フレーズ著作権考(詩歌・歌曲のフレーズの融通性考) |
(最新見直し2007.3.23日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「詩歌・歌曲の題名」には著作権が発生していないことを「詩歌・歌曲の題名の融通性考」で確認した。ならば、「詩歌・歌曲のフレーズ」はどのように待遇されているのであろうか。全域全方面著作権論者は当然の如く著作権を主張している。れんだいこは、「ルールとマナー問題」であり、著作権に依拠して主張するのはナンセンス、他の方法での対策を講ずるべしとのスタンスを公言している。 この件では、「小林亜星vs服部克久裁判」が知られている。例題「詩歌・歌曲のフレーズの融通性考」に新たな格好教材「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」事例が発生したので以下、これを解析しておく。 2006.10.28日、2007.3.2日再編集 れんだいこ拝 |
【「小林亜星vs服部克久裁判」を読み解く】 | ||||
「ウィキペディア記念樹 (楽曲)」、「【裁判】どこまでも行こう・記念樹」、「服部克久氏に対する裁判」、「知的財産権問題の現今(5)」その他を参照した。 | ||||
1993年、作詞者・天野滋、作曲者・服部克久(服部良一の息子)、著作権者・株式会社フジパシフィック音楽出版の合唱曲「記念樹」が発表された。フジテ
レビ系バラエティー番組「あっぱれさんま大先生」のエンディングテーマとして作られた。オリジナル歌手は「あっぱれ学園生徒一同」であった。歌詞の内容の大意は、校庭の隅に植えた記念樹を主題として、将来つらいときや泣きたいときがあったとしても、子供のころの楽しい記憶を思い出して笑っていこうというものである。卒業ソングとして小学校などの卒業式に定番として歌われていた。 小林亜星は、「記念樹」が、自身の作曲であるブリヂストンのCMソング「どこまでも行こう」(1966年発表)の盗作であり、著作権を侵害しているのではないかと抗議した。服部克久は盗作ではないと主張し、両者の主張が平行線をたどった。小林氏は、次のように主張している。
訴えられた服部氏は次のように抗弁している。
1998(平成10).7.29日頃、「どこまでも行こう」の作曲者である小林が、「記念樹」が「どこまでも行こう」を複製したものであるとして著作者人格権(氏名表示権・同一性保持権)侵害による1億円の損害賠償を、同曲の著作権者である音楽出版社の有限会社金井音楽出版が複製権侵害による損害賠償を、服部に対して損害賠償訴訟を提訴した。 |
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2000(平成12).2.18日、第一審(東京地裁判決)は、フレーズごとに対比してみると一部に相当程度類似するフレーズが存在する、ということは認めたものの、全体として「記念樹」が「どこまでも行こう」と同一性があるとは認められない、「複製権侵害」とは判断できないとの理由で、小林側の請求をすべて棄却した。 12.19日、東京地方裁判所は、株式会社フジテレビジョン、株式会社フジパシフィック音楽出版、株式会社ポニーキャニオンに対して損害賠償を支払うよう命じた判決を言渡した。「小林亜星コメント」は次の通り。
12.26日、東京地方裁判所は、社団法人日本音楽著作権協会に対して損害賠償を支払うよう命じた判決を言渡した。 2005(平成17).2.17日、東京高等裁判所は、社団法人日本音楽著作権協会に対する1審・東京地方裁判所判決を取り消し、請求を棄却した。「小林亜星コメント」は次の通り。
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本事件は、音曲メロディ-の著作権を廻って発生した前例の無い稀有な事件である。当初、世論は二分された。司法も反転し、最高裁が小林見解を支持することで決着した。しかし、問題の未解明部分は多い。というか、本質的な吟味は何一つ為されていない。この裁判で、曲のリズムやハーモニーといった要素は、あくまでも旋律を「補助」するものであることを明確にし、音楽・芸能の分野で濫発されるオマージュやリスペクトという単なる焼き直しや盗用・剽窃を厳に戒めるものとなったことには意義が認められよう。 |
【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」を読み解く】 | |||||
「槇原敬之に『999』盗作騒動」、「弁護士山口貴士大いに語る」その他を参照する。 | |||||
2006.10.19日、漫画家の松本零士氏(68)が代表作「銀河鉄道999」のフレーズを盗作されたとして、歌手の槇原敬之(37)に抗議していることが、この日発売の「女性セブン」で報ぜられ、事件が明るみになった。松本零士氏の表記は、「心の旅人」(銀河鉄道999 21 第21巻
小学館)、槙原敬之氏のそれは「約束の場所」で確認できる。槇原の「約束の場所」は現在、スープのCMソングとしてお茶の間にも流れ、オリコンチャート4位に入るなどヒット中である。 問題となっているのは、槇原の作詞作曲で人気デュオ「CHEMISTRY」が今月4日に発売した新曲「約束の場所」の「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」の部分が、松本氏製作の「銀河鉄道999」(小学館刊)の第21巻に登場する「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」というフレーズに類似しており、これが争点になっている。 松本氏は、次のように抗議している。
槇原氏は、自分の公式ホームページその他で、次のように反論している。
先週末、両者の話し合いが持たれた。松本氏によれば、電話で2度話したところ「当初は“知らない”と言っていたが、2度目は“どこかで聞いたものが記憶にすり込まれたのかも”とあいまいな説明に変わった」という。さらに、16日にレコード会社幹部が謝罪に訪れ、「槇原本人が“記憶上のものを使用したかもしれない”と半ば認めたとの説明を受けた」と強調。「本人の口からきちんと謝ってほしい」と求めている。 槇原の所属事務所は、次のように反論している。
「弁護士山口貴士大いに語る」は、次のように述べている。
次のようなブログが為されている。
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【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」に対するれんだいこ見解】 |
れんだいこの見解を記しておく。松本氏の抗議は、最近の全方位全域著作権化の流れを受けてのものであり、その論法により生み出された抗議である。これを山口弁護士的に解くのも一法ではあるが、れんだいこは思想的原理的に解析したい。れんだいこの結論は、言語表現に於ける著作権化は極力控えるのが望ましいということである。なぜなら、認識は元々共有性に端を発しており、表現に私物所有権を認めるのは邪道である。この観点を確立すべきであろう。 著作権法によれば、出典元、引用元、著者、(出版社、初版日)を明記した引用、転載は無条件無承諾で為しえると解するべきである。してみれば、この問題は元々「ルールとマナー問題」として考えるべきだという事になる。そのルールとマナー違反に於いて処罰規定が設けられていると考えるべきで、「引用、転載禁止規定」ないしは「引用、転載承諾要す規定」違反ではないと解するべきであろう。 なぜ、そうすべきなのか。それは、社会員相互の認識、言語、コミュニケーションの流通は妨げられてはならないという公理に負っていると考えられる。最近の全方位全域著作権論者はこのことを弁えず、言語空間にも私有財産制を適用させようとしている。その非を知るべきであろうが、それを正義の美名で唱えるから嫌らしくなる。主としてサヨ族がこれに執心している。 そもそも、全方位全域著作権論者の主張には無理がある。第一、現在使用されている文字そのものが歴史的に無著作権で生み出され使用されていることである。歴史的に作られたということは、神が作ったのではなく、誰かがあるいは誰かと誰かという無限連鎖の中で社会的に作られてきたということである。その誰もが著作権なぞ主張せず歴史に寄与してきた。これを思うべきである。 第二に、たかだかここ数十年の著作権付き著作は、それ以前の無著作権時代の知識と智恵に負っていると云うべきである。それを、たかだかここ数十年の或る時に、俺はタダ知識と知恵を貰ってきたが、これから先は俺の権利を主張する。何人もこの関所を関税払って通れなどというのは不遜欲深過ぎよう。だいたいそんな欲深著作権主張する手合いに限って下手な著作物しか作れないというのが法理で滑稽の極みである。 第三に、インターネットのウェブ形式も又発想者の好意により無著作権によって利用されている。つまり、一般言語然り、インターネットのウェブ形式然り、土台が無著作権であるところにその上部に全方位全域著作権を創造させようとしていることになるが、恩知らずと云うべきだろう。むしろ、そういう経緯を踏まえて如何に抑制的であるべきかを研究することこそが望まれているというべきだろう。れんだいこ風に云えば、サヨと左派の違いである。 これを思えば、松本氏の抗議は、最近の全方位全域著作権に汚染された抗議であり、松本氏の人格品性を疑わせるものとなっている。松本氏が早くこの汚染から抜け出さんことを願う。著作物の売れ行きにより飯を食うのは大いに望まれていることであるが、著作権化により以降も印税で飯を食おうだとか、孫子の代まで飯を食わさせようとする発想がそも卑しいと知るべきだろう。 考えてみればよい。「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」が、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」となったり、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」が「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」となったからといって、それがどうしたというのだ。そういう事例ならいくらでもあろう。 それが良い表現だとすれば、人は自ずと使いたがるものであり、使われた側は誉れとすべきだろう。使った側が、先行表現を知っておれば、それを後書きでコメントしておけばよいことで、知らなかったのであれば、指摘された時点で、はいそうですかと但し書きすれば良いだけのことである。この場合、通知、承諾、頭下げなぞは馴染まない。本家の株が却って上がり、俺こそ本家と売り出せば余計に受けるではないか。ただで本家を売り出してくれて感謝せよとまでは云わないが、物事はそう悟れば良いのではないのか。 名句を分かりやすく例えると諺著作権のようなものである。諺には著作権は馴染まない。よって正しくは、諺非著作権と云うべきか。その諺に著作権を適用させようとするからややこしくなるばかりである。れんだいこは、「れんだいこ著作権考」で指摘しているが、政党著作権に対しても同じような認識をしている。これも正しくは、政党非著作権と云うべきか。なぜなら、優れて共同性に依拠しているからだ。優れて共同性に依拠しているところには著作権を発生させてはならない、こう弁えるべきだ。 この歴代受け継がれてきた公理を打ち破ろうとしているのが、最近の自称インテリである。自称だから何の根拠も有りはしないのだが、大学教授や諮問会議委員の肩書きで物言うから騙される。彼らは、社会の健全な発達を促進するという美名で逆に社会を逼塞させる法律を生もうと心掛ける。丁度、音楽著作権で歌唱自粛を余儀なくされているように。問題は、権利権利で何でもゼニにしようとする狙いと、官僚の呼応により次から次へと障壁が設けられ始めていることにある。その真の狙いは、貴重情報の抑圧と大衆愚民化にあると思われる。 これに棹差すのではなく、これを促進させようとする輩に対して、エエカゲンニセンカイと一喝してやるべきだろう。今日日流行の欲深著作権を如何にせんか、これを考えるべきであろう。松本零士よ、誰に知恵付けられているのか知らんが、頭を冷やせ。どうしても主張したいのなら、知識の滴が智恵になるように、著作物の滴が著作権になるような弁えの有る理論を構築せよ。何でもかんでも私有財産屋にはこう手向けておこう。 2006.10.28日 れんだいこ拝 |
【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」の泥仕合】 | ||
この問題は、2006.11.9日付け[J-CASTニュース]の「槇原VS松本零士 『盗作』騒動泥仕合」でも報道された。以下、転載する。
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Re:れんだいこのカンテラ時評273 | れんだいこ | 2007/03/23 |
【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動訴訟化」考】 2007.3.23日、日刊スポーツによれば、漫画家の松本零士氏(68)が代表作「銀河鉄道999」のフレーズを盗作されたとして、シンガー・ソングライターの槇原敬之(37)に抗議していた事件に対し、槙原氏が、松本氏に対し、盗作の証拠提出を求める「著作権侵害不存在確認等請求」の訴えを東京地裁に起こしていることが22日、分かった。証拠がない場合、仕事上のダメージを受けたとして、2200万円の損害賠償も求めており、第1回口頭弁論が今月末に予定されている。 双方とも法廷闘争に持ち込む意思は示していなかったが、槙原氏の方から提訴したことは、「盗作者呼ばわり」されたまま活動を続けるのに我慢できなかったものと思われる。両者の言い分は、司法の判断に委ねられた。 このところ、音楽著作権を廻る騒動が絶えない。先日は、「おふくろさん事件」が勃発したが、森シンを救済するコメントが劣勢のまま、森シンが当分の間封印宣言して一件落着させている。こたび、「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」が訴訟化した。この事件は、「おふくろさん事件」よりも「小林亜星vs服部克久裁判」の方に類似している。さて、槇原氏は、服部氏同様に「盗られた論」に屈服させられるのだろうか。自称インテリは、「盗られた論」に加勢するのだろうか。これを、れんだいこが愚考してみる。 れんだいこ見解は、よほどの酷さがない限り、この種の事案は「盗った盗られた云わない方がよろしい」という結論になる。なぜなら、人間頭脳の共認性が介在しているからであり、ここに私有財産制を持ち込むと文芸や思想が発達しないからである。それが分かっていて権利化を望む邪悪な意思を持つ手合いには通用しないが、そうでないなら、近時の強権著作権論の洗脳から抜け出し、一刻も早く決別すべきである。れんだいこはかく主張し、ザッツ・オールになる。 例えば、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」の名句が誰に使われようと、川端康成氏は、目くじらするべきではない。「トンネルを抜けると、そこは雨国だった」の場合も、「列車から降りると、そこは雪国だった」の場合も然りである。似たような表記に拘っていてはキリが無い。そう弁えるべきだ。むしろ、作品全体の香りが問われるべきで、それぞれが評価されるべきで、歴史に残るものが残るという自然淘汰に任す以外に無い。こう弁えるべきだ。 最近のマスコミの報道著作権、記事著作権、政党の論評著作権なぞは、本来、文意改竄を嗜める為のものであり、利用を阻むものであってはならない。願うらくは、引用元、出典元の明記が望ましく、それは法問題と云うよりルールとマナー問題として取り扱われるべきだ。「引用、転載に要通知、要承諾論」は百害有って一利もない。良いものは広まり、提供側は広まることを喜ぶべきだ。こういうものは無償で良いのだ。第一、そんな事を云っていたら、悪質誹謗者の言論に立ち向かえないではないか。そういう手合いの彼に限って、「引用、転載御法度論」に立つからして云い得云い勝ちにしてしまう。 あるいは日共系のように、マルクス主義文献の原典を著作権で囲い、不開示城に逃げ込み、人民大衆的享受を制限させてしまう。実にかの党中央はケシカラン。こういうことばかりしている。あるいは貴重情報を発掘著作権論で囲み、その大衆的暴露を封殺してしまう。あるいは、歴史言論の自由を奪い、焚書坑儒の現代版を演じてしまう。西欧では、歴史再検証が大きく制約されている。のっぺらぼうな、第二次世界大戦は民主主義対ファシズムの戦いなる論に煙巻きされてしまう。 もとへ。「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動訴訟化」は、この間の強権著作権論化の流れに対する叡智を生み出すきっかけになれば良い。強権化させない著作権論を生み出す契機になれば良い。著作権論で以って文化学芸逼塞に奉仕せしめるのではなく、楽市楽座を導く新著作権論を生み出す始発になれば良い。れんだいこはそう願う。 今や世の中には、本末転倒事象が蔓延している。瑣末なことが大げさに語られ、重要なことが見過ごされている。そういう時代に似合いの強権著作権論を撃て。インテリを自称するなら、かく視座を構えねばならない。互いの首絞め著作権論に向かうことぐらい誰でも出来るし、第一脳が要らんがな。 れんだいこは、素養が違うのか、こういう事例に出くわすたびに、坂口安吾のラムネ論を思い出す。 詩歌・歌曲のフレーズの融通性考 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_fraseco.htm ラムネ氏について ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyosyu/ramuneshico.htm |
【「チャイルドシート事件判決」】 |
同種事例として「チャイルドシート事件判決」があるとのことである。東京地方裁判所平成13年5月30日判決(いわゆる「チャイルドシート事件判決」がそれである。この判決では、「ママの胸より チャイルドシート」という表現が「ボク安心 ママの膝(ひざ)より チャイルドシート」という表現の著作権を侵害するかどうかが争われた事案について、著作権侵害は存在しないと言う判断が示されている。 (参考過去ログ) |
(私論.私見)
次のような見解も為されている。
山口弁護士さんは、言葉の前後を入れ替えたり言い回しを変えたりすればたとえ実質的に盗作であっても法律上は盗作認定できないって言ってるのと同じですよね。 あくまでも法律整備の不備。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2004/09/21/4702.html
松本先生もその点は理解していて、法整備を進めるべき、と以前から言っていて、今回は単に謝罪の意を示してほしいと言ってるだけなのに、裁判を起こして話をこじらせようとしてるのは槙原側の方ですよ。
マスコミもマンガ業界より音楽業界の方に弱いから(興業がらみの暴力団との癒着は昔からありますもんね)下手したら松本先生の方が 社会的に抹殺される可能性もありますよ。
また、この件がパクりではないと認められたら、才能のない奴が他の作品から借用しても平然と自分のオリジナルだと主張する行為が常套化する危険もありますよ(彼らはフェアユースと泥棒行為の区別も分からないような連中が多いですから)。今回の件は、著作権違反かでよく話題になるパロディとかパスティーシュ、オマージュとは全然次元の違う話ですからね。
マンガに詳しい弁護士さんなんだから、杓子定規に法律を運用しようとするお役人的姿勢を見せるのではなく、ここは敢えて松本先生を擁護するくらいの度量を見せて欲しかったですね。