「吉村作治氏の素朴な疑問」考

 (最新見直し2007.7.27日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古代エジプトのピラミッド遺跡の発掘で世界的権威の考古学者でサイバー大学学長の吉村作治氏(64)が著作権問題に関して意味のある発言をしている。本サイトでこれを考究する。

 2007.7.27日 れんだいこ拝


【吉村氏の著作権論】
 考古学者でサイバー大学学長の吉村作治氏(64)が、著作権問題に関して「著作権について [考古学者のひとりごと]」(http://blog.excite.co.jp/392/5852347/)で次のように述べている。

 著作権について

 今年の4月から開校したサイバー大学で、かなり重要に取り組んでいることが、著作権のことです。著作権は、従来大学の教室ではあまり気にされていませんでした。大部分の先生が論文やレポートでは注意していても、教育の場では無頓着でした。しかしサイバー大学では、教員はもとより学生にも、著作権クリアのことは厳しく教えています。もちろんサイバー大学も教育の一環ですから、一般の出版やテレビ、雑誌のような厳しさは要求されませんが、この際、一般社会の著作権に関する要求に限りなく近づけるべく、著作権専門の弁護士の方にもその講座を持っていただき教えていただくと同時に、何か問題があったときのためにお願いしております。幸い約4ヶ月間何も問題は起きておりませんが、そのための作業は通学制の大学とは比べものにならないほど大変だと、教員、助手、学生など全ての関係者がくたくたになっています。

 そんな時、森進一さんと作詞家の川内康範さんの「おふくろさん」の件が発生し、興味深かったです。と言うのも、実は私すら、「おふくろさん」に追加の詩をプラスして何が問題なのだろうと思っていたからです。「おふくろさん」の歌詞そのものを変えたのではないのだからというのが私の感覚でしたが、決して甘くはなく、追加も改ざんの一種だとのことでした。いい勉強となったのです。と言うのは、以前は、地図や図版は直にそれをコピーするのはまずいが、それを自分の手でトレースすればいいと先輩から教わっていたことも、間違いだということを今回知りました。

 しかし世の中うまくできていまして、ライトフリーのものもどんどん出てきました。グーグルなどはその典型です。これからも増えるものと思います。しかし一見しますと、著作権法は厳しくなっているように思えます。教科書や試験問題まで目を光らせている著作権バスターもいるそうです。しかし、私はかなり前から、著作権法をどんどん厳しくしていくと、文化や芸術学術は廃れていくという考えでした。それは、私が他人の著作権を平気で侵す意志があるというわけではありません。今でも、著作権クリアを強く叫んでいる人たちは、著作権料を払えと言っているのが中心です。特にディズニーとかキティちゃんは厳しいと聞いていますが、私はこれをフリーにすべきだと言っているのです。他人のとった写真や書いた文章を、勝手にクレジットも入れずに使っていいと言っているのではありません。まず著作権所有者に了解を取るべきですし、使用するときに著作権者の名前を入れるのは当然ですし、使った成果物を著作権者に送付するべきと思っています。

 しかし、お金を取るというのは悲しいなと考えています。もちろん今でも私は若干のお金をいただいていますが、できる限り近い将来、私のものはライトフリーにしたいと考えています。お金より、世の中に広く発信した方がいいと考えるからです。かと言って、今の中国のようにひどいことを奨励しているのではないことだけは申し上げておきます。もっと日本が文化的に成熟した暁にということです。


【white氏のコメント】
 吉村氏の見解に対して、「阿修羅空耳の丘版50」のwhite氏の2007.7.25日付け投稿「吉村作治が著作権クリアに対する持論を述べる [アメーバニュース]」(http://news.ameba.jp/2007/07/6023.php)が次のようにコメントしている。

 考古学者でサイバー大学学長の吉村作治氏(64)が、著作権についての持論をブログで述べている。サイバー大学では、著作権クリアについて職員・学生に徹底するよう教育しているようだが、吉村氏はそんな中興味を覚えたのが歌手の森進一氏と作詞家の川内康範氏による「おふくろさん騒動」だ。

 吉村氏は「歌詞に詩をプラスすること」の問題が何なのかを知らなかったようだが、「追加」行為も「改ざん」の一種であることを学び、全般的に著作権法が厳しくなっていると感じている。

 だが、吉村氏は従来から「著作権法をどんどん厳しくしていくと、文化や芸術学術は廃れていく」という考え方を持っており、著作権クリアを強く叫ぶ人の目的が著作権料にあることを悲しんでいる。

 もちろん吉村氏は「著作権者は権利を放棄せよ!」などとは言っていない。使用する場合は当然了解を取るべきだし、クレジットを入れ、成果物を著作権者に送るべきだと考えている。ただ、お金だけに執着すべきではないと考えているのだ。

 このような発言をしているだけに、吉村氏は自身の著作物等は近い将来ライトフリーにしたいと考えている。なぜなら吉村氏にとってはお金より、世の中に広く発信した方が良いからだ。吉村氏は最後に「かと言って、今の中国のようにひどいことを奨励しているのではないことだけは申し上げておきます。もっと日本が文化的に成熟した暁にということです」と改めて著作権侵害を奨励しているわけではないことを明言した。


Re:れんだいこのカンテラ時評314 れんだいこ 2007/07/27
 【吉村作治氏の著作権感性について】

 早大OBにして古代エジプトピラミッド遺跡の発掘で世界的権威の考古学者として知られる吉村作治氏(64)は現在サイバー大学学長でもあるらしいが、著作権問題に関して意味のある発言をしている。これを考究する。

 吉村氏は、「著作権について [考古学者のひとりごと]」(http://blog.excite.co.jp/392/5852347/)で次のように述べている。後半部を転載する。
 そんな時、森進一さんと作詞家の川内康範さんの「おふくろさん」の件が発生し、興味深かったです。と言うのも、実は私すら、「おふくろさん」に追加の詩をプラスして何が問題なのだろうと思っていたからです。「おふくろさん」の歌詞そのものを変えたのではないのだからというのが私の感覚でしたが、決して甘くはなく、追加も改ざんの一種だとのことでした。いい勉強となったのです。と言うのは、以前は、地図や図版は直にそれをコピーするのはまずいが、それを自分の手でトレースすればいいと先輩から教わっていたことも、間違いだということを今回知りました。

 しかし世の中うまくできていまして、ライトフリーのものもどんどん出てきました。グーグルなどはその典型です。これからも増えるものと思います。しかし一見しますと、著作権法は厳しくなっているように思えます。教科書や試験問題まで目を光らせている著作権バスターもいるそうです。しかし、私はかなり前から、著作権法をどんどん厳しくしていくと、文化や芸術学術は廃れていくという考えでした。それは、私が他人の著作権を平気で侵す意志があるというわけではありません。今でも、著作権クリアを強く叫んでいる人たちは、著作権料を払えと言っているのが中心です。特にディズニーとかキティちゃんは厳しいと聞いていますが、私はこれをフリーにすべきだと言っているのです。他人のとった写真や書いた文章を、勝手にクレジットも入れずに使っていいと言っているのではありません。まず著作権所有者に了解を取るべきですし、使用するときに著作権者の名前を入れるのは当然ですし、使った成果物を著作権者に送付するべきと思っています。

 しかし、お金を取るというのは悲しいなと考えています。もちろん今でも私は若干のお金をいただいていますが、できる限り近い将来、私のものはライトフリーにしたいと考えています。お金より、世の中に広く発信した方がいいと考えるからです。かと言って、今の中国のようにひどいことを奨励しているのではないことだけは申し上げておきます。もっと日本が文化的に成熟した暁にということです。

 (転載以上)

 吉村氏の著作権見解は極めて重要な示唆をして入るように思える。れんだいこが解説すれば、著作権法は当初に於いては制限的にスタートした。が現在、それが肥大化し全域全方位的なものへと変質転換しつつある。この状況に対して、吉村氏が違和感を覚えていることを知らせている。これは貴重な発信ではなかろうか。

 吉村氏は残念ながら近時の強権著作権に対して違和感を覚えつつも従おうとしているように見える。しかし、吉村氏の学者魂が待てよと発信しており、理論的未整合ながらも近時の強権著作権はどこかオカシイのではないのか、文化・芸術・学術発展に対して赤信号ではないかと問いかけようとしている。俺はそういう著作権論は主張しないようにしようとも思うとも述べている。

 吉村氏の感性の良さがここに認められる。他の多くの学者が何の疑問も湧かさず強権著作権的規制に従おうとしている時代にあって、吉村氏の提言は爽快である。但し、吉村氏は、漠然と訴えており、近時の強権著作権と闘う姿勢までには至っていない。それはそれで良かろう。吉村氏的良識が幅広く存在することによって、著作権議論が旺盛になるのだろうから。

 れんだいこは、「著作権論」(3_manabu_corner_tyosakuken.htm)で縷々考察しているが、近時の強権著作権の本質は極めて反社会的なもので、情報閉塞と統制を眼目としていると見立てている。これは、文明の発達により必然的にもたらされたのではなく、現代世界を牛耳るネオ・シオニズム勢力の邪悪な意思に基づき意図的故意に導入されているものであり、賢明なる諸民族は原発政策と同様にこの仕掛けから一刻も早く決別せねばならないと考えている。

 これを宗教論的に述べると、西欧宗教に於けるイエス教は著作権無用論、キリスト教は初期著作権論、ユダヤ教パリサイ派は強権著作権論、日本古神道は著作権無用論という立場になると思われる。著作権論で見ても、イエス教と日本古神道は思想的に近いことが分かる。逆に、ユダヤ教パリサイ派の強権著作権論は異色のものであり、そういうものが現代学問の最先端理論と喧伝されていることになる。

 日本の自称インテリは思想的に無学なので、ユダヤ教パリサイ派の強権著作権論に何の違和感も湧かさず先進国理論として受容しようとしている。彼らが学会を壟断しており、本質的に貧脳な自称インテリが強権著作権論を振り回し尖兵を務めている。これも一種の学んで余慶に馬鹿になる一例だろう。

 してみれば、これに待てよと問おうとしている吉村氏の感性が注目される。氏の感性は都の西北の杜で培われたのだろうか。そう問うてみたくなる。多くの学者が著作権森林ゾーンに足を踏み入れるや道に迷うて居る中で天晴れである。問題はかく認識されるべきだろう。

 2007.7.27日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)