「渡部裕(ひろし)教授の強権著作権批判」考

 (最新見直し2008.6.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 このところ、新聞メディアの著作権関連記事が増えてきている気がする。ここでは、毎日新聞の2008.6.3日付け「考える耳」の渡部裕(ひろし)東大大学院文学資源学教授の「一人歩きする著作権問題」を採り上げ、愚行する事にする。

 2008.3.7日 れんだいこ拝


【渡部氏の著作権論】
 渡部教授は、戦後日本が世界に冠たる年金、医療制を構築していたにも拘らず、ここへきて解体されつつある状況を嘆き、「音楽の世界も似たような状況になっている」との視点を披瀝している。れんだいこは、渡部教授が、著作権問題を、文明的先進国的に発展しつつあるとせず、年金、医療制同様に破壊されつつあるとの観点に同意する。このように捉える論者はまだ少ない。

 但し、渡部教授は次のような歴史観を披瀝している。
 「せっかく長い時間かけて作ってきた福祉制度がいとも簡単にこわされ、弱肉強食の世の中になりつつある状況には、時計の針が逆廻りして封建時代に戻っているような印象さえおぼえる。金の話に気を取られている間に、近代社会が築いてきた人間の平等や人権といった基本理念そのものが危うくなっている。そんな危機感を感じる」。

 現代学問の水準に合わせれば何ら疑問の無い分かり易い指摘で有るが、れんだいこは少々違うと思う。後段の「近代社会が築いてきた人間の平等や人権といった基本理念そのものが危うくなっている」はその通りとして、果たして云われるように「封建時代に逆戻り」していると捉えるべきだろうか。

 これを本格的に論ずると難しくなるので、簡単にコメントする。一つは、封建時代は果たして、云われるように近代社会よりも遅れた社会だったのかという点で、実際は物差しが違うだけで、近代社会の方が格段に勝れているとするのは早計な理論ではなかろうかという問題が有る。精神的自由にしても、却って封建時代の学問、娯楽の方がより非統制的であった面を窺うべきではなかろうか、という問題が有る。

 いわゆるルネサンス的自由精神が近代精神を培養し、近代社会を招来せしめたのは史実であろうが、その近代社会から接続している現代社会になって何ゆえにルネサンス的自由精神を喪失せしめ、今日の如く次第に牢獄化しているのかを糾さねばなるまい。

 これを解くには、既成のインロー的インテリには無理な話かもしれない。太田龍・氏的アウトロー的インテリに拠らずんば解けない。太田龍・氏に拠れば、れんだいこ流理解になるが、封建時代から近代資本主義を生み出す過程は、いわゆるロスチャイルド派国際金融資本勢力の暗躍を媒介せずんば真相に迫れない。彼らが、植民地と戦争と革命を意図的に引き起こし、現代世界を創造してきた。こう理解せねば真相に迫れないのではなかろうか。

 その昔のイエス在世時代のパリサイ派との論争で明らかになるが、パリサイ派ははるか昔から今日の社会を現出すべく営々と努力してきた事が判明する。ロスチャイルド派国際金融資本勢力は現代パリサイ派であり、彼らが世の中を牛耳ると、イエスが危惧した通りの社会を構築するところとなった。イエスの炯眼恐るべしであろう。

 「現代著作権問題」は、このセンテンスで読み取らないと何が起こり起こりつつあるのかが解けないのではなかろうか。かく視点を定めたい。残念ながら、渡部教授にはこの視角は窺えない。それとも用心深く奴隷の言葉で語っているのだろうか。

 それはともかく、渡部教授は、著作権をめぐる度重なる法改正の流れを次のように捉えている。
 「著作権制度が複雑化し、一般の音楽家や聴き手から遠いものになってゆく中、もっぱら音楽産業の意に沿って制度改正が進められ、著作権本来の精神が歪められたばかりか、いつの間にか公共の法益が損なわれ、人権まで侵害される事態が引き起こされているというのだ」。

 渡部氏のこの観点も素晴らしい。教授は、概要「著作権をめぐる度重なる法改正は、著作権本来の精神が歪めた」と指摘している。現代強権著作権論に与する自称インテリは、爪の垢でも煎じて飲めばよかろう。

 では、どのようなものが本来の著作権であったのか。というか、どういう限定付きで著作権が認められてきたのかを確認せねばなるまい。渡部氏は次のように述べている。
 「著作権は元来、権利者の利益を守ると同時に、権利者が権利を独占することによって作品の公共性が損なわれる弊害を防ぐ仕掛けでもあった。複製行為もそれ自体が違法とされたわけではない。実際に著作権者の権益が損なわれたことが立証された上で、その複製が『公正な使用』の枠を超えているか、作品の流通に及ぼした影響を及ぼしたか等々を総合的に勘案し、違法性を判定するのが本来のあり方だった」。

 渡部教授のこの指摘は実に素晴らしい。れんだいこは今までこのように説いた法学者にお目に掛かったことが無い。れんだいこはこれまで同様の指摘を執拗に繰り返してきたが、れんだいこ論の正当性が初めて法学者に裏付けられた気持ちがする。

 渡部教授は続いて次のように指摘している。
 「たしかに違法コピー問題は深刻だが、それを防御するあまり、アクセスの勝手なコントロールを容認すれば、作品の公共は失われる。それ以上に、『知る権利』の侵害や検閲、差別など、あらゆる人権問題を呼び込む危険性が有る。著作権を守れ、という至極もつともなスローガンの裏で、いつの間にか、こんな恐ろしい事態が進行しているのである」。

 素晴らしい指摘ではなかろうか。

 渡部教授は続いて次のように指摘している。
 「1993年のTRIPS(知的所有権の貿易的側面に関する協定)の話にも驚いた。これによって著作権問題は貿易一般の枠組みに組み込まれ、著作権保護が不十分とされる国に対し、他の品目での経済制裁を行う事も可能になったという。様々な経緯を持つ国ごとの文化状況の違いを考慮しないまま、金の力を借りたほとんど脅しのようなやりかたで、西洋の音楽産業の利害を他国に押し付けるようなことが平然と行われうるのである。著作権問題は知らないうちに独り歩きし、手に負えない力を持つものになりはじめているのだ」。

 これも素晴らしい指摘ではなかろうか。

 渡部教授は次のように結んでいる。
 「音楽があふれている現代社会にあっては、音楽産業はもちろん欠かせない存在だが、そのロジックに幻惑されている間に、長い間かけて作り上げてきた社会や文化の根幹部分を揺るがす変化がひそかに進行しているとしたら、大変な事だ。その構図は、目先の問題に気を取られているうちに、福祉や医療のあり方を根本から崩壊させるような見えない動きがひそかに進行しつつある、今の日本の状況とも重なり合っている」。

 良い話を聞かせてもらったことを感謝する。

 それはともかく、渡部教授のこんなに素敵な話を勝手に引用転載させていただいたが、これが著作権法に触れるか触れないかと云う問題が有る。渡部教授の論旨からすれば、れんだいこのこたびの利用は著作権法違反ではないということになろう。

 だが、ややこしいことはこれから始まる。毎日新聞の加盟している新聞協会の著作権論に拠れば、れんだいこのこたびの引用転載は事前通知、要承諾制になっている。新聞協会は使用を認めるか認めないかだけだが、ジャスラックになると一曲幾ら、もしくは店舗面積割で幾ら、もしくは営業収入費割で幾らという果金の対象になる。これはおいしい話だとして、ジャスラックに続いて(株)日本ビジュアル著作権協会も参入し、活字著作物に対する課金制商売に精出し始めている。

 多くの論者は、この動きを知的所有権の在り方として当然で、文明国ならではの先進的権利で世界に広げねばならない、日本は米国と並んでそのパイオニアを務める云々との業者の弁に加担して恥じない。しかし、れんだいこが知る限り、日本史上初めて、大学教授としての然るべき名誉と地位を持つ人物が、それは文明的でも先進的でもない、却って封建時代の逆戻り現象として批判したことになる。

 してみれば、この小論文の功績は大きいと看做すべきではなかろうか。この陣営に与するれんだいこはうれしさの余り早速コメントしてみた。どうか皆さん続いてください。

 2008.6.3日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評406 れんだいこ 2008/06/03
 【渡部裕(ひろし)教授の著作権論考】

 (最新見直し2008.6.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 このところ、新聞メディアの著作権関連記事が増えてきている気がする。ここでは、毎日新聞の2008.6.3日付け「考える耳」の渡部裕(ひろし)東大大学院文学資源学教授の「一人歩きする著作権問題」を採り上げ、愚考する事にする。

 2008.6.3日 れんだいこ拝

 【渡部氏の著作権論】

 渡部教授は、戦後日本が世界に冠たる年金、医療制を構築していたにも拘らず、ここへきて解体されつつある状況を嘆き、「音楽の世界も似たような状況になっている」との視点を披瀝している。れんだいこは、渡部教授が、著作権問題を、文明的先進国的に発展しつつあるとせず、年金、医療制同様に破壊されつつあるとの観点を披瀝していることに同意する。このように捉える論者はまだ少ない。

 但し、渡部教授は次のような歴史観を披瀝している。「せっかく長い時間かけて作ってきた福祉制度がいとも簡単にこわされ、弱肉強食の世の中になりつつある状況には、時計の針が逆廻りして封建時代に戻っているような印象さえおぼえる。金の話に気を取られている間に、近代社会が築いてきた人間の平等や人権といった基本理念そのものが危うくなっている。そんな危機感を感じる」。

 (れんだいこコメント)

 現代学問の水準に合わせれば何ら疑問の無い分かり易い指摘で有るが、れんだいこは少々違うと思う。後段の「近代社会が築いてきた人間の平等や人権といった基本理念そのものが危うくなっている」はその通りとして、果たして云われるように「封建時代に逆戻り」していると捉えるべきだろうか。

 これを本格的に論ずると難しくなるので、簡単にコメントする。一つは、封建時代は果たして、云われるように近代社会よりも遅れた社会だったのかという点で、実際は物差しが違うだけで、近代社会の方が格段に勝れているとするのは早計な理論ではなかろうかという問題が有る。精神的自由にしても、却って封建時代の学問、娯楽の方がより非統制的であった面を窺うべきではなかろうか、という問題が有る。

 いわゆるルネサンス的自由精神が近代精神を培養し、近代社会を招来せしめたのは史実であろうが、その近代社会から接続している現代社会になって何ゆえにルネサンス的自由精神を喪失せしめ、今日の如く次第に牢獄化しているのかを糾さねばなるまい。

 これを解くには、既成のインロー的インテリには無理な話かもしれない。太田龍的アウトロー的インテリに拠らずんば解けない。太田龍・氏に拠れば、れんだいこ流理解になるが、封建時代から近代資本主義を生み出す過程は、いわゆるロスチャイルド派国際金融資本勢力の暗躍を媒介せずんば真相に迫れない。彼らが、植民地と戦争と革命を意図的に引き起こし、近代から今日に至る現代世界を創造してきた。こう理解せねば真相に迫れないのではなかろうか。

 その昔のイエス在世時代のパリサイ派との論争で明らかになるが、パリサイ派ははるか昔から今日の社会を現出すべく営々と努力してきた事が判明する。ロスチャイルド派国際金融資本勢力は現代パリサイ派であり、彼らが世の中を牛耳ると、イエスが危惧した通りの社会を構築するところとなった。イエスの炯眼恐るべしであろう。

 「現代著作権問題」は、このセンテンスで読み取らないと何が起こり起こりつつあるのかが解けないのではなかろうか。かく視点を定めたい。残念ながら、渡部教授にはこの視角は窺えない。それとも用心深く奴隷の言葉で語っているのだろうか。(コメント終わり)

 それはともかく、渡部教授は、著作権をめぐる度重なる法改正の流れを次のように捉えている。「著作権制度が複雑化し、一般の音楽家や聴き手から遠いものになってゆく中、もっぱら音楽産業の意に沿って制度改正が進められ、著作権本来の精神が歪められたばかりか、いつの間にか公共の法益が損なわれ、人権まで侵害される事態が引き起こされているというのだ」。

 (れんだいこコメント)

 渡部氏のこの観点も素晴らしい。教授は、概要「著作権をめぐる度重なる法改正は、著作権本来の精神が歪められた過程である」と指摘している。現代強権著作権論に与する自称インテリは、爪の垢でも煎じて飲めばよかろう。(コメント終わり)

 では、どのようなものが本来の著作権であったのか。というか、どういう限定付きで著作権が生まれ認められてきたのかを確認せねばなるまい。渡部氏は次のように述べている。「著作権は元来、権利者の利益を守ると同時に、権利者が権利を独占することによって作品の公共性が損なわれる弊害を防ぐ仕掛けでもあった。複製行為もそれ自体が違法とされたわけではない。実際に著作権者の権益が損なわれたことが立証された上で、その複製が『公正な使用』の枠を超えているか、作品の流通に及ぼした影響を及ぼしたか等々を総合的に勘案し、違法性を判定するのが本来のあり方だった」。

 (れんだいこコメント)

 渡部教授のこの指摘は実に素晴らしい。れんだいこは今までこのように説いた法学者にお目に掛かったことが無い。れんだいこはこれまで同様の指摘を執拗に繰り返してきたが、れんだいこ論の正当性が初めて法学者に裏付けられた気持ちがする。(コメント終わり)

 渡部教授は続いて次のように指摘している。「たしかに違法コピー問題は深刻だが、それを防御するあまり、アクセスの勝手なコントロールを容認すれば、作品の公共は失われる。それ以上に、『知る権利』の侵害や検閲、差別など、あらゆる人権問題を呼び込む危険性が有る。著作権を守れ、という至極もつともなスローガンの裏で、いつの間にか、こんな恐ろしい事態が進行しているのである」。

 (れんだいこコメント)

 素晴らしい指摘ではなかろうか。(コメント終わり)

 渡部教授は続いて次のように指摘している。「1993年のTRIPS(知的所有権の貿易的側面に関する協定)の話にも驚いた。これによって著作権問題は貿易一般の枠組みに組み込まれ、著作権保護が不十分とされる国に対し、他の品目での経済制裁を行う事も可能になったという。様々な経緯を持つ国ごとの文化状況の違いを考慮しないまま、金の力を借りたほとんど脅しのようなやりかたで、西洋の音楽産業の利害を他国に押し付けるようなことが平然と行われうるのである。著作権問題は知らないうちに独り歩きし、手に負えない力を持つものになりはじめているのだ」。

 (れんだいこコメント)

 これも素晴らしい指摘ではなかろうか。(コメント終わり)

 渡部教授は次のように結んでいる。「音楽があふれている現代社会にあっては、音楽産業はもちろん欠かせない存在だが、そのロジックに幻惑されている間に、長い間かけて作り上げてきた社会や文化の根幹部分を揺るがす変化がひそかに進行しているとしたら、大変な事だ。その構図は、目先の問題に気を取られているうちに、福祉や医療のあり方を根本から崩壊させるような見えない動きがひそかに進行しつつある、今の日本の状況とも重なり合っている」。

 (れんだいこコメント)

 良い話を聞かせてもらったことを感謝する。

 それはともかく、渡部教授のこんなに素敵な話を勝手に引用転載させていただいたが、これが著作権法に触れるか触れないかと云う問題が有る。渡部教授の論旨からすれば、れんだいこのこたびの利用は著作権法違反ではないということになろう。

 だが、ややこしいことはこれから始まる。毎日新聞の加盟している新聞協会の著作権論に拠れば、れんだいこのこたびの引用転載は事前通知、要承諾制になっている。新聞協会は情報統制に意味を持たせてか単に権威ぶっているのか、使用を認めるか認めないかだけだが、ジャスラックになると一曲幾ら、もしくは店舗面積割で幾ら、もしくは営業収入割で幾らという課金の対象になる。これはおいしい話だとして、ジャスラックに続いて(株)日本ビジュアル著作権協会も参入し、活字著作物に対する課金制商売に精出し始めている。

 多くの論者は、この動きを知的所有権の在り方として当然で、文明国ならではの先進的権利で世界に広げねばならない、日本は米国と並んでそのパイオニアを務める云々との業者の弁に加担して恥じない。しかし、それは単にいゆわるユダヤ商法の走りであって、排斥する意味はあっても真似するようなものではない。

 それはともかく、れんだいこが知る限り、日本史上初めて、大学教授としての然るべき名誉と地位を持つ人物が、現代強権著作権の動きは文明的でも先進的でもない、却って封建時代の逆戻り現象として批判したことになる。

 してみれば、この小論文の功績は大きいと看做すべきではなかろうか。この陣営に与するれんだいこはうれしさの余り早速コメントしてみた。どうか皆さん続いてください。これに勇気付けられて、どんと参りませう。

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