れんだいこのアーチスト生計論 |
(最新見直し2009.2.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「れんだいこのアーチスト生計論」を書き付けておく。著作権問題を真に解決するためには、アーチストの生計論にむかわねばならないことに気づいたからである。 2009.2.14日 れんだいこ拝 |
【アーチスト生計論その1】 |
れんだいこは、人民大衆レベルでの演奏歌唱に対する課金制に反対している。となると、音楽アーチストは何により生計を立てるのかと云う問題に逢着する。これを愚考する。 答えは簡単で、著作権課金前に於ける音楽アーチストがどのようにして生計を立てていたのかを思慮すれば良い。そもそも他のアーチストに比して、音楽アーチストだけが何故に「作品の人民大衆レベルでの利用に対する重複課金制」が認められるのか」ということを考えねばならない。この優遇が却ってぬるま湯となり創作活動を歪めているのではないのか、ということを考えねばならない。れんだいこそのように考えている。 本来の芸術活動は人民大衆の愛好を喜ぶものであり、俺の作品を黙って利用するとは許せないとしてクレームするものではなかろう。利用するなら対価として利用料金を出せと手を出すものではなかろう。本来の芸術活動は、作品を市場提供し、人民大衆が良いと認めたものに対して自由自主自律任意的にカンパしてくれて成り立つような仕組みとして伝統化されている。それで良いでのはなかろうか。 音楽アーチストの場合、稼ぎは、演奏活動、レッスン授業料、作品の商品化、メディア出演、コンクール賞金等から成り立つ。これは何も音楽アーチストの場合のみならずアーチスト全般の生態である。音楽アーチストも叉この生態の中で生計を立てねばならないのは自明であろう。その生計暦の中で、ヒット作を創作すれば良いのであり、これには運と実力が伴う。これも音楽アーチストの場合のみならずアーチスト全般の生態である。 答えはザッツ・オールである。この生計暦の中で暮らして行けない音楽アーチストは専業を止め、アマチュアがそうしている如く昼間は働き夜に創作活動すれば良い。夜働き昼活動しても構わない。要するに、他の労働で生計を得て、空いた時間で好きでしょうがない活動に関わればよい。 他のアーチストが自然にそうしているというのに、音楽アーチストとならば何故にヒット作を飛ばそうが飛ばすまいが、他の稼ぎに勤労しようがしまいが、棚から牡丹餅的な利用課金の還元を当てにしようとするのだろう。むしろ、その精神たるやさもしいと云うべきではなかろうか。 そういうさもしい精神の者に限って著作権利用対価料なぞに関心を示す。そういう精神の者には頭に神が宿らずヒット作品を創作できない。故に人民大衆に愛好されず、故にいくらハウマッチと手を出しても人民大衆の義金が貰えない。それとは逆に、金目当てではなく、良い作品を市場提供し、人民大衆に愛好して貰いたいと願う人物の頭には神が宿り、その精神から生み出される作品が人の心を打ちヒット作となる。彼は自然に大金を手にする。 おかしなことだが、ハウマッチと手を出すものには金が集まらず、そういう稼ぎを当てにしない者に金が集まる。そういう仕掛けになっている。故に、人民大衆レベルに対する歌唱演奏課金制というのは、どちらの側にも迷惑な異邦人的な邪悪な発想のものでしかない。れんだいこはそう思う。 忽ちは以上発信しておく。 2009.2.14日 れんだいこ拝 |
【アーチスト生計論その2】 |
人民大衆レベルに対する歌唱演奏課金制というのはそういうものであるからして、これはむしろ著作者の権利を守る云々は表向きの文句に過ぎず、事実は、そういう音楽著作権論を利用しての企業活動に取り込まれた理論と理解する必要がある。彼ら及びその事業は、そういう音楽著作権論をダシニしていわばミカジメ料を取り立てている。人民大衆レベルに対する歌唱演奏課金制の本質はここにある。仮に音楽アーチストに還元されたとしても、それは取り立ての正義を語る為の見せかけであり、その種の売上収入の僅かなものが還付されるに過ぎない。過半の金額が彼らの手に渡る前に費消される。これが実態である。 ならば、人民大衆レベルに対する歌唱演奏課金制売上の過半が音楽アーチストに還元するよう立論すべきかというと、これも違う。人民大衆レベルに対する歌唱演奏課金は、強引な取立てなしには集まらない。強引な取立てにはそれなりの費用経費も掛かる。要するに、人民大衆レベルに対する歌唱演奏課金制売上の過半が音楽アーチストに還元しないような仕組みの中にのみ成り立っている。ここに気づかねばならない。 従って、結論として、こういう制度をより合理化していくべきか、こういう制度から決別すべきか、ということが問われていることになる。れんだいこは後者であり、音楽アーチストは一刻も早く他のアーチストと同様の土俵で生計し創作せねばならないと思っている。音楽アーチストだけが優遇されるべき根拠は見当たらないと思っている。 小室事件から何を学ぶべきか。人民大衆レベルに対する歌唱演奏課金制の広告塔として使われ、毎年1億末千万円が自動的に入金すると云う巨万の収入を手にした舞い上がり、杜撰な経営に迷い込み自滅した事件ではなかったか。いわば、不正の金貨が迷わせた事件であつたと云えよう。 最近、昔のような人々に感動を与え、歴史に歌い継がれるような名曲名歌が生まれない。思うに、音楽アーチストが徒に歌唱演奏課金による小室的黄金に目がくらみ、我もあやかろうと黄金を手にする為の創作活動に向かっていることの反映ではなかろうか。昔から言うではないか、ゼニを追いかければ逃げる、女と猫と同じと。黄金は結果もたらされるものであり、求めていくものではなかろう。特に芸術活動の場合には。結論として、人民大衆が愛好してくださるのこそ本望と思う感性に従え。道はそれから拓ける。こういうことを考えてみる必要があるのではなかろうか。 2009.2.14日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)