「吉村作治氏の素朴な疑問」考 |
(最新見直し2007.7.27日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
古代エジプトのピラミッド遺跡の発掘で世界的権威の考古学者でサイバー大学学長の吉村作治氏(64)が著作権問題に関して意味のある発言をしている。本サイトでこれを考究する。 2007.7.27日 れんだいこ拝 |
【吉村氏の著作権論】 | |
考古学者でサイバー大学学長の吉村作治氏(64)が、著作権問題に関して「著作権について [考古学者のひとりごと]」(http://blog.excite.co.jp/392/5852347/)で次のように述べている。
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【white氏のコメント】 | |
吉村氏の見解に対して、「阿修羅空耳の丘版50」のwhite氏の2007.7.25日付け投稿「吉村作治が著作権クリアに対する持論を述べる [アメーバニュース]」(http://news.ameba.jp/2007/07/6023.php)が次のようにコメントしている。
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Re:れんだいこのカンテラ時評314 | れんだいこ | 2007/07/27 | |
【吉村作治氏の著作権感性について】 早大OBにして古代エジプトピラミッド遺跡の発掘で世界的権威の考古学者として知られる吉村作治氏(64)は現在サイバー大学学長でもあるらしいが、著作権問題に関して意味のある発言をしている。これを考究する。 吉村氏は、「著作権について [考古学者のひとりごと]」(http://blog.excite.co.jp/392/5852347/)で次のように述べている。後半部を転載する。
吉村氏の著作権見解は極めて重要な示唆をして入るように思える。れんだいこが解説すれば、著作権法は当初に於いては制限的にスタートした。が現在、それが肥大化し全域全方位的なものへと変質転換しつつある。この状況に対して、吉村氏が違和感を覚えていることを知らせている。これは貴重な発信ではなかろうか。 吉村氏は残念ながら近時の強権著作権に対して違和感を覚えつつも従おうとしているように見える。しかし、吉村氏の学者魂が待てよと発信しており、理論的未整合ながらも近時の強権著作権はどこかオカシイのではないのか、文化・芸術・学術発展に対して赤信号ではないかと問いかけようとしている。俺はそういう著作権論は主張しないようにしようとも思うとも述べている。 吉村氏の感性の良さがここに認められる。他の多くの学者が何の疑問も湧かさず強権著作権的規制に従おうとしている時代にあって、吉村氏の提言は爽快である。但し、吉村氏は、漠然と訴えており、近時の強権著作権と闘う姿勢までには至っていない。それはそれで良かろう。吉村氏的良識が幅広く存在することによって、著作権議論が旺盛になるのだろうから。 れんだいこは、「著作権論」(3_manabu_corner_tyosakuken.htm)で縷々考察しているが、近時の強権著作権の本質は極めて反社会的なもので、情報閉塞と統制を眼目としていると見立てている。これは、文明の発達により必然的にもたらされたのではなく、現代世界を牛耳るネオ・シオニズム勢力の邪悪な意思に基づき意図的故意に導入されているものであり、賢明なる諸民族は原発政策と同様にこの仕掛けから一刻も早く決別せねばならないと考えている。 これを宗教論的に述べると、西欧宗教に於けるイエス教は著作権無用論、キリスト教は初期著作権論、ユダヤ教パリサイ派は強権著作権論、日本古神道は著作権無用論という立場になると思われる。著作権論で見ても、イエス教と日本古神道は思想的に近いことが分かる。逆に、ユダヤ教パリサイ派の強権著作権論は異色のものであり、そういうものが現代学問の最先端理論と喧伝されていることになる。 日本の自称インテリは思想的に無学なので、ユダヤ教パリサイ派の強権著作権論に何の違和感も湧かさず先進国理論として受容しようとしている。彼らが学会を壟断しており、本質的に貧脳な自称インテリが強権著作権論を振り回し尖兵を務めている。これも一種の学んで余慶に馬鹿になる一例だろう。 してみれば、これに待てよと問おうとしている吉村氏の感性が注目される。氏の感性は都の西北の杜で培われたのだろうか。そう問うてみたくなる。多くの学者が著作権森林ゾーンに足を踏み入れるや道に迷うて居る中で天晴れである。問題はかく認識されるべきだろう。 2007.7.27日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)