グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化考 |
(最新見直し2009.4.26日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化」を検証しておく。興味深いことは、グーグルが真の最新革新派に立っており、これに抵抗する諸団体が旧式の革新派に立っていることである。両者はどう違うのか。ここには根本的な思想問題が胚胎しているように思われる。 2009.3.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評549 | れんだいこ | 2009/03/12 |
【グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化考】 ネット検索最大手の米国グーグルが、生物科学者のDNA遺伝子情報解読に比するかの如き熱意で、米国内の図書館などと提携し、蔵書のデジタル・データベース化を図っている。本来であれば、国益上は日本もこの競争に遅れじとばかり参入して行くべきであろうが、日本政治は事態を理解する能力そのものがないのだろう、口をポカンと開けたまま指をくわえ、為すことと云ったら「無通知無承諾で転載デジタル・データベース化するなら金払え」が精一杯と云う惨状を呈している。 メディア情報によると、2005年、米国の 全米作家組合と全米出版社協会が、米国グーグルの書籍検索サービスに対して「著作権への重大な侵害」などとして著作権侵害集団訴訟を提訴し、間もなく和解すると云う。両者は昨年10月に 和解で合意、今夏にも出される連邦裁判所の認可を待って発効する。 合意の対象は、2009.1.5日以前に出版された書籍で、同社は、1・著作権保護のために設立される非営利機関の費用3450万ドル(約32億円)、2・無断でデジタル化 された書籍などの著作権者に対しての補償金総額4500万ドル(約42億円)以上をそれぞれ支払う。見返りとして同社は、絶版などで米国内で流通していないと判断した書籍のデジタル化を継続し、書籍データベースアクセス権の販売や、広告掲載などの権利を取得することが定められた。また、対象書籍に関連して同社が今後得る総収入の63%を著作者らに分配する云々。 著作権者は、オンライン上での使用を望まない場合、2011.4.5日まで、同社側に自著の削除を求めることができる。さらに、和解に拘束されることを望まない著作権者に対しては、和解からの「除外」を認め、2009.5.5日を除外通告期限としている。和解の効力は米国での著作権を有する人すべてが対象となる。著作者らが自ら申請をしなければ、米国内でのデータベース化を拒めない内容で、 その効力は日本の著作者にも及ぶ云々。 2009.3.2日、日本文芸家協会(坂上弘理事長)は理事会で、著作権管理を協会に委任している作家ら約5千人に対し、和解の意思を確認し、合意者をとりまとめて和解金の請求を代行することを決めた云々。これが、日本側の対応だと云うのだからお粗末極まりない。 これは由々しき事件であるのでコメントしておく。仮に「「グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化事件」と命名する。これのどこが滑稽かと云うと、グーグル社は、インターネットの能力と技術の可能性に基き、世界の著作物のデジタル・データベース化に勤しんでおり、その際「無通知無承諾」で取り込みつつあるところ、強権著作権派がか細い声で「金払え」と請求しているところにある。 れんだいこの見立てるところ、グーグル社は、英米日で流行の強権音楽著作権論に基く人民大衆の歌唱演奏に対する課金制にヒントを得て、これを書籍の世界でも展開しようとしていることになる。これが首尾よく行けば、ネット上で書籍が読まれるごとに天文学的金貨が転げ込む仕組みになる。当然、情報統制も今よりますます強化されよう。究極のユダヤ商法知財ビジネスと云うべきか。 本来であれば、日本及び各国の検索会社がバスに乗り遅れじとばかりに参戦すべきなのだが、強権著作権論の「無通知無承諾引用転載罷りならぬ」に縛られており身動きできない。普通これを自業自得と云う。おっつけ、各国の検索会社は、米国グーグル社が整備したデジタル・データベースに対価を払って利用させて貰うという上手い具合の話になるのだろう。 れんだいこは、これにより料金が安ければ、それも良かろうとは思う。しかし、予想されることとして最終的には結構な金額になるだろう。音楽をネット配信で聴くのに一曲100円から200円するように、馬鹿高くなることが予想される。それよりも問題は情報統制の方にこそある。グーグル社サイドが流してよいと思われる情報はすいすいと流れるが、逆は制約される。容易に透けて見えて来る事態である。 ならばどうすべきか。日本も、国策として一刻も早い書籍のデジタル・データベース化に向かい、著作権侵犯論に基く対価請求ではなく、最低限必要経費から割り出した適正金額での利用促進に向かうべきであろう。これが望まれている日本方式なのであるが、日本でこれをやろうとすれば必ずや袋叩きに遭うハメになる。これを俗に病膏肓と云う。かくて、グーグルの独り舞台独演場になる。 この理解は普通の感性でもたらされるものなのだが、これを云う者が居ない。寂しいこと限りない。問題はどこにあるのか。れんだいこが答えないと誰も言わないだろうから指摘しておく。全ては強権著作権論にある。この法理に縛られる限り、理工系科学の成果が悉く歪曲されてしまう。人工衛星が飛ぶ時代に、我々の精神界は不似合いなほど窮屈にされている。それは、生産力が高まっているのに飢餓が蔓延しつつある構図に似ている。 つまり、世の中の仕組みがオカシイということになる。このオカシサを指摘する陣営の者が余計に強権著作権論を振り回しているのが更にオカシイという構図にある。その点、グーグル社は頭抜けており、将来ビジネス原野をせっせと開墾中と云う訳か。 考えてたら堪らんから、碁でも打ちに行こう。今日は勝てるだろうか。昨日はヤラレタ。ヤフー碁でやっと2100点を超し赤マークに達した。早く2500点を越せる身分になりたいもんだ。 2009.3.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評562 | れんだいこ | 2009/04/26 |
【グーグル図書館問題をどう解くべきか考】 ネット検索最大手の米国グーグルの蔵書のデジタル・データベース化、これによるネット上で書籍を閲覧検索できるサービス即ち「クーグル図書館」が問題になっている。これにコメントしておく。既に2009.3.12日のれんだいこのカンテラ時評549「グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化考」で言及しているので、極力ダブらないよう新たに論説しておく。 メディア情報によると、2005年、米国の 全米作家組合と全米出版社協会が、「グーグル図書館」に対して、「著作権への重大な侵害」などとして著作権侵害集団訴訟を提訴した。両者は2008.10月 和解で合意、閲覧サービスによる収入の63%を著作権者に配分し、無断でデータベース化した場合には著作権者に一点当たり60ドルを支払う等々で合意した。今夏にも出される連邦裁判所の認可を待って発効する。問題は、米国での和解が自動的に世界に及び、不服ある者は5月5日までに事前に申し出ねばならない、データベースからの削除は2011.4月までに申し立てる必要があるようにされていることにある。著作者らが自ら申請をしなければ、米国内でのデータベース化を拒めない内容で、 その効力は日本の著作者にも及ぶ。 1998年、ネット検索会社としてデビューし急成長してきたグーグル社はこれまでも、無料動画ユーチューブや街並みの実写画像ストリートビューなどで物議を醸してきた。一貫して共通しているのは「まず革新的で便利な技術やサービスを提供し、収益化の方法は後で考える」という同社の経営方針である。「クーグル図書館」は、この思想に基いて生み出され、ネット利用者の利便性を徹底追及する善意が生んだサービスでフェアユースの精神に立脚しているとされている。既に700万部を超える書物をデジタル化したと云う。 これに我が日本はどう対応しようとしているのか。2009.3.2日、日本文芸家協会(坂上弘理事長)は理事会で、著作権管理を協会に委任している作家ら約5千人に対し、和解の意思を確認し、合意者をとりまとめて和解金の請求を代行することを決めた。続いて、4.15日、「日本の著作権者と出版各社を大混乱に巻き込んだ」と批判する声明を発表した。日本文芸家協会の「報道関係各位 グーグル書籍検索和解案からの集団和解離脱に関して」(ttp://www.jvca.gr.jp/oshirase/oshirase20090425.pdf)によると、4.25日、協会会員著作権者174名が、グーグル書籍検索に対するクラスアクションによってもたらされた和解案から離脱とある。 問題は、彼らが何を不満としているかにある。恐らく、グーグル社と米国の作家組合、出版社協会が取り決めたものを一方的に押し付けられる不快さを表明しているものと推測されるが、れんだいこの考えはちと違う。問題は、著作物の「フェアユース論」(社会的に公正に利用されるのは著作権侵害に非ず論)を一顧だにしない、著作物利用即権利侵犯論に立つ強権著作権論者が、グーグル社の著作物のデジタル・データベース化に対して著作権侵害と息巻いているのではないかと思われる。だとすれば、れんだいこは、全くナンセンスと判じたい。 著作物のデジタル・データベース化は本来、国策として為されねばならない事業である。なぜなら、それらは人類の精神的遺産と考えられるから。ところが、強権著作権論者の著作権侵犯論の壁によりこれができない。グーグル社が、この壁に挑んだと考えれば良い。この場合、グーグル社の快挙を喜ぶべきではない。民営事業体のグーグル社の手で為されることにより、将来高額利用料が課され大いなる利権となる可能性が強い。叉はより一層巧妙に情報統制化する恐れもある。これを思えば、複数の同種企業が行い平準化させるか、国策的に国営で整備するしかない。 「グーグル図書館問題」は、かく論ぜられねばならない。日本文芸家協会は、音楽界のジャスラックに続く文学界の強権著作権論者の溜まり場である。この手合いが、この問題を解ける訳がなかろう。米国式解決法のゴリ押しの前にひれ伏すか、イチャモン付けるかの対応しか遺されていない。れんだいこは、この手の正義には食傷し過ぎており、何の関心も無い。 関心があるのは次のことである。果たして、強権著作権者らが説く「人民大衆的著作物利用即著作権侵犯論に基く対価課金制」は正しいのか。理論が転倒倒錯してやいないか。これを機会にそろそろ頭を冷やしたらどうか、冷やせるだろうかということである。何のことか分からないだろうから、れんだいこが説明しておく。 「人民大衆的著作物利用即著作権侵犯論に基く対価課金制」が如何にオカシなロジックかについて、れんだいこはこう考えたい。市場では一般に商品を流通販売するのに莫大な広告宣伝費を掛けている。車のトヨタ、化粧品の資生堂、ビールのアサヒ、キリン等々を思い浮かべればよい。不動産市場での物件広告を思い浮かべても良い。こういう経済システム下に於いて、人民大衆がネット上であるいは書籍上で口コミした場合、企業は、「当社の商品を黙って品評口コミするのはケシカラン」と抗議するだろうか。普通は、むしろ慶ぶ事態ではなかろうか。 ところが、著作権業界は、「当社の管理物を黙って品評口コミするのはケシカラン」と抗議した上で、従わないとなると裁判攻めにした挙句、消費者金融をも驚く高額ペナルティ料金を吹っかけ、利息を附して請求し続け、破産、閉店、逮捕の三点セットで締め上げる。ジャスラックと日本文芸家協会はその双璧団体である。 一体、著作権者は、自分の作品が巷で演奏歌唱されたり、引用転載されることに腹立たしく思うべきだろうか。幸にしてれんだいこは、こたびの処女作出版で著作権者となった。その気持ちは、もっと騒いでくれ、引用してくれ、転載してくれ、議論してくれと思う。れんだいこに黙って、引用転載することがケシカランとは絶対に思わない。れんだいこの場合、著者名、出典元を記さないで、れんだいこのフレーズを借用してくれても、よくぞ気に入って使ってくれたと感謝したい。 これが普通の感性ではなかろうか。良い作品と認められれば認められるほど、人は口コミしたがるものだし、気に入った文面を使いたくなるとしたもんだろう。著者にとって、それは誉れであろう。そういう風に認められ、名が売れることにより追って副次効果が生まれるとしたもんだろう。例えば、演奏会、歌唱会、講演会をした時に満席になり算盤が合うとと云う風に。 ところが、現代強権著作権論者はこう考えない。俺の作品を誰かが黙ってカネも払わず歌ったり引用転載していやしないだろうか、もし見つけたら吊るし上げしてやる、今日も検索の旅に出る云々。こういう手合いが芸術家ぶって先生先生と云われてその気になっている。口先ではいいこと云うかも知れないが、その精神構造たるやかなり蛮人であろう。ところが、この蛮人が、先進国では文明国では知的所有権と云ってね、こういう権利は大事にしなければいけないのだよと説教する。 れんだいこは、違うと申し上げたい。我々は飯を食わねばならないのは事実だ。但し、飯の食い方が正道に就かねばならない。強権著作権論は追って首を絞めることにしかなるまい。そういうことに気づくのが本当の小説家であり詩人であり作曲家なのではなかろうか。そこから芸術が生まれるのではなかろうか。そういう風に伝統が作られてきたのではなかろうか。それを思えば、今日びの著作権論は、狂った時代の狂った権利主張のように思えてならない。 2009.4.26日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)