「プラーゲ旋風」考

 更新日/2018(平成30).12.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ジャスラック問題を考えるためには、その設立契機となった「プラーゲ旋風」を知らねばならない。「ウィルヘルム・プラーゲ博士」その他を参照する。れんだいこの見立てるところ、時局柄を考えるとプラーゲの背後関係は結構怪しい。この方面での研究は為されていないように見受けられる。

 2005.11.18日 れんだいこ拝


【ウィルヘルム・プラーゲ(Wilhelm Plage)博士の概要履歴(1888〜1969)】
 1888(明治21).10.8日、オーストリア=ハンガリー帝国内のドイツ人居住地であったライヒェンベルグ市にて生誕。「父はプロシア(プロイセン)国籍の商人」とある。確定資料が手元にないがドイツ系ユダヤ人の可能性があるように思われる。
 1899(明治32)年、ベルヌ条約に適合した著作権法を我が国も制定、7月に施行。条約に加盟する。
 1908(明治41)年、ベルリンのアンドレアス実業高等学校卒業。ベルリン大学で法律経済学、日本語を学ぶ。
 1910(明治43)年、日本語通訳試験に及第。(これにより法律学、語学に堪能なことが理解できる)
 1912(明治45).2月、ナウムブルク控訴院にて第1法律国家試験に合格。
 1912(明治45).6月、東京のドイツ大使館に勤務。プラーゲは外交官としてデビュ−している。
 1913(大正2).年、長崎のドイツ領事館に勤務。
 1914(大正3).8月、離日。
 1914(大正)年、第1次世界大戦(1914〜1918)
 1917(大正6).2月、ワシントンのドイツ大使館に勤務。
 1917(大正6).8月、陸軍中尉として野砲兵隊に所属し、第一次世界大戦に従軍。西部戦線マルヌの会戦で戦闘。一級二級の鉄十字勲章を授受。
 1919(大正8)年、外務省に復帰。外交官のみならず軍人としても立身していることが判明する。
 1920(大正9)年、在日本ドイツ大使館副領事として再来日。
 1921(大正10).8月、ドイツ外務省退職。
 1922(大正11).3月、旧制松江高等学校(現島根大学)のドイツ語教師として勤務。今度は教師となっている。それにしても古代史上の秘史である出雲王朝の存在したとされる島根へ出向いたのは偶然なのだろうか。
 1925(大正14).6月、結婚。相手が誰であるか判明しない。
 1925(大正14)年、ドイツに帰国。
 1927(昭和2)年、ハンブルグ大学で「現行日本民法における家族関係」をテーマに博士号取得。教授となっている。
 1928(昭和3)年、3度目の来日。旧制松山高等学校(現愛媛大学)に勤務。
 1928(昭和3)年、ベルヌ条約改正。この時、放送権を認めた。
 1929(昭和4).4月、旧制一高(旧制第一高等学校、現東京大学教養学部)でドイツ語教師として勤務。
 1930(昭和5).3月、旧制府立高校(現首都大学東京)でドイツ語教師。
 1931(昭和6)年、大日本帝国が著作権法改正。この時、放送権を導入、演奏権留保が放棄された。この当時の日本は引き続いて著作者の許諾不要の放送、演奏を良しとしていた。

【プラーゲ旋風】
 1931(昭和6)年、旧制第一高等学校(現東京大学)でドイツ語の教師をしていたウィルヘルム・プラーゲが、ヨーロッパの著作権管理団体の代理人に登用されたと称し、東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立した。放送局やオーケストラ等の楽曲演奏(いわゆる生演奏の他に録音媒体の再生も含む)をチェックし始め、関係する事業者に楽曲使用料の請求を開始した。これにより、宝塚少女歌劇団に対し厳重注意、松竹歌劇団に対し告訴、三浦環のオペラ公演に対し中止運動に取り組み、実際に三浦のオペラ公演が1937.6.22日から24日にかけて中止の仮処分措置が取られた。いずれも外国人が作曲した著作権の保護期間が過ぎていない楽曲を演奏するに際して多額の使用料を請求し、音楽使用料を支払わない利用者に対し内容証明郵便や裁判に訴えるなど、苛烈な権利主張した。これらの活動は大きな話題になり、「プラーゲ旋風」と呼ばれた。
(私論.私見)
 「プラーゲが、ヨーロッパの著作権管理団体の代理人に登用されたと称し」につき、ヨーロッパの著作権管理団体とはそも何者なるのか、これにヨーロッパのいかなる国が関与しているのか、さっぱり要領を得ていない。「代理人に登用」の辞令は誰が発布しているのか、さっぱり要領を得ていない。要するに「云い得、云い勝ち」の怪しげな触れ込みでしかないと思われるのに、本件につき誰も精査しようとしていない。  

 当時の新聞の見出しに「門出の血祭りにプラーゲを粉砕 不遜な提案一蹴の申合せ」、「プラーゲのつむじ風、松竹歌劇団を襲う」、「プラーゲ旋風、文化を破壊する勿れ」とある。これに対し、「これらの反撥に、多かれ少なかれナショナリスティックな感情が込められていた可能性は否定できない」と評する向きが通説であるが、「プラーゲ機関」式ユダヤ商法に対する反発であり、日本の音楽文化を護る当然の見識を示していたと評するべきだろう。
 1932(昭和7)年、「プラーゲ機関」が、社団法人日本放送協会に外国音楽放送の著作権使用料を請求し、同年7.22日、月額600円の外国曲使用料を得た。
 1933(昭和8).8.1日、「プラーゲ機関」が、社団法人日本放送協会に外国音楽放送の著作権使用料をには月額600円から1500円への値上げ要求した。社団法人日本放送協会が反発し拒絶したため、その後、約1年間にわたり欧米の曲が社団法人日本放送協会で放送されなくなった。社会的に欧米の楽曲の使用に困難を来す事態となった。

【反プラーゲ旋風の動き】
 1934(昭和9)年、大日本帝国が著作権法改正。放送局にてレコードで音楽を演奏する場合、適法に複製されたレコードについては出所明示を条件に自由とした。著作権者の許諾なく放送することができること、著作権者と協議ができない場合には、一定条件下で強制許諾を認めることが定められた。
 1937(昭和12)年、「プラーゲ機関」が、大日本音楽作家出版者協会という権利管理団体を自ら設立し、日本人の著作権管理に乗り出した。この団体に著作権を信託する作詞家、作曲家が出てきたことから放送局などの利用者側が危機感を抱くに至った。
 1937(昭和12)年、大日本帝国が日本の作曲家の権利を管理する「大日本音楽作家出版者協会(山田耕筰等が所属)」を設立し「プラーゲ旋風」に対抗した。当時の新聞の見出しは、「門出の血祭りにプラーゲを粉砕 不遜な提案一蹴の申合せ」、「プラーゲのつむじ風、松竹歌劇団を襲う」、「プラーゲ旋風、文化を破壊する勿れ」と記している。この頃、内務省はプラーゲの設立した同協会に抵抗すべく、法案作りを推し進めた。
(私論.私見)
 「元々日本では、音楽演奏に対して権利を主張して『お金にする』という文化がなかった。昭和6年、これを逆手に取ったウィルヘルム・プラーゲというドイツの外交官が、『私はヨーロッパの音楽の著作権を管理している者である。ヨーロッパの音楽を演奏するなら私に金を払え』と主張、当時の放送局やオーケストラなどに対して演奏許可料を請求する事件が発生した。当時、プラーゲの主張の可否判断ができず日本の音楽業界は混乱に陥った。日本政府は、『プラーゲに好き勝手にさせるな』とばかりに『著作権に関する仲介業務に関する法律』を制定し、著作権を管理する業務を国のお墨付きを得た機関に限ることにした。こうして設立されたのが大日本音楽著作権協会である。問題は、この当時の大日本音楽著作権協会は伝統的な音楽演奏の無料通交を擁護し、プラーゲ的有料著作権論を振り回させない為の機関として対抗的に作られたことにある。しかしながら、敗戦により逆の事態となった。即ち、戦前権力の大日本音楽著作権協会が解体され、やがてJASRACとして孵化した。JASRACは、プラーゲ的有料著作権論どころではない強権音楽著作権論を振り回し始め、利権の巣窟と化して今日に至っている。森哲司の「ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親」は「賛」の立場から書かれている。その他ほとんどの書籍、論調がJASRACを擁護している為、かの時の「反プラーゲ旋風の動き」が見えないようにされてしまっている。

【仲介業務法を制定】
 1939(昭和14)年、大日本帝国が「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)を制定。著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るという形で著作権管理団体を許可制とした。その上で、音楽著作権を管理する唯一の団体として「大日本音楽著作権協会」、文芸著作権を管理する唯一の団体として「大日本文芸著作権保護同盟」を認可し、同協会が誕生した。仲介業務法制定の目的のひとつはプラーゲの団体の締め出しであり、「プラーゲ機関」の「大日本音楽作家出版者協会」許可申請は却下された。

(私論.私見)

 この時の法理こそが大事であるが開示されていない。その上で、プラーゲ博士を「日本に於ける著作権法導入の開祖」として称賛する与太解説ばかりが目につく。

 1940(昭和15).10月、「プラーゲ機関」の「大日本音楽作家出版者協会」が解散に追い込まれた。
 1941(昭和16)年、「プラーゲ機関」が天市(瀋陽市)に開設した東亜コピライト事務所の行為が仲介業務法違反に問われ,罰金600円の判決を受ける。
 1941年、プラーゲが同法違反で罰金刑を起訴されドイツに帰国。大東亜戦争開戦。
 1969(昭和44).6.19日、死去(享年80歳)。

Re:れんだいこのカンテラ時評376 れんだいこ 2008/03/15
 【音楽著作権法に於けるプラーゲ旋風事件考】

 音楽著作権法に於ける「プラーゲ旋風事件」の重要性が分かってきたので愚考しておく。「プラーゲ旋風」とは、1931(昭和6)年、外交官、軍人、日本語教師、大学教授と云う様々の肩書きを持つ異色の人プラーゲが、ヨーロッパの著作権管理団体の代理人に登用されたと称し再々来日し、東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立したことから始まる。

 プラーゲのユニークなところは、楽曲演奏(生演奏、録音媒体の再生も含む)する全ての事業者に対して、プラーゲが管轄する西洋楽曲の使用対価料の請求を始めたことにある。対象事業先に多額の使用料を請求し、支払わない事業団体に対し内容証明郵便を送り付け裁判に訴えた。中でも、宝塚少女歌劇団への厳重注意、松竹歌劇団の告訴(「プラーゲのつむじ風、松竹歌劇団を襲う」)、三浦環のオペラ公演の中止運動等々が目を引く。

 1932(昭和7).7.22日、「プラーゲ機関」はNHKをも襲う。NHKに対して外国音楽放送の著作権使用料を請求し、月極め600円の使用料を支払わせた。ところが、NHKはその後反発した。契約交渉が不調に終わり、NHKは1年以上にわたって海外楽曲の放送をとりやめるという事態に陥った。NHK史上の椿事である。これらの活動が大きな話題になり「プラーゲ旋風」と呼ばれた。

 当時の政府は、由々しき事態として対応法案づくりに向かった。内務省がその任に当たる。1934(昭和9)年、著作権法を改正し、放送局がレコードで音楽を演奏する場合、出所明示を条件に自由とした。1937(昭和12)年、日本の作曲家の権利を管理する「大日本音楽作家出版者協会(山田耕筰等が所属)」が設立され「プラーゲ旋風」に対抗することとなった。当時の新聞の見出しは、「門出の血祭りにプラーゲを粉砕 不遜な提案一蹴の申合せ」、「プラーゲ旋風、文化を破壊する勿れ」等々と記してエールしている。

 1939(昭和14)年、政府が、「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)を制定した。著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るとし、音楽著作権を管理する唯一の団体として「大日本音楽著作権協会(今日のJASRACの前身)」、文芸著作権を管理する唯一の団体として「大日本文芸著作権保護同盟」が認可され設立された。プラーゲ博士の許可申請は却下された。

 1940(昭和15).10月、「大日本音楽作家出版者協会」解散。1941(昭和16)年、天市(瀋陽市)に開設した東亜コピライト事務所の行為が仲介業務法違反に問われ、罰金600円の判決を受ける。1941年、同法違反で罰金刑を受けたプラーゲがドイツに帰国。大東亜戦争開戦前夜の動きであった。

 れんだいこは、なぜ「プラーゲ旋風事件」に注目するのか。それは、ジャスラックが今日、誕生の元一日の理を忘れ、かってのプラーゲ機関化していることの変態性を確認する為である。見てきたように、「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)が、日本の音曲文化を護持せんとして打ち出された経緯があり、直接的には「プラーゲ機関」の独占的排他的高額対価請求活動を掣肘する為に生み出されたものである。同法を受けて今日のジャスラックの前身である「大日本音楽著作権協会」が生み出されたという経緯自体が、「ジャスラックのプラーゲ機関化」を自己否定しているはずではないのか。こう受け止めるべきではないのか。

 にも拘らず、「ジャスラックのプラーゲ機関化」を促進せしめている昨今の風潮を如何せんか。今ジャスラックは、当時の「プラーゲ機関」よりも質が悪い。ジャスラックは、「プラーゲ機関」も思いもよらなかった事業者規制のみならず利用者規制へと歩を進め、エンドユーザーにまでの川上から川下まで至るオール使用対価料請求に明け暮れている。その結果、日本の国技である日本相撲協会でさえ年収150億円のところ、何とジャスラックは1500億円を超え単独突出する巨大社団法人と化している。

 それにしても、こういう倒錯、この巨額売上がなぜ生じたのか。社団法人は本来、そんなに稼ぐものだろうか。ここが問われねばならない。その皺寄せは無いのだろうか。これも問われねばならない。ジャスラックの変態化は日本の政治構造が或る時を境に転換して以来のものではなかろうか。こう問わねばならない。

 れんだいこの確認するところ、1970年代までは、新旧著作権法はまだしもある種の弁えを持っていた形跡が認められる。ロッキード事件を経由してハト派政治が脳震盪を見舞われ、1980年代に売国系中曽根政権が登場して以降、現代強権著作権派が勢いを増し、防衛費の伸びと歩調を合わせるようにジャスラックが闊歩し始めたのではないのか。

 つまり、施政当局者の人格が変わり、著作権法に限って云えば当初の「大日本音楽著作権協会」精神からは決して生まれない親プラーゲ機関的著作権論者が日本の音楽界権力を掌中にしたことにより、ジャスラックの活動が一気にユダヤ商法化し、売上増殖自体を自己目的化し始めたのではなかろうか。それは、日本政界のハト派からタカ派への主導権転換と相応している。れんだいこはこのように見立てている。

 結論として、ジャスラック批判の嵐が今後どこかで爆発するであろう。これを予言しておく。それは既成マスコミでは為し得ない。なぜなら同じ穴のムジナだから。叩けるのは、我々が自主自律的に創造した和製アルジャジーラ放送局を通してだろう。一刻も早く向かわねばならない。

 この放送局さえあれば、先のイージス艦事故に際しても、事故直後10分間のイージス艦側の救出活動の有無を究明し、救出活動しなかったことがはっきりすれば関係者総員辞表始末することになろう。石破大臣の辞任はそれからのことである。ところがいけない、いきなり石破の辞任要求に向かい、それもロス事件で報道切れし、今はもう別件に向かい参議院で懲りない質疑をショー化させている。政治が政治役者どもによって弄ばれているといえばそれまでのことではあるが。

 2008.3.15日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評380 れんだいこ 2008/03/20
 【読解力考】

 次のようなことが云いたくなった。知の専門家と云われるいわゆる学識者、知識人の知の水準は大丈夫なのだろうか。れんだいこは、興味の赴くところ、いろんなところに首を突っ込んでいるが、その界隈で取り寄せた資料の中に妙な癖があることに気づいている。

 れんだいこにとって有り難い資料的価値を有するものでも、いただけるものは殆どが客観記述資料的なものに限られ、筆者が自己見解を表明したくだりになると何とも食えないものが多過ぎる。それが市井の普通の者の手になるものであるならともかくも、結構な肩書きを持ついわゆるインテリの労作だとすると首を傾(かし)げたくなる。

 その中でも、いわゆる読解力に欠けた評論がままある。こういう手合いが外国語を読めるとして、外国語を読んだからといってどうなるのだろう。外国語になると途端に読解力が高まるのだろうか。ということはあり得ないだろう。れんだいこは、辞書片手でないと外国語が読めないので、一々彼らの読解間違いを指摘する余裕がない。時間を掛けて捜すと、恐らく幾らでもあるだろうと思われる。

 世の中の学問水準がこういう程度だというのに、ご丁寧にも著作権網だけは次第に拡幅してきており、引用転載ご法度の不自由極まる社会に誘われつつある。そりゃぁ、不細工な論文を提起している者にとっては有り難い仕掛けではあろうが。

 例えばの話し、最近著作権法の推敲に忙しいれんだいこは、プラーゲ旋風の逆評価にたまげている。既に「れんだいこのカンテラ時評376、音楽著作権法に於けるプラーゲ旋風事件考」で私見を述べたが、世の識者は何と「ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親」、「著作権の父ウィルヘルム・プラーゲ博士」等々と評している。

 結果的に、プラーゲ「日本型著作権の生みの親、その限りでの日本著作権法の父」になったのは事実だが、それは反面教師的にだろう。ならば、言葉の使い方が違うだろうに。普通、「生みの親とか父」とか評するのは、彼の営為によって彼の企図したものが直接的に生み出された場合だろう。史実は、プラーゲ機関に対抗すべく日本音楽著作権団体が生み出され、同機関がプラーゲ機関的著作権活動を排撃したのだから、こういう場合には使わないだろう。

 もっとも、その後の日本著作権法の歩みは逆転し、かってのプラーゲ機関的活動を担い始めた。自己否定の道であるが、この道を随分掘り続けて今日に至っているので、今日の目線からは「生みの親とか父」とか云えない訳ではない。しかしそれにしても、単純に「生みの親とか父」とか云うには事態が捩れすぎているではないか。少なくとも反面教師的捉え方をする余地を残しておくべきではないか。「生みの親叉は父ウィルヘルム・プラーゲ、その反面教師伝説」とするなら幾分かはましだろうが。

 問題は、ストレートに「ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親」、「著作権の父ウィルヘルム・プラーゲ博士」と評する者の頭脳程度に係っている。人よりも著作権法を学んだ物知りが平気で「何の注釈も無く結果評価」する頭脳の資質が問われている。結果的に、知らぬ者を騙していよう。

 しかし、これが通説となり、「昭和の初年、周囲の無理解と圧力の中で、日本の近代文化のために著作権の確立を提唱し、当局と戦った一人のドイツ人、ウィルヘルム・プラーゲ」とか何やら左翼革命家の悲劇の闘士的伝説に合わせて祀り上げたら、それは違うのではないのか。ところが、どうやら、これが罷り通っている節がある。

 プラーゲ評価考は一例である。本来有り得てならない逆転評価が他にも世に五万とある。大正天皇然りである。田中角栄然りである。田中清玄然りである。この場合は善者知者が悪者愚者にされた。宮本顕治がそうである。この場合、悪者が善人にされている。昨年逝去したが、極めて有能な革命家であったと評されていたが馬鹿馬鹿しい事この上ない。野坂参三然りである。中曽根もナベツネも小泉もこっちの系譜だろう。

 人物評価ならまだしも事件の真相評価をこれをやられると、通説を学ぶ者は学ぶほど馬鹿になる。現代はこういう手合いが多い。このワナから抜け出すにはよほど幅広い実証主義以外に無い。その為には、資料と議論が肥やしになる。ところが、これに著作権法のバイアスが係り始めており、真相に辿り着くには容易でない。我々は、そういう仕組み、環境の中で生きている。このことを知らねばならない。

 学者、有識者、専門家の云う事が当てにならない時代に入った。政府発表で、戦後未曾有の最長不倒の好景気がまだ続いているのかどうか分からないが、小泉時代の指標に拠ればまだ続いているのだろう。後世は必ず馬鹿さ加減を笑うだろう。こういうことが続くのは、言論士が持説を平気で金で売るか、元々かなり低脳故に当局のプロパガンダをまともに受けるのが似合いだからだろう。それが彼らの商売だとすると、幾分かは割り引くが。

 問題は、人民大衆が彼らに洗脳される事にある。れんだいこが行きつけの喫茶店で、一言一句が彼らの言説の受け売りでしかない情報を教えてくれる有り難い人が居る。れんだいこは話をあわしているが、幾分かは可哀相とも思う。いずれにせよ、物言えば唇寒しとなる時代と付き合うのはごめん蒙りたい。

  単純な話、読解力の問題で、インテリぶる者の非インテリ度考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/dokkairyokuco.htm)

【プラーゲ旋風考】
 「著作権のひろば」の「プラーゲ旋風とJASRAC」の「◆プラーゲ旋風とJASRAC」の項を転載する。
 1931年(昭和6年)ドイツ人ウィルヘルム・プラーゲという人物が、ヨーロッパの主な著作権団体の代理人として、日本での著作権の使用許諾・使用料請求などの活動を開始しました。その当時の日本では著作権についての認識が薄く、外国の楽曲の著作権に使用料は払われていませんでした。著作者の権利を無視して利用されていたのです。プラーゲは放送、演奏、出版など幅広い分野で利用者に対し著作物使用料を請求し、裁判を辞さない強硬な態度をとりました。日本ではすでに1899年に著作権法が施行されているにもかかわらず、その後も無断使用が堂々と行われていたのですから文句も言えないでしょうが、当時の音楽関係者にとってはプラーゲが請求する金額を払っていたのでは商売が成り立たず、一時外国の楽曲がNHKでさえ使用できないというほどの困った事態になりました。

 これに慌てた日本政府は、1939年(昭和14年)仲介業務法を制定し、社団法人大日本音楽著作権協会(これが現在のJASRAC)に仲介業務の許可を独占的に与え、他の者は仲介業務ができなくなったのです。このためプラーゲはあきらめて1941年、日本を去ったのでした。これ以来、JASRACはわが国の音楽著作権管理を一手に引き受けてきました。

 JASRACは会員との信託契約に基づき著作物の利用に許諾を与え、かつ使用料を徴収し著作権者に分配します。信託契約第1号は島崎藤村だったそうです。第2号は土井晩翠。現在では1万人を超える契約者と450万曲(うち日本の曲90万曲)の作品を管理するにいたっています。また、使用料の徴収総額は年間900億円を超えます。
(私論.私見)
 上記の一文を素読して違和感なく読解できる者は、皮肉の意味で「幸い」である。疑問を解くキーは「社団法人大日本音楽著作権協会(これが現在のJASRAC)」なる記述にある。即ち、戦前の「社団法人大日本音楽著作権協会」を「これが現在のJASRAC」として歴史的に直列しているかの如き詐術を弄している。

 正解は、反プラーゲの「社団法人大日本音楽著作権協会」が解体され、戦後の新設として親プラーゲの「現在のJASRAC」が設立されている訳で、歴史的に断絶していると看做すべきだろう。戦前の日本帝国の見識はプラーゲ的著作権論の対価主義を否定し、対抗的に社団法人大日本音楽著作権協会を立ち上げ、人民大衆的享受を可能にせしめていたことに真骨頂がある。但し、日本帝国が大東亜戦争で敗戦した結果、戦後日本を支配した国際金融資本派がプラーゲ的著作権論の対価主義に立脚した日本音楽著作権協会を立ち上げ、それが今日に至っていると云うのが史実である。この経緯を無視して社団法人大日本音楽著作権協会が「現在のJASRAC」とストレートに継承したものであるかの如く説くのは卑怯姑息な詐術だろう。



 



(私論.私見)