作詞・作曲の著作権考 |
(最新見直し2005.12.6日)
文字という文字に著作権を被せようとする全包囲包括的著作権論者に次の質問を呈じて見たい。「詩歌・音曲」の世界で見られる「同一題名」についてこれを是とするのか非とするのか。特にラブソング系で顕著だが、仮に「アイ・ラブ・ユー」の例を見て見よう。かなりこの「同一題名」で多くの別の歌が創作されている。この場合、「全包囲包括的著作権論」に拠れば、後付けの「アイ・ラブ・ユー」は先行者の題名盗用になりはしないか。「詩歌・音曲」の場合には許されるとするのなら、それは何故なのか理論的に説明してみよ。 ところが、何も題名だけではない。文言においても同一句を見出すのは難しくない。「夢は夜開く」という例を挙げる。このフレーズが園マリと藤圭子の双方に使われていることを知った。もっとも「圭子の夢は夜開く」となっており、それなりの了解を取り付けているのだろうが。この種の例を捜せば他にもあるだろう。この場合、「全包囲包括的著作権論」に拠れば、後使用の「夢は夜開く」は先行者の文言盗用になりはしないか。「詩歌・音曲」の場合には但し書き抜きで許されるとするのなら、それは何故なのか理論的に説明してみよ。 ところで、音曲での同一音符を見出すのは難しい。似たようなものはあるだろうが完全に同じ音符というものは無い。あるとすれば、盗用が指摘されることになる。れんだいこが思うに、著作権構成の大事な要素である「オリジナル的な創意工夫的表現工作物」と云うことになるからだろう。しかし、その徹底取り締まりが賢明であるかどうかは又別の問題だが。 翻って、文章一般の場合に、「オリジナル的な創意工夫的表現工作物」を認めるのは困難なのでは無かろうか。それは言語が本質的に持つ社会性に由来しているように思える。否、言語以前の感性的脳機能的な面において人間種族としてのコミュニケーション機能に関わっており、このグランドに「これは俺の発想」として垣根で囲うことは僭越というか土台無理なのでは無かろうか。 この領域に「全包囲包括的著作権論」を持ち込む者は「神を恐れぬ冒涜者」では無かろうか。それは権利で囲うものではなく、「自主自律的な引用、転載マナー基準の確立」で対応していく以外に無いのではなかろうか。その限りで、文言ないし要旨を「歪曲・改竄・すり替え」する者に対して掣肘する権利としていわば「対抗的権利」として著作権を主張するというのなら分かる。 このレベルでの著作権を主張するのならまだ話が通ずる。問題は、「対抗的権利」の段階を越えて「オリジナル的な創意工夫的表現工作物」かのように言語空間に著作権棒を杭打ちせんとする全包囲包括的著作権論者の主張にある。ここでは、認められる消極的権利が強行的なものに論証抜きで転化されている。近時のマスコミ、「JASRAC(日本音楽著作権協会)」の著作権主張は明らかに逸脱しているのではなかろうか。 (以上、思いついたままを書き記し、後日再検討する) 2004.6.5日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)