強権著作権は極悪ユダヤ商法、ユダ邪政治の典型である考

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和5).2.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 強権著作権論の由来、政治的背景が次第に見えてきつつある。本サイトで、れんだいこが確認した政治的背景をサイトアップしておくことにする。結論的に云えば、強権著作権論は極悪のいわゆるユダヤ商法そのものであり、それを押しつけようとする意図がいわゆる極悪のネオシオニズム政治そのものである。この観点をしっかり持つことが、強権著作権論批判の構図とならなければならない。我々はかってのイエスと同じく、一刻も早くこの論法を一蹴し決別せねばならない。これが現代政治のいろはのいとならなければならない。

 2008.4.19日、2009.1.26日再編集 れんだいこ拝


【著作権事情その1、著作権規制の政治性考】
 日本の衰退に著作権が微妙に絡んで悪影響を及ぼしている。思えば、些事を大袈裟に問題視し、大事には知らん振りする、政治問題に関心を持たず経済問題のみ関心を寄せる等々の今時の作法の元祖かも知れない。そういう気づきを得たので持論を提供し審判を仰ぐことにする。

 結論から言うと、著作権は極めて政治的な権利であり、軍事防衛費、国債発行、消費税導入、原発開発史同様の生い立ちのイカガワシサ、副作用の悪質さを認めることができる。これを仮に「悪政5点セット」と命名しておく。まずここが踏まえられなければならない。決してキレイごとで済ませられるようなものではないと云うことである。著作権法は純法理論では著作者の権利、人格を守る為の法である。しかし、ここで思考を止めてはいけない。何事もそれが社会的にどう機能しているのかを見定めて評価しなければならない。学問は本来この域にまで関心を持つべきであるが、凡庸学者頭脳の限界によって机上演習だけで事足れりとする癖がある。故に経済学者に現実の経済の舵取りをさせてもうまくいかない。万事に於いて学者の知恵などその程度と値踏みしなければならない。学者のステータスは象牙の塔内では有効ではあろうが、市井に出ると控えめにせねばならないのが弁えの筈のところ、肩書を見せびらかせて偉そうに説教して回る。知愚愚頓の類の阿呆の挙でしかない。本来はこう判ずるべきだろう。

 著作権論を純法理論的に採り上げ論ずることも必要ではあるが紙数を要する。そこで、著作権が実際に社会的に果たしている役割、機能の方に注目し俎上に乗せたい。れんだいこは、これを称して強権著作権論と命名している。強権著作権論は法としての著作権法の域を超えて独り歩きしており、司直がこれを後追いで容認すると云う変な具合にある。丁度、日本国憲法が軍備を禁止しているにも拘わらず自衛隊が存在し、ますます軍隊的性格を露わにしつつ海外派兵を常態化しつつある風潮と似ている。普通には、違憲と云う意味で自衛隊も強権著作権も同様に監視掣肘されるべきであるが共に歯止めを欠いている。日本左派運動圏内では自衛隊に対しては違憲を云うが、強権著作権については逆にこれを推進すると云う頓馬な対応が事象化している。何故にこういうチグハグぶりが起るのか、それは運動主体がニセモノだからであると断じておく。

 以下の本文は長くなりそうなので、あらかじめ結論を申し述べておく。近時、著作権法を生みだしたのも、それを強権著作権の域にまで押し進めているのも、これは或る一定の勢力の仕業によってであり、決して人類の進歩だとか文明の発達に因を求めるべきではない。専ら近世から現代までのここ三百年間を世界支配している国際金融資本シオニストが持ちこんだものであり、彼らが得手にするいわゆるユダヤ商法の類のものであり、一つは新種の財貨蓄積手段として、もう一つはご都合主義的な情報統制として政治主義的に登場してきているものである。強権著作権は国際金融資本帝国主義の世界支配の道具の一つであり、専ら人民大衆の頭脳、精神界を規制する為に生みだされ活用されている。かく客観化させて認識せねばならない。これの論証、それが如何に危険なものかの解析は追々試みることにする。

 その前にどうしても云いたいことがあるので記しておく。れんだいこの趣味の一つは囲碁である。いつの頃か覚えぼちぼちながら楽しんでいる。永らく無料サイトとして「ヤフー囲碁ゲーム」を楽しんできたが最近では韓国系無料サイトの「KGS囲碁ゲーム」の方を愛用している。ヤフーに対してKGSがどう魅力なのか。囲碁を知らない者に詳しく説明しても意味がないので手短に述べることにする。要するに何から何まで韓国系の方が上手くできている、スキルが違うと云うことになる。

 これが著作権とどう拘わるのか訝しく思われるであろうが間接的に大いに関係している。著作権法によれば、囲碁の無料サイトは容認し難いものとなる。故にプロ指導による有料サイトが種々設けられている。これだけだと有料なのはプロの指導料故と云うことになろうが、次のことが説明できない。大手新聞各社はそれぞれ棋戦を持つが、かっては無料公開だったのに最近では非公開に転じ始めている。棋譜の著作権を持つ新聞各社が異常に著作権を振りまわし始めているからであるとしか考えられない。強権著作権派の理論にとっては、棋戦の棋譜が無料で利用されるのが容認できない。故に、利用するのなら事前通知、事前承諾を要す、その許諾として利用対価を払えと云う有料制が敷かれている。これはまさに音楽著作権に於けるジャスラック商法を真似たものと云えそうである。今後においてまさか定石に著作権が及ぶことはないと思うが油断ならない。音楽著作権の分野では既に認められているので、棋界に於いても適用され始める可能性がないとは言えない。そういう怪しい雲行きになりつつある。

 滑稽なことに、日本棋界がこういう強権著作権を受容して以来、それと並行して日本の囲碁棋力が世界的に見て次第に地盤低下ししつつある。今やプロの世界トップは韓国と中国であり、次に日本、次に台湾、次に西側諸国、北朝鮮と云う順位になりつつある。(2024年最新では、日本は台湾に肩を並べられている。追い抜かれるのは時間の問題か?)プロの世界の動向はアマの世界にも反映し、アマ世界棋戦でも同様の傾向になりつつある。これを挽回するには囲碁人口の増大化、囲碁稽古の組織的強化が課題となるが、この方面に於ける日本棋界の関心は弱い。彼らの当面の関心は棋士を養う為と云う名目で、著作権をもっと収入源化しようとする方向に向かっている。非常にチマチマした発想に耽り始めており、発想そのものが相当にズレていると云わなければならない。このまま推移するといずれ、日本のプロ程度の実力なら韓国、中国のアマ高段者で対抗できるようになるかも知れない。そういうお粗末さ、瀕死の重傷事態にある。

 そういう事情を鑑みると、韓国系無料サイトの活躍が断然光ることになる。韓国棋界では、囲碁愛好者の育成に無償の愛を注ぎ続けている。プロが登場し、アマの手ほどきに惜しみない協力をしている。アマ高段者の低段者特訓然り。こうして韓国では無料サイトが推奨され賑わいめきめき実力が向上している。れんだいこの棋力も日本では5段であるが韓国水準では2段にしかなれない。種々愚考するのに囲碁普及に日本ではなぜお粗末なのかが詮索されねばならない。これはコンピューター技術の差ではない。碁界を与る者たちの思想、見識の差であると云わざるを得ない。

 れんだいこが判断するのに、思想、見識に於いて韓国棋界の方が優っている。日本棋界は逆に下手に著作権に被れた分だけ遅れを見せ始めている。この傾向が続く限り日本の棋界の将来が危うい。本来、芸事に問われているのは、それを支える人々の質量であり、量の増大が質を規定している。この公理に対して調和しているのが韓国であり、齟齬しているのが日本と云うことになるのではあるまいか。今後、韓国と日本の差は広がり、日本が再度世界トップの座を奪うことは夢のまた夢と云うことになるのではあるまいか。れんだいこにはそういう哀しい現実が見えている。

 日本棋界の沈没は将来の日本経済の沈没の気がしてならない。そういう意味で、冒頭に「日本の衰退に著作権が微妙に絡んで悪影響を及ぼしている」と述べた次第である。これを論証したい。囲碁は単に囲碁だけの問題ではない。囲碁を通じて鍛えた頭脳、精神の他の分野への応用、撹拌の問題に絡んでいる。これは何も囲碁だけではない。凡そ稽古事の全てがそういう相関関係にある。著作権に被れ過ぎるとると頭脳、精神が殺がれ、その分他の戦線まで悪影響を蒙る。そういう重大事として関心を持ちたい。

 囲碁事情で述べたように、著作権とは優れて思想的な法である。著作権を認めるのはまだしも良いとして、これをどの程度にまで認めるのかにつき叡智を必要とする。著作権化の適用が卑大化し過ぎると本来の文化を逼塞させる恐れがあることを認識し、如何に認め如何に抑制するのかの匙加減に英慮が要求されている。この弁えなしに、著作権を認めるのが文明国先進国の証として旗振り役を務めるのは愚の骨頂であり単なるお調子者でしかない。粗脳故の稚技と心得るべきではなかろうか。れんだいこは、著作権違反はないかと日夜文化の森に徘徊し、著作権槍を持って藪を突いている狩人こそ非文明非先進ぶりを証する態ではなかろうかと苦笑させられている。

 以下、強権著作権が日本文化、日本精神界に如何に悪作用してきたのかを史実的に確認する。但し、いつ書き上げるのかは今のところ分からない。本ブログは「KGS囲碁ゲーム」の素晴しさを伝える為のものであるのでひとまず指筆を置く。強権著作権の悪影響については各自が思いめぐらせ得心するのが良い。間違っても推進派になってはいけない。この結論だけ申し添えておく。

 2012.2.12日 れんだいこ拝

【著作権事情その2、中曽根政権と共に著作権強化発動される】
 日本に今日スタイルの強権著作権が侵入してきたのは1980年代初頭からである。この時期は中曽根政権下であり、中曽根政権と共に著作権強化が始まったと云い換えることができる。以来、2012年までの30有余年、日本に於ける著作権規制強化と共に日本の活力が失われてきた。かく認識せねばならない。ところで、著作権を導入した西欧諸国で著作権規制からの解放が流れになりつつある。これを新思潮とすると、日本に於いては旧思潮の旗振りが依然続いており推進されていると云うバカげた時代遅れを演出していることになる。本ブログがこれの転機になることを願っている。  

 2012.2.12日 れんだいこ拝

【著作権事情その3、強権型著作権論による様々な規制考】
 今仮に田中角栄の日本列島改造論を世に広めるためにサイトアップしようとすると、版権者の了解が要るのであろう。して、その版権者が仮に有料でもサイトアップする意思があるのならともかく、世に広めないために版権を保持しているとする。こうなると、版権の政治性が見えてこよう。これは何も版権者を責めようとしているのではない。責められるべき版権者もいるし、版権者が現代世界を牛耳る国際ユダ邪に萎縮して、商売上得策でないと判断して自主的に再販ないしサイトアップしない場合もある。こういう場合において、れんだいこがサイトアップしたとすると版権者から著作権批判される恐れが強い。この面倒さを避けるためにサイトアップしないとすると、永久に田中角栄の日本列島改造論は世に隠れることになる。これも一種のジレンマだろう。

 確認すべきは、現代の強権型著作権が、こういう風に機能していることである。極めて強度の政治主義性の強い役割をしていることがお分かりいただけるだろうか。この辺りのことを考えずに、著作権者に対する思いやりの見地から著作権違反に口角泡を飛ばして正義ぶる輩が多いが、この手合いには言うて見ても分かりそうにないので、繰り返しては言わない。分かる者が合点して、我々の自由往来型著作権の圏域を広げる為に奮闘せねばなるまい。

 2013。11。18日 れんだいこ拝

【著作権事情その4、強権著作権論の鶴亀理論性考】
 著作権事情その4として、強権著作権派の鶴亀理論性を告発し排撃せよと銘して言及しておく。鶴亀理論とは、鶴千年亀万年の長久生命に照らして、それほどの長期レンジでもって翻って現実事象を測り、逐一を事細かに規制する法理論と云う意味で使っている。強権著作権派の理論がその通りのものである。だがしかし、それは人の一生の短さに照らせばかなり暴利的なあれするなこれするな式の抑圧理論でしかない。以下、このことを確認しておく。

 人間個々の生命は鶴千年亀万年のようなものではない。人の命の実際は細胞の再生可能回数からみてせいぜい寿命120年ぐらいとされている。天理教の教祖中山みきの教えでは「病まず弱らず115年が定命」と諭している。ほぼ同じ年数になる。人の寿命はこのレンジで間違いないと思われる。120年を時間で確認すると、120年×1年365日×1日24時間=105万1200時間となる。これを仮に寿命時間と命名する。寿命時間のうち一日の3分の1が睡眠に充てられるとすると、人の一日の活動時間は1日の3分の2の8掛け即ち16時間がマックスとなる。様々な用足し時間を2時間とすると、1日の有効活動時間は14時間になる。この14時間で120年を計算すると一生が凡そ1日14時間×1年365日×120年=61万3200時間になる。簡略に仮に61万3000時間とする。この間、風邪をひく、腹の調子が悪い、頭痛、事故等々による身上事情による活動休止時間が差し引きされねばならない。これを仮に1割とすると、61万3000時間×0.1=6万1300時間となる。簡略に仮に6万1000時間とする。1日の有効活動時間61万3000時間から6万1000時間を差し引くと55万2000時間になる。これを仮に実質有効活動時間とする。これを日数に変換すると55万2000時間÷24時間=2万3000日になる。これを年数で換算すると2万3000日÷365日=63年になる。このうち3年は親の手がかかる乳幼児であるとすると、人が自分の意志で活動できる時間は凡そ60年、即ち人生60年になる。織田信長が愛好したと伝わる謡曲幸若舞「敦盛」の「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」は、この意味でまことしやかになる。


 人の一生はかくも短い人生60年のうちで喜怒哀楽を経験享受していることになる。留意すべきは、これが人の一生の実質有効活動時間のマックスであることである。この間に、何か修行するものを見つけ、精進し続けるとしても、一日に費やせる時間は実質有効活動時間の半分辺りが相場であろう。とすれば、人が個人嗜好の何事かに打ち込み、精いっぱい目標に向かったとしても、人生30年ぐらいがマックスということになる。人は、この期限の中で、精神性、技術性、芸能性を高めなければならない。だとすれば、何と短く儚い人生かということになる。この「短く儚い人生」の中に強権著作権棒が振り回せられ、何をするにしても手間とお金がかかり、許諾が必要とされたら、何と迷惑なことか。これが、れんだいこの強権著作権反対のメンタル理由である。




(私論.私見)