聖書の著作権考察、ローマ法王の御言葉の著作権 |
(最新見直し2006.1.27日)
【「聖書の著作権考」】 | |||||||||||||
「聖書の著作権考」は凡そ著作権問題の最高例題であろう。ここでは、これにどう取り組むか、どう理解すべきかを問いたい。案の定というべきか「聖書と著作権」でこの問題がサイトアップされている。暫く、これを見ておくことにする。 世界的な慣行かどうか不明であるが、日本の聖書著作権は次のようになっている。
だがしかし、著作権法から見て聖書には複雑な問題が介在している。ここから問わなければ、「聖書の著作権考」は片手落ちであろう。 まず、聖書に書かれている言辞の主体はイエス・キリストであろう。イエス・キリストは、自らの言辞が文書にされたとして、今日的な意味での財産権的著作権を主張する御仁であったであろうか。その真反対のお方ではなかろうか。次に、使徒伝各章が連なって聖書を構成しているが、この使徒達はそれぞれに財産権的著作権を主張する御仁であったであろうか。その真反対のお方ではなかろうか。次に、今日的な聖書体裁での編集者の著作権問題に移る。歴史上、聖書の編纂者、出版社達は、今日的な意味での財産権的著作権を主張する御仁であったであろうか。その真反対に無償普及を目指してきたのではなかったか。 ところが、歴史が下って、いつの頃からか分からないが我が日本では日本聖書協会、共同訳聖書実行委員会、日本聖書刊行会、新改訳聖書翻訳委員会が聖書刊行の主体となり、いつの頃からか分からないが聖書著作権を主張し始めることになった。果たして、これら聖書管轄者達に著作者並みの著作権が認められるべきであろうか。 容易に考えられることは、聖書管轄者達には、1・聖書の正しい翻訳での出版。2・聖書の改ざん及びその流布の禁止。3・聖書の普及、の3条件が課せられており、その限りで聖書著作権が認められるべきである、ということであろう。 だとするならば、例えば、ある大学の神学部教授(仮にA氏とする)が、ネット上の共同作業で新しい聖書翻訳プロジェクトを立ち上げたいという提案を為したところ、日本聖書協会が「勝手に翻訳しては困る」とクレームを付けるなど越権甚だしいのではなかろうか。 A氏は、「私としては、非営利、無報酬で、ただ『神のみことば』のために行っていることですので、ぜひ日本聖書刊行会の方にご理解頂きたいと思います」と何度か交渉したが埒が明かなかった。これにつき、概要「その本質に照らしてみても、どうも著作権の乱用、行き過ぎた適用ではないかと思われる」と縷縷疑問を述べている。 以上を踏まえて、「聖書著作権問題」を検討してみたい。れんだいこも加勢してその疑問を後押ししてみたい。なぜなら、「聖書著作権問題」は、文書的著作物の著作権問題をことごとく包摂しているやに見受けられ、これを解けば他の問題も自ずと解けるという具合に関係しているからである。 その1・著作権法における著作権規制の真意について。 著作権法第1条(目的)は次のように規定されている。
これをどう理解するかということであるが、 まず「著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の 権利及びこれに隣接する権利」とは、特許及び実用新案等々の工作物における発明性及び創意工夫性に類似した権利を著作物全般にも適用せんとしたところにそもそもの意図があったものと思われる。してみれば、「発明性及び創意工夫性」が認められるオリジナル性が生命線であり、それらのものに限ってこれを著作権法で保護しようとしている規定として受け止めるべきであろう。 であれば、いわゆる文芸作品、詩歌、音曲等においてはこれが認められる余地がある。しかしながら、オリジナル性よりも相互通行を目指すことに重きが置かれる諺(ことわざ)、哲学、思想、政治、宗教等々に排他的権利として著作権を認めることは邪道と云うべきではなかろうか。これらの分野には非適用ないしは消極的適用こそが望まれており、導入されるべきは法的規制以前の自由・自主・自律的なマナーの確立では無かろうか。 故に、著作権法では、続いて「これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ」と但書している。この真意は、「この権利は公共性とのバランスが大切である」と指摘しているところにある。「著作権を硬直的に適用したり、乱用したりすると、文化的財産が一部に独占され、逆に創作意欲を失って文化の発展を阻害することも有りうる」ことからの留意事項として受け取るべきであろう。 このことを、アメリカでは、「フェア・ユース」概念で確認している、と云う。藤本英介弁護士のサイト「ネット環境下の著作権と公正利用(フェアユース)」は次のように述べている。
参考までに記すと、「アメリカ1976年著作権法107条」は次の通り。
以上を踏まえて、藤本弁護士は次のように述べている。
れんだいこが「フェア・ユースの概念」を意訳すれば、「フェア・ユースの概念とは、当該書物がその排他的創作性よりも普及的使命を帯びており、人類全体の共有財産的に取り扱われるべきであるとする立場から、著作権非適用こそ望ましいとする概念である」とでも云えようか。日本ではまだ「フェア・ユース法理」は認められていないが、古来よりこの法理に基づいて遣り取りされてきていた至極当然の概念であるからして、この法理が著作権法の中で再確認される日が必ずやって来るであろう。 その2・聖書の特異性について。 A氏は、概要「聖書はフェア・ユースの概念に当てはまるまさにその種のものであり、その発行元も又これらの任に当たる機関としてあるべしであれ」と述べている。当然の指摘であるが、もう一つ考慮せねばならぬことがあるように思われる。冒頭で触れたが、「聖書著作権問題」には、著作者でない法的権利継承者が著作者の意思に反して著作権規制することの是非論が介在している。これは何も聖書のみならず他の事例にも波及する。一体、著作者当人が今日的著作権非適用の精神で著作した歴史的著作物を、後世の者が如何なる口実で著作権を取得でき、著作者の意思に反して著作権主張できるか、という問題である。イエスのみならずマルクス然り、大塩平八郎然りであるが、誰かこれに答えて見よ。 いつの頃よりかは定かではないが今や発行元がことさらに著作財産権、著作者人格権を主張し始めている。普及使命よりも普及統制に重点を置き始めているという弊害を見せている。本末転倒現象と云うべきであろう。しかし世は如何せん、日本聖書刊行会、新改訳聖書翻訳委員会のみならず、新聞社も出版社も政党も図書館までもが著作権棒を振り回し始めている。これにサヨ族が群がり、それこそが正義であるなどとこじつけながら著作権旗を振っている。 |
【「ローマ法王の御言葉の著作権考」】 |
2006.1.25日、バチカンのローマ法王庁は、これまで自由に引用されてきたローマ法王の言葉や文章に対して著作権をはっきりさせ、印刷した本などに印税をかけるという新方針を明らかにした。著作権についての議論はこれまでは特段為されておらず、唐突な発表になった。
著作権の対象は、回勅、サンピエトロ広場での毎週日曜の祝福など法王の言葉と著作。印税額は本の価格の3−5%で、バチカン出版局が一元管理する。負担増を嘆く出版社の声が聞こえる。
前法王ヨハネ・パウロ二世は自伝など数多くの本を出したが、法王に「収入」は認められていないため、出版社が寄付の形で金銭を渡していた。寄付の使途は、修道院の維持や教会の修復など、その都度決められていた。 これに対し、批判の声が挙がっている。1・「法王の言葉の商品化」(ANSA通信)、2・「聖職者と金を連想させる悪い効果しか与えない」(作家メッソーリ氏)、3・「布教に協力してきたのに今さら…」との批判が生まれている。 |
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(私論.私見)