」。

 大国主は、出雲の祭祀を司る広矛を差し出した。タケミカヅチは、高ミムスビの神に大国主の命の国譲り条件の申し出を伝えた。高ミムスビの神は、「勅」(みことのり)を発し、「今、汝が申すことを聞くに、深くその理有り」と了承した。これにより、1・汝は政治から手を引き、神事のみを司る。2・汝が住む天日隈宮の造営を認める。但し、アメノホヒの命が祭祀を司る。3・汝は国つ神と婚交せず、我が娘ミホツ姫を妻とせよ、という条件を出した。玉虫色のまま双方が条件を飲み、こうして、出雲王朝から高天原王朝へ政治支配が移った。これを、国譲りと云う。
(私論.私見)

 「高天原王朝と出雲王朝の国譲り最後の談判譚」は、出雲王朝が、高天原王朝の軍門に屈したことを明らかにしている。これを国譲りと云う。

 ところで、古事記と出雲国風土記の記述は、国譲りの描き方が食い違いっている。古事記は、大国主神が、「葦原中国はすべて献上する。ただ、我が住所すみかを壮大に造ってくれれば、根の国に隠れよう」と述べたとある。風土記は、大穴持大神(大国主)は、「我が造り治めた国は奉る。ただ、八雲立つ出雲の国は我が静まります国であり、青垣山を廻らし、玉を置いて守る」と述べたとある。つまり、王朝は譲るが、代わりに祭祀権を保障せよ、と主張していることになる。 大国主の完全屈服かどうかが問われていることになる。実際には、大国主の言い分が辛うじて通り本領安堵され、出雲王朝の命脈が保たれ、それが為その後も隠然とした影響力を持ち続けていくことになる。

 いずれにせよ、国譲りは、理不尽なものであった。この理不尽さがその後の高天原王朝、そこから出自する大和王朝の御世に付き纏っていくことになる。ここが日本歴史の裏面史であり、ここを理解しないと何も見えなくなる。

 ところで、古代史上最大の政変「高天原王朝と出雲王朝の国譲り」は、他国のそれと比べて明らかに著しい違いが認められる。それは、決戦的絶滅戦争型ではないということである。武闘と和議の二面作戦で最終的に手打ち和議し、勝者が敗者を攻め滅ぼさないという特徴が認められる。この方式が日本政治史の原型となり、その後の日本政治史の至るところに影響していくことになる。今もその影響を受けていると云うべきだろう。恐らく、それは今やDNAになっており、これを放擲して決戦的絶滅戦争型に転換するには及ばないであろう。むしろ、尊重していくことの方が望まれていると云うべきではなかろうか。

 2006.12.15日 れんだいこ拝

【出雲大社譚】

 こうして、大国主は引退し、出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に神聖な神殿を造り、クシヤ玉神が身の回りの世話をすることになった。出雲大社は精神界に生き延び、縁結びの神として信仰されていくことになった。特徴的なことは、伊勢神宮系が二拝・二拍手・一礼のところ、宇佐八幡宮と共に二拝・四拍手・一礼を作法としている。又、軒下にかかるしめ縄は、伊勢神宮系とは逆に締めており、長さ13m、最大太さ8m、重さ5トン、2万6千束のわら束を使った日本一巨大しめ縄を飾っている。

 出雲大社社伝に拠れば、出雲国造のアメノホヒの命が、出雲大社宮の祭主となった時、熊野大神の櫛ミケヌの命から火きり臼、火きり杵を授かり、以来同様に代々一世一代の神火相続儀式「火継ぎ神事」が執行されている。
 出雲国=現在の島根県と比定されている。クシヤタマ神=櫛八玉神。
(私論.私見)

 「出雲大社譚」は、大国主が出雲大社の祭神として生き延びたことを明らかにしている。




(私論.私見)