守るより攻めよ。逃れようとするな、返還請求運動を逆攻勢せよ。 |
(最新見直し2007.2.6日)
Re:れんだいこのかんてら時評255 | れんだいこ | 2007/02/06 | ||
【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂うその2】 JASRAC(日本音楽著作権協会)の取立てに対して妥協、逃げ口を目論む者は却って掴まる。れんだいこは断然、JASRAC的攻勢に対する逆攻勢で立ち向かうべきだと考える。JASRACは元来、他の財団的団体と同じで、その業及び業者の保護と振興の為に設立されていると考えるべきだ。それは、業者の保護のみを突出させるものではない。 発想を変えて考えればよい。もしJASRAC的音楽管理権を主張し得るならば、ラジオはラジオなりに放送権を、テレビはテレビなりに同種の放送放映権を主張して視聴者に対して有料請求し得るのではなかろうか。しかしてそういう話は聞かない。NHKのみが受信料を取立てているが、これは国策によって認可されたものである。それでさえ多くの不払い者を抱えている。もっとも料金が高すぎると云うこともある。 一般に、財団的意味合いの強い団体は、「その業及び業者の保護と振興」のバランスを第一義にして活動している。そういう仕組みになっている。そういう基準で認可されている。JASRACだけ例外とするには及ばぬ。JASRACも元々はこの種の弁えをもって発足したと思われる。それがいつしか利権団体に転化させられと思われる。誰が舵を切ったのか、この辺りが解明されねばならない。 こうして、本来なら表彰せねばならない音曲文化愛好者を逆に告訴し逮捕に及ばせている。この姿勢が改められる様子はなく、一罰百戒的に成敗したとのたまう始末である。欲ボケ極まりの感が有る。JASRACは一刻も早く、他の団体がするように、管轄する業の普及者を毎年顕彰するような機関に転化せよ。 問題は、こうしたJASRACを叱りつける団体が居ないことである。なぜなら、手前たちもどんどんJASRAC化させているからである。せいぜいJASRACほど強引な権利主張していないというだけのことである。新聞、テレビ、出版、図書館、学会、政党これら皆が皆今では揃いも揃って生硬な著作権主張者に成り下がっており、為に批判しようにもできない。皆で首を絞めあうことを恍惚する同じ穴の特権ムジナでしかない。 れんだいこは、カラオケ機器の場合には、第一次的にカラオケ機器販売業者が著作権料を支払っており、その料金込みで販売したりリースしている以上、それを設置した店舗が負担するには及ばないと考えている。現在多くのスナックが裁判沙汰を恐れて支払っているようだが、二重払いの気がしてならない。故に、今までに払わされたきた料金は違法として逆取立てすればよかろう。初年度からさかのぼれば結構な金額になるのではないのか。 どうしても請求したいのなら、実際に歌唱した者から取ればよかろうが、そのような機器は開発されていないので確かめようがない。ならば取れないと弁えるべきだろう。そこで、編み出したのが、店舗の面積割り計算式による取立てである。しかしそれは余りにも胡散臭い。歌唱と店舗の面積は何の関係もない。一体、こういう計算で、どうやって著作権者に利益分配するというのか。彼らの言わんとする本来の趣旨は、著作権者に支払う為の音曲利用に対する権利主張であるからして、実際に歌われた音曲に応じて分配するものだろうに、面積割では誰にどう払うのか計算できないではないか。 生演奏店となるとかなりの面積の店舗が多いであろうから、請求額も高くなる。出演料支払いもあり、その上高額の音楽著作権料まで払わされたら死活問題になるではないか。こうして生演奏店や楽器演奏店が閉鎖に追い込まれつつあり、それでも音楽の灯を守り続けようとする経営者が逮捕されつつある。おかしいではないか、こう問うことから、この問題を解かなければならない。 この辺りのことに関連して、「フリー百科事典『ウィキペディア日本音楽著作権協会」の「批判」は次のように記している。
JASRAC的取立て攻勢を容認する者は、事態の深刻さが何も分かっていない。ここには、最近の全域全方位型著作権化の動きに対する是非が問われており、それは勝れて思想的哲学的問題であるということを認識せねばならない。いわゆる知的所有権の野放図な拡大が文明の貧困を招きつつあることに対して、それに加担するのか抵抗するのかの問いかけが為されねばならない。 幸いなことに、憲法同様に著作権法も、次第に切り崩されつつあるとはいえ、本体は抑制的な法文を戴いている。我々は、それ故に、改正前の今のところは法の正義の名において、蹂躙者に対して闘うことができる。問題をややこしくさせるのは、憲法では護憲を云う者が著作権法では改正派の者が多いことである。れんだいこは故に、連中の護憲論なぞ胡散臭くて端から信用しない。 JASRAC問題はこのように関係してくる。最も露骨な強権著作権を主張し、実際に権力を行使しているJASRACと闘うことは故に護憲に繋がる。我々はかくて、法の空洞化に対する抵抗戦線を押し広げていかねばならない。護憲と強権著作権を並立させて何とも思わないサヨ的在り方とは違う我々の戦いの戦線を構築せねばならない。我々の開放型の文化空間を創出せねばならない。こういうことになろう。 2007.1.6日 れんだいこ拝 |
【料金減額改定請願考】 | |
「JASRAC音楽使用料規程の改正を求める署名簿」を転載しておく。
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【「音 楽 利 用 者 の 会」 設 立 考】 | |
「音楽利用者の会設立について」を転載しておく。
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【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂うその3】 |
要するに、「何でもかんでもゼニにしようという」JASRACの精神がさもしいのではないのか。本来なら、JASRACは音曲文化普及店を詣でて、感謝して回るのが相応しい。それを逆にゼニを出せと恫喝して回ることを仕事としている。しかも、歩合給社員を雇って。これは、どこかで、そのように仕向けた者が居るということで、本来のJASRACとは無縁の姿だとする認識が欲しい。 こういうと、音楽著作権者の利益を口にする者が居るかもしれない。しかしそれも、少し考えて見れば分かることだ。一般に技芸は、自然に身につくと云うより習い事である。この習い事を覚える者が増えれば増えるほど裾野が広がり、その業が発展する。逆は逆なりである。そういうファン層の中で、音楽の場合なら口ずさまれることで、その歌の歌手、作詞家、作曲家の株が上がり、レコード、CDの売れ行きが高まり、講演でも頼まれれば相応の講演料を戴くことにもなる。その他講師に招かれたり、指導料に与ることもできる。その他等々。これまでこうしてやって来ており、これで何ら問題ない。 音楽著作権者の利益はこれらで十分賄われていると云うべきだろう。「一曲歌唱幾ら」などという馬鹿げた請求なぞするに及ばない。そうするのは欲ボケ以外の何物でもなく、業の衰退の予兆でしかない。社会が活力を失い始めた時、あらゆる業界のあらゆる部署で、こういう陰気思想になじむ者が旗を降り始める。逆は逆で、社会が活性化しつつある時は、陰気商売に手を出さない。それによってますます社会が活性化し、業も又発展する。これが法理である。 れんだいこの見るところ、このような陰気発想は官僚の好むものであり、どうやら歴代の天下りがJASRACをそのように利権化させたのではないかと思われる。もっとも、JASRACの内部にそれに呼応する者が居たからそうなったのだろうけれども。この現象は一事万事である。JASRACのみならず、政界も党派も企業も各種団体においても見られることである。しかして、他人事ではないと云うことになる。 2007.2.6日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)