レッシグ教授の著作権問題に於ける視角
(著作権万能社会到来に対するローレンス・レッシグ教授の批判、警鐘乱打)

 (最新見直し2008.3.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこが近時の全方位著作権論者に不快な気分を覚えるのは、次の理由によることが分かった。つまり、我々が知の形成に当って古来よりの学問を何ら著作権なぞに煩わされることなく十分に堪能してきているにも拘わらず、それらをベースにして紡ぎだした近時の知には著作権を被せ、煮て食おうが焼いて食おうが我が輩の勝手である、もし諸君が活用したければ我が軍門にひとたびはひれ伏せなどというご都合主義に辟易している故ではなかろうか。それは例えるに、「親の恩知らず」の発想であり、そう云えば近頃のインテリが偏狭且つ傲慢不遜であるのもむべなるかな、とか思う。

 れんだいこはそのように考えるから、我がサイトを「共生主義者の為の人民大衆的共有」と銘打っている。知識というものは、すり合わせ練り合わせによってしか磨かれないのだから、互いに共有することを惜しんではならない。この第一歩を排除論理で囲い込みするのは愚の骨頂というべきではないのか。れんだいこが全方位著作権論者と和さず闘う所以はここにある。同意の士はこれに列なれ。

 2003.5.2日 れんだいこ拝


【ローレンス・レッシグ教授の警鐘乱打】

 そういうれんだいこの観点と通ずる所見がここにある。著作権至上主義は文化の衰退をもたらす(2001.11.27日、Karlin Lillington)(日本語版:岸田みき/高森郁哉)を転載する。

 アイルランド、ダブリン発――スタンフォード大学で法学を教えるローレンス・レッシグ教授が、米国の著作権法はすっかり手におえなくなっており、そのせいで文化が死に絶え、世界の歴史的知的財産が失われてしまうだろうと語った。

 レッシグ教授によると、著作権が保護される期間は、1世紀前には14年間だったものが、現在では作者の死後70年までに膨れ上がり、著作権は大企業が市場における支配権を無制限に引き延ばすための道具になってしまったという。たとえば、『ホワイト・クリスマス』で知られる作曲家アービング・バーリンの楽曲は、発表後140年も著作権で保護されることになる、とレッシグ教授。

 だが、ビジネス界において著作権を「ため込んでいる人々」に対抗し、著作権を回避する新しい技術――たとえば、ピアツーピア通信プログラムなど――を使用する闘いが進行中だと教授は指摘する。

 画家や音楽家、作家やプログラマーたちのために著作権が存在するという理屈は、今や悪い冗談でしかないと教授は言う。1998年に成立した連邦法、デジタル・ミレニアム著作権法などは、「作者を守るためのものではなく、莫大な著作権を所有する者の利益を代弁するもの」だというのだ。

 レッシグ教授の講演は、ダブリンで開催された『ダークライト・デジタル映画祭』で行なわれた。

 米国の著作権法は、作品の管理を、「固定化と集中化」が進む企業集団の手に委ねているとレッシグ教授。実際、5つのレコード会社が今や音楽流通の85%を牛耳っている。

 現在では、著作権法によって著作物の「二次的利用」が制限されているので、許可がなければ、著作権のある作品をもとに新たな作品を作ることはできない。教授によれば、これによって人類の文化の進展のあり方が根本的に変わってしまったという。なぜなら、「著作権所有者がそれ以降の文化形成を規定する」からだ。

 この規制は技術革新も妨げている。プログラム開発者が、既存のコードを受け継ぎ、それを改良して新たなコードを生みだすという、古くからの慣行にならうことができなくなったからだと、レッシグ教授は述べる。

 音楽、出版、映画などの業界に属する企業は、アーティストに対して、作品の著作権を引き渡すよう当然のように要求する。「子どもたちは自分の文化を自分のものにできない」と語るのは、電子フロンティア財団(EFF)のジョン・ペリー・バーロー氏。バーロー氏も、ダークライト映画祭で講演を行なった。

 「著作権至上主義の時代は、文化史の巨大な空白期となるだろう」

 レッシグ教授によれば、企業が、著作権を所有する作品について、すべてを商業利用可能な状態で維持することに関心をもたないため、結果的に著作物がただ消滅してしまうのは大問題だという。そのような作品は、「ブラックホールに落ちて、誰も手が届かないものになってしまう」というのだ。

 ベルファスト在住の映画プロデューサーで、メディア企業のバンディジタル社に所属するポール・ラーガン氏によれば、デジタル映画製作者に出資する組織は、作品の著作権を要求するが、最初の上映を行なったきり2度と上映しないこともあるという。ここでは「著作権がカギ」であり、手放せば作品はただ葬られてしまう、とラーガン氏は語る。

 古い映画や書籍、音楽などの文化的作品の利用にとってもう1つ脅威となるのは、著作権を所有していた企業が廃業する場合、著作権の帰属者を確定するのが困難あるいは不可能なことだ。「会社が倒産すれば、文化資産に手が届かなくなる」とレッシグ教授。

 しかしそれでも、デジタル技術やインターネット技術を利用することで、より多様で開かれた文化を作り出すことができるのではないか、と教授は考えている。

 「デジタル製作法とインターネットがあれば、状況は一変する可能性がある。これによって、以前よりもはるかに多様な方法で、創造活動が行なわれ、作品が流通するかもしれない」とレッシグ教授。このような状況は、「文化とはかくあるべきという偏狭なイメージに依存しない文化を作り出せる」だろう。

 アーティストが自分の作品をこれまで以上に自由に管理できるような、よりオープンなビジネスモデルがあれば、中央一元的な独占企業ではなく、「多様で、競争が活発な産業」が生まれるだろうとレッシグ教授は語る。

 ピアツーピア通信やファイル交換プログラムなどの新しい技術は、著作権法に対する新たな見方をもたらし、流通のあり方を大きく変革する可能性があると、バーロー氏もレッシグ教授も口を揃える。

 アイルランド出身で、『フリーネット』の出資者でもあるイアン・クラーク氏は、アーティストが作品を配信し、視聴者を獲得し、作品を販売するという一連の過程を、フリーネットが支援するようになればと願っている。しかしクラーク氏は、『ナップスター』、『グヌーテラ』、『ファーストトラック』と同じように、このプログラムにも圧力がかかる可能性があることを認めている。

 「技術を駆使すれば、通信の自由は確保できると信じている」とクラーク氏。「フリーネットが禁止される可能性は確かにある。だが問題は、はたしてそれを強制できるかどうかだ」

 だがレッシグ教授によれば、既存の著作権法を回避するだけの目的でファイル交換プログラムを利用することは、アーティストに真の自由をもたらさないという。「自由とは、それが現実的な選択肢となって、はじめて本当のものとなる」のであり、「絶えざる訴訟のテロリズム」にさらされる破壊的な戦術を意味するものではないというのだ。

 レッシグ教授も、フリーネットが「十分に大きく成長すれば」法的制裁を受けると見る。

 さらに教授は、体制が変わる可能性は低い思うと続けた。なぜなら、企業は巨大な力を有しており、「哺乳類の登場に対する恐竜の生き残り」を図るために、あらゆる手段を講ずるだろうからだ。

 教授はまた、デジタル技術を理解し利用している若い世代が、政治に無関心であることを憂えている。自由主義論者の「ネチズン」は、往々にして「政治的に無力」でもあるというのだ。「彼らは時間を無駄にするべきではないと考え、このような問題には関わらない」

 欧州もまたずっと「受け身」の姿勢で、米国に世界的な著作権法の主導権を与えてしまったと、レッシグ教授は批判する。

 レッシグ教授は、初の著書『CODE――インターネットの合法・違法・プライバシー』[邦訳翔泳社刊]について、ネットユーザーに対し「いま怒らなければ、手に負えなくなる」と訴えようと書いたものだと語った。

 著作権至上主義は文化の衰退をもたらす」の訳文もある。

 アイルランド、ダブリン発。スタンフォード大学で法学を教えるローレンス・レッシグ教授が、ダブリンで開催された『ダークライト・デジタル映画祭』で講演を行い、次のように述べた。

 米国の著作権法はすっかり手におえなくなっており、そのせいで文化が死に絶え、世界の歴史的知的財産が失われてしまうだろう。著作権が保護される期間は、1世紀前には14年間だったものが、現在では作者の死後70年までに膨れ上がり、著作権は大企業が市場における支配権を無制限に引き延ばすための道具になってしまった。たとえば、『ホワイト・クリスマス』で知られる作曲家アービング・バーリンの楽曲は、発表後140年も著作権で保護されることになる。

 画家や音楽家、作家やプログラマーたちのために著作権が存在するという理屈は、今や悪い冗談でしかない。1998年に成立した連邦法、デジタル・ミレニアム著作権法などは、『作者を守るためのものではなく、莫大な著作権を所有する者の利益を代弁するもの』である。

 だが、ビジネス界において著作権を「ため込んでいる人々」に対抗し、著作権を回避する新しい技術――たとえば、ピアツーピア通信プログラムなど――を使用する闘いが進行中だと教授は指摘する。


 レッシグ教授は、米国の著作権法は、作品の管理を、「固定化と集中化」が進む企業集団の手に委ねていると述べた。実際、5つのレコード会社が今や音楽流通の85%を牛耳っている。

 現在では、著作権法によって著作物の「二次的利用」が制限されているので、許可がなければ、著作権のある作品をもとに新たな作品を作ることはできない。教授によれば、これによって人類の文化の進展のあり方が根本的に変わってしまったという。なぜなら、「著作権所有者がそれ以降の文化形成を規定する」からだ。

 この規制は技術革新も妨げている。プログラム開発者が、既存のコードを受け継ぎ、それを改良して新たなコードを生みだすという、古くからの慣行にならうことができなくなったからだと、レッシグ教授は述べる。

 音楽、出版、映画などの業界に属する企業は、アーティストに対して、作品の著作権を引き渡すよう当然のように要求する。「子どもたちは自分の文化を自分のものにできない」と語るのは、電子フロンティア財団(EFF)のジョン・ペリー・バーロー氏。バーロー氏も、ダークライト映画祭で講演を行なった。


 「著作権至上主義の時代は、文化史の巨大な空白期となるだろう」

 レッシグ教授によれば、企業が、著作権を所有する作品について、すべてを商業利用可能な状態で維持することに関心をもたないため、結果的に著作物がただ消滅してしまうのは大問題だという。そのような作品は、「ブラックホールに落ちて、誰も手が届かないものになってしまう」という。

 ベルファスト在住の映画プロデューサーで、メディア企業のバンディジタル社に所属するポール・ラーガン氏によれば、デジタル映画製作者に出資する組織は、作品の著作権を要求するが、最初の上映を行なったきり2度と上映しないこともあるという。ここでは「著作権がカギ」であり、手放せば作品はただ葬られてしまう、とラーガン氏は語る。

 古い映画や書籍、音楽などの文化的作品の利用にとってもう1つ脅威となるのは、著作権を所有していた企業が廃業する場合、著作権の帰属者を確定するのが困難あるいは不可能なことだ。「会社が倒産すれば、文化資産に手が届かなくなる」とレッシグ教授は云う。

 しかしそれでも、デジタル技術やインターネット技術を利用することで、より多様で開かれた文化を作り出すことができるのではないか、と教授は考えている。「デジタル製作法とインターネットがあれば、状況は一変する可能性がある。これによって、以前よりもはるかに多様な方法で、創造活動が行なわれ、作品が流通するかもしれない」。このような状況は、「文化とはかくあるべきという偏狭なイメージに依存しない文化を作り出せる」だろう。

 アーティストが自分の作品をこれまで以上に自由に管理できるような、よりオープンなビジネスモデルがあれば、中央一元的な独占企業ではなく、「多様で、競争が活発な産業」が生まれるだろうとレッシグ教授は語る。

 ピアツーピア通信やファイル交換プログラムなどの新しい技術は、著作権法に対する新たな見方をもたらし、流通のあり方を大きく変革する可能性があると、バーロー氏もレッシグ教授も口を揃える。

 アイルランド出身で、『フリーネット』の出資者でもあるイアン・クラーク氏は、アーティストが作品を配信し、視聴者を獲得し、作品を販売するという一連の過程を、フリーネットが支援するようになればと願っている。しかしクラーク氏は、『ナップスター』、『グヌーテラ』、『ファーストトラック』と同じように、このプログラムにも圧力がかかる可能性があることを認めている。

 「技術を駆使すれば、通信の自由は確保できると信じている」とクラーク氏。「フリーネットが禁止される可能性は確かにある。だが問題は、はたしてそれを強制できるかどうかだ」。

 だがレッシグ教授によれば、既存の著作権法を回避するだけの目的でファイル交換プログラムを利用することは、アーティストに真の自由をもたらさないという。「自由とは、それが現実的な選択肢となって、はじめて本当のものとなる」のであり、「絶えざる訴訟のテロリズム」にさらされる破壊的な戦術を意味するものではないというのだ。

 レッシグ教授も、フリーネットが「十分に大きく成長すれば」法的制裁を受けると見る。

 さらに教授は、体制が変わる可能性は低い思うと続けた。なぜなら、企業は巨大な力を有しており、「哺乳類の登場に対する恐竜の生き残り」を図るために、あらゆる手段を講ずるだろうからだ。

 教授はまた、デジタル技術を理解し利用している若い世代が、政治に無関心であることを憂えている。自由主義論者の「ネチズン」は、往々にして「政治的に無力」でもあるというのだ。「彼らは時間を無駄にするべきではないと考え、このような問題には関わらない」。

 欧州もまたずっと「受け身」の姿勢で、米国に世界的な著作権法の主導権を与えてしまったと、レッシグ教授は批判する。

 レッシグ教授は、初の著書『CODE――インターネットの合法・違法・プライバシー』[邦訳翔泳社刊]について、ネットユーザーに対し「いま怒らなければ、手に負えなくなる」と訴えようと書いたものだと語った。


 Hiroshi Sasaki(佐々木 大)氏の「2008年02月05日 ローレンス・レッシグ教授」を転載しておく。
 先日、Stanford Law Schoolのローレンス・レッシグ教授のセミナーに参加してきました。ご存知の方が多いかと思いますが、彼は「クリエイティブ・コモンズ」の創設者として大変有名は教授です。クリエイティブ・コモンズは、世界中に溢れている「All rights reserved」という著作権を「Some rights reserved」(部分的に著作権で保護されている)という概念に置き換え、世界中のユーザーが安心してネット上にあるメディアコンテンツを使えるように、という理念で活動している団体です。

 簡単に言えば、写真であれ音楽であれ、ネット上にアップされているコンテンツは、作者が希望するしないに関わらず、著作権で守られているわけですよね。でも作者によっては、ぜひ多くの方に使って欲しいという希望をする人だっているわけです。でも、他人が使うのはいいけど商用に使われるのは嫌、いう作者もいる可能性があります。それなら、作者の希望(作者名等を表記すれば自由に使ってよし、とか商用はダメ、とか作品の改変はダメなど)を、ある一定のルールによって表示させ、利用者が安心して二次利用できるようにしよう、という動きなのです。クリエイティブコモンズの表示がされている作品は、そのルールを守って利用する限りは、作者に連絡を入れたり、面倒な手続きをする必要は一切ありません。また、作者にとっても、自分の作品を多くの人に安心して二次利用してもらえるというメリットもあるわけです。

 皆さんが、ご自分のウエブやブログで使える何かいい写真がないかな、と思ったらどうしますか?グーグルなどのサーチエンジンで検索しますか?でも、いい写真を見つけたからと言って、勝手に使うわけにはいきませんよね。こういった際に、クリエイティブ・コモンズの表示は大いに役立つわけです。

 で、今回のセミナーテーマは、「Free Culture, Copyright and the Future of Ideas」だったのですが、このような著作権のテーマでセミナーを行うのは今回で最後とのこと。彼によれば、今後はpolitical corruption(政治的腐敗)にフォーカスしていくとのことでした。


 なぜ彼がそのような決断をしたかと言うと、米国のこれまでの著作権に関する法律の変遷に大いに関係があるとのことでした。皆さんは、著作権ってどのくらい保護されるかご存知ですか? 1976年以前は28年間。それを延長申請すればさらに28年間。(でもその多くが延長申請はしなかったようです。)で、1976年に、著作権者の存命プラス50年という法案が可決されました。その後92年には延長申請しなくともすべての作品に適用されるようになり、98年には著作権者の存命プラス70年という法案が可決されたとのことです。

 このように保護される期間はどんどん長くなってきたわけですが、彼はここに問題点を投げかけています。前述のように、現在の法律では、著作権者が好む好まざるに関わらず自動的に著作権保護期間が設定されてしまうわけですから、著作者も気にしていないような無名な作品でも、他者が有効利用することができないわけです。

 皆さんご存知のように、インターネットの出現によって、我々のアクセスできるコンテンツの幅は大変大きく拡がりました。そんな中、著作権に守られているがために、逆に陽の目を見ずに埋もれていく作品がどれだけあることでしょう。今、時代はマッシュアップ文化が盛んです。マッシュアップとは音楽用語で、いろいろな音楽をミックスして新しい作品を作り出していくことですが、この潮流は現代においては音楽だけに留まりません。つまり、Web2.0時代の現代では、誰しもが写真、ビデオをはじめ既存作品を加工することによって派生作品を簡単に作れるようになったからです。レッシグ教授は、その代表例として、以下のビデオを見せてくれました。会場大爆笑でした(^^;

 このような加工・派生作品は、もはや新しい文化と言って過言ではないでしょう。また、彼は、ディズニーを例に出しました。確かにミッキーマウスなどのキャラクターは著作権で守られ、ディズニーとしては満足なのかもしれませんが、実はそのディズニー自身が加工・派生作品の実践者だったんですよね。ディズニー映画で有名なグリム童話(白雪姫・シンデレラなど)ですが、それらは実は元々グロテスクな内容だったわけです。たとえばシンデレラでは、ガラスの靴を履くために、あの意地悪なお姉さんたちが自分の足指やかかとを切り落として履こうとしたとか・・・そんな内容を子供たちが楽しんで安心して見られるように加工したのがまさにディズニーだったわけです。ところがディズニーとしては、皮肉にも自分たちはやったけど、他の人にはやってほしくないということになってしまうわけです・・・。

 というわけで、レッシグ教授は、このような時代にそぐわない法案は、政治の腐敗から来るものであり、自分はそのテーマに今後フォーカスしていこう、というのが彼の決断だったようです。

 著作権に限らず、ネット社会の現代においては、物事に関しての価値観がその数十年前とは大きく異なります。簡単には行かないのでしょうが、やはりその時代の価値観に即した法案やしくみ作りが必要なことは言うまでもありません。ということで、英語力不足の関係で理解力は薄かったと思いますが、いろいろと考えさせられることの多い、実りあるセミナーでした。


 



(私論.私見)