小田嶋氏の明快なる強権著作権批判を絶賛する

 (最新見直し2009.5.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、コラムニスト小田嶋 隆(おだじま・たかし)氏の明快なる強権著作権批判を確認しておくことにする。プロフィールによれば、1956年生まれの早大卒とある。れんだいこと同じ稲門と云うことになる。先に吉村作治氏の強権著作権論に対する疑問を確認したが、稲門はやはりこうでなくっちゃ。

 2009.5.14日 れんだいこ拝


【小田嶋氏の素敵な強権著作権論批判】
 小田嶋氏は、「アナロ熊が暴いてしまった地デジカの秘密」の文中で著作権に関連して次のように述べている。

 とにかく、「著作権」がからむと、人は曇った目で世の中を見るようになる。別の言い方をするなら、著作権を意識した人間の心の内には疑心暗鬼が生じるということだ。著作者は、多かれ少なかれ、宝くじを買った人間と同じタイプの幻想(「夢」と呼ぶこともできる。が、私は単に「欲」だと思っている)を抱いている。夢を見ているだけならたいした実害はないのだが、彼は、いつしか、遺産を争う兄弟みたいに、自分以外のあらゆる人間に疑いの目を向けるようになる。ばかな話だ。
 
 おそらく、著作権をかかえこもうとしている人々は、この先、ろくなことにならない。不労所得や既得権益を守りたい気持ちはわかる。でも、守ろうとするその気持ちがクリエイターの魂を腐らせてしまう。そこのところに気づかないといけないと思う。きれいごとだと言う人もあるだろう。が、きれいごとをきれいに言えない人間は、そもそもものを創る資格を持っていないのだ。

 著作権は、海賊版を売って儲けようとする業者を取り締まるために発明された概念であって、著作物を買ってくださったお客様の利用を制限するためのものではない。

 落語の小話にこんなのがある。「お前の吊ってくれた棚だけどな。あれ、落ちたぞ」。「落ちた? そんなはずはねえんだが」。「いや、落ちたよ。ゆんべ。ストーンと」。「ストーンって……お前、何か乗せやしなかったか?」。

 つまり、アレだ。「二次創作禁止のキャラクター」や、「複製と編集が禁じられている映像」や、「教科書に載せることができない詩」や、「図書館に置くと著者が怒る書籍」や、「ネット上で閲覧させると作家先生の団体が訴訟を起こす芸術作品」は、どれもこれも、「なにかモノを乗せると落ちる棚」なのだ。
 
 つまり、「編集しない約束で録画できる動画」や「転載、引用をしない範囲内で暗誦するべき詩」や「人前で演奏しないという前提で販売されている楽譜」は、「モノを乗せない条件下でのみ機能する棚」と同じで、インテリアであって実用物ではない。そういうことだ。

 ちなみに、私のテキストは、どこに書いたものであれ、全面的にコピーフリー。リンクフリーだ。無料ならば、金儲けに使わないならば、どんどん配布していただいて結構。というよりも、無料で読まれて私にどんな被害がある? 「有料で買うかもしれない予定読者を失うことになる」と? なるほど。読み捨てのクズ原稿を書いている著者にとっては、あるいはそういう次第になるかもしれない。

 が、読者に感銘を与えるテキストを書いている書き手は、自分の作品が無料であれ有料であれ、多数の人々の目に触れれば触れるだけ、自分のファンが増えるはずだ、というふうに考える。ん? 思い上がりだと? 思い上がっていない人間は、原稿なんか書かないよ。


【れんだいこの小田嶋理論称賛】
 上述の小田嶋理論の素晴らしさは、法的解釈による強権著作権論とは叉別に、作品論の観点から強権著作権論を鋭く批判しているところにある。落語の小話のオチをダシにして分かり易く説いているところに値打ちがある。シメの「書き手は、自分の作品が無料であれ有料であれ、多数の人々の目に触れれば触れるだけ、自分のファンが増えるはずだ、というふうに考える」がスバラシイ。確かにソウナノダ。書き手は下手に自惚れない方が良い。自分の作品を広く市井に通すことにより、その反応に揉まれるようにして作家も学ぶのだ。こうして得られるのが人気であり、人気こそが究極対価となって回り回ってくるのだ。

 この仕組みを理解せず、作品利用即ハウマッチ式な昨今の著作権侵犯論はナンセンスの極みなのだ。面白いことに、そういう手合いの作品は利用されるほどのものではないことが多く、よってハウマッチと手を出してみても幾らも入ってこない。さもしい根性のみが残るという仕掛けになっている。問題は、この癖を芸術やら学問の世界でやることにある。恥さらしでしかないのだが、当の本人はいたってマジメくさってやるから可笑しいやら滑稽やら、そして遂には不快になる。

 強権著作権論は、競合的創造力に対する圧死的作用を持つ。ことのほかその罪は大きいと知るべきだ。

 れんだいこがこれを採り上げたのは、やはり稲門の臭いがするからである。早稲田はやはりこうでなくっちゃ。ところが、著作権論でマトモな線を打ち出しつつあるのが東大の方で、早稲田以下その他大勢は強権著作権論の旗振りに精出しているという現状がある。これを何とかせんとなぁ。そんなことを考える。
 
 2009.5.14日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評569 れんだいこ 2009/05/14
 【小田嶋著作権論をエールする】

 ここで、コラムニスト小田嶋 隆(おだじま・たかし)氏の明快なる強権著作権批判を確認しておくことにする。プロフィールによれば、1956年生まれの早大卒とある。れんだいこは先の著作で明らかにしたので明快に述べようと思う。小田嶋氏はれんだいこより6歳下の同じ稲門と云うことになる。既に早稲田の大先輩・吉村作治氏も昨今の強権著作権論に対する疑問を提起しているので、これで三人揃ったことになる。稲門はやはりこうでなくっちゃ。

 小田嶋氏の著作権論とはどういうものか、これを確認する。小田嶋氏は、「『アナロ熊』が暴いてしまった『地デジカ』の秘密」の文中で著作権に関連して次のように述べている。
 (ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090508/194086/)

 とにかく、「著作権」がからむと、人は曇った目で世の中を見るようになる。別の言い方をするなら、著作権を意識した人間の心の内には疑心暗鬼が生じるということだ。著作者は、多かれ少なかれ、宝くじを買った人間と同じタイプの幻想(「夢」と呼ぶこともできる。が、私は単に「欲」だと思っている)を抱いている。夢を見ているだけならたいした実害はないのだが、彼は、いつしか、遺産を争う兄弟みたいに、自分以外のあらゆる人間に疑いの目を向けるようになる。ばかな話だ。
 
 おそらく、著作権をかかえこもうとしている人々は、この先、ろくなことにならない。不労所得や既得権益を守りたい気持ちはわかる。でも、守ろうとするその気持ちがクリエイターの魂を腐らせてしまう。そこのところに気づかないといけないと思う。きれいごとだと言う人もあるだろう。が、きれいごとをきれいに言えない人間は、そもそもものを創る資格を持っていないのだ。

 著作権は、海賊版を売って儲けようとする業者を取り締まるために発明された概念であって、著作物を買ってくださったお客様の利用を制限するためのものではない。

 落語の小話にこんなのがある。「お前の吊ってくれた棚だけどな。あれ、落ちたぞ」。「落ちた? そんなはずはねえんだが」。「いや、落ちたよ。ゆんべ。ストーンと」。「ストーンって……お前、何か乗せやしなかったか?」。

 つまり、アレだ。「二次創作禁止のキャラクター」や、「複製と編集が禁じられている映像」や、「教科書に載せることができない詩」や、「図書館に置くと著者が怒る書籍」や、「ネット上で閲覧させると作家先生の団体が訴訟を起こす芸術作品」は、どれもこれも、「なにかモノを乗せると落ちる棚」なのだ。
 
 つまり、「編集しない約束で録画できる動画」や「転載、引用をしない範囲内で暗誦するべき詩」や「人前で演奏しないという前提で販売されている楽譜」は、「モノを乗せない条件下でのみ機能する棚」と同じで、インテリアであって実用物ではない。そういうことだ。

 ちなみに、私のテキストは、どこに書いたものであれ、全面的にコピーフリー。リンクフリーだ。無料ならば、金儲けに使わないならば、どんどん配布していただいて結構。というよりも、無料で読まれて私にどんな被害がある? 「有料で買うかもしれない予定読者を失うことになる」と? なるほど。読み捨てのクズ原稿を書いている著者にとっては、あるいはそういう次第になるかもしれない。

 が、読者に感銘を与えるテキストを書いている書き手は、自分の作品が無料であれ有料であれ、多数の人々の目に触れれば触れるだけ、自分のファンが増えるはずだ、というふうに考える。ん? 思い上がりだと? 思い上がっていない人間は、原稿なんか書かないよ。

 (引用転載以上)

 れんだいこが、小田嶋著作権理論を称賛しておく。上述の小田嶋理論の素晴らしさは、れんだいこが営々と積み上げつつある法的解釈による強権著作権論批判とは叉別に、作品論の観点から強権著作権論を鋭く批判しているところにある。落語の小話のオチをダシにして、分かり易く説いているところに値打ちがある。シメの「書き手は、自分の作品が無料であれ有料であれ、多数の人々の目に触れれば触れるだけ、自分のファンが増えるはずだ、というふうに考える」と述べているところがスバラシイ。

 確かにソウナノダ。書き手は下手に自惚れない方が良い。自分の作品を広く市井に通すことにより、その反応に揉まれるようにして作家も学ぶのだ。双方通行で共に益する仕掛けになっているのだ。こうして得られるのが人気であり、人気こそが究極対価となって回り回ってくるのだ。

 この仕組みを理解せず、作品利用即ハウマッチ式な昨今の著作権侵犯論はナンセンスの極みなのだ。面白いことに、そういう手合いの作品は利用されるほどのものではないことが多く、よってハウマッチと手を出してみても幾らも入ってこない。さもしい根性のみが残るという仕掛けになっている。拙い者には拙いだけのものしか報われないのだ。これが法理だろう。

 問題は、この癖を、連中が芸術やら学問の世界でやることにある。恥さらしでしかないのだが、当の本人はいたってマジメくさって口を尖がらせたり手を出すから可笑しいやら滑稽やら、そして遂には不快になる。この不快方向にエールする者がその他大勢いるからややこしくなる。

 れんだいこがこれを採り上げたのは、小田嶋著作権理論にやはり稲門の臭いがするからである。早稲田はやはりこうでなくっちゃ。ところが、著作権論でマトモナ線を打ち出しつつあるのが東大の方である。東大の中山信弘教授の退官前の置き土産講話、東大大学院文学資源学の渡部裕(ひろし)教授の論考を見よ。
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/)

 東大の先生が強権著作権論の定向進化に疑問と危険性を警鐘しつつあるというのに、在野の早稲田以下その他大勢は未だに強権著作権論の旗振りに精出しているという現状がある。やはりオツムの差かということになる。これを何とかせんとなぁ、そんなことを考える。余計なことを書いて〆るが、ここがれんだいこらしいところか、そういうユダヤ商法と決別せんとなぁ。
 
 2009.5.14日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)