「れんだいこのデサフィナード裁判及び判決考」

 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).2.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 和歌山県のレストラン「デサフィナード」がジャスラックと裁判闘争を敢行した。これを仮に「デサフィナード闘争」と命名する。「デサフィナード闘争」は、多くの同様店が泣き寝入りする中で、ジャスラックの実態批判の観点から真っ向対決したところに史的意義がある。かく構図を構えたい。

 問題は、「デサフィナード闘争」が、ジャスラック式著作権論を容認した上で免責ないしは減額闘争にシフトしていることにある。これにより、「デサフィナード」の演奏実態(ピアノ演奏、ライブ、貸切)に対する検証が行われ、裁判及び判決が適正解決に費やされることになった。結果的に、「デサフィナード」の主張はことごとく退けられ、ジャスラックのワンサイド勝訴となった。れんだいこは、「デサフィナード闘争」が自ら負ける闘いへシフトしたと見立てる。では、どう闘うべきだっのか、以下これを考察する。


 2008.3.7日 れんだいこ拝


 「大阪高裁平成20.9.17平成19(ネ)735号著作権侵害差止等請求控訴事件判決」は、原告に対し、楽器演奏を撤去させ、今後の歌唱を禁じ、「元金190万7425円、利息、完済時までの金利の各金員を支払え」、「訴訟費用は第1,2審とも1審原告の負担とする」と裁定した。

 判決文は、膨大な割には法理論的に杜撰で、従来の判例をそのまま踏襲しているに過ぎない。ジャスラック式音楽と著作権論の変調さを顧慮する姿勢は微塵も見当たらない。最高裁お墨付きの三段論法をオウム返ししているに過ぎない。

 その理由として次のように述べている。

 法理論1として、「営業的利用による歌唱演奏は著作権侵害に当たる」としている。れんだいこは、これについては司法判断の決着はついていないと思っている。その理由として、営業的利用になると著作権侵害になるという法理が果たして適正かどうか。これは検討されるに値することであるのに、鵜呑みにされたまま今日に至っている。第二に、「営業的利用による著作権侵害」を認めるならば、それは何も音楽だけに認められるべきではなく、新聞、雑誌、メディア放送、ゲーム機器も該当するところ、音楽に関与するジャスラックだけに何ゆえ権利侵害に伴う取立てが認可されているのか、という問題が不問にされたまま鵜呑みにされている。

 そういう問題があるところ、本裁判はどう判決したのだろうか。被告は、「管理著作物であっても,営利を目的とせず,かつ,聴衆又は観衆から料金を受けない場合には,公に演奏することができるが,実演家に対し報酬が支払われる場合はこの限りではない」即ち「非営利行為を著作権侵害に当たらない」とする著作権法38条1項に準拠すれば支払う必要なしとしている。これに対して、次のように述べている。
 概要「営業のため使用する」とは,1審被告が自らが演奏・歌唱する場合のみならず,第三者が演奏・歌唱する場合であっても,それを1審被告が管理し,それによる営業上の利益が1審被告に帰属する場合を含む趣旨と解されるから(最高裁昭和63年3月15日第三小法廷判決・民集42巻3号199頁参照)。

 この判例に従い、「著作権法38条1項は適用されない」と認定している。しかしながら、れんだいこが前述しているところの何ゆえジャスラック式課金制のみが先行的に許容されているのかの疑問に対して何ら答えていない。

 法理論2として、「飲食店経営者の管理下の営業的利用による歌唱演奏は、貸切りも含めて経営者が著作権侵害行為の主体であり、責任を追うべきである」としている。れんだいこは、これについては司法判断の決着はついていないと思っている。その理由として、著作権法の想定する規制は、あくまで当事者間のそれであって、この場合には歌唱演奏している当人に対する課金であって、場所を提供しているに過ぎない経営者に直接請求するのは著作権法趣意違反ではないか、という問題が不問にされたまま鵜呑みにされている。

 そういう問題があるところ、本裁判はどう判決したのだろうか。被告は、「客から演奏鑑賞料を徴収していないし,演奏者に演奏料を支払ってもいない」と主張している。これに対して、次のように述べている。
 概要「スナックにおける客のカラオケ伴奏による歌唱について,客は経営者と無関係に歌唱しているわけではなく,従業員による歌唱の勧誘,経営者の備え置いたカラオケテープの範囲内での選曲,経営者の設置したカラオケ装置の従業員による操作を通じて,経営者の管理の下に歌唱しているものと解され,他方,経営者は,客の歌唱をも店の営業政策の一環として取り入れ,これを利用していわゆるカラオケスナックとしての雰囲気を醸成し,かかる雰囲気を好む客の来集を図って営業上の利益を増大させることを意図していたというべきであって,客の歌唱も,著作権法上の規律の観点からは経営者による歌唱と同視しうる」(最高裁判所昭和63年3月15日第三小法廷判決(民集42巻3号199頁)参照)。
 「本件は,いわゆるカラオケスナックに関する事案ではなく,上記判示をそのまま当てはめることはできないが,同判決は,著作物の利用(演奏ないし歌唱)の主体は著作権法上の規律の観点から規範的に判断すべきものであって,現実の演奏者・歌唱者だけでなく,演奏・歌唱を管理し,それによって営業上の利益を受ける者も含まれうることを明らかにした点で,本件においても参酌すべきである」。
 「1審被告がピアノ演奏を利用して本件店舗の雰囲気作りをしていると認められる以上,それによって醸成された雰囲気を好む客の来集を図り,現にそれによる利益を得ているものと評価できるから,1審被告の主観的意図がいかなるものであれ,客観的にみれば,1審被告がピアノ演奏により利益を上げることを意図し,かつ,その利益を享受していると認められることに変わりはないというべきである」。

 何のことはない。「経営者責任論」を無理矢理生み出すために「著作権法38条1項否定の為に作為された営業利用負担当然論」を援用しているに過ぎない。「経営者責任論」の法的適合性そのものの判断を避けていることになる。

 今日、インターネット上から音楽を聴取する場合、配信元と聴取者の課金関係は当事者同志と云う関係ではっきりしている。ジャスラックと店舗経営者間には歌唱、演奏の直接関係はない。あるのはジャスラックと客関係であり、ジャスラックが取り立てるとすれば歌唱、演奏者に直に向かわなければ本来はオカシイ。こたびの判決は、この問題の裁定をせずに、従来の判例を繰り返しているに過ぎない。

 法理論3として、ジャスラック式ス課金制の金額と取り立て方法を妥当適正としている。その法理として、次のように述べている。
 「著作権法114条3項は,著作権者に最低限の損害賠償額を確保させるために著作権侵害による賠償額の最低限を法定したものであり,使用料規程による額がこれに当たる。また,著作権者は民法709条又は703条もしくは704条により,同項所定の額を超える額を請求することもできる」。
 「使用料規程は,著作権に関する仲介業務に関する法律の下では利用者団体との協議を経て文化庁の認可を受け,著作権等管理事業法の下では文化庁長官に届け出たものであり,実務は長年これに基づいている」。

 判決文は、「使用料規程」を楯にジャスラック式課金制を是認し後押ししている。しかしながら、「使用料規程」と著作権法の不整合性、即ち「使用料規程」の著作権法違反性について裁定する姿勢を微塵も見せないことによりジャスラックの走狗的役割を露呈している。「使用料規程」の認可過程、分配、経理公開等々に様々な疑惑があることを不問にしたままオウム返ししている。

 本判決は、種と仕掛けを暴いてみれば、法理論的に見ればこの程度の粗雑な三段論法を繰り返しているに過ぎない。この愚昧性を隠す為に、被告の経営店舗に於ける歌唱演奏過程の警察的検証を饒舌することで煙巻きしているに過ぎない。何ら中身のないくだらない判決でしかない。


 補足として、「週刊ダイヤモンド2005年9月17日号記事」について次のように述べている。
 「1審被告の上記主張は,雑誌(週刊ダイヤモンド2005年9月17日号)に掲載された1審原告に批判的な記事(乙2)に基づくものであると解され,なるほど同記事には「だが,実際の使用料は必ずしも規定どおりではない。月に2万円払っている店もあれば,2200円の店もある。なぜか1年間で8000円という格安契約を結んでいる店もある。いったいどういう基準で使用料が決められているのか。店主やオーナーに対する明確な説明はない」との記載。がある。

 しかし,同記事では取材対象や取材方法が明らかにされておらず,具体的な裏付けを有するかどうかが明らかではないから,同記事内容を容易に信用することはできない。また,仮にそのような事例があったとしても,そのような使用料規程に基づかない使用料とされた具体的事情も上記記事からは一切明らかではないから,これをもって直ちに上記使用料規程が一般的,現実に通用している使用料金ではないと断定できるものではない。したがって,本件において1審被告が管理著作物を使用したことによる使用料相当額を上記使用料規程に基づいて算定することが相当でないとはいえない」。

 つまり、「週刊ダイヤモンド2005年9月17日号記事」がよしんば正しい指摘であっても、これを検証することができない、よって確認断定できないという理由付けで却下し、「使用料規程」は妥当であるを繰り返していることになる。しかし、同記事の指摘まで含めて検証するのが司法であるところ、不都合な場合にはそれを自ら放棄するというこの種の論法は司法裁判そのものの自殺ではなかろうか。全体に、ジャスラック問題の由々しさを精査する姿勢が全くなく、どうでも良いような重箱の隅突きにばかり精出している様子が窺われる。これが現下の司法実態かも知れない。

 2008.10.9日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)