「享受対価著作権」なぞ有り得て良いのか考 |
(最新見直し2008.3.17日)
Re:れんだいこのかんてら時評256 | れんだいこ | 2007/02/12 |
【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂うその3】 JASRAC問題をここまで考察してみて、官僚の天下り利権構造もさることながら、その背後にはJASRAC構成員である音楽著作権者(いゆゆる作詞家、作曲家等々)の後押しがあり、この圧力こそがJASRAC問題を作り上げている真因ではなかろうかということに気づいた。 彼らも又現行のJASRACに不満を抱いているが、その声を聞き分けると、どこで知恵をつけられたのか何と!自分の著作物が無断利用されるのが我慢ならない、もっと権利主張せよ、取り立てよという類のものである。それは、れんだいこの不満とは正反対に位置している。 彼らの権利主張は、著作物の利用請求権ないしは「享受対価著作権」なるものと了解できようが、最近こういう権利が万展開されつつある。我々は、著作物の利用請求権ないしは「享受対価著作権」なるものに対して原点から考えてみる必要がありはしないだろうか。れんだいこが知らないだけかもしれないがそういう論考にお目にかかったことがない。そこで、いつものように体を張って解析してみる。初見ということで面食らう向きの方も有ろうが、十分に傾聴に値する筈である。 音楽も又いわゆる芸術ないし技芸の範疇で考えることができるが、芸術ないし技芸にこういう「享受対価著作権」なる権利を発生せしめて良いものだろうか。史上、これまではとんと無かった珍しい権利なのではなかろうか。しかも、何故に音楽著作権だけが突出して「享受対価権」を主張し、著作権者はそういう権利を逆享受でき得るのか。この問題の哲学的思想的文明的考察をせずんば事態は何ら解決しないのではなかろうか。誰かこの問題を解ける者が居るだろうか。れんだいこはかく問題を提起たい。 いわゆる芸術ないし技芸に著作権を持ち込み始めたのは何時ごろからであろうか。今日では当たり前の如くに認知され、これに得心するのが文明ナイズの証とでもするような風潮が有るが、そんな遠い日のことではない。たかだかここ百年ぐらいの闖入でしかない。れんだいこの見るところ、最近の全域全方位著作権は変態知のような気がする。この変態知は社会の発達と共に自然に形成されてきたのではなく、意図的人工的異物的に編み出された拝金病に列なる権利の一種なのではあるまいか。それは文明ナイズ化と云う美名で押し付けられつつあるが、文明の進歩ではなく退歩なのではなかろうか。 この変態知的全域全方位著作権論は、丁度、近世から現代にかけて西欧列強が世界を植民地化した際の論理と史実の経緯に酷似している。変態史学はそれを文明化と云い為して正当化して教えているが、真相はまったく違う。西欧列強に植民地化された諸国は、西欧列強の火器と狡知に負けたことは史実であるが、未開であった訳ではない。その国固有の歴史と風土に規定されたそれなりの発展段階を示していた社会を生育させていた。尺度を変えればそれなりに文明ナイズされていたところ、西欧列強の野蛮な収奪により破壊されただけのことである。 彼らは、侵入してきた西欧蛮人の危険性を認識する能力に欠け、道徳的に長け、当初共通して礼節でもてなしたことが判明している。西欧蛮人は、シルクロード史のように東西の文化交流に向かうのではなく、礼節でもてなす連中に対し、文明化と云う名目で懐柔と分断政策で篭絡し始め、彼らが気がついた時には既に遅く反発すれば根こそぎ殺戮された。 被殖民者は、西欧蛮人の狡知に負けたのは史実であるが、彼らを未開人扱いするのは歴史の歪曲であろう。これを未開と云うのなら、文明とは如何に薄汚れた狡猾なものであることか。 れんだいこの目には、昨今の全域全方位著作権振り回しは、この時に征服者側が論拠とした文明化論的正当化の論理に似ている気がする。あの時、原住民側は、そういう文明化は不要と拒絶すべきであったが、耳慣れない新しい概念により騙されてしまった。これを思えば、我々は、著作権万能に向かわせようとしている知とそうはさせてはならないと思う知の対立を知るべきである。我々は、そのどちらに組して物申すのかを旗幟鮮明にせねばならない。 著作権万能に向かわせようとしている知とそうはさせてはならないと思う知について、思うところを述べてみる。著作権万能に向かう知の実態は、現代世界を牛耳る国際金融資本派がこれを推し進めており、いわゆる拝金商法的資本主義化知であり、そこから由来する「知の囲い込み」であろう。そうはさせてはならないと思う知とは、伝統的在来知然りであり、社会主義化知もこれに列なる。知には分岐するレールが敷かれており、我々はどちらのレールに乗り、又はそのどちらの側で理論形成するのかと云うことが問われている。この識別なしの知一般的物差しで全域全方位著作権論を押し進める者は最も貧相な知であり、前者の回し者でしかない。 れんだいこに云わせれば、近時の左派政党が、政論その他著作物に対して排他的著作権を堂々と主張しているのはお粗末の極みである。彼らは口先では資本主義体制を批判しながら、既に著作権論では堂々とたっぷりと社会の一層の拝金商法的資本主義化のお先棒を担いでいることになる。馬脚がこういうところで露われているというべきである。 宮顕−不破系日共党中央時代に、日共の著作権主張が開始されている。彼らの弁舌を聞けば、なるほど既に体制修繕屋でしかなく、云うことと為すことの辻褄は合っている。それなら、党名をそれに相応しいものに変えればよいのに、共産党と云うそれなりの心血と由緒を持つ党中央の座椅子を放そうとしない。あたかも党名を変えぬままこれをやるのが任務としているようである。この落差に気づかぬ者も節穴過ぎよう。 2007・2・12日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのかんてら時評257 | れんだいこ | 2007/02/12 |
【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂うその4】 最近の全域全方面的著作権論は、知的所有権の保護の美名の下で、これまで未踏分野である「著作物の利用に対する課金」を当然視しつつある。これは、著作物に於ける「引用、転載の要通知・要承諾権」の発展系であると思われ、引用、転載の要通知、要承諾の代わりに課金しようというものではなかろうか。音楽著作権がその先鋒を為しつつある。(以下、「享受対価権」と命名する)。最近この種の課金が増えつつあり、リース関係の貸し本やビデオにも適用されつつある。こうなると、公営図書館の貸し出しもいずれ有料化され始めるだろう。 ところで、音楽著作権の厄介さは、音楽が芸術ないし技芸の中で飛びぬけて愛好汎性が高いことに認められる。恐らく音楽は人間の本性の最も深いところに関係しているのであろう。人は音楽なくしては存在しておらず、いわば空気のようなものとして否応無く馴染んでいる。故に、そのようなものに「享受対価権」的関税を設けると、その金額が天文学的にならざるを得ない。つまり利権大鉱脈が出現することになる。 このようなものに「享受対価権」的関税を設けることの適正が問われねばならないにも拘らず、いわばムードでこれが正当化されつつある。れんだいこは、これを断ち切らねばならないと考える。あるいは利権大鉱脈の温床とならない程度に「享受対価権」を徹底して低く抑える以外には無いと考える。なぜなら、音楽も含め芸術ないし技芸はなべて稽古事であり、稽古事教材に使われるのは栄誉であっても、教材自体がカネを産むようなものであってはならないと弁えるべきであろうから。 大衆が自然に愛好する稽古程度のものに金がかかるようでは技芸は普及しない。そういう無償の稽古を経由して、或る段階の習熟度に達した者たちが彼らの世界を作り、中には家元制度を生み、その中で互いの生計を維持する為の工夫をする。それが上手く機能することによって伝統が守られ育成発展する。これまでそうやって成り立たせてきた世界であり、それは何も著作権の世話にならなくても成り立つ。いわば自由、自主、自律的に構築されてきた世界であり、拝金病に冒される必要はない。 この仕組みを思えば、人が任意に芸術ないし技芸を稽古するのは、業界からすれば有り難いと思うべきで、稽古を制約するようなことをすべきではない。それは逆行であろう。裾野形成を怠る者は、ひいてはその世界の衰亡に道を開く者である。これを思えば、芸術ないし技芸のそれぞれの団体は、そもそも稽古を奨励する側に回るべきで、抑圧する側に立つのは背任であり、いわゆる本末転倒である。かく認識すれば、「享受対価権」は、本末転倒であるが故に認めてはならない。 こたび、生演奏ないしはピアノ演奏を売りにする店舗経営者が逮捕されたが、本来は彼らは音楽普及功労者として表彰されるべき側の者である。そういう人物が告訴され逮捕されるという本末転倒を許してはならない。しかしながら、こういう事象が正義として罷り通っている。というか、誰も咎められない。なぜなら、それぞれの職域の者及び団体が今やそれぞれの「享受対価権」的著作権の競い合いをしているからである。これをインテリを自称する者が熱心にやるからお笑いである。 さて、れんだいこ見解の如く「享受対価権的著作権」を否定したとして、では、業界の者は何によって生計を立てるのか、という問題を考察せねばならない。この問題を解くには、「享受対価権的著作権」が発生していない時代の業界人の生計ぶりを考えればよい。果たして、飯が食えなかったのだろうか。れんだいこは、十分ないしはそれなりに食えたと思っている。なぜか。不断の普及活動によって裾野が広く形成されており、そこからそれなりに合理的な収益システムが形成されていたからである。本質的に見て、それで何ら不都合ない。 近時の「享受対価権的著作権」は、目先の利権を掴むことにより、従来の広大な裾野形成による生計システムを破戒し、ファン層を先細りさせている。やがてそれは業界の首を絞めることになろう。それが分かっていながら止められないのは、既に権利中毒に冒されているからである。彼らは、この世の全てのものを権利と義務と金銭多寡で推し量ろうとする。そうしない者を未開人と決め付け、文明化と云う名で教育し直そうとする。果たして、我々は本当に、そのようなもので教育されねばならないのだろうか。そのような文明人にならなければならないのだろうか。 音楽で考えてみよう。歌手、作詞家、作曲家、その他関係者は、作品を拵え、普及せんとすることで利害を一致させている。これが成功するとヒット曲となり、レコードが売れ、出演料が入る等々で相応の報酬が入る。ショーが満席になり、本を出せば売れる。音楽指導料が取れ、ゲストとして招かれることが多くなり、これにますます成功すれば業界の顔役となる。更にヒットを重ねれば更にそうなる。ヒット作を創造できない者はヒット者の前座を務めたり後塵を拝する。それは仕方ないことではないのか。 これが世の倣いであり、それで良いではないか。今までみんなそうしてきたではないか。それを、人が歌えば歌を盗られたとでも勘違いしてかどうか、一曲歌えば幾ら、面積で幾ら払えなどとする神経がサモシイのではないのか。元々言語も五線譜も誰かが発明し無償で提供しているものではないのか。それを使って欲張りするのは如何なものだろうか。どうしてもそうしたいのなら、従来言語、五線譜に代わる自前のものを創造してから言え。それなら理屈が合っていよう。今流行り病のように音楽著作権を主張して、一曲歌えば幾ら、面積で幾ら払えと手を出す者は、どっかで頭脳の配線が狂わされたに違いない。その論を後押しするものが居るからややこしくなる。それだけのことだろう。 れんだいこは歌が好きである。それも音痴と云われる時代からやっと人前で歌えるようになった経緯があってこその歌好きである。次に好きなのは囲碁将棋である。この問題を囲碁将棋の例で捉えれば、棋譜が著作権に値するのだろう。しかし、囲碁将棋があるいは棋士が、棋譜著作権を盾にして幾ら払えなどと請求した事例を聞かない。碁会所に対し、囲碁将棋著作権を主張して対価を要求した事例を聞かない。それは、囲碁将棋界の者が文芸に関する見識を保持しているからであろう。その他文芸界の多くがそうであろう。 しかしながら、世の中に次第に拝金病が蔓延しつつある。何より好きだから飯が食えればいいんだ俺はと云う気分の値打ちが軽視され、カネの上積みこそ我が生き甲斐とばかりな芸術商売家が増えつつある。そういう訳で、利用対価著作権時代が襲来しそうでも有る。しかし、芸術商売家は不思議なことに良い作品を残さない。嫌な時代なってきた。 |
【角川デジックスの福田正社長発言考】 | |||||||||
「『らき☆すた』売れまくったのは 違法投稿が『宣伝』してくれたから」を転載しておく。
|
(私論.私見)