やっぱりオカシイ著作権、「著作物、著作権自由往来協会」を立ち上げよ |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).6.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「やっぱりオカシイ著作権、「著作物、著作権自由往来協会」を立ち上げよ」を述べておく。 |
【れんだいこの強権著作権批判】 |
2018(平成30).9.14日現在、著作権がますます猛威を振るいつつあるのか廃れつつあるのか、それが問題だ。私論は、著作権の定向進化としての強権化を憂いている。典型的なユダ邪商法と看做して排斥せんとしている。 「やっぱりオカシイ著作権」、この観点を確立することが必要だ。オカシさを指摘する者は見受けられるが、どこがオカシイのか、必ずしも焦点が定まっていない気がする。そこで、れんだいこが、これを明らかにしておく。結論から言えば、川上川下論を媒介すれば良い。メーカーサイドの川上では微料ならば認められても良い。庶民大衆サイドの川下に適用するのは全くナンセンスな話である。こうスタンスを確立すればよい。ところが、実際には、川上で課金している上に、更に川下でも稼ごうとしている。ここに、著作権論の強権化によるオーバーランが認められる。 かく認識すべきだ。ところがイケナイ。世の著作権盲信派は、のべつくまなく課金させて当然論にシフトしている。それは違う、と云うのがれんだいこのスタンスだ。歴史にはこれまで、著作者の著作物を人民大衆が愛用して課金された例はない。著作者は、著作物が利用されるのは誉れとしてきたし、それは無償の愛で育った社会への恩返しとしてきた。それで良いのに、誰だ、正義面しながら一々汚い手を出して来る奴は。 著作権論を権利論で詮索して行くのは道を間違う。その道は神学問答に似て迷路に嵌る。これを思想的に正邪判断するのが正しい。社会的共有財産物として位置づけ享受し合う態度が正しい。強権著作権論には社会的共有財産物論を対置させ排斥するのが正しい。下手に受け入れると、適用の境目を廻って消耗させられることを請合っておこう。 2008.6.2日、2018(平成30).9.14日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの「著作権(表現の自由)自由往来協会立ち上げ論」】 |
れんだいこは、「著作物、著作権自由往来協会」の立ち上げを希求することになった。既存の著作権協会が著作権の本来の在り方を追及するのではなく、著作権如意棒を行使して時代閉塞を作り出す桎梏物に転じていると思うからである。今や、各種著作権協会の強権著作権論に基づく反動的対応によって、各種情報が閉塞させられ、本来宝の山であるべきものが隠匿させられ埋蔵死させられつつある。これを如何せんか、と苦吟している。 れんだいこの著作権関わりを確認しておく。以下の通りである。れんだいこがネット界に登場し、サイトと掲示板を運営するうちに妙に執拗な著作権攻撃を受け続けることになった。相応の理由があった場合もあるが、過半は嫌がらせであり、しかも度を越したれんだいこ誹謗であった。れんだいこの発言を封じ込め、サイトと掲示板の閉鎖を目論むものであった。れんだいこは、これらが著作権を盾に行使されていることに着目した。そういう訳で、れんだいこは防衛上、お陰さまで著作権法に精通するに至った。これは望外の果実であった。連中の執拗な攻撃がなければ、れんだいこが著作権論の研究に向かうことはなかったであろう。今れんだいこは、「前門の狼、後門の虎」の例えに比するなら、現代著作権法が「前門の狼」に転じて社会悪作用していると認識している。現代著作権法は、本来の趣旨から離れて、情報交差の制限に向かって強権歩きし始めていることに気づかされている。そして、その流れが意図的に推し進められているということを知りつつある。以下、このことを論証してみる。 著作権強権論者が如何に正義ぶろうとも、悪意のうちにこれを推し進めている勢力の代理人でありエージェントであることがはっきりしている。故に、この連中は、陰謀集団の習い性で岩陰から矢を放つのを好む。今流行の言葉で言えばスティルスである。彼らは堂々と議論を挑むことができない。れんだいこを叩くのに、典型的な怪文書手法でしか攻撃できない。「人生学院掲示板1」に最後に登場する栄誉に預かった「コピペ」君は、その素体を正直そのまんまに晒し続けている。お陰で、「コピペ」君は、その行状を通して、著作権の情報弾圧的本質を誰の眼にも分かるように伝えるという歴史的役割を担っている。彼の今後の立ち居振る舞いに関心がもたれる所以である。この指摘に接したコピペ君がどのように変化するのか、しないのかに注目してみよう。これを仮に「コピペ君果実事件」と命名しておく。 そういう事情によって、れんだいこは、現代著作権法の強権化の動きに特別の臭いを嗅ぐことになった。それが史上のパリサイ派的動きであることに気づいた。ならば、これに抗する為にイエス派的対応をしてみたいと思う。かの昔、同じ神の義を口にしながら、パリサイ派のそれと、イエス派のそれは真っ向から対立した。著作権法も同じで、同じ言葉を口にしながら、まったく対応の異なる著作権論を打ち出すことになるだろう。 本来の著作権法とは、つまりイエス派著作権論とは、1・表現の自由、2・著作の自由、3・情報交差の自由、4・情報の市場原理尊重、5・権力統制の排除からなる。これらこそが著作権論の法理となるべきである。しかしながら、パリサイ派著作権論は、1・イエス派著作権論の表現の自由に対する規制、以下同様に2・著作の自由に対する規制、3・情報交差の自由に対する規制、4・市場原理に対する規制、5・権力統制の排除の逆の強化を推し進めている。 言葉は同じ著作権であり、その法であるが、両者が護ろうとしている内実が悉く背反していることに気づかされよう。両者は、著作者の権利を護るという名目は同じであるが、イエス派は、著作物を社会的共有財産とみなし、その人民大衆的享受に向かう。共生的社会空間の創出に向かう。近代曙光期のルネサンスはこの流れにあった故に支持される。他方、パリサイ派は、経済主義的には拝金蓄財教のしからしむるところ全てをゼニ対象化即ちユダ邪商法化させようとし、政治主義的には情報の取捨選択を行い不都合情報を抑圧し、ご都合情報をプロパガンダする。そういう著作権論を吹聴し、著作権管理協会を跋扈跳梁させつつある。現代社会は、パリサイ派に牛耳られている為、イエス派的人民大衆的享受に向かう著作権派は公職追放され、逮捕され、巨額の制裁金を課せられている。この傾向は今後ますます激しくなりそうである。 そろそろ、一体どちらの著作権論が正しいのか議論すべきではなかろうか。れんだいこには自明である。そもそも著作権が囲おうとする著作物の珠玉は、芸術、思想、主義、主張に起因するものである。それらは本質的に流布、伝播、拡散されることを生命としている。要するにこれが本能である。それを網掛け規制して抑圧し、その抑圧の網緩める対価として課金せんとする商法が強権著作権の本質である。ユダ邪思想に被れるとこういう倒錯を日常化させる。こうなるとどちらが正常で異常であるのかが分からなくなる。学徒はその能力の凡庸さに応じてユダ邪著作権理論に与し洗脳され、学問すればするばするほど痴呆になる仕掛けに入り込むことになる。 この風潮を横目にしながら、れんだいこはこたび、パリサイ派の現代著作権論に対抗するために、「著作物、著作権自由往来協会」を立ち上げ、著作権管理団体による著作権強権化の監視に向かい、権利濫用を掣肘したいと思う。誰か趣意賛同の方よ、財団ないしは協会の届出をしてくれ。れんだいこを理事に入れてくれ。この協会は成長性が著しいぞよ。(思いつくまま) 2007.3.3日 れんだいこ拝 |
【野村監督の名言、円楽の生きざま、ベニンの話】 | |
2009年、日本プロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルズ球団の野村監督(74歳)は、万年B級チームを率いてパリーグCS(クライマックスシリーズ)第一ステ−ジ決戦まで漕ぎつける采配を見せた。その監督術は、「野村ID野球」、「野村再生工場」等々で知られている。これから決戦に向かわんとする時、球団が野村監督の来季解任を申しつけた。どういう事情があるのか分らないが、楽天は野暮なことをする球団ではある。この件を廻るインタビューの席で、野村監督は、「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上とする」なる名言を吐いた。これを愚考する。 云われてみれば、これは実に名句である。この言を為した野村監督は凄いと思ったが、どうやら出典があり、戦前の内務大臣・後藤新平の言葉らしい。三島通陽(みちはる)の「スカウト十話」によれば、新平が倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であった、とある(「ウィキペディア後藤新平」)。後藤新平はなるほどの人物ではあるが、戦前の特高の生みの親でもある。ネオシオニズム論のプリズムを通せば後藤新平の生きざまは別に映るのだが、特高の生みの親の言葉ということが分かり興味が半減した。 しかしながら、この文句はやはり凄い。れんだいこが意訳すれば、「人の生き方として金儲けは下上、仕事は中上、人を育てるが最上」ということになるのだが、これは東洋的日本的精神ないしは生きざまの極致を言い当てており、今日びの流行病のような「金儲け特上主義」へのアンチの態度を秘めている。つまり、時代に流されず、日本の古来よりの伝統的精神を継承せんとしている。この言葉には、そういう意味が込められているように思う。 そんなこんなを考えさせられている時、2009.10.29日、演芸番組「笑点」の名司会者として馴染みの5代目三遊亭円楽(本名:吉河寛海)が肺癌のため死去した(享年76歳)。なぜ、円楽を採り上げるのかというと、円楽こそ「人を遺した」と思うからである。つまり、奇しくも野村が「人を遺すことの大事」を語った時、人遺しの達人たる円楽が死んだ廻り合せの不思議を思う。 落語界の内情についての知識はないのでコメントできないが、円楽は、60年代の演芸ブーム期、立川談志、古今亭志ん朝、橘家円蔵と共に「寄席四天王」と呼ばれた。内輪の確執があったのであろう、1978年、師匠の圓生と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会を創設した。政治的には、これを分派と云う。圓生師匠没後、落語三遊協会は解散となり、門下の多くが落語協会に復帰した。だが、5代圓楽一門は復帰せず、「大日本落語すみれ会」を結成し一派独立し続けた。この間、落語協会脱退の咎で寄席の定席から締め出され、1985年に6億円の私財を投じて東京都江東区に寄席「若竹」を開設。弟子たちの修業の場とした。1989年、経営難で閉鎖を余儀なくされ、多額の負債をしょい込んだものの独演会や講演などで稼いで返済した履歴を持つ。 れんだいこは、「野村伝、円楽伝」を著作権との絡みで採り上げようと思う。その心は、彼らの日本的な「人の遺し方」の発想と行いが、現下の著作権政策とあざとく対立しているように思えるからである。野村、円楽的「人の遺し方」は、あらゆる意味で現下の著作権論のそれと対立している。それが証拠に、例えば六代目を襲名する楽太郎は、円楽逝去に際して、「長年にわたる芸の借り」を云々していた。れんだいこは、ここに注目する。芸能での学びは、芸能だけでなく実は万事そうなのだが、仕込まれ育てられるまでの期間を不断に真似び学び借り続け、やがて一人前に辿り着くようになる。いつの日か借りを返すのを恩返しという。職人芸も商売道も政治の世界も然りで、こうやって伝統を育んできている。これによって社会が成り立っている。 思うに、これは、よほど高等な芸ではなかろうか。それに比べて、近時の著作権理論に耳を傾けてみよ。何と浅はかお粗末なハウマッチ論であることか。俺に黙って芸を盗むとは何事かから始まり、「真似び学び」の過程一切にイチャモンをつけ、一々対価請求し、「事前通知事前承諾」の門を高くして尊大ぶる。果ては、手前の芸の拙さを磨かず、損害賠償の種を探して徘徊し始める。これを後押しするのが、今日びの著作権論である。先進的だの文明的権利だのと能書きを垂れつつ、野蛮な如意棒を振り回しながら薮を突く狩猟に勤しんでいる。断固排撃すべしではなかろうか。 こういう手合いの阿呆に漬ける薬がない。れんだいこは、これが云いたかったのだ。下手に学問すると却って貧脳になり、肩書なくしては世渡りできないようになる。元々のお粗末な頭脳が下手な学問を身につけることにより物事を難しく取り扱うようになり、屁理屈を云い始め、共通して不思議と著作権棒を振り回し始めるという構造になっている。これに対し、高級な頭脳は「人を遺す」ことに向かう。この高級脳の多いだけ社会は富み、文化が栄える。逆は逆になる。これが古今東西の法理ではなかろうか。 この話に関連して、次のような面白い話があったので紹介しておく。「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ40」の ピノキ 氏の2005.7.6日付け投稿「ベニンで語られた話」より。趣意をそのままに、れんだいこ流に書き換えた。この話は、さまざまなバリエーションで幾度となく語られてきていると云う。深く味わえば良かろう。
ふふふ面白い話ではある。れんだいこが蛇足しておくと、この話に登場する専門家とは、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の奏でるネオシオニズムイデオロギーに被れた既に「古い脳」の学者である。この学者は厚顔にも、「あなたを助けたいのです」などと前置きして、未開人に夢と希望を与えようとする。ところが、未開人とは連中が勝手につけた表現でしかなく、実は人生の味わい方、世の中の仕組みに対してよほど知り尽くした生活を既にしている上等処世人であると思えば良い。この際、どちらが文明人なのか、一考するのも面白かろう。結論として、ゆめユダ邪商法なりユダ邪狡知に騙されるな!。れんだいこに云わせれば、連中の知恵は粗暴極まる偏執学にほかならぬ。こういうところを客観化させて行くのが、これからの時代の関門なのではなかろうか。 2009.11.2日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)