ウェブサイトの意義と効用について

 (最新見直し2010.11.13日)

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ウェブサイトの意義と効用について確認しておく。  

 2007.8.7日 れんだいこ拝


【れんだいこのウェブサイトの意義と効用論】 
  「ウェブ著作権問題」を論ずる前に、ウェブサイトの意義と効用について論じておく必要を感じたので、本日ここにサイトを設ける。

 一体、ウェブサイトにはどのような社会的意義と効用があるのか。これを思索する者が少ない。人はそれぞれ銘銘の使い方をしており、どれが絶対と云うものではない。それぞれに有益な使い方があるわけで、それはそれで良い。但し、決定的に避けて通れないものがある。それは次のことである。

 れんだいこがウェブサイトで扱うのは、1・貴重情報の掘り出しである。いろんな形で入手されるのだが、まずは閲覧、読み取り、その中でお気に入りのものを転載する。いずれ検討してみたいものも転載しておく。2・隠された情報の掘り出しである。貴重情報と重なる部分も多いが、公開されていない貴重情報と言い換えることができる。これを転載し、世に知らしめる。3・歴史秘話の掘り出しである。貴重情報、隠された情報と重なる部分も多いが、公認化されていないが真実らしき貴重情報と言い換えることができる。ウェブサイトには、各自銘銘がその能力・気質・関心度により情報を取捨選択し、これらを晒す楽しみがある。ウェブサイトから、これらの楽しみを取り上げてはいけない。

 れんだいこは、これらの作業をを経由して持論を推敲し表現しサイトアップする。己が読み直し書き直すためでも有り、誰かに読んで貰いたいためでもある。これを誰かが同じような方法でやれば持ちつ持たれつということになる。認識と云うものは、こういうやり取りを通じて精度アップする。人の頭は頑迷で、対話弁証法抜きには鍛えられない。

 ウェブサイトの社会的意義と効用はこのことにあるのではなかろうか。この意義と効用を踏まえぬままのウェブサイト活用は仏作って魂入れずに等しい。れんだいこがなぜこのことに触れるのかと云うと、ウェブ著作権論、引用・転載論に関係してくるからである。ウェブ著作権論、引用・転載論の際に、ウェブサイトの社会的意義と効用を弁えぬままの規制強化論は有害と思うからである。これの判じ方が、ウェブサイトの著作権をどう認めるのか認めないのか、引用・転載をどう認めるのか認めないのかに大きく関係してくるということである。

 これはいわゆる法哲学、思想的な範疇に属する。この分野が滅法弱いのが日本的自称知識人の特質である。彼らは特に、幕末維新以来のネオシオニズム的偏狭特異学問に染められ、元々がオツムが弱いところをますます弱くさせられた経緯が認められる。少し学べば分かるが、幕末期ないしはそれ以前の知識人の方がはるかに知的に逞しい。

 そういうへなちょこ知識人がネオシオニズム的偏狭特異学問の虜囚になった結果、オツムが弱い上に気難しさを植えつけられ、社会的に有害な方向に人々を煽るという手の付けられない痴態を演じている。著作権の強権化も然りで、これにより我が社会の文明ゾーンは爬行化させられつつある。

 この風潮に如何に闘うのか、これを議論思案せねばなるまい。とりあえず思いつくままに以上のことを記しておく。

 2007.8.7日 れんだいこ拝

【情報の取捨選択、選球眼考】
 ウェブサイトのみならず書籍や人の口からの情報について為になる例え話をしておく。野球のバッターにとって大切なものは選球眼だと云われる。情報の取捨選択はそれに似ている。情報の取捨選択の巧拙に応じて空振りに終わる場合もあるし、ヒットやホームランになる。つまり、情報の選球眼が大事と云うことになる。こう考えれば、その前提として、情報は極力自由自主自律的に収拾できるが良い。これが保証されていてからこその取捨選択であり選球眼であろう。これに照らせば、強権著作論派の引用転載制限論は、この知の営みに対する冒涜と云うことになろう。こう述べても、盗用許すまじとする頑迷な論が聞こえてきそうであるが、それはルールとマナーで対処すれば良い。引用転載制限に脳を使うより選球眼を磨く方に使えば良かろうに。

 ついでに述べておけば、引用転載を拒否せんとしてか引用転載できない仕掛けのサイトアップが散見する。滑稽なことに、そういう情報で是が非でも欲しいと思ったものは一度もない。要らんところに知恵を使うものだと呆れさせられている。こういうチマチマした知恵を持つ根性の者が増え過ぎないことを願う。

 2010.11.13日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)