阿久悠(1937-2007)論 |
更新日/2017(平成29).8.1日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「阿久悠論」をものしておく。「」その他を参照する。 2011.03.15日 れんだいこ拝 |
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1937年(昭和12年)2月7日、兵庫県津名郡鮎原村(現洲本市五色町)に生まれ、淡路島で育つ。本名・深田公之。高校卒業後に上京し、明治大学に入学。卒業後、広告代理店で働くかたわら、「阿久悠」のペンネームでテレビの構成作家としての活動をスタートさせる。作詞家としての本格的なデビュー作は、1967年のザ・モップス「朝まで待てない」。「白い蝶のサンバ」などのヒット曲を経て、1971年、「また逢う日まで」で自身初の日本レコード大賞を受賞し、日本を代表する作詞家となる。また、同年には自ら企画書を書いたオーディション番組「スター誕生!」がスタートし、社会現象とも言われる大人気番組に。その後も「勝手にしやがれ」「北の宿から」「UFO」「雨の慕情」などで歌謡賞を総なめにし、日本歌謡界の黄金時代を築いた。2007年、惜しまれながら逝去。名曲は時を経て歌われ、愛され続けている。 |
阿久悠作品は、ひとりの人間が、それも同時期に書いているとは思えないほどの多種多様な表情を持つ。当時、「阿久悠というのは、複数の人間で作詞活動をするユニット名などではないか?」なんていう疑惑があったというのも頷ける。そんな阿久悠が活躍し、日本中が活気にあふれていた1970~80年代。あの頃は、演歌もアイドルソングも、あるいはジャンルわけなどできないような全く新しい流行り歌も、すべてが輝きを放っていた。 |
「君の唇に色あせぬ言葉を―」阿久悠は、サインを求められると、文字そのものからストーリーが感じられるような独特の筆致で、名前のそばにそう書き添えたそうです。彼の言葉は、いつも歌い手のためにありました。70~80年代、テレビの中で歌い、踊ったスターたちは、阿久悠の歌詞に彩られてさらに輝きを強くしました。 |
豪華スター115組が夢の大競演!ゴールデンヒット歌謡曲「阿久悠の世界」
「UFO」「北の宿から」「青春時代」「また逢う日まで」「勝手にしやがれ」…歌謡曲の黄金時代、数えきれないほどのヒット曲を生んだ作詞家・阿久悠の作品がCD全集になりました。プロデュースした伝説的テレビ番組“スター誕生!”から生まれたアイドルのヒット曲はもちろん、阿久悠の真骨頂である「3分間のドラマ」がじっくりと楽しめる演歌まで、時代を創った名曲を集大成。収録曲数は178曲。登場するスターは115組。歌謡曲の黄金時代の熱気と興奮…色あせない青春のヒット曲をお届けします! 生涯に作詞した歌5000曲以上。「この歌も阿久悠だったの!?」と驚くほど、演歌・アイドル・フォーク・アニメソングまでバラエティ豊か。阿久悠の言葉の力、時代の熱気をまるごと楽しめる全集です。
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阿久悠のペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する[2])。長男は作曲家の深田太郎で、ゲーム音楽や声優に楽曲提供している。 両親とも宮崎県児湯郡川南町出身[3]。 幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。洲本市立都志小学校卒業[4]、五色町立都志中学校、一宮町立江山中学校、五色町立五色丘中学校卒業[5]、兵庫県立洲本高等学校卒業(同級生に京都大学教授の木曾好能、料理研究家の為後喜光等がいる[6])、明治大学文学部卒業。両親は父の定年退職と同時に故郷の宮崎に戻ったという[3]。 1959年(昭和34年)に広告代理店・宣弘社(現・電通アドギア)へ入社する[7]。元々は映画の脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家の伊上勝が課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」と言われて、振られた仕事はCMの絵コンテ描きだったという。絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のためにここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を書かせてもらえるものだと思っていたという。 また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画『同棲時代』や『修羅雪姫』で名を馳せた「昭和の絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し[7]、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。歌詞の処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)[8]。初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」(1966年(昭和41年)11月発売)[9]。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」(1967年(昭和42年)11月5日発売)[10]。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという[11]。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、1968年(昭和43年)に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした阿久の作詞作品となった[10]。また、この頃よりオフィス・トゥー・ワンに所属する(死去まで)。 その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。 上記の作詞経験から「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである 」との言葉を遺す。しかし、1980年代に入りニューミュージックのアーテストが台頭し、彼等のつづった叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である松本隆や秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。この頃になると60年代、70年代に作詞した曲に対して「懐かしい名曲」としてテレビ番組の出演オファーがあったが断っていた。 直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』はその後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年(平成9年)、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年(平成11年)春、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)10月、掌編小説集『詩小説』にて第7回島清恋愛文学賞を受賞。 2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。70歳没。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。 日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で決定した。また、同年の第49回日本レコード大賞では特別功労賞、第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。 2009年、明治大学連合父兄会阿久悠作詞賞制定。2010年、明治大学アカデミーコモン地階に阿久悠記念館が開設された[13]。また、没後、生前に発表されなかった作詞を基にした楽曲が多数造られているほか、さらに10年経過してからも、2017年の第59回日本レコード大賞では特別賞を受賞している。 |
(私論.私見)