著作権法の歴史 |
(最新見直し2007.8.18日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
著作権法の概略を踏まえると次に著作権法の歴史を見ていかねばならない。何事によらず「歴史は写し鑑(かがみ)」である。足元がどの流れに位置しているのか知らぬより知ったほうが良い。 インターネット検索で、増田聡・氏の「音楽「著作権」の誕生―近代日本における概念の成立と流用―」を手に入れた。内容が咀嚼し切れないが、これを参考にしつつれんだいこ風に纏めてみようと思う。 2003.4.20日 れんだいこ拝 |
【著作権法の歴史】 |
著作権法の由来史を世界的にみると15世紀のドイツのグーテンベルグの活版印刷機の発明が生んだ副産物として登場したことが判明する。グーテンベルグの活版印刷機は聖書の大量普及に役立ち、著作権法を生むものではなかったが、その後の印刷技術の発達によって著作権商法が派生してきた。 18世紀頃、即ちベートーベンやモーツァルトの時代の頃であるが、それまで作曲家は、王室や貴族からの注文を受け、作品の完成と引き替えに費用を得ていた。この「譜面」は出版社に渡されていたが、印刷技術の発達とともに「譜面 」の「偽本又は普及本」が出回り始め、「譜面」所有出版社がこれに抗議するところから著作権が生み出されることになった。 つまり、著作権は、歴史的には出版者を保護するための出版社の権利として発生したということになる。その対策として、「譜面」所有出版社の登録制を録り、「定められた所に登録した本の偽本を作ってはいけない」という決まりごとが作られた。 1710年、英国でアン女王により版権保護の法律が定められた。 その後、フランスでも「レ・ミゼラブル」などの著作で知られる文豪ビクトル・ユーゴー(1802.2.26−1885.5.22日)を中心に著作権保護の運動が盛んになり、1791年、フランスにも著作権法が立法化される。その後著作権法は大きく変化していくことになるが、この過程で著作者を守る権利として先祖帰りし、著作者権利と出版社権利がドッキングしながら強化されつつ根付いていくことになる。 ちなみに日本では、江戸時代中期に印刷、出版が盛んになったが、こうした問題を発生させなかったのか同業組合内で解決されていたのか、為に明確な法を持たなかった。れんだいこが私見を述べれば、法を持たなかったことが未開という訳ではなかろう。賢明なる弁えがあったと解することも可能であろう。 その後、国際的な著作権保護運動が盛んになり、1886年、スイスで各国が参加する国際的著作権保護条約「ベルヌ条約」(正式名称は、「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」)が締結された。翌1887年に条約は発効した。 ベルヌ条約は、特徴としてその1「内国民待遇。つまり条約加盟国の著作物については自国の著作物と同様の保護を与えなければならない」。その2「遡及効。つまり条約加盟前に創作された著作物も条約加盟国間で保護する」。その3「著作権の獲得に登録や表示の手続きを必要とせず創作されると同時に著作権が成立するという方式(無方式主義)」を採用している。 しかし、これにアメリカが加盟しなかった。アメリカは中南米諸国とパン・アメリカン条約を結んでいたが、これらの国は方式主義を採用していた。つまり、これらの国では、著作権が保護されるには法律に定められた特定の手続を必要としていた。 1952年、スイスのジュネーブで万国著作権条約が成立し、その1「内国民待遇」、その2「不遡及効」。「Cマーク(the letter C enclosed within a circle)による著作権表示」を採用した。「Cマーク」とは、無方式主義を採用しているベルヌ条約加盟国の著作物であっても、Cマーク・著作者・発行年月日を適当な場所に表記することにより、方式主義の国において保護を受けられるという制度である。現在ではアメリカをはじめとするほとんどの方式主義の国が無方式主義へと変わったので、Cマークを定めた万国著作権条約の意義は薄れた。 万国著作権条約は手続きを必要とする方式(方式主義)を採用しているという違いがある。万国著作権条約だけに加盟している国においては、その国の著作権登録、または(c)マークの表示をしていなければ、無断で複製、頒布されても侵害行為に対する賠償請求等は出来ない。 現在、著作権に関する国際条約にはベルヌ条約と万国著作権条約の2つがある。 ちなみに、日本は、1899年に著作権法を制定、ベルヌ条約を基本にした著作権法制となっている。同年ベルヌ条約に加入し、現在は両方に加盟している。日本の比較的早い対応は、当時、列強との間にあった不平等条約の改正、撤廃に狙いがあったと云われている。(、「日本では明治2年(1869年)が最初の立法公布」とするものと、「日本では明治32年に著作権法が成立、同時にベルヌ同盟条約に加盟」とあるのもあり、この関係がよく分からない) アメリカのベルヌ条約に加入は平成元年(1989年)3月1日であり、それ以前は万国著作権法条約のみに加盟していた。朝鮮民主主義人民共和国はさらに遅く、1996年にベルヌ条約に加入した。台湾は現在もどっちにも加盟していない。つまり、台湾では海賊版は別に犯罪ではないということになり、台湾での海賊版の隆盛はここら辺りに理由がある。 (c)マークの正しい表記法とは、「(c)マーク」、「著作権者名」、「最初の発行年度」(修正すれば後に「修正年度」)の3要件を記すことになる。日本では表示しなくても、ベルヌ条約により守られている。日本ではオリジナルイラストが描かれた瞬間から、著作者は著作権者としての権利を獲得するので、国内的には表記しなくてその権利が守られていることになる。ちなみに、2001年現在北米諸国と西欧諸国はほぼ全てベルヌ条約に加盟している。万国著作権条約にのみ加盟の国(2001年現在、ロシアなど4カ国)では、著作権者の主張によって初めて認められるので、著作権者が主張しない限り著作権フリ−ということになる。 日本は、ベルヌ条約に加盟して100年経過しており、自前の著作権法を制定し見直しをしてきていることを思えば、「著作権を手厚く保護してきた歴史の長い国」ということになる。 なお、違法な(原著作者の許諾を得ない)二次著作物を保護するかどうかについては、ベルヌ条約加盟国の中でも、見解がわかれている。日本は原著作者の許諾の有無に関わらず、二次著作物として保護の対象としている。が、そうではない国もある。 |
「音楽「著作権」の誕生―近代日本における概念の成立と流用―増田聡」(鳴門教育大学研究紀要(芸術編)第17巻 2002年)を転載する。(れんだいこ責で再編集する) |
1.コピーライトと著作権 日本語の「著作権」は明治期の翻訳語である。ではその原語は何か。一般に、日本語の「著作権」は英語では「copyright 」と訳されるのが常であるが、法理論上、「著作権」= copyright とするのは厳密には正確ではない。佐々木健一は、作者の作品に対する理念上の支配権を美的権利と呼び、著作権を主に経済的な側面に関わる権利として慎重に区別する(佐々木1985:245-293)のだが、その経済的権利をいかなる原理や根拠によって運用し分配するかによって、大きく二つの制度を区別することが著作権法論では一般的である。 ここでは、二つの対比的な制度、「コピーライト」と「著作権(オーサーズ・ライト)」の簡潔な解説をしておきたい。これらはしばしば「英米法」と「大陸法」の対立、あるいは「アングロサクソン法」と「ラテン法」の対立として議論される。 (a)コピーライト 「コピーライト」とはすなわち、文字どおり理解するならば「複製の権利」である。決してこれは「作者の権利」ではない。コピーライトの語義はその社会的機能と密接に結びついている。 その産業論的な起源を一瞥しておこう。コピーライト制度の源流は、16世紀以降イタリア、イギリスなどで散見され始める、出版業者の保護政策としての出版特許に求められる。萌芽期の印刷出版業がある書物を出版する際、同じ書物を他の業者に出版されては、印刷機械や活字などの初期投資を書籍の売り上げから回収することが困難になってしまう。故にイギリスの書籍出版業ギルドは出版業者間の利害調整のため、一つのタイトルの書籍を一人の出版業者が独占的に出版するよう互いに取り決めを行い始める。 やがてその独占は国王からの出版特許に権利の源泉を求めるようになり、国王側も言論検閲の目的で出版特許を制度化する。その結果成立した独占出版権が、17世紀初めには「コピーライト」と呼ばれるようになっていく。市民革命期に入ると、出版業ギルドの独占への批判が高まり、出版者達は裁判などの争いに対応するべく、自らのコピーライトを理論的に正当化する必要が生じてくる。彼らが用いた論拠は主にジョン・ロックの自然権思想から派生したものであった。著者の精神的労働により生み出された原稿を、その頃僅かながら支払われていた原稿料によって買い取った出版業者は、その原稿すなわち精神的財の所有者となる故、独占的な出版を行う権利を有する、と出版業者は主張したのである。 この初期コピーライト理論は「精神的所有権論」と呼ばれ、イギリスやその法制度の影響が強かったアメリカでは、精神的所有権論の色彩が強い copyright 保護の法律が18世紀に成文法として成立(英1709年(注1)、米1790年)する。初期コピーライト史の詳細については白田秀彰の優れた諸研究(注2)に詳しいが、重要なことは、コピーライトの原理はあくまでも「複製」に関わる経済的利権の配分や調整に発したものであり、情報複製産業内部の秩序維持と国家によるその統制との間で発展してきた法制度であって、「作者の権利」保護とは異なる理念に発したものである点だ。端的に言えば、コピーライトによって保護されるのは、「(芸術)作品」の価値というよりも、作品の「商品」としての価値である。 現在の英米的法制度においては、コピーライトは多くの場合その作品を最初に制作した作者がまず持つことになるが、その権利を出版社などに完全に譲渡してしまうことも可能であるし、また後述する大陸法的著作権において顕著な、作者の精神的利益の保護の法制化すなわち人格権(moral right)も、コモンローと呼ばれる判例法による一般的人格権の保護の延長によって保護され、コピーライトの原理に組み込まれることはない。英米のコピーライトはまずもって作品の「複製」に関わる経済的権利であり、英米のコピーライト法はその経済的権利の所有に関する法であることを確認しておきたい。 (b)著作権(droit d'auteur) 一方、欧州大陸ではドイツ観念論の芸術思想や、フランス革命によって高揚した自然権思潮に後押しされ、作者の生み出す表現を経済的・社会的に保護する制度としての著者の権利=著作権(droit d'auteur)を保護する法律が、18世紀末から19世紀にかけて各国で制定(仏1791年,独1870年)されてゆくことになる。フランスではイギリス同様に出版業ギルドが国王の出版特許を得て活動していたのだが、革命により旧来の出版慣行は一気に破壊された。革命の基本思想であった自然権思想とロマン主義は、作者の芸術表現への所有権を、「もっとも神聖な所有権」と見なし、「作者の権利」は法により新たに制度化されることになる(注3) 。 この「著作権」はコピーライトと異なり、保護の焦点は「作者」にある。作品は作者の人格の表現であり、故に作者が及ぼす作品への支配権は法的に正当化される。その作品から生じる経済的利益を作者が享受するのはもちろん、英米的コピーライトには見られない、作品の改変やその公表、あるいは氏名の表示・非表示などのコントロールを作者に認める「著作人格権」(droit moral)もまた原理的に当然認められることになる。後述するベルヌ条約に加盟することによって始まった日本の著作権制度も、法制度上この制度に分類される。 |
2.ベルヌ条約とその原理の混乱 このように、「著作権」としてしばしばひとくくりにされ区別されない、英米法的コピーライトと大陸法的著作権は、その原理と思想史的背景を異にする。しかし、著作物は一つの国でのみ利用されるのではなく、法制度の異なる別の国にも伝播し広まる。その時、一国の領域のみで保護される著作権制度は容易に骨抜きになろう。 19世紀のヨーロッパで先進的な著作権制度を整備していたフランスは、同時に小説の輸出国でもあった。ヨーロッパ中で読まれたフランスの作家達の作品は、制度が未整備であったベルギーなどで著作権使用料を払われることなく海賊版を出版され、それがフランスに安く逆輸入されることになる。事態に困惑したフランスの作家達は、1878年に国際文芸協会(初代会長はヴィクトル・ユゴー)を設立し、政治家に働きかけるなど国際的な著作権保護条約成立を目指し活動を行った。この成果が、1886年の「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(注4) Convention internationale pour la protection des oeuvres litteraires et artistiques」として結実する。参加各国の果たすべき保護の最低基準を定め、ヨーロッパを中心にした10カ国の調印によって発効したこの条約は通称「ベルヌ条約」と呼ばれ、幾度かの改正を経て現在でも著作権の国際条約として機能している。 このような条約成立の経緯から、ベルヌ条約にはフランスの「作者中心主義」的な法思想が色濃く反映している。条約の原文は今でも仏語であり、解釈に疑念が生じた際も仏語において確認することになっている。海賊版の取締という経済的利益の保護を目指した条約ではあるものの、その経済的利益保護は「作品についての作者の利益保護」という条約の基本原理から演繹されるものであり、英米的コピーライトとは異なる原理に立つ。 イギリスは当初からこの条約に参加し、徐々に英米法的なコピーライト概念を大陸法的なシステムに調和させていくのであるが、第一回の条約締結会議にオブザーバーとして参加しながら条約に参加しなかったアメリカは、英米法的コピーライト制度を堅持し続けて行く。アメリカが結局ベルヌ条約に参加したのは1989年で、それまでの間、約一世紀はベルヌ条約より保護要件が緩和された万国著作権条約や、個別の国との二国間条約によって作品保護を行ってきたわけである。しかし同時にこの一世紀は、アメリカの文化的生産物即ちハリウッド映画やジャズやロック、現代美術などが世界中で影響力を急激に及ぼしてきた百年でもあった。その経済的なインパクトのため、ベルヌ条約加盟諸国の法制度にも、徐々に英米コピーライト的なシステムが侵入していくことになる。 例えば、コンピュータ・プログラムは「作者の芸術的表現の保護」を念頭においた大陸法的システムには収まりが悪い。コンピュータ・プログラムは古典的な作品(作者の「思想または感情を創作的に表現したもの」――これは日本の現行著作権法における著作物の定義である)であるというよりも,ある機能を実現させるために組み立てられたアルゴリズムを表現した「機能作品」である。その価値はそこで実現される機能に存するのであり、プログラム中のある一節を別の表現と入れ替えたとしても、その機能が損なわれないのであれば作品の価値は変わらない。絵画や文学作品で同様のことが行われた場合と比べてみれば、「表現の保護」という著作権制度の目的が、コンピュータ・プログラムの保護に適したものでないことは明白だ。 しかしアメリカは、コンピュータ・プログラムをコピーライト=複製権の対象として保護した最初の国となり(1980年)、その後アメリカのコンピュータ産業が世界的なヘゲモニーを掌握していった結果、ベルヌ条約諸国も工業所有権ではなく著作権(すなわち「工業的生産物」ではなく、「文化的生産物」)のカテゴリーにおいてプログラムを保護せざるを得なくなった。このような形で、ベルヌ条約的な著作権制度は、近代的芸術観に基づく「作者の表現の保護」という、作者の美的権利から敷衍して理解可能であった単純な原則をあちこちで逸脱し始め、実質的にはさまざまな文化産業相互の利害調整システムとなっているのが現状である(注5)。 その制度的変容の遠因としての概念的混乱は、19世紀終盤の日本での著作権制度整備の過程にもまた見て取ることができる。次節では、ベルヌ条約創設を受けて日本にも導入された「著作権」の観念について、その成立過程を詳しく見てゆくことにしたい。 |
3.日本の「著作権」概念の起源 日本に「著作権」概念を初めて紹介したのは福沢諭吉であるとされる。しかし実際には、それは「著作権」ではなく英米法的なコピーライト概念であった。1868(明治元)年の「西洋事情外編巻之三」において、イギリスの経済書の紹介の中で彼は copyright を「蔵版の免許」と訳している。後にこの語は「版権」あるいは「板権」(注6)として広まる。しばしば日本最初の著作権関連法規として言及される1869(明治2)年の出版条例は、出版許可とその検閲を目的とした取締条例であったが、そこにはまだ「版権」という独立した権利の名称は伺えない。「版権」の語が法規に初めて出現するのは1875(明治8)年の改正出版条例である。その一節を引く。 「図書ヲ著作シ、又は外国ノ図書ヲ翻訳シテ出版スルトキハ三十年間専売ノ権を与フヘシ。此専売ノ権ヲ版権ト云フ」(阿部1983:11) この18755年の出版条例を制定するに当たっての政府内部の文書によると、このような出版法規の取り扱いについて、どの程度のレベルかは不明ながらフランスと英米の制度を参照し、英米的な制度を参考にした模様である(注7)。明治最初期の「著作権」制度は、素朴なあり方ながら、英米法的コピーライトを参照点に成立しつつあったと言える。 しかし、この「版権」(板権)は、出版の偽造を防ぐ、という限定された保護を念頭においていた権利に過ぎなかった。改正出版条例における「版権」概念は、あくまでも出版の、それも専売を許可することによる経済的な利益の保護を目的とした権利であり、まさしく英米法的コピーライトの中の「出版権」に対応するものであったといえよう。もちろんコピーライト制度に対する当時の理解は低い水準にあり、「版権」という日本語の概念の下に行使されていた権利は、コピーライトの素朴な類似権利であったと言える。当時の日本では英米法的コピーライト概念と大陸法的著作権概念の区分はほとんど認識されていなかった。両者は区別されないまま、「版権」という語は「著作権」という概念に統合されていくことになる。 これまで本章は「著作権」という語を,コピーライトと対比される大陸法的制度を指す語として用いてきたが、大陸法的著作権制度で言う droit d'auteur(著者の権利)と、「著作権」という日本語の概念とは、しばしば同じものとして対応させられるにもかかわらず、このような制度導入前史を考えるなら、そこには微妙なずれが存在する。そのずれの生成の過程を、1883(明治17)年、スイス政府から日本政府に送られた、当時準備中であったベルヌ条約創設会議への参加招請書をめぐる対応を協議した政府各省間の連絡文書によって見ていこう。 まず、ベルヌ条約の正式名称,Convention internationale pour la protection des oeuvres litteraires et artistiques の保護対象をどう日本語に訳すか。この当時、西洋文化に関する概念は現在のような形では定着していなかった。外務省が最初に各省に送付した文書はこのように訳す。(以降,下線はすべて引用者による) 「今般各国之委員等文学及技術上発明ヲ為シタル者ノ権利ヲ保護スルノ目的ヲ以テ瑞西国ベルヌ府ニ」(明治十七年三月二十六日付文書)(日本音楽著作権協会(編)1990:15) また、外務省がこの連絡文書に添えたスイス政府の招請書の訳文では、 「文学及美術上発明ヲ為シタル者ノ権利保護ノ為メ一般連合ヲ組成スルノ目的ヲ以テ」(丸毛直利訳と推定される)(同日文書)(前掲書:同頁) となっており、la protection des oeuvres litteraires et artistiques の訳が定まっていなかったことが分かる。 内務省による外務省への回答では、「文学及ヒ工芸上発明者ノ権利保護ノ為メ」(明治十七年五月二日付文書)(前掲書:16)という一節がありながら、その後段では、「然ルニ彼此ノ際版権国際条約等連盟スル欧州大地ノ国状ニ於テハ」(同日文書)(前掲書:同頁)となり、版権とベルヌ条約的な権利(大陸法)が区別されず、同様の権利概念として考えられていたことが伺える。 一方、ベルヌ条約の保護する権利に、「著作権」という新しい用語を与えたのが農商務省であった。同じく外務省への回答を見よう。「瑞西国大統領ヨリ文学及美術ト著作権(ママ)保護盟約之義ニ付本邦未タ美術上ノ著作権ヲ保護スルノ法規無之ニ付勢加盟御応諾難相成ハ勿論」(明治十七年五月十六日付文書)(前掲書:17) この「著作権」という新語は,農商務省独自の調査によって造語されたもののようである(吉村1993:6)(注8)。次は同じ文書の後段である。 「追テ本文之義ニ付貴省ヨリ御送致之訳文中ニハ文学及工芸上ノ発明権云々ト有之候得共右ニテハ約束案ト齟齬致候ニ付原文ニ拠リ更ニ調査セシメ候処其字義美術上著作権ト相改候方穏当ニ可有之趣ニ付此断添テ申遣候也」(同日文書)(日本音楽著作権協会(編)1990:17) しかし、そのままこの新語を政府が統一訳語として採用するには至らなかったようで、外務省のスイス政府への最終回答文書では、「文学及美術上発明者権利保護ノ為メ同盟規約設定之義ニ就キテハ」(明治十七年六月十六日付文書)(前掲書:同頁)となっている。 これらの連絡文書に見る限り,oeuvres litteraires を「文学」と訳すことは共通しているのだが,oeuvres artistiques は「技術」「美術」「工芸」とさまざまな訳語が当てられる。これは明治十七年当時、保護対象とされるoeuvres artistiquesが、日本語の空間の中に確固とした対応概念を持っていなかったことを示している。保護対象についての概念規定が固まらないまま制度の導入は否応なしに進んでいく。 日本政府はこのような馴染みのない概念によって構成された西洋の制度をなんとか吸収しようと図る。結局日本政府は時期尚早として、1886年のベルヌ条約加盟は見送ることになるのだが、オブザーバーとして前年開催された創設会議に参加し、在イタリア公使館参事官であった黒川誠一郎を派遣してその会議内容を報告させることになる。ここで黒川は「報告余編」として、欧米の権利制度事情についての詳細なレポートを外務省に提出しており、その中には彼が試訳した仏語からの関連諸概念の訳例が挙げられている。 【黒川報告書の訳例】 (1885(明治十九)年十二月十日付文書,黒川誠一郎「ベルヌ条約創設会議出席報告」より再録(前掲書:28)) auteurs 作者〈文章巧芸トモ総称〉 ―――― litteraires 著作者 ―――― artistiques 巧作者 ouvrages 作物〈総称〉 ―――― litteraires 著作物 ―――― artistiques 巧作物 proprietes 所有権 ―――― litteraires 文章所有権 ―――― artistiques 巧芸所有権 publications 発行〈総称〉 reproductions 複写〈総称〉 contrefacons 偽作〈総称〉 droit d'auteur litteraire 著作権 ―――――― artistique 巧作権 この訳例が興味深いのは、「著作物」「著作者」といった概念の日本初出であると同時に、それが漢語由来の「著作」という語、「書かれた文章」という原義に忠実に用いられている点である。この訳例では、droit d'auteur litteraire だけが「著作権」に対応し、droit d'auteur artistique は「巧作権」として別の語を与えられ区別される。黒川が、馴染みのない文化概念に依拠するベルヌ条約の概念体系を、「書かれた文章」と「それ以外」に分け、出来る限り忠実に摂取しようとした姿勢が伺える。 がしかし、その後「著作権」という語は、包括概念としての droit d'auteur の訳語として定着していく。「著作物」「著作者」も同様に、この海外伝来の新しい権利制度に関わる概念として、「書かれた文章」という「著作」の原義を離れ、現在の用語法で言う「芸術」一般にも適用されるものとして広まっていく。oeuvres artistiquesをも含む「著作物」概念droit d'auteur artistiqueをも含む「著作権」概念の誕生である。 「著作者の権と云ふ事なり今夕聴聞せらるる諸君ハ大抵文芸,工芸,技芸にて身を立てられ」(注9) 当時の日本政府のベルヌ条約加盟に対する懸念は、翻訳出版に関する問題にあった。西洋思想や技術の摂取の為、洋書の無断翻訳出版がこの頃盛んに行われていたのであるが、ベルヌ条約加盟によってこの翻訳が自由に出来なくなることが議論の的となっていた(結局後のベルヌ条約参加時には、翻訳権と音楽の演奏権を留保した上で加盟することになる)。そのため,droit d'auteur に関する問題意識や議論は、やがて「著作」即ち出版物の経済的な権利問題に照準が合わされるようになり、「巧作権」「巧作物」という概念は省みられることなく廃れ、「著作権」「著作物」に吸収されたのではないか、と推測される(注10)。 この「著作権」という語は、1899(明治32)年に制定された著作権法(1970年制定の現行著作権法に対して、「旧著作権法」と呼ばれる)によって、それまでの出版条例などで用いられてきた「版権」に代わって制式用語となる。この少し前、1894(明治27)年に締結されたイギリス等との通商航海条約において、幕末に結ばれた所謂不平等条約の撤廃の交換条件として、日本はベルヌ条約に加盟することを求められていた。故にこの旧著作権法は、ベルヌ条約参加の要件を満たすために当時としては国際的にも先進的な法規であったとされている。しかしその一方で,当時の日本の文化状況にとって適合的な法体系を創出するよりも、既にあるベルヌ条約の制度体系を取り入れることを優先させていたことも否めない。 制定当初の旧著作権法第一条を見てみよう。 第一条 (著作権の内容)文書演述図画建築彫刻模型写真其ノ他文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物ノ著作者ハ其ノ著作物ヲ複製スルノ権利ヲ専有ス。2 文芸学術ノ著作権ハ翻訳権ヲ包合シ各種ノ脚本及楽譜ノ著作権ハ興行権ヲ包合ス。 ここでは、「著作権」という語は、「書かれた文章」という「著作」の原義とはあまり関係なく新たな概念として作りなおされ、この新しい権利の保護対象となる文書演述図画建築その他を総称する「著作物 oeuvres」を「複製することができる」権利である、という構えを採っていることが見てとれる。 造語された「著作物」という概念は以上のような経緯で、西洋から導入された法制度によって日本の文化制度に挿入された。あらかじめ存在した文化的な慣習に即した権利体系が成文法によって認知されたというよりも、馴染みのない異質な制度が外から文化に節合されることにより、文化的生産物の取り扱いに関する新たな観念が誕生する。 「著作物」はこの場合、ベルヌ条約の原語にある oeuvres の訳語である。もちろんドイツ語では Werke であるし、英語では works が対応する。しかしこれらの訳語として、こんにちの日本の美学的言説に定着している「作品」は、法的な言語体系の中では「著作物」という造語された制式用語に変換され、馴染みのない、よそよそしい法的用語というコノテーションを帯びることになる。美学的な「作品」概念をめぐる思潮が時代を経ていかに変容しようとも、それは「著作物」概念とは関わりがないものと見なされる。「著作権」概念が制度化された時期に支配的だった美学的思潮(独創性を重視するロマン主義的思潮)は法的な概念体系に刻印され、以降の同時代的な美学的言説と交渉をもつことはない(注11)。 美学的な「作品」「作者」といった概念体系に寄生しつつ、そこでの論理に還元できない(かのように思える)特殊な法的領域として著作権制度が意識される要因の一つには、以上のような日本での「著作権」概念の生成過程が関わっているのではないか。美学的な議論と著作権に関する議論とがうまく接合されず、法的な用語法をめぐって不毛な解釈論争が繰り返される日本の著作権議論の現状は、その「著作権」概念の起源から既に始まっていたと言える。 |
4.「芸術」関連諸概念の矛盾 制度が文化に外挿されることによって生じる混乱は、後になって表面化した。出版物の経済的権利保護の仕組みをモデルに、他の演劇や建築、模型などをも保護しようとする法体系である旧著作権法が、現実の音楽実践と概念的な齟齬を起こした例を、1912(大正元)年に起きた「桃中軒雲右衛門事件」に見ることができる。検討してみよう。 日露戦争(1904(明治37)年〜1905(明治38)年)頃から、それまで大衆芸能の中でも極めて地位の低かった浪花節は、戦意高揚と武士道鼓吹を狙った支配層の後押しを受けて急速に全国で人気を博すようになる。この時期に筆頭のスター浪曲家であったのが桃中軒雲右衛門であった。勃興しつつあった日本の蓄音機産業も、この頃から輸入された西洋音楽のレコードを販売するばかりではなく、長唄、義太夫、琵琶、浪花節などの日本の大衆芸能を積極的に録音し販売するようになり、雲右衛門の浪花節は長らく録音が待たれていた存在であった。 1911(明治44)年12月、ドイツ人リチャード・ワダマンは破格の吹き込み料で雲右衛門の浪花節を録音し、翌1912(明治45)年5月に五種類の両面盤として、一枚3円80銭で三光堂より発売した。この雲右衛門レコードの発売に際しワダマンは(日本初の)独占録音契約を結んだ。契約内容の一節と当時のレコードの広告文を挙げておく。 契約内容「他へは之と同じ物、並に自分が従来公開の席にて演ぜし物は吹込まず。又、新作物とても他へ吹込む場合には、先ず一応三光堂へ照会し、承諾を得し上吹込む」(倉田1979:138) 広告文「蓄音機吹込は一切本人と特約を結び、其著作権はリチャード・ワダマンに譲受、登録済に有之、「象印スタークトン」の商標に異る音譜は必らず偽作品にして、法律上の制裁あるものなるを以て、これを製造、販売、又は購入相成候向はご迷惑出来致候義に付き、特に「象印スタークトン」の商標に御注意被下度候」(注12) この待望久しい雲右衛門のレコードはしかし、東京音譜会社の社長、島口与茂作らによって発売即複製盤を製作され、約1円程の安価で発売されてしまう。ワダマンはこれを著作権侵害として、損害賠償を求めて東京地裁に島口ら四名を訴え出る。現在であれば、明白な著作権侵害である海賊盤の製作とされるだろうこの事件であるが、当時成立したばかりの著作権法ではそのような法解釈はまだ明確に定まっていなかった。 一審(19122(大正元)年11月11日)では原告勝訴、二審(1913(大正2)年12月9日)でも原告勝訴と、レコードの無断複製は著作権法違反とされたかと思われた。がしかし、この判決に異議を唱える者がいた。荒木虎太郎は『法律新聞』837号にて「蓄音機平円盤の告訴事件を論ず」(1913(大正2)年1月20日、日本音楽著作権協会1990:127-130に収録)という論説を発表し、雲右衛門事件判決を批判している。 荒木はまず「著作物」の本質論を展開する。 「クンスト」即ち技芸とは人間の力及熟練より生ずる成果にして成形技芸(絵画,彫刻,料理,水泳などの技芸)及び音響技芸(奏歌,音楽)の二種あり。「クンスト」即ち「アート」なる語を美術と訳するときは音楽も亦た美術となれど、余輩の浅学なる未だ音楽を美術と論定したるものあるを聞かず。何れの国に於ても音楽家と美術家とは之を区別し、我国に於ても各自独立して認むるが如し(日本音楽著作権協会1990:127) 先程引用した旧著作権法第一条を参照していただきたい。「文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物」とは、ベルヌ条約にある「production du domaine litteraire, scientifique ou artistique」に対応する著作物の定義であるが、この「美術」と訳された production artistique は音楽を含む概念として定義されていた。佐々木健一によれば、近代の日本語において、現在のような包括概念としての「芸術」とその下位概念としての「美術」といった用語の使い分けは明治30年代(1897〜)の後半に定着した(佐々木1995:31)。よって明治32年(1899)年制定の旧著作権法での文言「美術」は、production artistique、すなわち現在の用語法で言えば「芸術的制作物」を指すものとして用いられていたわけであるが、大正期に入るとこの概念規定が古くなり、法的な解釈の混乱の元になっていることが見てとれる。 その混乱を糺すべく、荒木は続いて「美術」(芸術)に「音声」が含まれないことを論じる。 美術とは人の力及其熟練により美化されたる有形物を云ひ吾人に美的観念を与ふる無形物を指すにあらずされば美音美食と云ふが如き美字を冠し美的観念を生ずるもの必ずしも美術と云ふこと能はず。本問題に於て雲右衛門の音声が美なるを以て美術と云ふが如きことあらば其愚や笑ふべし。特に技芸も美術も人為的にして天然的のものとは全く相反す富岳の景は絶美なりと雖も美術にはあらず。雲右衛門の音声は美妙なるも之れ天賦なり人為にあらず(日本音楽著作権協会1990:127) とし、荒木は浪花節の語りの音調や声が如何に美感を興させるものであったとしても、それをそのまま「音楽(美術)の著作物」と見ることを退ける。美しいもの即ち「美術」という、法文上の語彙からくる俗説を否定し、人為的な美的構造の構築に焦点を当てる荒木の「アート」あるいは「クンスト」への理解は、西洋近代の美学思想史的には正当なものであると言えるだろう(注13)。 …著作者の独創的思想と其成果即ち著作物ありて始めて著作権を生す而して雲右衛門は音楽的著作をなせしやと云ふに楽譜を作り又は作曲せしことあるを聞かず。唯だ判官の想像上に於て独創的音楽の著作と認定せられしが如し(日本音楽著作権協会1990:128) 既成の筋書きに従い、それを美妙に語る浪花節の実践においては、著作権法で考えられているような「音楽的著作」は行われていない。故にそれを複製したレコードを複製したところで、「著作権侵害」は起きようがない。法学者荒木は旧著作権法とその背景にある西洋近代的芸術観を厳密に解釈し、複製盤を作った業者の無罪を主張する。 この意見は結局容れられ、大審院は1914(大正3)年7月16日、歴史的な逆転判決を言い渡した。被告無罪、原告敗訴。すなわち浪花節のレコードの複製は、現行法上では「著作権侵害」を構成しない。もちろん被告の行為は「正義の観念に反する」とされたのであるが、「取締法の設けなき今日にあっては之を不問に付する」(阿部1983:58)と判決文は結論せざるを得なかった。 もちろん、蓄音機産業は大混乱に陥る。無断複製レコードが横行し、新規の吹き込みが大正中期には激減した。一方で,廉売されたレコードと蓄音機の普及には拍車がかかり、日本の音楽メディアの基盤が整備されたのもまたこの頃になるのであるが、蓄音機業界としては面白い筈がない。そのため業界はなりふり構わず法改正運動を展開する。 横田昇一「蓄音機界の死活問題」(『蓄音機世界』第四巻第九号,1917(大正6)年9月、日本音楽著作権協会1990:153-160に収録)は、蓄音機の文化的意義を力説し、複写盤(海賊盤)の蔓延する現状を憂い、法改正の必要性を訴える。 況んや芸術上の立場から観察したならば、書籍は到底音譜(引用者注:レコードを指す)の比でない事は明々白々の事である。音譜は到底文字を以て現はし得ざるの独創を現はし蓄音機は到底印刷術を以て伝ふる事の出来ない独創を伝へるものである。茲に於てか音譜に対する吹込人(若しくは之を承継する製造人)の権利は全く書籍に対する著者(又は之を承継する出版者)の権利と全然其性質を同うし、而かも一段の重きを為すものである事は最早一点疑を挿むの余地がないと断言しなければならぬ。(前掲書:158) この横田に代表される蓄音機業界からの陳情を受け、衆議院議員鳩山一郎は第43回帝国議会(1920(大正9)年)に著作権法の一部改正案を提出する。その中で,雲右衛門事件で被害を受けた蓄音機業者の利益を「著作権」として保護するため、彼は以下のように議論を展開する。 蓋シ著作権ヲ認メラルヘキ文学的美術的又ハ音楽的創作ハ全然新ナル製作ナル事ヲ必要トセス既ニ存在セル著作物ニ対シテ加工ヲ為シタルニ止マル場合ニ於テモ其加工ニ新ナル技術ヲ要スル時ハ之ヲ創作トシテ著作権ヲ認ムヘキコトハ著作法(ママ)カ翻訳者及原著作物ト異リタル技術ニヨリ適法ニ美術上ノ著作物ヲ複製シタルモノヲ著作者ト看做スルニ依リテ明カナリ。而シテ既存ノ音楽的著作物ヲ蓄音機ニ写調スルニ当リテハ音譜ノ製作トハ全ク異リタル弾奏又ハ唱歌ト云フ新ナル技術ヲ必要トスルモノナルカ故ニ之ニ依リテ新ナル製作物ノ成立ヲ認ムルヲ正当トス(前掲書:170) 「新ナル技術」を既存の著作物に対して適用することまでもが「創作」とされ、「新ナル製作ナル」著作物に対してと同様「著作権」が与えられる。レコード製作者の利益保護を法制度上に明文化するために、西洋美学的な音楽観は流用・変形され、それは法解釈として制度化される。 著作権法の一部改正は1920(大正9)年に行われている。この改正では第一条で保護される著作物の中に「演奏歌唱」がつけ加えられ,更に第三十二条ノ三として以下の条文が追加された。 第三十二条ノ三 音を機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス 「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ写調」する者とは、ここでは蓄音機業者を指している。即ち,レコード製作者が、録音によってそのレコードの著作権を持つことになったわけだ(注14)。この法整備によってレコード産業の法的基盤は安定し、以降昭和にかけて発展していくことになる。 がしかし、この改正によって旧著作権法は、ベルヌ条約の「作者の表現の保護」という原理からするとやや奇妙な体系になってしまう。とにかく複製レコード業者を違法化することに性急だったため、「演奏歌唱」という、西洋的な「音楽作品」の上演、すなわち利用を再度著作物としてしまい、さらにそれを録音したものまでが著作物、すなわち「作品」になってしまう。通例規範的楽譜を持たず、古いテクストや言い回しが繰り返し用いられる浪花節のような芸能と、現実には規範的楽譜が作品として制作され、それが演奏されさらにレコード化される西洋音楽的な実践とを、同じ法的システムによって包合しようとしたため、「著作物」概念が音楽実践のどのレベルに焦点を置いて適用されるのかが不明確になってしまうわけだ。 そこではベルヌ条約的な「作品の保護」という原理の、実際の適用への適切なレベル分けは顧慮されず、とにかく権利の及ぶ契機を増加させることに主眼がおかれていたと言えるだろう。すなわち、問題となった浪花節が西洋的な意味での「音楽作品」とは異なった文化的伝統にある口承芸能であるにも拘わらず、産業的な要請によって、西洋由来の法システムによる「著作物」概念になんとか収める必要があったからに他ならない(注15)。 以上見てきたように,「著作権」概念は複雑な歴史的経緯を積み重ねてきた。その制度は、西洋的な文化概念をキャノンとして想定しながら、産業的な圧力やメディアの変化などに媒介されて、複雑な例外規定や妥協を織り込んできたものである。故に「作者の権利」との素朴な著作権理解は、英米法的コピーライトにおいてはもちろん、大陸法的な制度にあっても単純には通用しない。 特に日本の著作権制度は、西洋文化や制度との摩擦の中で移植され、現実の文化実践と折り合いを欠きながら手直しされ、文化産業の利害調整システムとして定着してきた制度である。またそれは日本における西洋近代的な芸術諸概念の導入史とも微妙な関連を持っている。 その経緯を考慮せず単に「著作権」=「作者の美的権利の保護」と考える、あるいは喧伝するのは思考停止でしかあるまい。現在の著作権に関する様々な実践上の問題を複雑にしている、このような美学的概念と法的制度の複雑な歴史的関係を解きほぐすことから「著作権」の原理的な再考は開始されなければならない。 |
《参考文献》 阿部浩二 |
《注》 (注4)この日本語訳は,後で述べるように当時の日本語における訳文であり,今日の語感からは多少の違和感もあるが,法的な言語運用の見地からは変更することが難しく,現在でも制式訳として用いられている。 (注5)現代著作権制度における概念的諸問題の現状については,名和1996,1999,2000を参照。 (注9)木下広次「著作者の権」(読売新聞附録の講演録),1886(明治二十)年十二月二十七日(日本音楽著作権協会編1990:38)。 (注10)旧著作権法を起草した法学博士,水野錬太郎は,この権利概念を法文化するにあたって「創作権」という語も検討したが,著作者の権利が創作権であるか(即ち作者の美的権利の保護であるか)否かは学説上争いがあるとして,当面の便宜的用語として「著作権」の語を採用したと述べる。半田1971:177,注(2)参照。 (注13)荒木はドイツ・ゲッチンゲン法科大学出身であり,吉村保は荒木のこのような浪花節に対する見方を,「ドイツ審美学的見地」に起因するものと推測している。また別の所で荒木は浄瑠璃を指して「芸術音楽」と呼び,その平円盤(レコード)に保護のないことを批判していることから,新興の大道芸であった浪花節に対する荒木の階級的な偏見が,浪花節を「音楽的著作」のカテゴリーから排除する主張の一因となっていた可能性もある。吉村1993:115-117参照。 (注14)実際には,1934(昭和九)年の改正の際,侵害要件のみを定めその解釈に曖昧さを残すこの三十二条ノ三は削除され,「録音物の著作権」として新設された第二十二条ノ七に移されたことによって,レコード製作者の著作権は法文上成立することになる。これは「演奏歌唱」を著作物とする第一条の規定との齟齬を回避し,レコード製作者の権利を明確にするための措置であった。阿部1983:59ならびに阿部1998:8参照。 (注15)このような「著作物」概念のレベル分けに関する混乱は,1970(昭和四十五)年の現行著作権法制定によって一応は収まったと言える。現行法では「演奏歌唱」を著作物(音楽)そのものではなくその実演とみなし,その実演に関わる利害を「著作隣接権」という著作権に準ずる権利カテゴリーによって保護する。がしかし,このような制度的な変容もまた産業的な利害調整と国際的な制度調和を目的にしたものであり,文化的な理念から直接に演繹された概念変容ではない。著作隣接権がレコード製作者にも与えられ,むしろ実際の音楽産業の構造の中では実際に実演を行う演奏家よりも強い権利(一般に「原盤権」と呼ばれる)となっている現状など,音楽産業の現実の経済構造の中では法的な概念が再度流用され,別様の権利システムを形作っているのだが,詳細の検討には他日を期したい。 The Birth of "Chosakuken" in
Music: Satoshi MASUDA The term "chosakuken" was coined to introduce the
Western idea of author's right(droit d'auteur) in Meiji period. "Chosakuken" is
often translated as "copyright," but "chosakuken" is not the exact equivalent of
the English word "copyright." There is a conceptual and institutional conflict
between "copyright" and "author's right" in the intellectual property
system. 増田が提示しておりますところの電子文書論文・発表 |
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