フレーズ著作権考(詩歌・歌曲のフレーズの融通性考)

 (最新見直し2007.3.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「詩歌・歌曲の題名」には著作権が発生していないことを「詩歌・歌曲の題名の融通性考」で確認した。ならば、「詩歌・歌曲のフレーズ」はどのように待遇されているのであろうか。全域全方面著作権論者は当然の如く著作権を主張している。れんだいこは、「ルールとマナー問題」であり、著作権に依拠して主張するのはナンセンス、他の方法での対策を講ずるべしとのスタンスを公言している。

 この件では、「小林亜星vs服部克久裁判」が知られている。例題「詩歌・歌曲のフレーズの融通性考」に新たな格好教材「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」事例が発生したので以下、これを解析しておく。

 2006.10.28日、2007.3.2日再編集 れんだいこ拝


【「小林亜星vs服部克久裁判」を読み解く】
 「ウィキペディア記念樹 (楽曲)」、「【裁判】どこまでも行こう・記念樹」、「服部克久氏に対する裁判」、「知的財産権問題の現今(5)」その他を参照した。
 1993年、作詞者・天野滋、作曲者・服部克久(服部良一の息子)、著作権者・株式会社フジパシフィック音楽出版の合唱曲「記念樹」が発表された。フジテ レビ系バラエティー番組「あっぱれさんま大先生」のエンディングテーマとして作られた。オリジナル歌手は「あっぱれ学園生徒一同」であった。歌詞の内容の大意は、校庭の隅に植えた記念樹を主題として、将来つらいときや泣きたいときがあったとしても、子供のころの楽しい記憶を思い出して笑っていこうというものである。卒業ソングとして小学校などの卒業式に定番として歌われていた。

 小林亜星は、「記念樹」が、自身の作曲であるブリヂストンのCMソング「どこまでも行こう」(1966年発表)の盗作であり、著作権を侵害しているのではないかと抗議した。服部克久は盗作ではないと主張し、両者の主張が平行線をたどった。小林氏は、次のように主張している。
 概要「日本ではこの種の盗作事件について、きちんと話をつけないから、パクリが横行するので、これに警鐘を鳴らしたいということで今回こうした手段を取った」。
 「リズムまで一致することは億に一つの奇跡で、曲の存在を知らないはずがない」。

 訴えられた服部氏は次のように抗弁している。
 概要「そういう曲があったことは知らなかった。私の曲には固有のオリジナリティがある。音楽というのはメロディを作るときに構成、それを支えるハーモニーとリズムを全部頭に入れて作らなければならない。それが今の普通の作り方である」。
 「小林さんからは三度にわたり質問状を受け、その都度反論しているが、理解してもらえなかった。ビートも曲調も違い、明らかに別の曲。盗作などであるはずがない。記者会見で小林さんがわたしの名誉を傷つけるようなことを発表したら、名誉棄損(で訴えること)も考えている」。

 1998(平成10).7.29日頃、「どこまでも行こう」の作曲者である小林が、「記念樹」が「どこまでも行こう」を複製したものであるとして著作者人格権(氏名表示権・同一性保持権)侵害による1億円の損害賠償を、同曲の著作権者である音楽出版社の有限会社金井音楽出版が複製権侵害による損害賠償を、服部に対して損害賠償訴訟を提訴した。

 2000(平成12).2.18日、第一審(東京地裁判決)は、フレーズごとに対比してみると一部に相当程度類似するフレーズが存在する、ということは認めたものの、全体として「記念樹」が「どこまでも行こう」と同一性があるとは認められない、「複製権侵害」とは判断できないとの理由で、小林側の請求をすべて棄却した。

 この判決を不服とした小林側が控訴し、複製権侵害の主張を撤回したうえで編曲権侵害を追加して争った。2001(平成13).2月、小林側が、「記念樹」の著作権者株式会社フジパシフィック音楽出版及びCDを録音し出版していた株式会社ポニーキャニオンに対して、著作権侵害を理由に訴えを提起した。2002(平成14).3月、小林側が、「記念樹」の放送を継続していた株式会社フジテレビジョンに対して、著作権侵害を理由として放送差止請求等の仮処分の申立及び本案の訴えの申立をした。

 2002(平成14).5.10日、控訴審(東京高裁判決)は一転して、両曲には「表現上の本質的な特徴の同一性」があり、この顕著な類似性が偶然の一致によって生じたものと考えることは不自然・不合理であるとし、服部が「どこまでも行こう」に依拠して「記念樹」を作曲したものであると認定した。結果として、小林の氏名表示権・同一性保持権侵害と音楽会社の編曲権侵害を肯定し、小林と音楽出版社に対し合わせて約940万円の損害賠償を命じた。服部は上告した。この裁判の影響で、フジテレビは控訴審判決後の2002.9.1日放送分を最後に「記念樹」の使用を中止することとした。フジテレビが今後「記念樹」を放送しないと誓約したため仮処分命令の申立は却下された。

 今度は、この判決を不服とした服部側が控訴し争ったが、
2003(平成15).3.11日、最高裁が、服部克久の上告を不受理とする決定をしたため、控訴審判決が確定し、最終的に「記念樹」の作曲が著作権法違反にあたるものであるとされた。

 3.13日、社団法人日本音楽著作権協会は「記念樹」の利用許諾を中止した。4.16日、小林側が、社団法人日本音楽著作権協会に対して著作権侵害を理由として訴えを提起。7.9日、小林側が、全国の各都道府県教育委員会に対し、小学校において「記念樹」を歌唱させないよう依頼した。又、同日カラオケ事業者などの主たる「記念樹」の利用者に対して「記念樹」の利用を中止するよう警告書を発送した。これにより、「記念樹」の公の場での歌唱・演奏は事実上禁止されることになった。

 12.19日、東京地方裁判所は、株式会社フジテレビジョン、株式会社フジパシフィック音楽出版、株式会社ポニーキャニオンに対して損害賠償を支払うよう命じた判決を言渡した。「小林亜星コメント」は次の通り。

 本日は「フジテレビ」「フジパシフィック音楽出版」「ポニーキャニオン」3社に対する裁判で、全面勝訴の判決を頂き感激しております。服部克久氏に対する著作権侵害の裁判では、本年3月11日、侵害を認める最高裁の最終判決を頂き、勝訴が確定しておりますが、それを受けて侵害曲を放送し、制作し、出版した企業に対しても、裁判中にも放送や出版、CD販売等を中止しなかった違法行為に対して、今回の判決で責任を認めた事は、著作権法の運用にあたってはっきりした先例を確立したわけで、この意義は大きいと思います。

 諸外国ではこのようなケースに対する判例は豊かですが、わが国でも本日の判決によって、いい加減な侵害行為は大企業だからといって許されるものではないと言う事がはっきりしました。このような事は、侵害された本人以外は訴えることが出来ませんので、なんとか頑張りました。この判決に改めて感謝致します。

 12.26日、東京地方裁判所は、社団法人日本音楽著作権協会に対して損害賠償を支払うよう命じた判決を言渡した。

 2005(平成17).2.17日、東京高等裁判所は、社団法人日本音楽著作権協会に対する1審・東京地方裁判所判決を取り消し、請求を棄却した。「小林亜星コメント」は次の通り。
〜JASRACに対して損害賠償を求めた裁判の判決を読んで〜

 判決文をお読みいただければ解りますが、あまりにもお粗末なもので、裁判官としての資質を疑いました。私はこの裁判に直接参加してはおりませんが、私の曲「どこまでも行こう」の著作権を預けていた関係で、 敗訴した(有)金井音楽出版側を応援しておりました。しかし一方、勝訴した(社)日本音楽著作権協会の評議員も務めているという微妙な立場でもありますので、 これ以上のコメントは差し控えます。

(私論.私見)

 本事件は、音曲メロディ-の著作権を廻って発生した前例の無い稀有な事件である。当初、世論は二分された。司法も反転し、最高裁が小林見解を支持することで決着した。しかし、問題の未解明部分は多い。というか、本質的な吟味は何一つ為されていない。この裁判で、曲のリズムやハーモニーといった要素は、あくまでも旋律を「補助」するものであることを明確にし、音楽・芸能の分野で濫発されるオマージュやリスペクトという単なる焼き直しや盗用・剽窃を厳に戒めるものとなったことには意義が認められよう。

 但し、創作活動には先行する作品の諸影響の自然性や、脳活動のそもそもの共同性によるある程度の類似性が避けられぬ面をどう評価するのか、という面についての考察が為されているのだろうか。過剰な著作権的抑制が却って文化活動に対する規制となる面を考慮し、その為の基準の解明を為さねばならぬところ、何らかの貢献が為されただろうか。「創作には、自己の作品への冷徹な俯瞰が重要であることを改めて明確にした」とあるが、空念仏に止まっていよう。

 その基準作りの不毛を思えば、元に戻って、音楽著作権の大綱枠を設定し、権利の抑制をした方が賢明ではないかと思われる。現状で行くと、特許権のような先願調査は為されていない訳だから、できるわけも無いのだから、いずれ権利乱用による漆黒闇世界へ誘われることになろう。

 2007.2.28日 れんだいこ拝



【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」を読み解く】
 「槇原敬之に『999』盗作騒動」、「弁護士山口貴士大いに語る」その他を参照する。
 2006.10.19日、漫画家の松本零士氏(68)が代表作「銀河鉄道999」のフレーズを盗作されたとして、歌手の槇原敬之(37)に抗議していることが、この日発売の「女性セブン」で報ぜられ、事件が明るみになった。松本零士氏の表記は、「心の旅人」(銀河鉄道999 21 第21巻 小学館)、槙原敬之氏のそれは「約束の場所」で確認できる。槇原の「約束の場所」は現在、スープのCMソングとしてお茶の間にも流れ、オリコンチャート4位に入るなどヒット中である。

 問題となっているのは、槇原の作詞作曲で人気デュオ「CHEMISTRY」が今月4日に発売した新曲「約束の場所」の「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」の部分が、松本氏製作の「銀河鉄道999」(小学館刊)の第21巻に登場する「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」というフレーズに類似しており、これが争点になっている。

 松本氏は、次のように抗議している。
 概要「問題のフレーズは、主人公の星野鉄郎のセリフとして使われるだけでなく、作品全体のテーマにもなっている言葉であり私のスローガンのような言葉。これを題目に講演会などで若者にエールを送っており、ファンにはなじみ深い。彼が知らないわけがなく、勝手に使うのは盗作である。私の言葉を奪われた。どうしてごめんと言えないのか」。

 槇原氏は、自分の公式ホームページその他で、次のように反論している。
 概要「『銀河鉄道−』を個人的な好みから1度も読んだことがない。盗作の汚名を着せられた。盗作呼ばわりされて嫌な気分。騒動でCM放送休止のダメージも受け、逆に松本氏に謝ってほしい。法廷で争ってもいい」。

 先週末、両者の話し合いが持たれた。松本氏によれば、電話で2度話したところ「当初は“知らない”と言っていたが、2度目は“どこかで聞いたものが記憶にすり込まれたのかも”とあいまいな説明に変わった」という。さらに、16日にレコード会社幹部が謝罪に訪れ、「槇原本人が“記憶上のものを使用したかもしれない”と半ば認めたとの説明を受けた」と強調。「本人の口からきちんと謝ってほしい」と求めている。

 槇原の所属事務所は、次のように反論している。
 概要「槇原が自分の言葉で作ったものであり、『銀河…』を読んだことすらない。そこまで盗作呼ばわりされたら、先生の“銀河鉄道”というタイトル自体、先人が作った言葉ではないのかと言いたくなる。ぜひ訴えていただいて法廷で決着付けたい」。

 「弁護士山口貴士大いに語る」は、次のように述べている。
 概要「結論から言うと、著作権侵害という意味での盗作にはあたらないと思います。記事を見る限りでは、松本零士先生側の分が悪いでしょう。経緯に注目しているようですが、あまり本質的な問題ではありません。著作権侵害の要件は、大まかに纏めれば、1・類似性、2・依拠性の2点と言うことになりますが、1・類似性の要件が満たされない以上、2・依拠性について論じる意味はないからです。

 類似性の要件が満たされていると言えるには、単に比較対象となる表現が一見して似ているだけでは駄目で、著作物中の創作性のある箇所が再生されていることが必要です。例えば、アイデアが似ているとか、未だ、創作性があるとは認められない表現が類似しているというだけでは、類似性の要件は充足されないのです。

 今回の場合、銀河鉄道999の『時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない』というフレーズそれ自体を見た場合、このフレーズに著作物性が認められるかどうか自体が微妙なところですが、仮に認められたとしても、創作性が認められる箇所は、『時間は夢を裏切らない』という文節を受けて、『夢も時間を裏切ってはならない』という価値観を命令形で言明している点にあるのではないかと思います。

 これに対して、槙原敬之氏の歌詞は、『夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない』というものです。『時間も夢を決して裏切らない』というのは、事実の言明を取っています。また、裏切りの主体も、銀河鉄道999のフレーズとは違い、夢ではなく時間です。さらに、『決して』という銀河鉄道999のフレーズにはない言葉が挿入され、事実の言明が強調されています。

 要するに、銀河鉄道999のフレーズ=should ないし sollen、槙原敬之氏の歌詞 =isないしsein+裏切りの主体も違う+『決して』という断定的な強調+語順も違うであり、両者は表現としては全く異なるものであるというのが、私の見解です」。

 次のようなブログが為されている。

 松本氏は言葉を殺そうとしているのか?

 文学には無名性という血が流れている。過去のどんな名作でも完全なオリジナルはありえず、誰だって何かから影響を受けている。 日本はとくに、コラージュ・サンプリングの文学が多い。有名性の文学も過去試みがなかったわけじゃないか、何度もすたれてきた結果、無名性の文学が栄えたのだ。 時間がある人は、「本歌取り」という技法が残って「制詞」がすたれた理由を考えてみてほしい。

 近代に生まれた「著作権」は振りかざし方ひとつで、文学を殺しかねない。松本氏のしようとしている言葉の独占がまかりとおるのなら、この先この国の言葉は死んでしまうだろう。どうして「これは自分の言葉だ」と言い切れるのだろうか。明らかに盗作だと言い切れる確実性がある場合は別だが、影響、イメージが残っていた程度の関連性ならば、言葉を使う仕事をしている身として、騒ぎ出すべきではない。 元をたどれば松本氏の言葉だって、ほぼ間違いなく古人によって使われたことのある言葉だと言っていいだろう。使われた言葉はどんどんと蓄積されていく。新しい言葉には限界がある。だからこそ、文学の無名性が尊重されるべきなのだ。

 彼が金のために漫画を描いているのなら別だが、仮にも芸術として、立派な作品として製作したのなら、だからこそ、言葉の多様性を認めるべきではないのだろうか?


 次のような見解も為されている。

 山口弁護士さんは、言葉の前後を入れ替えたり言い回しを変えたりすればたとえ実質的に盗作であっても法律上は盗作認定できないって言ってるのと同じですよね。 あくまでも法律整備の不備。
 http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2004/09/21/4702.html

 松本先生もその点は理解していて、法整備を進めるべき、と以前から言っていて、今回は単に謝罪の意を示してほしいと言ってるだけなのに、裁判を起こして話をこじらせようとしてるのは槙原側の方ですよ。

 マスコミもマンガ業界より音楽業界の方に弱いから(興業がらみの暴力団との癒着は昔からありますもんね)下手したら松本先生の方が 社会的に抹殺される可能性もありますよ。

 また、この件がパクりではないと認められたら、才能のない奴が他の作品から借用しても平然と自分のオリジナルだと主張する行為が常套化する危険もありますよ(彼らはフェアユースと泥棒行為の区別も分からないような連中が多いですから)。今回の件は、著作権違反かでよく話題になるパロディとかパスティーシュ、オマージュとは全然次元の違う話ですからね。

 マンガに詳しい弁護士さんなんだから、杓子定規に法律を運用しようとするお役人的姿勢を見せるのではなく、ここは敢えて松本先生を擁護するくらいの度量を見せて欲しかったですね。


【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」に対するれんだいこ見解】
 れんだいこの見解を記しておく。松本氏の抗議は、最近の全方位全域著作権化の流れを受けてのものであり、その論法により生み出された抗議である。これを山口弁護士的に解くのも一法ではあるが、れんだいこは思想的原理的に解析したい。れんだいこの結論は、言語表現に於ける著作権化は極力控えるのが望ましいということである。なぜなら、認識は元々共有性に端を発しており、表現に私物所有権を認めるのは邪道である。この観点を確立すべきであろう。

 著作権法によれば、出典元、引用元、著者、(出版社、初版日)を明記した引用、転載は無条件無承諾で為しえると解するべきである。してみれば、この問題は元々「ルールとマナー問題」として考えるべきだという事になる。そのルールとマナー違反に於いて処罰規定が設けられていると考えるべきで、「引用、転載禁止規定」ないしは「引用、転載承諾要す規定」違反ではないと解するべきであろう。

 なぜ、そうすべきなのか。それは、社会員相互の認識、言語、コミュニケーションの流通は妨げられてはならないという公理に負っていると考えられる。最近の全方位全域著作権論者はこのことを弁えず、言語空間にも私有財産制を適用させようとしている。その非を知るべきであろうが、それを正義の美名で唱えるから嫌らしくなる。主としてサヨ族がこれに執心している。

 そもそも、全方位全域著作権論者の主張には無理がある。第一、現在使用されている文字そのものが歴史的に無著作権で生み出され使用されていることである。歴史的に作られたということは、神が作ったのではなく、誰かがあるいは誰かと誰かという無限連鎖の中で社会的に作られてきたということである。その誰もが著作権なぞ主張せず歴史に寄与してきた。これを思うべきである。

 第二に、たかだかここ数十年の著作権付き著作は、それ以前の無著作権時代の知識と智恵に負っていると云うべきである。それを、たかだかここ数十年の或る時に、俺はタダ知識と知恵を貰ってきたが、これから先は俺の権利を主張する。何人もこの関所を関税払って通れなどというのは不遜欲深過ぎよう。だいたいそんな欲深著作権主張する手合いに限って下手な著作物しか作れないというのが法理で滑稽の極みである。

 第三に、インターネットのウェブ形式も又発想者の好意により無著作権によって利用されている。つまり、一般言語然り、インターネットのウェブ形式然り、土台が無著作権であるところにその上部に全方位全域著作権を創造させようとしていることになるが、恩知らずと云うべきだろう。むしろ、そういう経緯を踏まえて如何に抑制的であるべきかを研究することこそが望まれているというべきだろう。れんだいこ風に云えば、サヨと左派の違いである。

 これを思えば、松本氏の抗議は、最近の全方位全域著作権に汚染された抗議であり、松本氏の人格品性を疑わせるものとなっている。松本氏が早くこの汚染から抜け出さんことを願う。著作物の売れ行きにより飯を食うのは大いに望まれていることであるが、著作権化により以降も印税で飯を食おうだとか、孫子の代まで飯を食わさせようとする発想がそも卑しいと知るべきだろう。

 考えてみればよい。「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」が、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」となったり、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」が「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」となったからといって、それがどうしたというのだ。そういう事例ならいくらでもあろう。

 それが良い表現だとすれば、人は自ずと使いたがるものであり、使われた側は誉れとすべきだろう。使った側が、先行表現を知っておれば、それを後書きでコメントしておけばよいことで、知らなかったのであれば、指摘された時点で、はいそうですかと但し書きすれば良いだけのことである。この場合、通知、承諾、頭下げなぞは馴染まない。本家の株が却って上がり、俺こそ本家と売り出せば余計に受けるではないか。ただで本家を売り出してくれて感謝せよとまでは云わないが、物事はそう悟れば良いのではないのか。

 名句を分かりやすく例えると諺著作権のようなものである。諺には著作権は馴染まない。よって正しくは、諺非著作権と云うべきか。その諺に著作権を適用させようとするからややこしくなるばかりである。れんだいこは、「れんだいこ著作権考」で指摘しているが、政党著作権に対しても同じような認識をしている。これも正しくは、政党非著作権と云うべきか。なぜなら、優れて共同性に依拠しているからだ。優れて共同性に依拠しているところには著作権を発生させてはならない、こう弁えるべきだ。

 この歴代受け継がれてきた公理を打ち破ろうとしているのが、最近の自称インテリである。自称だから何の根拠も有りはしないのだが、大学教授や諮問会議委員の肩書きで物言うから騙される。彼らは、社会の健全な発達を促進するという美名で逆に社会を逼塞させる法律を生もうと心掛ける。丁度、音楽著作権で歌唱自粛を余儀なくされているように。問題は、権利権利で何でもゼニにしようとする狙いと、官僚の呼応により次から次へと障壁が設けられ始めていることにある。その真の狙いは、貴重情報の抑圧と大衆愚民化にあると思われる。

 これに棹差すのではなく、これを促進させようとする輩に対して、エエカゲンニセンカイと一喝してやるべきだろう。今日日流行の欲深著作権を如何にせんか、これを考えるべきであろう。松本零士よ、誰に知恵付けられているのか知らんが、頭を冷やせ。どうしても主張したいのなら、知識の滴が智恵になるように、著作物の滴が著作権になるような弁えの有る理論を構築せよ。何でもかんでも私有財産屋にはこう手向けておこう。

 2006.10.28日 れんだいこ拝

【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」の泥仕合】
 この問題は、2006.11.9日付け[J-CASTニュース]の「槇原VS松本零士 『盗作』騒動泥仕合」でも報道された。以下、転載する。
 槇原VS松本零士 「盗作」騒動泥仕合

人気アーティスト槇原敬之さんVS漫画界の大御所松本零士さんの「盗作」騒動は泥仕合の様相だ。一時、収束に向かうとの報道があったものの、「逆ギレ?」とも取れる文章を槇原さんは自身のホームページに2006年11月7日に掲載した。「正々堂々と裁判で決着していただきたい。さもなければ、公式な謝罪を頂きたい」。

 松本さんの代表漫画「銀河鉄道999」の中で書いた文章が、槇原さんが人気デュオ「CHEMISTRY」に提供した「約束の場所」(06年10月4日発売)の詩の一部分とそっくりだと、松本さんが槇原さんに抗議をした。こう06年10月19日発売の「女性セブン」が報じたことから騒動が始まった。

 「盗作者であるとの汚名を着せられた」

 問題の部分はこうだ。

『時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない』(松本さんの文)
『夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない』(槇原さんの詩)

この歌はオリコンチャート4位に入るなどヒット中で、CMソングとしてもテレビで流れている。
   06年10月19日の日刊スポーツによると、松本さんは、槙原側に電話をかけ、本人と話したところ、最初は『(盗作と)違う』と。話してるうちに『記憶に残っていたのかもしれない』と言いだした。ならば文書で謝罪してくれと言うと、できないと言った。

同日のスポーツニッポンは、槇原さんの所属事務所は『槇原が自分の言葉で作ったもの』と完全否定。『銀河…』を読んだことすらないとし『そこまで盗作呼ばわりされたら、先生の『銀河鉄道』というタイトル自体、先人が作った言葉ではないのかと言いたくなる』と不快感をあらわにした、と槙原さんサイドの反応を書いた。

抗議した時点では、松本さんも、著作権侵害訴訟やCM曲使用差し止めなどを求めるつもりはなく、詞の「出典」を明示することなどを求めているとされていた。日刊スポーツの06年10月26日付け紙面は

「双方は25日、ともに収束させる姿勢を打ち出した。盗作ではないと主張する槙原側がこの日、弁護士と相談して、自分側から法廷闘争などに持ち込まない方針を決定。松本さんも『もともと著作権を争うつもりはなく(歌詞は)私の作品のセリフだと主張したかった。これで終わりにしたい』と話した」

とし、一件落着かと思われた。

それが06年11月7日付けで槇原さんが自身のホームページに「逆ギレ」「宣戦布告」とも取れる文を掲載した。要約すると、

「『銀河鉄道999』については、私は、個人的な好みから、一度も読んだことがありません。今回私が創作した歌詞は全くのオリジナル。松本氏が本当に盗作だとお考えならば、メディアを使って騒ぎ立てるのではなく、正々堂々 と裁判で決着していただきたい。さもなければ、公式な謝罪を頂きたい。今回松本氏が思い込みにより一方的に槇原が盗作をしたとの主張を始められたにも拘らず、何の謝罪もなく今回の騒動をまたもや一方的に収束なさるおつもりであるのならば、同氏のそうした態度は大変に不快です。松本氏の一連の態度によって、盗作者であるとの汚名を着せられたまま事態がうやむやになる危険性があると判断しましたので、今日コメントを発表するに至りました」

松本さんも「提訴されたら受けてたつ」

一方、松本さんはサンケイスポーツのインタビューに答え、

「『どっちが謝らないといけないのか分かっていない』と反発。槇原の主張に『自分が恥をかくだけなのに何を血迷っているのか…』と首をかしげた。また、槇原が法的手段での決着を望んでいることには、『裁判で争う気は毛頭ないが、提訴されたら受けてたつ』と明言した」(06年11月8日付けの紙面)

と話した。
まさに泥沼化の様相だ。

松本さんと親しい芸能プロダクション社長はJ-CASTニュースの取材に応じ、この諍いの背景を語った。

「松本先生は正義感が強く、喧嘩っ早いところがある。松本先生の周辺には色んな人がいて『盗作ではないか』と進言したようだ。それで『俺が作ったフレーズだ!』とカッとなったのが始まり。賠償金とか欲しいはずはないし、槙原さん側が『心のどこかにフレーズがあったかなぁ。ゴメン』で、全てが終わっていたはず。『999のファンです』とでも言おうものなら凄く喜んだはず。ただ、事務所の対応がまずかった。『銀河鉄道というタイトル・・・』この発言でややこしくなって女性週刊誌などが書いて話が大きくなった」

この騒動は、ネット上でも話題になり、掲示板やブログでたくさん取り上げられたが、どちらかというと槇原支持が多いようだ。

「短い文章だけに、似てしまうこともある」
「2つの文は意味が異なる」
「大御所なのに小さいことを気にしている」

Re:れんだいこのカンテラ時評273 れんだいこ 2007/03/23
 【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動訴訟化」考】

 2007.3.23日、日刊スポーツによれば、漫画家の松本零士氏(68)が代表作「銀河鉄道999」のフレーズを盗作されたとして、シンガー・ソングライターの槇原敬之(37)に抗議していた事件に対し、槙原氏が、松本氏に対し、盗作の証拠提出を求める「著作権侵害不存在確認等請求」の訴えを東京地裁に起こしていることが22日、分かった。証拠がない場合、仕事上のダメージを受けたとして、2200万円の損害賠償も求めており、第1回口頭弁論が今月末に予定されている。

 双方とも法廷闘争に持ち込む意思は示していなかったが、槙原氏の方から提訴したことは、「盗作者呼ばわり」されたまま活動を続けるのに我慢できなかったものと思われる。両者の言い分は、司法の判断に委ねられた。

 このところ、音楽著作権を廻る騒動が絶えない。先日は、「おふくろさん事件」が勃発したが、森シンを救済するコメントが劣勢のまま、森シンが当分の間封印宣言して一件落着させている。こたび、「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」が訴訟化した。この事件は、「おふくろさん事件」よりも「小林亜星vs服部克久裁判」の方に類似している。さて、槇原氏は、服部氏同様に「盗られた論」に屈服させられるのだろうか。自称インテリは、「盗られた論」に加勢するのだろうか。これを、れんだいこが愚考してみる。

 れんだいこ見解は、よほどの酷さがない限り、この種の事案は「盗った盗られた云わない方がよろしい」という結論になる。なぜなら、人間頭脳の共認性が介在しているからであり、ここに私有財産制を持ち込むと文芸や思想が発達しないからである。それが分かっていて権利化を望む邪悪な意思を持つ手合いには通用しないが、そうでないなら、近時の強権著作権論の洗脳から抜け出し、一刻も早く決別すべきである。れんだいこはかく主張し、ザッツ・オールになる。

 例えば、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」の名句が誰に使われようと、川端康成氏は、目くじらするべきではない。「トンネルを抜けると、そこは雨国だった」の場合も、「列車から降りると、そこは雪国だった」の場合も然りである。似たような表記に拘っていてはキリが無い。そう弁えるべきだ。むしろ、作品全体の香りが問われるべきで、それぞれが評価されるべきで、歴史に残るものが残るという自然淘汰に任す以外に無い。こう弁えるべきだ。

 最近のマスコミの報道著作権、記事著作権、政党の論評著作権なぞは、本来、文意改竄を嗜める為のものであり、利用を阻むものであってはならない。願うらくは、引用元、出典元の明記が望ましく、それは法問題と云うよりルールとマナー問題として取り扱われるべきだ。「引用、転載に要通知、要承諾論」は百害有って一利もない。良いものは広まり、提供側は広まることを喜ぶべきだ。こういうものは無償で良いのだ。第一、そんな事を云っていたら、悪質誹謗者の言論に立ち向かえないではないか。そういう手合いの彼に限って、「引用、転載御法度論」に立つからして云い得云い勝ちにしてしまう。

 あるいは日共系のように、マルクス主義文献の原典を著作権で囲い、不開示城に逃げ込み、人民大衆的享受を制限させてしまう。実にかの党中央はケシカラン。こういうことばかりしている。あるいは貴重情報を発掘著作権論で囲み、その大衆的暴露を封殺してしまう。あるいは、歴史言論の自由を奪い、焚書坑儒の現代版を演じてしまう。西欧では、歴史再検証が大きく制約されている。のっぺらぼうな、第二次世界大戦は民主主義対ファシズムの戦いなる論に煙巻きされてしまう。

 もとへ。「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動訴訟化」は、この間の強権著作権論化の流れに対する叡智を生み出すきっかけになれば良い。強権化させない著作権論を生み出す契機になれば良い。著作権論で以って文化学芸逼塞に奉仕せしめるのではなく、楽市楽座を導く新著作権論を生み出す始発になれば良い。れんだいこはそう願う。

 今や世の中には、本末転倒事象が蔓延している。瑣末なことが大げさに語られ、重要なことが見過ごされている。そういう時代に似合いの強権著作権論を撃て。インテリを自称するなら、かく視座を構えねばならない。互いの首絞め著作権論に向かうことぐらい誰でも出来るし、第一脳が要らんがな。

 れんだいこは、素養が違うのか、こういう事例に出くわすたびに、坂口安吾のラムネ論を思い出す。

 詩歌・歌曲のフレーズの融通性考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_fraseco.htm
 ラムネ氏について
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyosyu/ramuneshico.htm

【「チャイルドシート事件判決」】

 同種事例として「チャイルドシート事件判決」があるとのことである。東京地方裁判所平成13年5月30日判決(いわゆる「チャイルドシート事件判決」がそれである。この判決では、「ママの胸より チャイルドシート」という表現が「ボク安心 ママの膝(ひざ)より チャイルドシート」という表現の著作権を侵害するかどうかが争われた事案について、著作権侵害は存在しないと言う判断が示されている。

 (参考過去ログ)

【平成の表現狩り】検証サイト問題
【続】【平成の表現狩り】検証サイト問題
【続々】【平成の表現狩り】検証サイト問題



 



(私論.私見)