でも、もう少し考えを進めてみましょう。だからこそ、この小冊子は『もうひとつの著作権の話』と題されているのです。
「こまった著作権!」の部分でも書きましたように、実際には教科書で教えてくれるような安全な態度を取ってばかりもいられない現実があります。皆さんの周りには便利な情報機器があって、皆さんがそれらを活用するのを待っています。また、そのこと自体を悪いことだと決め付けることもできません。友達にCDからコピーしてもらったMDを聴くのが悪いことだろうことはすぐに納得がいっても、レポートを書くために雑誌や新聞の記事をコピーして貼り付けたり、面白いテレビ番組をビデオで録画して友達にダビングしてあげたり、軽音楽クラブの発表コンサートでヒット曲を演奏するためにも権利を持っている人の許可が必要だと言われれば「ちょっと待ってくれよ!」と言いたくなるでしょう。
最近の興味深い例でいえば、インターネットが挙げられます。皆さんもご存知とは思いますが、Webブラウザというものがあります。これは著作物だといわれているWebページをインターネットを経由して皆さんのパソコンの画面に表示するソフトウェアです。実はこのブラウザは、インターネットを経由して、著作物であるWebページのコピーを皆さんのコンピュータに持ってきて表示するものなのです。
日本国の著作権法では、著作物の無断複製は禁じられています。そして
Webページを構成している情報はいずれも著作権法で保護されていますし、また、いくつかのページには「無断複製を禁止します」とはっきり書いてあります [6]。もし、皆さんが「自然権論」をそのまま受け入れるならば、インターネットを使うべきでないということになります。
なぜなら、Webページをブラウザで見ること、すなわち自分のコンピュータにコピーすることが著作権法で禁止されている複製に該当するかどうか、法律にははっきりと書いていないからです。法律の専門家もはっきりとしたことは言えません。ただブラウザを使っているたいていの人が「大丈夫だろう」と考えて使っていて、また
Webページを作成した人が自分のページを見た人を著作権侵害で訴えたりしてないという事実があるに過ぎません。
こうした著作権法の灰色の領域は広く、また新しい種類の情報機器については常に灰色領域が付きまとっています。レコードがこの世に現れたとき、写真がこの世に現れたとき、映画がこの世に現れたとき、いずれもそうした新しい技術が著作権法に違反したものでないのか、それらの技術が可能にする著作物の利用法が正当なものなのかが激しい論争を呼びました。もし、世界中の人々が「自然権理論」の考え方一本でまとまっていたら、それらの技術が普及することはなかったと言ってよいでしょう。灰色である以上は、それらの技術を使うべきではないのですから。そこで、もし私たちが新しい技術を享受して活用することが望ましいことならば、自由に表現したり議論したりすることが望ましいならば、もう一歩踏み込んだ基準を探して、著作権法の違法・合法について考える必要があるといえるでしょう。
そこで、一度この章のはじめに紹介した「誘因理論」自体から検討し直してみましょう。「もし著作権がなければ、既に出版されている作品については、無料でいくらでもコピーができるので、作品を利用する側は得をするだろう」というのは正しいでしょう。既にある作品を自由に使えるということは単に経済的な利益のみならず、私たちが学習したり新しい作品を作る時の基礎に、過去の作品を活用できることを意味していますから、私たちの得になります。
では、「しかし、著作権がなければ、作品を作る人たちへの報酬を集めることができなくなるので新しい作品が作られなくなる」という部分はどうでしょう。実は多数の研究者が指摘していることなのですが、著作権制度が存在するはるか以前から創作活動は立派に行われてきたし
(実際には著作権制度がなかった時代の作品のほうが優れている場合も多いのです) [7]、創作者たちがたくさんの報酬を受けたから、次の作品に一層励んで取り組むということも確かな推論ではありません。たくさんの報酬を受けた小説家が、引退してしまって作品をまったく書かなくなる可能性も十分にあるからです。
付け加えるならば、創作物が排他的独占権を得たことで獲得できる利益というのは、その作品が私たちの興味を引く強さに依存していて、その作品を作るのに費やされたお金とは全く関係がありません。たとえ30億円を使って映画を作ったとしても、つまらなければ3万円だって取り戻すことはできません。その映画の経済的価値は30億円ではなく皆さんがそれに支払おうと考えた費用の合計なのです。誰も見たくない映画なら0円ということになりますね。一方、そうした人気のなかった映画の価値が乏しいものと判断することもできません。たとえたくさんの人を映画館に集めることができなかった映画でも、高い文化的価値や歴史的価値を備えたものもあります。すなわち、内容のもつ文化的価値と経済的価値もまた直接関係があるわけではないのです。
このように考えますと、私たちが作品にお金を支払っているから、作品が生み出されるのである、と単純に言うことはできないことになります。確かに、お金は創作活動をしている人たちの生活を支えるのに必須ですが、これのみが理由となっているのでは、著作権制度の本質を見失う結果となります。
では、さらに進んで著作権制度の本質的な主体としての「創作者」について考えてみましょう。創作者というと小説家やマンガ家やミュージシャンという特殊な職業に就いている人たちとイメージしがちですが、そうした人たちは、はじめからそうした職業に就いていたわけではありません。皆さんと同じように小説を読み、アニメを観、流行歌をカラオケで歌ったり、学園祭で演奏していたりしていた皆さんの先輩なのです。
著作権法では、あらゆる種類の表現は著作物でありうると規定していますから、皆さんが書いたノートや、イラストや、日記にも著作権があるのです。だから「創作者」という特殊な人がいるのではなく、利用者である皆さんの中でたまたま作品を他人に見せたり聞かせたりすることで報酬を得るだけの技能や才能を備えた人が「創作者」だということができるでしょう。
そうした「創作者」たちもまた、自分たちの先輩である「創作者」の作品を見たり、読んだり、聴いたり、場合によっては、借用したりして創作活動を行ってきたわけです。こうした「創作者」が全員そろって著作権法の条文に一度も違反したことがないということはできないでしょう。学習がそうであるように、創作活動も過去の作品を基礎としているからです
[8]。実際に著作権法は、いくらかの目的について著作権に由来する排他的独占権が及ばないと規定しています。これは、創作活動を奨励するためには、排他的独占権が場合によっては害となりうることを端的に示しています。
だから、あまりに著作権法が広く厳しいものになることは、利用者にとって不便で迷惑であるだけでなく、実は創作者本人にとっても不便で迷惑であるということができます。著作権侵害の基準として先に挙げた「自然権理論」の考え方は、創作者の利益を第一に考える態度でしたから、ここで説明したように創作者の利益と利用者の利益が実はつながっていると考える場合には、基準とならなくなってしまいます。そこで私たちは別の基準を探す必要があるわけです。
そこで著作権の仕組みがどのような歴史を経て誕生してきたかを見てみましょう。とても長く込み入った歴史なので [9]、ここではその概略だけ説明しますと、私たちの情報伝達の方法を革新した15世紀の活版印刷術が現れるまで、先に説明した「著作者の権利」について考えられたことはあっても、著作権を理由とする「排他的独占権」は存在していなかったと考えられています。このころまでの排他的権利は、特許とまったく同じように国王の持つ特権、すなわち国王大権を根拠とした純然たる「独占権」に他なりませんでした。「著作者の権利」と「独占権」は本来別々の目的のために別々の権利として存在していたということです。このころ印刷物に与えられていた独占権は何を目的にしていたのかといいますと、出版業という産業自体を保護するためでした。
印刷術が始められた頃、印刷される作品は既に存在していた名作でした。だから、独占権を与えて創作を奨励する必要は全くなかったのです。一方、まだ生まれたばかりの印刷業はいろいろな問題に直面していました。今でもそうなのですが、出版という仕事は大がかりな機械設備を必要とします。また、印刷が始まってしまえば、印刷物一つ一つの価格は非常に安くできるのですが、その印刷を始めるまでの準備に大変な費用がかかっていたのです
[10]。
さて、ある出版業者が聖書を出版することにしたと仮定しましょう。その聖書を買ってくれそうな人の数をまず考えます。そうですね、当時の常識ではだいたい3,000部くらいでしょうか。聖書を印刷するための準備にかかる設備の費用や原版の費用は、1部印刷するのも、
10,000部印刷するのもほとんど変わりありません。だから、出版業者とすればたくさん印刷して、その本が全部売れるならば、それだけ1冊あたりの価格を安くすることができます。だから3,000部売れそうだと考えた時点で、1冊あたりの費用が決まりますから、本の価格を決めることができます。そして、出版業者の思惑通り
3,000部売れれば経営的には成功することになります。
そこで別の印刷業者がたまたま同じ時期にやはり聖書を印刷しようと考えていたとしたらどういうことになるでしょうか。二人の印刷業者が互いに知らずに聖書を同時に出版してしまったら、そして、そのいずれもが3,000部売れると考えていたとしたらどうなるでしょう。買ってくれそうな人が3,000人しかいないところで、
6,000部の聖書が売られることになります。そうすると、3,000部は売れ残るか、もとの値段よりも値下げして、よりたくさんの人に買ってもらわなければならなくなります。そうすると、
3,000部売れることを基礎にして計画されていた経営は、その出版事業の費用を回収することができなくなってしまい破綻します。
今のように、たくさんの種類の本を出版することができる大きな出版業者がいる時代ならば、一つ一つの本の経営の失敗や予想外の成功を平均化することで経営を安定させることができます。しかし、ここで考えているような昔の小さな印刷業者なら、あっという間に倒産してしまうことになります。もし、なんの手当てもせずに放っておけば、印刷業自体が成立しなくなってしまうのです。そうするとせっかく生み出された、私たちの知識や文化を大きく発展させる可能性のあるメディアが死んでしまうことになります。私たちはまた以前のように口伝えで物語りを伝えていくか、手で本を書き写さなければならなくなります。これは学問や文化の発展にとって大変大きな損失です。
なぜ印刷業などのメディア企業がなくなると私たちにとって損失になるかについて説明しておきましょう。メディア企業はいずれも設備産業です。そうした設備産業については「規模の経済」という原理が働きます。たとえば本を印刷して製本するという作業をそれぞれの読者がする場合を考えてみましょう。この読者が3,000人いると仮定して、そのうちの1人が印刷・製本するのに費やした費用を平均1万円と仮定します。すると
3,000人の読者全体では、3,000万円の費用がかかることになります。この例にしたがって説明すれば、企業というものは、大規模な工場を用いることで、 3,000
人が総額
3,000万円の費用で作り出すはずの物よりも優れた物をはるかに安く生産し、そうして安く生産した物に利益を乗せて3,000人の需要を満たすことで成立しています。大規模で高度な機械を用いれば、500万円ほどで3,000冊の本を生産でき、それに
1,000万円の利益を乗せて販売しても、一冊あたりの価格は5,000円ほどになります。そうすると、企業は1,000万円を儲けることができ、また読者も一人当たり
5,000円、読者全体としては1,500万円得をするわけです。このようにメディア企業が存在することで企業を経営する人も私たち自身も利益を得ているわけです。
また企業には「事務にかかる手間を減少する」という機能があります。ある作品の創作者は、ほとんどの場合一人から数人です。なかには百科事典のように数百人が取り組んで製作する種類の創作物もあるようですが、そうした場合も根本的には一人一人の創作者が仕事をしているわけです。さて、ある作品の創作者が
1人であると仮定します。一方、その作品の利用者は非常にたくさんいるとします。やはり3,000人と仮定しましょう。もし、3,000人の人全てが著作権を尊重して、一人一人創作者に使用許諾を求めてきたらどうなるでしょう。創作者は使用許可を出すための事務作業に追われてしまい、十分な創作活動ができなくなってしまいます。もし、ここにメディア企業が存在すれば、どうなるでしょうか。資本力をもったメディア企業は創作者から、作品の複製物を3,000部つくって販売する権利を一括して購入することができます。こうすると、創作者は面倒な権利処理を一回するだけで済むことになります。また、まとまったお金を手に入れることができます。一方、メディア企業は創作者への支払金額を、それぞれの商品に必要な原材料費の一つとして処理することができるのです。こうして、社会全体の手間を省き効率よく処理するためにもメディア企業が役に立っているのです
[11]。
さて、このように必要なメディア企業を維持するために「独占権」が大きく役に立つのです。たとえば国王大権で聖書の印刷をある印刷業者だけができるものと決めます。すると、ある作品を複数の事業者が同時に出版してしまうことによって生じる損失を避けることができます。なぜなら、自分以外の業者がその作品を出版しないことが法律で決められているならば、着実な出版事業計画を立てることができますし、もし誰かがこの計画を乱すような行為をするならば、国王の権威をもって法によって排除してもらえることが保証されているからです。このように、排他的独占権は、出版事業のような、情報を整理統合して一つの商品として構成し販売する種類の事業には、不可欠の権利であるということができます。著作権の効果として与えられるといわれている「排他的独占権」は実際にはこうした事情を背景にこの世に現れてきたのです。
一般に「独占権」というものは悪いものだといわれてます。ある人が何かの商品を独占することが法で認められると、その人は思うままに商品の価格を高くすることができます。売り手の決める値段で商品を買わないわけにはいかないからです
[12]。こうなると、独占が与えられると商品の品質はどんどん悪くなり、値段はどんどん上がっていくことになります。しかし、著作権でいう「排他的独占権」は、もしそれが無ければ出版業、音楽産業、映像産業などのさまざまなメディア企業が成立し得なくなりますから、社会の情報の生産のみならず伝達もまた大きく阻害され、私たち社会全体の利益が大きくそがれてしまうことになります。だから、メディア産業の「独占権」は「独占権」から生じる害よりも大きな利益を生み出している限り、必要でありまた正当なものであるということができるでしょう。
ここで著作権に関してもう一つの考え方があることが示されました。基本的には「規制理論」と同じように「著作者の権利」と「排他的独占権」を分けて考えるのですが、排他的独占権が認められる理由として、「誘因理論」に依拠するのではなく、社会の情報伝達の装置としてのメディア企業を維持することに根拠を置く考え方です。すると、新たな基準が見つかりました。すなわち、著作権を根拠とする排他的独占権をどこまで認めるべきかという問題は、その排他的独占権が維持している産業から生み出される社会的利益とその独占権が生み出している社会的害悪を比較検討することで解決することができることになります。
さて、現在の著作権制度が支持している排他的独占権は私たちの利益になっているでしょうか。私たちは安く合理的な値段で本やCDやビデオを買ったり、映画を見たりすることができているでしょうか。現在の本やCDやビデオの値段でも安すぎると主張している人たちもいます。しかし、現在のそれらの商品の価格は、残念ながら独占によって売り手の自由に設定されている価格ですから、妥当な価格であるかどうかははっきりとしません。妥当な価格は、市場で商品が自由競争するときにはじめてはっきりするからです
[13]。
情報化時代に生きる私たちが直面している問題に戻って考えてみましょう。今、著作権についていろいろな論議が沸き起こっている理由は、コピー機や
MDやビデオデッキやコンピュータ等の高度な情報機器が私たちの家庭に入ってきたことあると述べました。私たちはそれらの情報機器のおかげで新しい方法で情報を取得したり、利用したりできるようになりました。このような情報機器を用いて、先ほどの例であげられた本の印刷・製本を私たちがそれぞれ行ったとしても、
1,000円しかかからなくなったとしたらどうでしょう。また、高度なコンピュータ・ネットワークの仕組みを利用して、私たちが創作者本人の邪魔をせずに作品の使用料を直接に払うことができるようになったとしたらどうでしょう。もしかすると、私たちはネットワークを通じて創作者本人と直接に語り合ったり、自分が感じた感動や創作者への感謝の気持ちをいろいろなかたちの支援で表すことができるかもしれません。お金という冷たいメッセージだけではなく、私たちの温もりのある行動で感謝を表すことだってできるのです。
こういう状況が現れてきたとき、企業はより一層の努力をして、個人がそうするよりももっと安い価格で商品を供給しなければなりません。もし、個人がそれぞれ行う作業よりも高い価格でしか供給できないのなら、その企業が存在すべき理由はありません。そしてもし、その企業が「排他的独占権」を購入したことを理由として、より安く複製できる私たちの能力を奪ってしまい、かつ、自分に都合のよい値段を付けたとしたらどうでしょう。その「排他的独占権」はまさに「悪しき独占」を支えるものとして社会の害悪に他ならなくなってしまうのです。
今のところ、私たちが高度な情報機器を購入するためには、かなりの出費を必要としますし、私たちがそれぞれに印刷・製本を行う場合には、どのようにして作品を生み出した創作者に対価を支払うのか、という問題が解決されません。さらに言えば私たちが高度な情報機器を購入することができる環境は、またメディア企業についてもそうした高度な情報技術をより大規模に応用することができるのですから、そうした個人と企業との関係で見るとき、生産にかかる費用が個人について有利に働く場面はほとんどないといって良いでしょう。
だから、皆さんが「コピーすればタダだ」と思ってやっているコピーは、たいていの場合は、社会全体としてみれば無駄が多く不効率なものなのです。本来、企業が安く合理的にできることを、わざわざより多くの費用をかけて行っているわけですから。したがって、社会全体の効率という観点から見たときに、著作権法の決まりを守ることは私たちの利益に適うことだということができます。しかし、だからといって、「排他的独占権」をもっているメディア企業が漫然としていて良いわけではありません。メディア企業は、社会の情報伝達を効率化する目的のために最大限の努力をし、常にもっとも安い価格で私たちに情報を伝達しつづける使命を負っているのです。
しかしながら、次のような場合においては、私たちが直接に創作者と連絡を取り合いながら作品を広めていくという方法が、企業を仲介した情報伝達よりも既に効率的になっています。それは、商業的な出版が成立しないほど少ない利用者しか想定できない作品の場合です。具体的には同人誌やインディーズ・レーベルの
CDや専門的な学術出版です。これらの作品は、発行部数が非常に少ないので、メディア企業の大きな生産設備を動かすと、かえってたくさんの費用がかかってしまい採算が取れません。だから、メディア企業が基本的に利潤を目的としている限り、こうした作品は出版されることはありません。それゆえ、こうした種類の作品は、いままで手作りに近い形で生産され、ごく少数の人々のみに流通していたのです。しかし、こうした作品が決して価値が乏しいわけではないことは既に指摘したとおりです。ごく少数の人の関心しか引かなかったとしても、その少数の人たちには重要な作品であるかもしれないからです。また、こうした小さな作品たちは、これから世に出る才能ある人々の最初の舞台として重要な役割を果たしているのです。
これまで地理的制約や経済的制約のためにごく狭い範囲にしか流通しなかった作品が、新しい情報環境、とりわけコンピュータ・ネットワークを経由して新しい読者に届くようになりつつあります。このことは、文化をおし広げていくだけでなく、文化それ自体を新しい局面に引き上げる可能性をもった現象です。私たちはネットワークという見えない世界にあって私たちの作品を待ち続けている、巨大な印刷機を手に入れつつあるのです。
この巨大な印刷機が私たちの文化的な向上や幸福に役立つかどうかについて、疑問を感じている人たちがいます。しかし、
500年ほど昔にグーテンベルクが印刷機を作り出したときにも、この道具が国王の権威や統一された宗教をバラバラにしてしまう害悪になると考えた人たちはたくさんいました
[14]。「真実はみずから立つ、虚偽のみが支えを必要とする」という言葉があります。知識が広く遠く届くことは真実にとっては助けになりこそすれ、邪魔になることはないのです。
著作権が、学問や芸術を振興するという目的を掲げている限り、こうした種類の小さな作品や出版物を振興することはその目的に適うことです。だから、著作権を解釈したり運用したりするにあたって、こうした小さな作品を作っている人々に過剰な負担をかけるようにすべきではありません。排他的独占権を厳格に適用して、若い才能の芽や隠れた天才に足枷をかけてしまうことは、結果的には、優れた作品が生み出す経済的利益の一部を受け取ることで成り立っているメディア企業の自らの首を絞めていくことなります。文化や芸術は、かつての天才の作品を骨董品のように崇め奉るだけでは腐ってしまいます。それは、常に新しい価値を求めて変化を続けるダイナミックな運動なのです。新しい才能が自由に表現を広げていくことこそが文化に熱い血を流しつづけるのです
[15]。
こうした表現に自由をもたらすことで学問や文化を広げていく態度は、民主主義という自由な議論を基礎に成り立つ国の制度を採っている私たちの強く支持する所なのです。日本国憲法第21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」「検閲は、これをしてはならない」「通信の秘密は、これを侵してはならない」と規定しています
[16]。憲法は国の根本的な法規として第一の地位を占めています。著作権法の規定が、もし仮に憲法の規定と調和しない場面があるとするならば、まず憲法が規定した価値を優先し、これを侵害しない範囲で著作権法を解釈運用しなければならないことになります。
これが、著作権法第1条に記された「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」という条文の趣旨なのです。すなわち、「公正な利用」と「権利の保護」を両立させつつ「文化を発展させる」ためには、ただ、便利だからとって勝手に自分の好きなように他人の作品を利用することは許されませんが、かといって著作権法を盾に私たちの表現活動の自由や可能性を縛ってしまうこともまた著作権法の趣旨に反することなのです。
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