「おふくろさん事件」考(「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」考)

 (最新見直し2007.7.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 作詞家川内氏による歌手森進一には「おふくろさん」を歌わせない、今後私の作品は歌わせない騒動が勃発した。これを、仮に「おふくろさん事件」もしくは「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」と命名する。れんだいこは、これを音楽著作権の格好教材として言及しておくことにする。

 テレビ報道で森と川内の追っかけが始まっておりレポーターがはしゃいでいる。その合間に自称識者によりコメントされているが、れんだいこを得心させる解説はない。情緒ではなく著作権論的に見て未踏の解明すべき問題を生んでおり、理論的に解明せねばならないのに、例によって解決済み態度で情緒談義している。著作権問題として認識する者も居るには居るが、どこがどうなのか、どうすべきなのか肝心のところを議論しないまま著作権強化の流れに加勢している。れんだいこの燻ぶりが消えないゆえんである。この問題は本当は超一級の著作権問題を提起している。かく視座を据えるべきであろう。

 れんだいこは、森進一の歌を歌う。「花と蝶」、「おふくろさん」、「港町ブルース」、「襟裳岬」などが十八番(おはこ)である。ライバル五木ひろしの歌も嫌いではないが、どういう訳か聞く方に回る。最近「山河」を覚えたので、これからは歌い始めるのかも知れない。それはどうでも良いとして本題に入る。


 2007.3.2日 れんだいこ拝


【事件の客体】
 事件の客体である原曲「おふくろさん」(川内康範作詞・猪俣公章作曲)は次の通り。これを仮に「原曲あふくろさん」とする。
 おふくろさんよ おふくろさん 空を見上げりゃ 空にある 雨の降る日は 傘になり お前もいつかは 世の中の 傘になれよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実忘れはしない

 おふくろさんよ おふくろさん 花を見つめりゃ 花にある 花のいのちは 短いが 花の心の 潔(いさ)ぎよさ 強く生きろと 教えてくれた あなたの あなたの真実 忘れはしない

 おふくろさんよ おふくろさん 山を見上げりゃ 山にある 雪が降る日は ぬくもりを おまえもいつかは 世の中に 愛をともせと 教えてくれた あなたの あなたの真実 忘れはしない

 上記「原曲あふくろさん」の前奏にイントロ的に以下のダイアログ(バース”と呼ばれる曲頭のセリフ)が付け加えられた。ちなみに、作詞は保富康午(ほとみこうじ)、作曲は原曲と同じく猪俣公章である。これを仮に「補曲おふくろさん」とする。

 いつも心配かけてばかり いけない息子の僕でした 今はできないことだけど 叱(しか)ってほしいよ もう一度

【事件の経緯】
 2007.2.20日頃、作詞家の川内康範氏(86)が突如、歌手の森進一(59)に対し、概要「私の著作物『おふくろさん』に勝手にセリフを入れられ、文意が変えられている。今後は歌わせない」と抗議した。こうして、作詞家、作曲家、歌手の三位一体の原則が崩れ、「作詞家が、かって歌わせていた歌手に対して今後は歌わせない」事件が発生し、関係者の善後策が問われることになった。

 川内氏は、次のように胸中を明らかにした。
 意訳概要「私に相談なしにセリフが付け足され、私のおふくろんの歌意が損なわれている。やっていることは、作家同士なら盗作と同じ。人間として失格である。この歌は僕の生き方を全て反映している大切な歌。もうイヤだ、歌は人の心を運ぶ舟。その舟がこんなことではダメだ。志のないものに僕の歌を歌ってほしくない。人の恩を忘れた者には相応しくない。森には今後、俺の作品は一切歌わせない。法的手段を検討しながら、しばらく静観する」。

 川内氏が問題にしているのは、川内氏の作詞部分ではなく、「原曲おふくろさん」に付け加えられた歌いだしの“語り”部分である。所属レコード会社によれば、作詞家の保富康午さんと作曲家の猪俣公章さんが制作し(共に故人)、1977.3月の大阪公演から登場し、ライブ盤に収録された。「補曲おふくろさん」は30年の歴史を持ち、一昨年と昨年のNHK年末の紅白歌合戦でも歌われている。

 川内氏は、昨年の紅白で、森シンが「補曲おふくろさん」を歌ったことに突如カチンと来たらしい。直ちにそう思ったのか、後にビデオを見せられ誰かに教唆されたのかは不明であるが、川内氏は事情説明を求める面会要求を開始した。事件勃発報道3日前の2.17日に川内−森会談がセットされていた。当日、森シンは、「血圧180以上」となり体調不良を理由として出向かず、代わりに事務所のスタッフが交渉したが不調に終わった。そして、2.20日の事態を招いたようである。川内氏は、体調を崩したのが事実であろうがなかろうが、電話一本も寄越さない森の不誠実をなじった模様で、「謝罪しても許すつもりはない」と突き放している。

 これに対し、森シンは、仕事先の東京・NHKホール前で緊急会見し、次のように弁明した。
 (「無通知無承諾改変指摘」に対して
 概要「ビックリしました。当時は渡辺プロダクション在籍中で、大きな事務所にいたのでスタッフがやってくれていると思っていた。当然解決済みだと思っていた」。
 (れんだいこ理解)自身に責任がないことを強調した。
 (「歌唱禁止抗議」に対して
 概要「あの歌は自分で言うのも何ですが“森進一のおふくろさん”になっていますからねえ。つい先日、亡き母の三十四回忌を終えたタイミングでもあり、歌わせないと云われても僕も困る。私にとっても大切な歌で1回1回魂込めて歌っている。先生が大きな心で“(セリフ付きで)いいよ”と言ってくださればいいのに」。
 (れんだいこ理解)俺が歌ったからこそ国民的名曲になったという歌い手としてのプライドを見せた格好である。
 (「謝罪要求」に対して
 「今頃になって主張される理由が分からない。謝る理由が分からない。来いと言われても、現段階では自ら出向かない」。
 (れんだいこ理解)何を今更。
 
 この日、森は、NHKの歌謡コンサートで歌う予定にしていた川口氏作詞の「花と蝶」を急遽変更した。

 2.21日、川内氏は、日本テレビ系の「ザ・ワイド」で、次のように述べた。
 概要「森さんはウソ八百を並べている。そんな奴とは会っても仕方ない。解決策はもうない。表立って訴訟やるつもりはないが、今後は僕の歌を森には歌わせないようにとジャスラックに届けている」。

 この時の発言かどうかは不明であるが、次のようにも述べている。
 「僕は、6、7年前から指摘している。30曲以上の森作品を手がけているが、僕の曲は二度と歌わせない。ジャスラックにも届け出た。歌った場合には、法的手段に出る」。

 他方、森は、同日記者団に対し、次のように述べている。
 「先生の会見を見て、あんなにご立腹だとは思わなかった。できるだけ早く先生にお会いして自分の気持ちを伝えたい」。

 「森進一歌唱おふくろさん騒動」の本筋は以上であるように思われる。その後の経緯が面白く追跡されているが、れんだいこに言わせれば興味本位のものでありさほど意味がない。

【川内と森の師弟関係考】
 森進一のプロフィールは次の通りである。

 1966年、川内康範氏作詞、猪俣公章氏作曲による「女のためいき」でデビュー。1967年、吉川静夫作詞、猪俣公章作曲「命枯れても」。1968年、中山貴美作詞、水沢ひろし補作詞、彩木雅夫作曲「年上の女」、川内康範作詞、彩木雅夫作曲「花と蝶」、藤三郎作詞、村上千秋補作詞、城美好作曲「盛り場ブルース」を軒並み大ヒットさせ、この年、第19回NHK紅白歌合戦にデビュー3年目にして初出場。以後、紅白に現役最多の38回連続出場を果たしており、トリを9回務めている。1969年、深津武志作詞、なかにし礼補作詞、猪俣公章作曲「港町ブルース」が大ヒット、弱冠21歳の若さでレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。出場2回目にして早くも紅白のトリを務め、一流歌手の仲間入りを果たした。1971年、川内康範氏作詞、猪俣公章氏作曲による「おふくろさん」が生まれ、2度目の歌唱賞を受賞。1973年、阿久悠作詞、猪俣公章作曲「冬の旅」がヒット。1974年、岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲の「襟裳岬」が大ヒット。この曲で日本レコード大賞、日本歌謡大賞など主な音楽賞を総なめにし、紅白歌合戦でも初の大トリを務める。(以降略)

 川内康範のプロフィールは次の通りである。

 戦前は、日活、東宝の脚本部を経て劇作家として活動する。戦後は、大東亜戦争の犠牲者兵士の遺骨引揚運動に取り組む。1958年、「月光仮面」の原作と脚本を手がけ大ヒット作となる。以降数多くの子供向け番組の原作や監修を手がける。1975年からの「まんが日本昔ばなし」の監修者であり、あの冒頭の主題歌の作詞者でもある。1994年まで20年弱にわたる長寿番組となる。

 数多くの映画脚本を手がける傍らで、作詞家としても頭角を現す。1958年、「月光仮面は誰でしょう」(小川寛興作曲、近藤よし子・キング子鳩会)。1960年、「誰よりも君を愛す」(吉田正作曲、和田弘とマヒナスターズ)。1966年、「恍惚のブルース」(浜口庫之助作曲、青江三奈)、「骨まで愛して」(北原じゅん作曲、城卓矢)。1967年、「君こそわが命」(猪俣公章作曲、水原弘)、1968年、「伊勢佐木町ブルース」(鈴木庸一作曲、青江三奈)、「花と蝶」(彩木雅夫作曲、森進一)、1969年、「逢わずに愛して」(彩木雅夫作曲、内山田洋とクール・ファイブ)。1970年、「愛は不死鳥」(平尾昌晃作曲、布施明)、「銀座の女」(曽根幸明作曲、森進一)。1971年、「おふくろさん」(猪俣公章、森進一)。1974年、「愛の執念」(北原じゅん作曲、八代亜紀)、「愛ひとすじ」(北原じゅん作曲、八代亜紀)、「座頭市の歌」(曽根幸明作曲、歌:勝新太郎)。(以降略)

 これによれば、川内氏が森シンを見出し、森シンは、デビューから大物歌手になる過程で川内氏の作詞に相当に世話になっていることは間違いない。但し、一貫して関係しているのは作曲の猪俣氏の方のようである。こたび川内氏が批判したイントロ歌の作曲も、原曲と同じく猪俣氏である。猪俣氏が亡くなっているので証言できないが、「1977.3月の大阪公演登場」する過程で何らかの事前折衝があったものと思われる。川内氏は、この当時の経緯を明らかにせねばなるまい。川内氏は否定しているが、それは異常であり過ぎよう。

 垣間見えてくるのはどうやら森シンと川内氏の疎遠な関係である。森シンはその後登竜して行く過程で他の作詞家とも結びつき、いわば育ての親を複数持つ。当然、川内氏も育ての子を複数持つ。これは致し方なかろうが、この経緯で川内氏と森シンの付き合いはほとんどなくなっている模様である。森シン自身が、川内氏との関係について、「独立するときも話してない、会ってもない。実は一緒に食事をしたこともないんですよ」と師弟関係の疎遠さを明かしている。「人付き合いが下手なんです。言葉が足りないというか…。これからは努力して、理解してもらいたい」とも語っている。川内氏が入院していた際に見舞いに訪れないなどの不義理も露見した。こうした事情によってか、川内氏は、森シンの不誠実さを問題にしている。「あいつ(森)が困っていた時、どれだけ助けたことか。それなのにコーヒー一杯ごちそうになっていないよ」と告白している。今回の騒動は、長年の不義理に堪忍袋の緒が切れたということになる。

 以上は、師弟関係の疎遠さの面からの事情考察である。この問題さえ、一方からばかり見るのは正しくない。森シンには森シンの、川内氏には川内氏の言い分があると考えるべきであろう。よしんば森シンには世評通りの癖があるとしても、結論として、こういう辺りの人の処世の仕方を処罰する法はないと弁えるべきであろう。してみれば、森シンは免責されるべきである。


【事件の争点】
 問題は、川内氏が「森にはもう歌わせない」と述べたことにある。これはれっきとした法的問題になる。如何に解決すべきか。真に検討すべきは、こっちの方である。川内氏が「森にはもう歌わせない」と述べた瞬間に、「川内氏と森シンの親疎問題」は後景に退き、歌手と所属レコード会社が、「オリジナル曲の付け足し」をどこまで出来るのか、許されないのかの問題が浮上し、理論的解明せねばならないことになった。

 まずは、「作詞・作曲・歌手」の三位一体に対して、歌手の地位をどう保全するかが問われねばならない。考えてみれば、作詞・作曲には著作権が講ぜられているが、歌手には歌唱権のようなものはない。例え、作詞作曲が優れていても、歌手の歌唱力によってヒットが左右されるのは厳然たる事実であるのだから、歌手の地位が相対的に低いのは不公平というべきで、早晩是正されるべきだろう。

 ならば、歌手の作詞作曲並みの権利保全にどう向かうべきか。一体、歌手の地位はどのように待遇されるべきであろうか。
現在のところ、誰一人森シンを庇う歌手が出ていないように見受けられるが、その精神はさもしい。これが労組運動なら、労組は組合員を見捨てたことになる。それだけ、歌手の同業者見識が低いことを証左しているであろう。れんだいこは逆に、作詞作曲の権利保全の行き過ぎを歌手並みに落とすべきと考える。歌手に比べ、作詞家、作曲家が甘やかされ過ぎているという見方も成り立つはずである。そういうことが問われているというべきだろう。

 「森にはもう歌わせない」は、もう一つ問題を提起している。ひとたび世に送り出した歌をその後、当該作詞家、作曲家の鶴の一声で勝手に歌手に歌えなくさせることができるのかどうか。できるならば、歌手は作詞家、作曲家の軍門に服させられ過ぎていよう。他にも音楽プロダクションが絡む。この辺りの理論的解明が要求されている。

 これについては、音楽著作権管理団体ジャスラックも関連する。ジャスラックと作詞家、作曲家は一体どのように関係しているのか。こたびの騒動で、作詞家、作曲家が、ひとたびジャスラックに預けた歌を、特定の歌手に歌わせない権限を持つのかどうかという問題が発生した。これを認めれば、作詞家、作曲家は、ジャスラックより強い権限を持っていることになり、認められないとすれば、逆を意味する。果たして、どう判断すべきか。

 ジャスラックの見解が分からないが、どうせ著作権を盾にして愚昧なことを述べているに相違ない。ジャスラックの本当の仕事はこういう時に見識を示すことであるが、ジャスラックに著作権料を払わなかったという理由でピアノ演奏店の店主を逮捕させる知恵ばかり働かせているので役に立たない。そういう逆のことばかりしている。れんだいこは、音楽著作権管理団体、作詞家、作曲家、歌手が互いに調御できないほどに拝金、蓄財、権利病に冒されている結果の騒動のように思える。著作権乱用時代が生んだバトルと見立てる。

 更に、こたびのような作詞家の「一方的歌わせない発言」が、他方の作曲家の意向抜きに為しえるのかという問題も発生する。当然、逆の場合も有り得る。こたびのケースでは、作曲を担当した猪俣氏は死亡しているが、存命中なら何と言うだろうか。仮に、俺は別段構わないと意思表示した際にはどうなるのか。そういう問題もある。実際、「補曲おふくろさん」の場合、「原曲おふくろさん」の作曲家である猪俣氏が作曲しているので、存命中なら、「川内、今更何を云うか」と逆抗議することも有り得よう。

 次に、ここからが本筋である。「補曲おふくろさん」の著作権侵害問題が論ぜられねばならない。こたびの事件は、歌詞の類似改変や「小林亜星−服部克久事件」のようにメロディーの相似問題ではない。原詞原曲はそのままに保全されている。その状態のもとに、そこへ新たな詞と曲を他の作詞家作曲家によって挿入することが出来るのかどうかの事案である。こたびは前振りであったが、中入れ、後付けの場合も考えられる。これがどこまで許容されるのか、はたまた拒否されるのかが問われている。

 自称インテリは早くも、著作権法では 「著作物の同一性を守る権利が認められている。補曲おふくろさんは、原曲おふくろさんの著作者人格権を侵害しており、著作権違反である」 なる論調を唱えている。しかし、「補曲おふくろさん」は、「原曲おふくろさん」をそのまま保全している訳だから、同一性を毀損している訳ではない。もし、これを同一性毀損と捉え、どうしても著作者人格権の侵害とするとならば、著作者人格権の新たな領域拡大となろう。果たして、事件が起きるたびに、かように著作権領域を拡大せしめる方向で対応して行って良いだろうか。

 識者の多くが、こういう問題を討議せぬままに森シンの作法の悪さを指摘し、早急な謝罪を促し、その一挙手一投足に注目し始めているが、肝心の理論的解明を為さぬままの情緒的懲罰ほど怖いものはないと云うべきではなかろうか。れんだいこは、「著作権考」で開陳しているように著作権緩和論者である。著作権などはギリギリ低く認められる程度で良いとしている。これを仮にユーザー志向とする。

 この立場からすれば、森シンと所属レコード会社に要請されているのは、ルールとマナー問題としての事前折衝と新曲に対する利益分配の取り決めだけで、補曲するのはいつでも自在とすべきだろう。川内氏は、自作の文言が変えられていない以上、著作権問題として異議を唱えるのは不当ということになる。いわば、歌は世に送られた以上公共空間に投げ込まれたものであり、改変なく同一性が保持されている場合、それ以上の抗議はできないと弁えるべきである、ということになる。

 文意の変化や情緒の問題など微妙なものは如何ともし難いのだ。それを罰する法などなく、ない方が良いのだ。世の中は利害が対立しているわけだから「あちら立てればこちら立たず」となる。そういう面があるから、法はこの種のことには立ち入らない弁えを持っていると認識すべきだろう。替え歌問題も然りで、これらを取り締まる法があってはならないのだ。

 しかし、著作権強化論者の手になると言い分が変わるようである。まず、原曲に手を加えるには、原曲者に対して事前通知と承諾を要する。これが為されない場合、あるいは不調の場合には補曲は出来ず、原曲者は、原曲に関わる歌一切を歌唱させない権利を有するのは当然だ。改変なく同一性が保持されていても、前振り、中入れ、後付によって原曲の歌意が変更されれば改変とみなされるべきである云々。これを仮にメーカー志向とする。多くの識者が今、この論法を支持し、森シンの謝罪を要求し、土下座の様を見ようとしている。これによれば、川内氏が門前払いし続ける限り、森シンはひたすら謝罪行脚の長期旅を余儀なくされるのは不徳のいたすところであり、致し方ないとされようとしている。

 我々は、著作権強化論者のこのような「メーカーの声」論法を是とすべきだろうか。れんだいこには、権利の止めない要求のように思えて仕方ない。「ユーザーの声」に耳を傾けねばならないのではないのか。「メーカーの声」を聞いて首を絞めあうことはないのではないのか。ユーザーからすれば、「原曲おふくろさん」も「補曲おふくろさん」も「その他おふくろさん」も、世に受け入れられたものだけあれば良い。我々は任意に選択でき歌える方が良い。いずれ振るいにかけられ、良い歌が歴史に残り語り継がれて行くことになる。それで良いではないか。

 れんだいこは、そもそも芸術というものは歌というものは云々と説き明かしたい衝動に駆られる。しかし、妙なもので、頭脳がお粗末な者が下手な学を身につけると、小難しく理屈をこね始め、世間を狭くする方に知恵を働かせることを好む。開放系には向かわず取り締まり系ばかりを好む。このお粗末を如何せんか。

 2007.2.28日 れんだいこ拝
 ネット検索で見つけた栗原潔のテクノロジー時評Ver2」の2007.2.21日付けブログ「著作権法における同一性保持権と「おふくろさん」について」に付けられた次の一文を転載しておく。
 ABC at 2007/03/03 19:57

 バースを追加したという程度のことが「改変」にあたるかどうかの議論はありますが、少なくとも川内氏の書いた歌詞そのものを改変したわけではないですし、川内氏はJASRACに同曲を信託しているので、そもそも著作権者として翻案権を行使できる立場にないはずです。このような権利の濫用は作曲家の猪俣氏(故人)、隣接権者の森氏、ならびにビクターエンタテインメントの財産権を侵害しているとも考えられます。特に猪俣氏が存命であれば、川内氏はこのような暴挙には出られなかったのではないかと思います。

 そんなことよりも問題なのは、どちらが良い悪いではなく、川内氏も森氏も、この曲を「自分のもの」としか考えてないことです。川内氏は作詞の権利を、森氏は実演家としての隣接権を保持するのみで、どちらもこの曲の権利をすべて持っているわけではないことを両者とも忘れているのではないでしょうか。権利の一部しか持ってない人が、つまらない感情のみで、作品の利用機会そのものを奪うのは権利の濫用でしかないと思いますし、もっと重要なことは、この作品を支持しているファンの気持ちを、両者ともまったく考えてないことです。

 PE'Zの「大地讃頌」も、翻案権の問題だと思いますので、東芝EMI側が徹底抗戦すれば勝訴したと思います。

 「JASRAC問題」の視点はないが、大いに拝聴すべき指摘であろう。


【事件の根本命題考】
 「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」の根は実は深いのではなかろうか。れんだいこは、遠い昔、イエスがユダヤ教急進原理主義者のパリサイ派に対して振るった弁論を思い出す。イエスは、去る日、神の義を口にして正義面しながら、実際にやっていることは拝金蓄財であり、その為に神の義を悪仕掛け利用しており、結局は富める者がより富むような階級社会を作り出している。そういう者が敬虔な信仰者然として社会を支配しているのは背徳であり、彼らの報復主義的特質と併せれば、その宗教はサタン被れ信仰である。こう述べて、パリサイ派的信仰の非を弾劾し警鐘した。

 川内氏は本来は義士であったが、いつの間にかユダヤ的拝金、蓄財、権利、訴訟思想に被れたのではないだろうか。現在の彼の弁論から漏れてくるのはそういう思想である。86歳の高齢によりボケ兆候が出ているにせよ、ジャスラックに依拠し、森に歌わせない措置をとるのは行き過ぎであろう。あるいは背後で入れ知恵をしている者がいるのかも知れない。それはともかく、彼のこたびの主張にエールを送る者もなべてパリサイ派に脳を汚染された連中であろう。学問には、イエスの教えを採るかパリサイ派の教えに従うのかの二股の道があり、しかない。

 「作詞家川内おふくろさん騒動」は、川内氏が、パリサイ派の徒であることを垣間見せている。今やこういう手合いが多過ぎて、その分文明は病に陥っている。れんだいこは、川内氏が正気に戻り、下手に権利やら権力を弄ばず、大衆文芸隆盛に尽力する元々の共生希求士として再登場することを願う。「おふくろさん」の歌意は、「お前もいつかは一人前になり、世のため人のため役立て、愛をともせ」と説いているではないか。イエスの御教えを説くことにより大ヒットさせたものを、パリサイ派の権益思想でガードするほど見苦しいものはない。問題はここにある。

 2007.2.28日 れんだいこ拝

【「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」その後】
 「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」その後の動きは分からない。メディアが一時のようには取り上げていないからである。いずれにせよ、「森シンパッシング」の流れにあることは間違いない。その対極として、川内氏の義侠ぶりが喧伝されることになるだろう。しかし、川内氏が義侠の士であれ、ジャスラックに依拠して歌わせないとしていること自体が胡散臭いことには変わりない。ジャスラックがどう対応するのかも見ものである。これについては、追跡する予定である。

 2007.3.5日 れんだいこ拝

「おふくろさん事件」考 れんだいこ 2007/02/28
 皆さんちわぁ。今渦中の「おふくろさん事件」は興味津々ですね。今日は休みのところ、興味を覚え、情報整理しております。まずネット検索で必要情報を引き出し、全部パクリます。それから彫刻家が像を彫るようにノミを当て削って行きます。十分な基礎情報で骨格を作り、それから何を表現したいのかデフォルメさせて行きます。これって大変ですが楽しい毎度の作業です。最近の著作権は、こういう手法そのものを禁止し始めたのかうるさいですね。

 それはともかく、「おふくろさん事件」で問われているのは歌手の地位であり、著作権の及ぶ範囲の問題だろうと思います。森が悪いのか、川内老人がボケているのか、どちらでせう。皆様のご意見お聞かせください。

 今日の3時頃のコメンテーターの話では、著作権規制強化論に繋がる立場からあれこれ言っていたように思う。実に問題は、強化するのか緩和するのかにあります。強化するというのなら、今後は歌手の地位をどう保全するのかまで話を進めないと片手落ちだと思います。歌手は単なる日雇い歌い手に過ぎないのでせうか。偉そうにするのも困るけど、そう云いたくもなります。

 れんだいこは、森を通じて歌手の弁護をしたくなりました。「もっと根回し良くして要領良くやりなさい」論は賢明なアドバイスですが、理論的には何も解決していないと思います。このあたりの議論よろしくお願いいたします。れんだいこ見解は追って発表します。

Re:「おふくろさん事件」考 れんだいこ 2007/03/05
 何やら、人生学院掲示板がバツの悪いことになっておりますが、悪しからず。いかがしたものかと思案中です。新掲示板の出どきかな。それはともかく、お約束の「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」考を発表しておきます。ご意見お聞かせください。
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_sakushisakkyokuco.htm

 気づいたことは、偏狭な現代著作権論と闘う意義は極めて大きいということです。連中の著作権論は、人民大衆の情報交差を掣肘する為に悪用されており、ここが主眼であり、対価請求という利益をエサに誘導しております。これに乗せられるのはサヨであり、現代パリサイ派の系譜ではなかろうか。このことを理解するにはイエス論が必要になります。れんだいこのイエス論は、下記に記しております。

 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/religion_christ.htm

 れんだいこ史観に拠れば、歴史はまことにイエス派とパリサイ派の闘いなのかも知れない。パリサイ派の論法が浸潤しつつありますが、彼らはその論の特徴としていずれ自縄自縛に陥るでせう。日本神道は、それらとは別個の独自の思想形成しておりますが、いずれロゴス対カオスの思想的決戦に向かわざるを得ない。そんな予感がします。

 2007.3.5日 れんだいこ拝

【川内氏の独占手記「森は歌の心がわからない」】
 2007.3.5日、川内康範氏(87)が、夕刊フジに独占手記を寄せた。改めて、森氏に「おふくろさん」を2度と歌わせないことを宣言するとともに、国を滅ぼしかねない日本人の倫理観や道徳観の欠如に警鐘を鳴らした。「川内康範氏の独占手記『森は歌の心が分からない」がサイトアップされているので転載し、れんだいこコメントをつけておく。

 戦後60年余り、日本は本当に殺伐とした国になってしまった。物質万能の世の中になり、義理も人情も薄れた。愛も正義も廃れてきた。親の子殺し、子の親殺しまで起きている。実に悲しいことだ。今回の一件は、日本人が常識を失い、心が崩壊しつつある象徴的な出来事かもしれない。

 森が「おふくろさん」の冒頭に勝手にセリフを入れて歌っていることを、私が知ったのは10年ほど前になる。それ以来、何度も「止めるように」と指示してきた。ところが、森は昨年の大みそかのNHK「紅白歌合戦」でまたセリフを入れた「おふくろさん」を歌った。これは許すことはできない。あの歌は、私の亡き母の教えである「無償の愛」「普遍の愛」を、小説やシナリオとともに、作家として可能な限り込めた心骨である。

 私は北海道函館市で育った。もとは商家だったが、父は途中で仏門に入り住職になった。家には檀家の方々が供えてくれた米やお菓子、果物があったが、母はそれを子供たちにはほとんど手をつけさせず、ある程度たまるとリュックサックに入れて、「さあ、行くよ。黙って渡すんだよ」と貧しい人々に配って歩いた。

 「世の中にはやむを得ず、ああいう生き方をしなければならない人もいる。大きくなったら、人々に幸せをあげられるようになりなさい」 そう母は教えてくれた。隣人を愛し、社会に献身せよ。これが、無償の愛、普遍の愛だ。森がセリフで加えた「いけない息子の僕でした」というのは個人的な母への心情であり、志がまったく違う。

 人が心血を注いだ作品を勝手に解釈し、何の断りもなくセリフを追加しただけでなく、何回注意しても「放っておけばいい」とでも思っているのか、無視して止めようとしない。で、今日を迎えた。

 今年に入り、私は再び森に強く抗議した。2月半ば、「本人が事情説明する」というので待っていたら、体調不良を理由に一方的にキャンセルしてきた。

 問題が大きくなって、私の都内の宿泊先や青森県の自宅を訪ねてきているようだが、報道陣を引き連れ、さも自分が被害者のように振る舞っている森の「三文芝居」に、もう私は付き合う気はない。

 歌は人の志を運ぶ船。歌の心が分からないだけでなく、常識が欠落したような人間には、私の歌を歌う資格はない。

 それにしても、日本にはいつの間にか、森のような自己中心的な人間が増えた。日本人はかつて倫理観や道徳観に優れ、豊かな人間性を世界に誇っていた。何よりも名誉を重んじ、貧困より正直さを選ぶ国民性を持っていた。

 それが第二次世界大戦で敗れ、戦後、経済発展だけを目標に邁進してきた結果、「自分さえ良ければいい」「儲けるヤツが正義」といった利己主義や金銭万能主義が蔓延した。常識が欠落し、心が崩壊したおぞましい人間ばかりが増えてしまった。

 むき出しの欲望がぶつかり合うような、殺伐とした世の中では国は滅びる。義理や人情、愛や正義が無くなれば、この世は闇だ。私は歌で日本を再生させたい。これからも、人々にやすらぎを与えるような歌をつくっていきたい。

(私論.私見)

 川内氏の思いは分かった。しかし、依然として、「だから森には歌わせない」となる結論が分からない。森批判で済ませられるところを、強権的にジャスラックに訴え、森には歌わせない措置をとる理由付けには足らない。結びの「むき出しの欲望がぶつかり合うような、殺伐とした世の中では国は滅びる。義理や人情、愛や正義が無くなれば、この世は闇だ。私は歌で日本を再生させたい。これからも、人々にやすらぎを与えるような歌をつくっていきたい」は、自分自身に跳ね返る言葉ではなかろうか。

 2007.3.20日 れんだいこ拝

【森シンが、「川内氏作詞歌謡曲暫く封印」宣言】
 2007.3.11日、森シンは、福岡県飯塚市の嘉穂劇場で開いたコンサートで、川内氏作詞歌謡曲を除く歌謡曲で押し通した。冒頭で「冬のリヴィエラ」を歌った後、森さんは涙ぐみながら約1200人の観客に「『おふくろさん』のことで皆様にはご心配をかけています。ここのところ少々落ち込んでいます」と心境を吐露、続いて「『おふくろさん』の件は、わたしの不徳の致すところです。申し訳ございません。しばらくは封印していきたいと思います」と語り、「川内氏作詞歌謡曲を暫く封印宣言」した。客席から「負けたらいかんよ」、「がんばれ」と励ましの声が掛けられた。

 発言順序は分からないが、離婚やC型肝炎での闘病生活にも言及しながら、「人生には三つの坂があると云います。上り坂、下り坂、まさか。まさかが続いておりますが、そろそろ上がっていきたい」とも語っている。

【川内氏が、「座頭市の歌詞を自ら改変」】
 2007.3.18日、「おふくろさん騒動」渦中の川内氏が、40年前に作詞した故勝新太郎さん(享年65)の映画「座頭市」の主題歌(作曲曽根幸明)の歌詞を自ら改変し、都内スタジオで新曲のレコーディングに立ち会った。新曲は、俳優で歌手の三夏紳(みなつ・しん、65歳)が歌い、6.6日に発売する。

 今年は、1997.6月に亡くなった勝新の10年忌に当たる。「座頭市」も1967.8月の発売から40年を迎えるため、川内氏と親しい作曲家の三佳令二氏とレコード会社などが、三夏氏でリメークすることを考案した、と云う。改変したのは、2番の歌詞で、「親のある奴(やつ) どきやがれ」の部分が削除され、「ああ いやな渡世だなあ…」と63秒間にわたる長ゼリフにし、最後も「ハハハハ ああ 眼があきてえなあ」のセリフで締める形に変更した。

 川内氏は、「この作品のセリフはちゃんと三夏君がやってきて、話をして意見が一致したもの」と森の改変との違いを強調し、「森事件はオレの全作品を歌わせないことで決着した。この曲が区切りの第1弾」とVサインした。
(私論.私見) 「川内氏の新曲座頭市」考
 れんだいこは、「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」について、著作権法的に考察しているのであって、川内氏にも森シンにも何の惻隠もないのであるが、「川内氏が『座頭市』の歌詞を自ら改変経緯事情」を推測すると、「おふくろさん事件」は何やら新曲座頭市の話題取りであった気がしてきた。もしそうなら姑息極まりないことになるが。こうなると、川内氏は、「座頭市の歌詞改変話し」が何時ごろから始まり、リメークに着手したのか経緯を説明せねばならない。ひょっとすると、川内氏がこのグループに乗せられている可能性がでてきた。ようやく裏がみえてきたということか。

 2007.3.20日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評271 れんだいこ 2007/03/20
 【再びおふくろさん事件の正邪を問う】

 2007.3.20日、毎日新聞25面が特集ワイド「名曲・・・誰のもの」と題して「おふくろさん事件」(「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」)を題材に記事にしている(太田阿利佐、高橋昌紀記者)。遅まきながらもタイムリーであり、他社がろくな記事を配信していないことを鑑みると評価に値する。「今ひとつ分からないことも多い。『おふくろさん』7つの疑問に迫ってみた」とイントロして次のように述べている。但し、れんだいこ見解に照らすと食い足りないのでコメントしながら検証する。

 第一疑問として、「森さんはもう『おふくろさん』は歌えないのか」と問うている。記事は、新曲を、著作権法第20条の同一性保持権規定に照らして、ジャスラックの「侵害の恐れがある」見解を鵜呑みにして不可としている。れんだいこ見解は、ここが違う。こたびのように原歌をそのままにしてのイントロ歌を挿入する場合には、同一性が保持されているとみなしたい。森シンはよって無罪である。そう思っている。なぜなら、この種のことにまで同一性保持を言い出したらキリがないから。

 記事は、新歌不可とした上で、ならば原歌まで歌うことができないのか、を問うている。この踏み込みは良いですね。ジャスラックは、「新曲が侵害に当たる」かどうか、森シン側からの申し出が為されると審査が発動し、著作権等管理事業法第16条に基づいて許諾の可否を判断すると云う。同条は、著作権等管理事業者に「正当な理由なく、著作物等の利用の許諾を拒んではならない」という応諾規定を負わせている。これによれば、森シン新曲は保護されそうだが、川内側が「森シンには歌わせない」と主張するとどうなるかという問題が発生する。

 ジャスラック広報部の「現状では森さんからそのようなお話はなく、仮定のケースでコメントはできない」とのコメントを載せている。これによれば、森シンは、ジャスラックに堂々と「原歌まで歌わせないのは不当」と申し込み、審査に持ち込めば良いことになる。さて、どうなるのだろうか。現代強権著作権論者は、作詞家の肩を持つのだろうが、れんだいこは、ジャスラックに管理を預けた時点で、作詞家、作曲家にはそういう権限はないと見立てる。ジャスラックは、自身の面子問題に絡んでくるので、恐らくそういう結論を出すだろう。

 第二疑問として、「では、なぜ嘉門達夫さんの替え歌は許されているのだろうか」と問うている。記事は、嘉門氏の場合、事前に許諾を得ており、しかも親告罪であるところ抗議は為されていない、故に許可されると述べている。れんだいこは、踏み込みが足りないと思う。嘉門氏が許諾をもらえない場合、それでも歌ったとしたらどうなるのかを考察したい。他の誰それでも同じである。れんだいこ見解は無罪である。どんどんやりなさい。規制する法があるとしたら悪法である。

 第三疑問として、「基本的に誰もが自由に好きな歌を歌えるのなら、なぜ吉幾三さんは勝手に『おふくろさん』を歌わないのだろうか」と問うている。記事は、歌手の持ち歌権を指摘し、持ち歌に対する遠慮があるからと推測している。れんだいこは、歌手の持ち歌権の存在を知った。そうだ、作詞家、作曲家、歌手の持ち歌は三位一体で対等に保全されるべきではないのか。作詞家だけが突出した権利を持つとするのはオカシイのではなかろうか。記事が、意識してか知らずでか、歌手の持ち歌権に言及した意義は大きいと思う。

 他の疑問は割愛するとして、最後に「確かなのはただひとつ。歌われないのでは、名曲『おふくろさん』が泣く・・・ということだ」で結んでいる。れんだいこは、記事のように情緒で訴えるのではなく、森シンが歌えるように法理論を構成したいと思う。これは、強権著作権論と開放著作権論との根源的対立であり、開放著作権論で強権著作権論を説き伏せる以外に無い。してみれば、一事万事ということか。

 それにしても、「おふくろさん事件」は著作権問題を考える上での格好例題になっていることが分かる。テレビで、コメンテーターがしたり顔して著作権違反を説くたびに、お前、著作権問題分かって云っているのかとなじりたくなる。ムードで物言ってはダメなんだよ。現に、森シン歌えなくされているが、問題ではないのか。とはいうものの、強権著作権論者でないとテレビにでれないんだな。だから見ないに限る。

 2007.3.20日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評275 れんだいこ 2007/03/25
 【「おふくろさん事件余話」】

 れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評271」で次のように述べた。

 「2007.3.20日、毎日新聞25面が特集ワイド『名曲・・・誰のもの』と題して『おふくろさん事件』(「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」)を題材に記事にしている(太田阿利佐、高橋昌紀記者)。遅まきながらもタイムリーであり、他社がろくな記事を配信していないことを鑑みると評価に値する」。

 今、「おふくろさん事件」で検索すると、朝日新聞2007.3.15日付の「歌は誰のものか 『おふくろさん』騒動と著作権」(http://www.asahi.com/culture/music/TKY200703150106.html)に出くわした。毎日のそれより5日早い記事ということになる。となると、先行して朝日記事が存在していることになり、「遅まきながらもタイムリーであり、他社がろくな記事を配信していないことを鑑みると評価に値する」と述べた言は訂正せねばなるまい。

 興味深いことは、他社の記事が無いことである。推測するのに、「おふくろさん事件」に言及するには、先行する朝日記事、毎日記事と類似せざるを得ないからではなかろうか。著作権の同一性を問う「おふくろさん事件」に言及した新聞記事が同一性を疑われる記事になったとしたらお笑いである。そういう事情で他社が記事化できないのではなかろうか。昨今、著作権同一性規定がどんどん攪拌して問われているので、その論法に従えば、新聞記事もまた窮屈にされつつあるのではなかろうか。これが、「おふくろさん事件余話」である。

 れんだいこは、昨今の同一性を過度に問う傾向に歯止めをかけねばならないと思う。先だって、地方新聞の社説が、他社の社説の引き写しであった事例が露呈し問題になったが、社説士の頭脳問題はともかくとして、自分の言葉で書けないもしくは踏襲したい文章があるなら、この問題に関しては何々新聞の社説が優れているので転載する、ないしは参照したと断れば許容されるべきではなかろうか。それには「要通知、要承諾」は不要とすべきではなかろうか。

 問題は、優れた情報を伝播し合うことにある。コミュニケーションを妨げるものを排斥せねばならないことにある。それは誰の記事であり何社の著作権であるなどとするのは本来、文意の歪曲改竄捻じ曲げを防ぐ為のものであり、情報伝播を抑止するものであってはならない。ところが実際には逆の在り方になりつつある。これはオカシイのではなかろうか。

 それが為には、一部の記述が似るのも、文章の構成が似るのも致し方ないとすべきではなかろうか。本当は、先行記事を更に煮詰めたり、多角的な観点が披瀝されていくのが良いのではあるが、場合場合であろう。似たり寄ったりになろうとも情報伝播の価値の方が勝るべきであろう。

 れんだいこは、最近の強権著作権の流れが情報伝播機能を阻害しつつあり、人民大衆的享受権が狭められつつあることを憂いたい。ちまちました御仁が己の甲羅に合わせてちまちま規制を掛け合う様をなじりたい。我々はそんなに賢くないのであり、賢いと思うのは思い上がりであり、必要な情報をもっと伝え合い、その情報をもっと推敲し合い、精査する方に能力を使うべきではなかろうか。

 事態は逆の動きを強めており、誰が旗を振っているのかを凝視せねばなるまい。

 2007.3.25日 れんだいこ拝

【「おふくろさん事件余話」】
 参考までにそれぞれの記事を転載しておく。
【朝日新聞記事】2007.3.15日「歌は誰のものか 『おふくろさん』騒動と著作権

 森進一さんが「おふくろさん」を歌えなくなる――そんな騒動が連日、メディアをにぎわせている。無断で歌詞を加えられたと、作詞した川内康範さんが「森さんに歌わせない」と言い出し、森さんはステージで「しばらく封印する」と語った。歌とはいったいだれのもので、原曲の改変はまったく許されないのか。著作権の視点から、騒動を考えてみました。

◇「作者の意図をゆがめている」

 原曲は〈おふくろさんよ おふくろさん〉と始まるが、森さんは、その前に「いつも心配かけてばかり/いけない息子の僕でした/今ではできないことだけど/叱(しか)ってほしいよ/もう一度」と、語り風の節回しのフレーズを加えて歌っていた。もともとの詞はいじられていない。77年のコンサート用に故・保富康午さんがこの部分の詞を書き、原曲の作曲者である故・猪俣公章さんが曲をつけたものだが、昨年の紅白歌合戦で歌われ、騒動になったようだ。

 著作権法には、著作者人格権という権利が定められている。著者の意思に反して内容を変えられないとされる「同一性保持権」もその一つ。今回のケースは、この権利をおかすものなのだろうか。

 川内さんの作品の著作権を管理する日本音楽著作権協会(JASRAC)は、改変版は「同一性保持権を侵害するおそれがある」との見解を発表。半田正夫・青山学院大元学長(著作権法)も「一つの楽曲というイメージを与えるので、作品全体の統一性を損ない、作者の意図をゆがめている」と手厳しい。

 司会者の曲紹介のように独立していれば問題ないが、今回は「歌の一部」とみなされるという。紅白歌合戦のテレビ放送では追加部分の歌詞にも字幕が。なのに、「詞・川内康範」としかない。

 人格権の侵害に当たれば、改変版を森さんが歌うことの差し止めや、精神的な慰謝料を要求できる、というのが半田さんの見方だ。JASRACも「改変版の利用だと判明した場合には『おふくろさん』の利用許諾はできない」としている。

◇原曲歌うなら拒否はできず

 では森さんは、ショーなどで、もとの「おふくろさん」も歌ってはいけないのか。

 JASRACが管理する「おふくろさん」の著作権には演奏権も含まれる。JASRACの仕事は著作権等管理事業法に基づいているが、そこには「正当な理由がなければ、取り扱っている著作物等の利用の許諾を拒んではならない」とある。つまり、森さんがこれまで著作権侵害をしてきたことを「正当な理由」としない限り、JASRACに拒否権はない。

 田村善之・北海道大教授(知的財産法)は「判例はないが、著作権の円滑利用を目的とするこの法律の趣旨に照らせば、川内さんがJASRACから著作権を引き揚げない限り、森さんが『おふくろさん』を歌うことは認められるだろう」と話す。

 著作権に詳しい福井健策弁護士は「森さんが原曲を歌うと言いながら、実は改変版を歌う危険性が特に高い場合を除いて、利用拒絶できないと思う」と話す。JASRACに尋ねると、森さん側が「川内さんとの話し合いができないうちは歌うのは控える」と表明しており、「現時点で争いはなく仮定の話はできない」という回答だった。

 ちなみに、原曲の著作権がJASRACから引き揚げられたとしても、法律上は、非営利目的で、自らが報酬を受けず、聞き手もお金を支払わないような場合には、森さんは歌うことができそうだ。

◇パロディーと区別する必要

 では、パロディーなどはどうなのだろう。

 「替え唄(うた)メドレー」で知られる嘉門達夫さん。事務所によると、作詞、作曲者はもとより、替え歌の歌詞の中に登場させる著名人にも事前に許可を得るという。「著作者に嫌な思いはしてもらいたくない」と考えるからだという。

 しかし、ときにはもとの作者の意図を超えた改変やアレンジによってこそ、新たな表現が生まれることもある。

 福井さんは「日本の著作権法では往々にして、パロディーも無断改変も同等に扱われてしまう」と問題提起する。福井さんによると、フランスの法律には明確なパロディーの規定があり、米国でも有名曲の「オー・プリティ・ウーマン」を下品な歌詞でラップ調にしたカバー曲について「新たな意味やメッセージを持った作品に仕上げている」と裁判で認められたという。

 福井さんも、「おふくろさん」の改変版については「新しい視点は生まれておらず、付け加えるならもとの作者に頼めばいいのに」と否定的だが、「著作者の意に添わないからといってパロディーや替え歌をすべて認めないのは法の判断停止ではないか。オリジナルへの批評的な視点は、文化を豊かにするのだが」と話している。


 参考までにそれぞれの記事を転載しておく。
【毎日新聞記事】2007.3.20日「特集ワイド:名曲…誰のもの 「おふくろさん」封印、七つの?

 ◇川内康範さんVS森進一さん

 歌手の森進一さん(59)が、代表曲「おふくろさん」を歌えない状態が続いている。森さんが歌詞を追加していたことに、作詞家の川内康範さん(87)が激怒したためだが、今ひとつ分からないことも多い。「おふくろさん」七つの疑問に迫ってみた。【太田阿利佐、高橋昌紀】

 ◇ものまねは?カラオケは?歌碑は?

 まず“おふくろさん騒動”をざっと振り返ってみよう。「おふくろさん」は川内さん作詞、故・猪俣公章(いのまたこうしょう)さん作曲で、1971年に森さんが歌い、大ヒットした。川内さんは国産第1号のテレビドラマ「月光仮面」の原作者。「誰よりも君を愛す」「骨まで愛して」「花と蝶(ちょう)」などの名曲の作詞のほか、故・竹下登元首相ら政治家との交友でも知られ、84年にはグリコ・森永事件の犯人に犯行をやめるよう呼び掛け、返事が来たことでも話題になった。

 今回の騒動は、その川内さんが2月20日に会見して表面化した。川内さんの説明では、森さんがオリジナル曲の冒頭に、保富康午(ほとみこうご)さん作詞、猪俣さん作曲の序奏を追加していることに10年ほど前に気付き、やめるように注意してきた。ところが森さんは昨年大みそかのNHK「紅白歌合戦」でも追加部分を歌い、その後の話し合いも欠席。「森にはもう自分の歌は歌わせない」と強く批判した。

 森さんは30年ほど前からコンサートなどで追加部分を含めて歌ってきた。川内さんの“立腹会見”後、おわびのため川内さんを訪ねるが会えず、11日に福岡県飯塚市で開いたコンサートで「おふくろさん」を「しばらく封印する」と宣言している。

 <1>森さんはもう「おふくろさん」は歌えないのか。

 著作権法上は、改変部付きは歌えない。音楽著作権を管理する社団法人・日本音楽著作権協会(JASRAC)によると「著作者である川内氏から自分の意に反した改変だとの通知があった。これは同一性保持権(著作権法第20条)の侵害にあたる恐れがある」という。同一性保持権とは、自分の作品を他人に勝手に変えられない権利のこと。替え歌はダメ、ということだ。

 では、オリジナルはどうか。JASRACによると森さん側から申し出があった時点で、著作権等管理事業法第16条に基づいて許諾の可否を判断する。同条は著作権管理事業者に「正当な理由なく、著作物等の利用の許諾を拒んではならない」という応諾義務を負わせている。基本的には著作権法を守っていれば誰でも好きな歌を歌うことが認められているのだ。ただ川内さん側が「森さんには歌わせない」と主張していることが、「正当な理由」に相当するとJASRACが判断すれば、森さんは歌えない。「現状では森さんからそのような(オリジナルを歌いたいという)お話はなく、仮定のケースでコメントはできない」(JASRAC広報部)

 <2>では、なぜ嘉門達夫さんの替え歌は許されているのだろうか。

 同一性保持権は「著作者の意に反して」改変されない権利で、著作者がOKなら問題はない。嘉門さんはヒット曲のサビの部分の替え歌が人気だが、ひとつひとつ許諾を得ている。しかも親告罪なので、著作権者から申し出があって問題化する。カラオケボックスで替え歌を歌っても、著作権者の先生方に「問題!」と認めてもらえなければ同法違反には問われない。

 <3>基本的に誰もが自由に好きな歌を歌えるなら、なぜ吉幾三さんは勝手に「おふくろさん」を歌わないのだろうか。

 吉さんはスポーツ紙の取材などに「『おふくろさん』は名曲。歌いたい」と発言している。音楽評論家の伊藤強さんは、勝手に歌わない理由について「歌謡界、特に演歌の世界では他人の『持ち歌』に遠慮があるから」と解説する。「歌謡曲の世界では、もともと歌手のイメージに合わせて作詞家が歌詞をつくり、作曲家が曲をつけた。それがヒットするといわゆる持ち歌になる。今は自分で作詞作曲して歌うシンガー・ソングライターが多いが、かつては作詞・作曲家が歌のレッスンまでして歌手を育てたものです」という。作詞家の発言力が強いわけである。

 「持ち歌は歌手にとっては財産のようなもの。法的には誰が歌ってもいいのでコンサートなどでは他人の持ち歌もよく歌われる。しかし録音したりテレビで歌う時には、作詞家・作曲家に許しをもらうことが多く、基本的には断られない。ただレコード会社間や歌手同士の付き合いもあります。今回は吉さんが遠慮しているのでしょう」

 <4>森進一さんのものまねを宴会芸にしている人も多いが、森さん本人が「おふくろさん」を封印しているのに、ものまねをやってもいいのだろうか。

 JASRACによると「改変部付きはダメですが、オリジナル版であればものまねも問題ありません」と言う。

 <5>では、カラオケはどうか。

 当然、改変部付きの「おふくろさん」を提供すれば同一性保持権侵害の可能性があるからダメ。しかしオリジナルであれば歌っても大丈夫。たとえ「歌手名・森進一」から検索しても特に法的な問題は生じない。JASRACによると、現在、改変部付きの「おふくろさん」を提供しているカラオケは見つかっておらず、安心して歌って大丈夫そう。

 <6>歌を録音で流す石碑はどうなるか。

 森さんの亡き母、尚子さんのふるさと鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市(旧下甑(しもこしき)村)には「おふくろさん」の歌碑がある。99年に村民有志が「観光資源に」と建立。刻まれた歌詞は、川内さんが自ら筆をとった。石碑の前に立つと森さんの歌う「おふくろさん」が流れる仕組みだ。

 同市下甑支所地域振興課職員の西手明一さん(46)は「歌碑も録音もオリジナル版なので問題ないと判断し、そのままにしてあります。除幕式でのお二人はほほえましい師弟という感じだったのに……。話題になって歌碑を見に来る人は増えていますが、早く元に戻って」と話す。

 <7>だれもが一番気になる「おふくろさん」はこれからどうなるのか。

 伊藤さんは「森さんの改変は、すべての母を歌った元歌を、森さんの母に置き換えてしまうもので、川内さんが腹を立てるのは理解できる。何か感情的な行き違いがあったのだと思うが、なぜ今問題化したのかよく分からない。『おふくろさん』ほど多くの人から愛された歌は、もはや川内さんのものでも森さんのものでもなく、大衆のものだと思います。川内さんにも大人の対応をしてほしい」と話す。ある関係者はこう語る。「二人とも業界の大物で、近寄りがたい雰囲気があるので、間に立つ人がなかなか現れない」

 確かなのはただひとつ。歌われないのでは、名曲「おふくろさん」が泣く……ということだ。


(私論.私見) 【おふくろさん事件、歌手仲間のお粗末考】

 2007.3.2日、スポーツ報知が、「吉幾三“代打”に名乗り、おふくろさん歌うのは私しかいない」なる記事を掲載した。「森進一に代わって、『おふくろさん』を歌う気満々の吉幾三」と報じている。記事は、デビュー35年目に入るこの日、東京・上野で記念新曲「ありがとうを言いたくて」の発表会を行った吉が、報道陣から森・川内騒動について問われ、「おふくろさんは名曲ですから。森さんが歌わないとしたら、私しかいない」と応答した。事の発端となった歌詞の付加に関しては、「(作詞家として)僕はどうでもいいと思う」と持論を展開。川内氏について、「雲の上の人。尊敬できる」と話し、「いくつ年を取ってもお師匠さんはお師匠さん」と森にオトナの決着も促した、とある。

 この事件を廻って、テレビでコメントしたのは、れんだいこの知る範囲で守屋浩と小林旭。当然他にも何人もコメントしているだろう。共通しているのは、歌手のうち誰一人、森シンの歌唱権を擁護する者がいないということである。れんだいこは、日本芸能人の貧相さを表わしていると見立てる。吉は素直に感情吐露しているだけであるが、それにしてもよぅもう少し仲間を庇うコメントできんのかよ。

 2007.43.28日 れんだいこ拝

【「紙の爆弾」芸能取材班のおふくろさん事件記事考】
 れんだいこは現在、定期刊行物として木村愛二氏の「季刊真相の深層」と松岡利康氏の「月刊紙の爆弾」を愛読している。両誌の趣が違うのでどちらも面白い。それはともかく、紙の爆弾2007.5月号の本誌芸能取材班による「“おふくろさん騒動”は自業自得 芸能界が森進一に助け舟を出さない理由」に一言云いたいことがあり、ここに書き付け世に発表することにする。

 取材班は、森進一の経歴と人間性に関して縷々解説し、ケチ、営利主義、女悪癖、暴力癖、恩知らずを強調し、「“おふくろさん騒動”は森の人間性が招いたトラブル。森が真摯に“悔い改める”ことを期待したいが、永遠に解決は無い・・・かも知れない」で結んでいる。

 れんだいこは、森進一に関して、この記事により知り得た為になったこともあるが、おふくろさん事件に関する取材班の観点には同調し難い。取材班の論旨は概要「森進一の人間性が悪く、懲罰されて当然論」となっており、余りにも未熟過ぎよう。れんだいこは、おふくろさん事件の持つ歴史的意味は、著作権論の更なる野放図な強権化を認めるのか否かにあると考えている。問題は既に著作権論争になっているのだ。

 この限りに於いては、森進一の人間性問題は参考でしかない。参考でしかないものを肥大化させて本筋を誤るのを本末転倒と云うのではなかろうか。だから、森進一の人間性に関する詳細を幾ら拾い集めてもそれは傍証にしかならない。かく認識すべきではなかろうか。

 おふくろさん事件問題は、作詞家が歌手に対して「歌わせない」規制が出来るのかどうかという法律問題として突きつけられている。しかも、音楽著作権管理団体であるジャスラック管轄下にあるものを、作詞家が横槍入れられるのかどうかと云う法律問題としてある。ついでに述べれば、作曲家は同様に主張し得る権限があるのかと云う問題も発生させている。これを是とするなら、メロディー問題、類似作詞問題を飛び越え同一性保持の領域を新たに拡大し、著作権強権化に道を開いたことになるという問題として認識せねばならないところにある。

 取材班は、森進一の人品骨柄を述べながら、さりとてこのような著作権の野放図な展開を許して良いものだろうかを問うところに意味が有る。その点で、全くペンが振るえていない。この問題は、弁護士に相談してもさほど役に立たない。彼らは法技術者であっても法哲学者ではないのだから。今後に期待するので敢えて苦言を呈しておく。

 2007.4.8日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評282 れんだいこ 2007/04/12
 【おふくろさん事件の裏舞台考】

 「おふくろさん事件」の裏舞台が次第に明らかにされつつある。多くの論者は、森シンの非人情をなじり、川内の義侠心を称える立場で評しているが、れんだいこは違う。川内は、如何なる理由付けであろうと、作詞家著作権を盾にしてはいけなかった。それを為した瞬間から川内の方に非があるとせねばならない。ジャスラックも本来なら、既に管理権は当社にあり、作詞家の一存で歌わせないと主張することは出来ないと見解表明すべきところ、平素強権著作権を主張している手前、容易に川内の論法に乗ってしまった。こうして、森シンは十字砲火を浴びることになった。

 情けないことは、歌手仲間の誰もが、歌手の歌唱権を主張して、森シンを擁護する者がいなかったことである。森昌子にしても歯切れが悪い。他の歌手ときたらどれもこれも二束三文的見解で冷笑していたに過ぎない。れんだいこは、歌手の精神的貧困を露呈させたと判じている。こいつらはろくなもんではない。少なくとも文化を育てるという気持ちなぞ端から無い手合いである、ということが分かった。

 元々に戻れば、川内は、「歌わせない」などとは一言も云わずに、森シンの非人情を単に暴露すればよかった。テレビ出演もあれば雑誌投稿の手記もある。それで足りる話だ。それを、ジャスラックと作詞著作権の二頭立ての法律で責めるから、ややこしくなっただけのことである。興味深いことに、その騒動は、よりによっておふくろさんの歌詞内容に最も馴染まない類のものであるというおまけつきである。世の中には妙なことが起こるものである。

 それはともかく、2007.4.15日発行の「封印歌謡大全」に掲載されているという「『情と恩を踏みにじられた』川内氏 『おふくろさん』騒動の『真相』判明」が、事件の裏舞台を次のように明らかにしている。ttp://news.livedoor.com/article/detail/3115005/

 「封印歌謡大全」は、さまざまな経緯で世に流れなくなってしまった曲について、ライターの石橋春海氏がまとめたノンフィクションで、この中に「作家・川内康範と封印作品」という文章があり、そこに、なぜ「おふくろさん騒動」が起きたのかという経緯がつづられていると云う。

 それによると、石橋氏が去る日、川内氏の曲をまとめたCDをレコード収集家の友人に作ってもらい、川内氏に手渡した。 最初に渡したCDが好評だったため、2007.1月、2つ目のCDを作って川内氏に渡した。その中に2006年の紅白歌合戦で森シンが歌った「おふくろさん」が含まれていた。これを聞くや、川内は自身作詞の「おふくろさん」の前奏に短い詞と曲が付け足されているのが、原曲のイメージを毀損していると立腹したのだという。

 しかし、「ここで始めて気づいた」とするのはいかがなものだろう。川内自身が、この件でこれまでに何度も掛け合っていたと述べているので辻褄が合わなくなるではないか。してみれば、石橋証言も何やら臭いことになる。いずれにせよ、石橋氏が黒幕として登場してきたことに意味がある。

 そして、改変を知った川内氏のマネージャーが森シンサイドに連絡を取った。しかし、何を今更因縁つけるのかと居直ったと云う。 れんだいこ的には、その気分が分からないでもない。結局、二人が直接会談することになったものの、森シンが高血圧を理由にドタキャンしてしまう。川内は、「それなら、こちらから見舞いに伺おう」と申し出たところ、「来られると、ますます血圧が上がりますので、来ないでいただきたい」との返事が為され、川内の怒りは頂点に達した。そして、この話がどこからか漏れてしまい記事となり、世間の知ることとなった、と云う。

 以上のような話が展開されているが、どこか臭い。この騒動を企画演出した者が居て、川内はピエロの如く踊らされたのではないかと云う疑念が晴れない。しかし、問題はそういうところにあるのではない。世の自称インテリが、インテリを自称する者ほど、川内の著作権主張に相槌を打ち、最近の知的所有権というはやり病に汚染され、意味も分からず同調し、結果的に森シンが川内関係の歌曲の歌唱封印に追い込まれたことにある。

 誰も、これをオカシイと云わない。目下、この粗暴法に警鐘乱打しているのがれんだいこである。近時の著作権法の強権化の非を認めるには法哲学的素養が無いと解けない。法技術屋的法匪はあまたいるが、法哲学者が居ない。故にこういうことが起こる。我々は、学んで却って野暮なことを云うインテリを目指さないように心がけねばならない。インテリの質を廻って論争せねばならない。これが、れんだいこの言い分である。

 こたびの事件を教訓的に総括した歌手なら誰も今後は、作詞家作曲家に盆暮れの付け届けを怠り無く、時にお茶でも飲み、その他親交を温め続けない限り、いつ「もうお前には歌わせない」とされるかも知れない恐怖が身にまとうことを知り、要領良い立ち回りをせねばならぬことになった。そういう気配り上手で無いと生きていけないことになった。厄介な話ではないか。接待上手な相撲取りより、土俵で良い相撲取る力士こそ望まれているのではないのか。主従を転倒してはいかん。

 川内は言う。「歌い手が情(こころ)を失ったら、その歌は死ぬんだ」。れんだいこは云う。「作詞家が著作権如意棒振り回すようになったら、もう良い歌はできない」。

  「おふくろさん事件」考(「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」考)

 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_sakushisakkyokuco.htm

 2007.4.12日 れんだいこ拝

 おふくろさん騒動」に次のような見解がサイトアップされている。参考になるので転載しておく。

 JASRACに信託譲渡された音楽著作物についていえば、特定の歌手がこれを歌唱することを拒む権利は作詞家にも作曲家にもありません。作詞家がその歌手に対してどんなに憤っていてもです。著作権等の集中管理というのはそういうものです。気に入らない歌手に歌唱されたというだけでは、「名誉又は声望を害する」とまではさすがに言えませんから、著作者人格権の問題も発生しません。

 ですから、少なくとも「語り」の部分を加えずに「おふくろさん」を森進一が唄う分には、川内康範さんはこれを止めさせることは法的にはできません(力関係を利用して森進一をパージすることはできるかも知れませんが、それはそれで法的に問題が発生しそうです。)。 なお、「歌唱パート」の前に語りを加えることが一般的に歌詞の同一性保持権を侵害するかのような説明がなされていることもあるようですが、それはいかがなものかなあと思います。


 2007.3.5日付けの「日本人は「ゆがんだ著作権意識」で洗脳されている」がサイトアップされている。参考になるので転載しておく。
 森進一の「おふくろさん」を巡って、作詞をした川内康範が「歌詞を勝手に改変した」と激怒しているいわゆる「おふくろさん騒動」。この騒動はいまだに収束していない様だが、この件に対する世論の反応が興味深かった。

 一言で言えば「意外」だった。

 まず、たまたま目にした幾つかのテレビ番組では、明らかに「川内氏擁護」の論調だった。それ以外の多数の番組でも、判断には踏み込まず単なる「揉め事」として面白がっている様なニュアンス。明確な「森進一擁護」の論調は見当たらなかった。

 テレビ以上に意外だったのがネットの反応。ネットでも森進一擁護の論調はかなり少数派。あのたけくま先生でさえ、明確に「川内氏支持」を表明

 川内氏に批判的なスタンスなのは、自分が目にした限りでは小倉弁護士 くらいか。

 日頃からラジカルな改変パロディを好み、JASRACなどの権利団体を露骨に嫌悪する2ちゃんねるの様な場でさえ森進一を明確に擁護する人は少数派に見受けられた。これにはさすがに驚きを通り越して閉口してしまった。

 「なるほど、見事に洗脳されてるんだなー」と妙に感心してしまった。

 本来あるべき著作権の議論から見れば、明らかにバランスを欠いている。このアンバランスさに全く違和感を感じない日本人は、知らず知らずの内に「ゆがんだ著作権意識」に洗脳されているのではないか。

 必ずしも、川内氏を支持する事を問題にしているわけではない。どちらが悪いかの判断は留保したとしても、今回の騒動では「本来あるべき議論」が欠落している。それは「具体的に森進一がどんなセリフを語り、その内容のどの部分が問題なのか」という検証だ。

 この「洗脳」のカギは日本の著作権法にある。日本の著作権法が定める「同一性保持権」は国際的にみても特殊な内容なのだ。

 日本の著作権法が持つ特殊性を端的に説明している記事がクリエイティブコモンズのサイトにあった。【CCPLv3.0】著作者人格権(同一性保持権)に関する議論 より抜粋。

 ここで、皆さんに理解していただきたいのは、世界的には、著作者人格権のうち同一性保持権は、日本の著作者人格権とは基準が異なる、ということです。日本の著作者人格権は、著作者の意に反する改変について同一性保持権を広く認めています。これに対して、世界的には、著作者の名誉声望を害する態様での改変に限って、同一性保持権の行使を認めている国がほとんどなのです。

 国際的な著作権法のベースとなるベルヌ条約でも、同様の制限事項がある。ところが、日本の著作権法にだけはこの重要な制限事項がポッカリと抜けている。結果として、日本の原著作権者は「自分の気に入らない改変は全て認めない」と主張できる、絶対的で不可侵な存在になってしまっている。

 そして、実際問題「オリジナルは基本的に絶対で不可侵」だという感覚は、日本人の中に無意識のうちに定着していないか。裏を返せば、著作物改変という行為そのものに必要以上の罪悪感を感じてしまう意識。もちろんその感覚は法遵守という意味では真っ当なのだが、そこに疑問を持てないほど定着してしまっているところが「洗脳」と表現した所以だ。

 その感覚は、一見「クリエイティブ」を保護している様でいて、現実には、改変やパロディに内在する「クリエイティブ」を不当に軽んじてしまう事になっている。日本の著作権法がなぜこのような形になったのか、その経緯は知らないが、そこには誰かの意志があり、何らかの力学が働いている。日本には、著作権者や権利団体が他国に比べて強硬に振舞える土壌がちゃんと培われていたのだ。

 昨今の著作権法を巡る動きとしては、これとは別に著作権保護期間の延長という問題がある。欧米にならって著作権保護期間延長を訴えるのであれば、同一性保持権に関しても欧米にならって制限を設けたらどうか。そういう議論であれば、今よりも有意義になるのでは。どこかにトレードオフが無ければ権利者にとって虫が良すぎるというものだ。

 余談になるが、先にも挙げた小倉弁護士の記事にあるように、仮に森氏側に非があったとしても、JASRAC管理楽曲を、作詞者が歌手に対して「今後いっさい歌わせない」と主張できる法的根拠は無いようだ。だから現行法においても、川内氏の主張は度が過ぎていることになる。この川内氏の暴走を諌める論調がメディアからほとんど出てこないのだから、深刻だ。

 いずれにしても、現行法における同一性保持権の「過度な権限」からまず手をつけない限り、日本はいつまでたっても著作権後進国のままのような気がする。


[3/6追記]
 この記事は、「おふくろさん騒動」を素材に著作権について語るエントリーなので、「揉め事」としてのゴシップ的側面はスルーしてます。そこをご理解ください。そういう意味で、「あえて空気読んでない」部分はあると。もう少し言わせていただけば、ゴシップとしてのこの騒ぎは最早マスコミの「恣意的報道」の真骨頂なので、報道の論調をそのまま鵜呑みにするのは慎重な方が良いと思います。

 PE'Zの「大地讃頌問題」との比較で言えば、例えば森進一がセリフの追加を、レコーディング時に行っていて、それを発売前に川内氏が差し止めた、という流れであればPE'Zの場合と同じになります。現行法においても、川内氏が主張できるのは、「冒頭にセリフを追加するな」までであって、セリフの有無に関わらず、「この曲を歌うな」「おれの曲は今後歌わせない」というのは、権限の範疇を越えているのではないでしょうか。

 「上から目線」というのは、この記事に関しては自覚していて、しかしこの表現が一番言いたい事が伝わる気がしたのでそのままにしました。


 れんだいこの「おふくろさん事件考」に次のような一文が寄せられた。

 レポートの資料に使わせていただきました。 龍水 寒 2007/07/09
 れんだいこさんの資料を学校のレポート用に少々引用させていただきました。森進一さんのおふくろさん騒動の件です。拝見させていただきましたが、とても気に入りました。これからもがんばってください。

 れんだいこは、次のように返信した。

Re:レポートの資料に使わせていただきました。 れんだいこ 2007/07/10
 龍水 寒さんちわぁ。れんだいこ文の活用有難うございます。これからもどんどんよろしくお願いいたします。れんだいこの仮説によると、脳にも筋力のようなものがあり、鍛えれば鍛えるほど若返ります。若い人に講ずれば強くなります。ところが今や金力にばかり関心が強められております。金力に縁の無い人はある人に拍手すればよい、それが無い人のマナーだ、格差社会の真の解決だとか教えられつつあります。ばかげております。思考異常を感じます。こうしてますます脳内がピーマン状態にされつつあります。こういう風潮は意図的に策略されている気配があると考えております。著作権万能論法はその呼び水です。闘わないといけないと考えております。ここが分かっていない自称インテリが多く、単に気難しいだけの場合も認められます。ウヨサヨ連中が特にうるさいのですが、ユダヤ教パリサイ派的狡知の回し者でせう。

 れんだいこは、あちこちからこれと思うものを取り寄せます。この場合、単に転載のままの場合があります。中にはリンクがけができていない場合もあります。このケースで、相手方が気難しいと思われる人の場合の再転載は考慮いただいて、れんだいこが咀嚼した文の場合には無条件でご活用ください。おふくろさん事件考の場合は、れんだいこが練っておりますので大丈夫です。教材で使っていただけるのは光栄です。注文があれば要請してください。練ってみます。それがれんだいこの生きがいです。以上、遅くなりましたが返信です。

 2007・7・10日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)