ウィキペディアのコピーレフト思想考

 (最新見直し2006.11.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、「フリー百科事典ウィキペディア」を利用する。ネオ・シオニズム解析には役に立たないが、一般に世の中の分からないことを知るのにとても重宝な事典である。この事典は、世の人々の知的啓蒙に資する為に無料のサービスを提供しているようで、俗にこれは「コピーレフト」思想と呼ばれる。

 次のように記されている。(2005.12.4日現在確認するのに出所元が分からなくなってしまった。以前の記述かも知れない)
 「このプロジェクトは2001年1月15日に英語で開始されました。日本語版では現在までに83728の記事が、さらに他言語版でも多くの記事が書かれています。そして次から次へと人々が記事を加筆・修正し、常に百科事典としての質を向上させています。英語版は既に24万項目の内容が作られています(2004年4月)。共有されているので、参加者が変わっていっても育ち続けることができますから、将来地上でもっとも優れた百科事典になる可能性もあるわけです」。
 「ウィキペディア内の全ての記事はコピーレフトなライセンスのGNU Free Documentation Licenseによって保護され、永久に『フリー』であることが保証されています。詳細はWikipedia:著作権を参照して下さい。ウィキペディア日本語版は、まだ始まったばかりで、こまかい部分の翻訳もまだ終わっていません。あなたも参加しませんか? あなたも是非この価値あるフリーの情報源を楽しく使い、そして得意な分野の項目を楽しく寄稿して下さい

 Wikipedia:著作権を参照すると、概要「コンテンツへの自由なアクセス許可。複製、改変、再配布の規制緩和」を目指しているように思える。次のように述べている。
 概要「一定のルールとマナーを守るなら、他人により作成されたウィキペディアの記事を、あなた自身の本、記事、ウェブサイトその他の著作物(ここでは、以下「当該二次的著作物」と呼びます)で利用することは可能です」。

 これらの試みは、このところとみに進行しつつある自称知識人たちによる全方位全域著作権化に静かなる叛旗を翻しているように見える。近時の傾向は全体としては、活字著作物に対して全域の著作権を認めたうえでの規制緩和的動きにあるので、れんだいこの著作権論とは又違うもう一つの「全方位全域著作権化に対する叛旗」という意味で共同戦線化できるように思われる。

 今やはっきりしつつある。自称知識人サヨウヨたちによる偏狭な知的囲いの悪趣味をそれとして見定め、これに堰止めする有効な手法を確立せねばならない。ふざけたことに、サヨウヨたちは、偏狭な知的囲い趣味化を正義の名において正当化せんとしている。こういう輩がインターネット界にも跋扈している。我々は、断固として、その非を衝かねばならない。そして我らの自由な言論空間を押し広げていく為に共同せねばならない。「知の練磨と共認、共有」は、いわば知の本能であると心得、この本能に棹差す輩に対して、これを知の破壊者として見定め対峙せねばなるまい。

 全く馬鹿げた話であるが、ウヨはともかくサヨまでがこれを推進しつつある。サヨの何たるかのお里が知れていよう。してみれば、政治も宗教も知の啓蒙も、ひねくれ者はひねくれたことにしか夢中になれないという訳か。それなら辻褄は合っていることになる。

 日本左派運動は、真に左派化を望むなら、裾野形成に於いて邪道にしかならないウヨサヨ著作権論ーそれは欲深著作権ないしは資本主義著作権とでも言い換えても良いーと断乎として闘わねばならない。れんだいこはそう思う。

 2004.11.14日、2006.11.13日再編集 れんだいこ拝

【コピーレフト考】
 「フリー百科事典ウィキペディア」が「コピーレフト」思想によるオープンサイトであることは分かったが、では、「コピーレフト」思想とはどのようなものであるのだろうか。これを確認しておく。検索で取り寄せた、「コピーレフ」、「コピーレフトって何?」、「コピーレフト」、「コピーレフト(左著作権)という概念」(2001.10.3日) 」等々を参照する。

 れんだいこ理解に拠ると、「コピーレフト」思想とは次のようなものである。


 現代著作権は、学問的著作の先行的オリジナリティに対する排他的保護を基本原理として組み立てられている。これにより、先行著作者ないしは先行著作物は著作権で保護され、後続の者がこれを無断で利用できないように法的規制されている。この思想及び制度を仮に「コピーライト」と命名する。

 この「コピーライト」に対する「コピーレフト」(copyleft) と呼ばれる思想ないし制度が生まれた。「コピーレフト」は、1984年にフリーソフトウェア財団を設立した天才プログラマと評されるリチャード・ストールマンによって提唱された概念であり、元々はプログラムをフリーソフトウェアにする試みから始まった。ストールマン博士は、現代著作権法的規制に何らかの不便を感じたのだろう、パブリックドメインを排他的なものから開放的なものへ転換させ、非著作権的に誰でもが使えるようにオープンにし、相互に改良を重ねることでプログラムの質を漸次向上させ、その成果をも又相互フリーに共有していく方が「より生産的ではないか、より合理的ではないか」と発想した。

 但し、そのようにして取り込んだプログラムを排他的に著作権化する者が出てこないように次のようにルール化し、これの遵守を誓約する者間で運用しようと提案した。かくて次のような申し合わせとなった。
 プログラム著作権保持者は、そのコピーライセンスを認める。
 プログラム著作権保持者は、販売を含む再配布を許可し、変更(改変)されることも了承する。
 コピーライセンス者は、このライセンスのものをコピーや変更、再配布する時にはこのコピーライセンス条件を変更してはならない。

 リチャード・ストールマン氏の提起したこの手法はその後、プログラムのみならず活字形著作物にも適用されるようになった。その代表的事例が「フリー百科事典ウィキペディア」である。但し、この「コピーレフト」思想を生かす為には、「コピーレフト思想冒涜者」を防ぐ為の対策を講ぜねばならない。そこで、次のような「ルールとマナー」を約定とすることにより、これを守る者間で著作物の成果をフリーに共有できるようにしようとしている。

 れんだいこが理解するところによる整理すると次のようになる。
 「コピーレフト」第一次著作者は、「コピーレフト」後続著作者に対して、著作創造物の使用、コピー、再配布、改変を制限しない。
 「コピーレフト」第一次著作者は、「コピーレフト」後続著作者が改変した著作物(派生物)の再配布を制限しない。
 「コピーレフト」後続著作者は、「コピーレフト」第一次著作者と同様に、改変した著作物(派生物)の使用、コピー、再配布、改変を制限しない。
 「コピーレフト」後続著作者は、「コピーレフト」第一次著作者と同様に、コピー、再配布の際には、全ての情報を含め(ソフトウェアではソースコードを含む)、更なる「コピーレフト」後続著作者に対して、改変した著作物(派生物)の使用、コピー、再配布、改変を制限しない。
 全ての「コピーレフト」著作者は、使用、コピー、再配布、改変のいずれにおいても、コピーまたは派生物にコピーレフトのライセンスを適用し、これを明記しなければならない。

 これにより、「コピーレフト空間」に於いては、著作権法規制に煩わされること無く、著作権規制対象物に対して自由に利用することができるようになる。この試みは、著作権法 (copyright) の法理論を認めつつもその思想と制度の対極に立とうとしているところから、「コピーレフト」(copyleft)と云われるようになった。「コピーレフト」という用語が生み出された経緯について次のように語られている。
 「コピーレフト」という語は1984年にドン・ホプキンスがストールマンに宛てて送った "Copyleft--all rights reversed" というフレーズが元になっている。これは著作権を主張する "Copyright--all rights reserved" の表示に対して二重のシャレとなっている。
 
 「コピーレフト」呼びかけ人は次のように語っている。
 「独占的なソフトウェア開発者たちは、ユーザの自由を奪うために著作権を使う。我々は、ユーザの自由を保障するために著作権を使う。これが、私たちがコピーライトをもじってコピーレフトと名付けた理由です」。

 潮木守一氏は、「オンライン・ジャーナルの可能性と課題」(http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/user/prof/p1ushiogim/experiment.htm#n9)で次のように述べている。
 この「コピーレフト」の思想・価値観は、「コピーライト」の思想・価値観とは一見すると対照的ではありますが、我々の学問の世界では、知識の共同使用はしごく当然のこととして、頻繁に行われてきました。新しいパラダイム、新しい理論、便利な分析手法が現れれば、互いにそれを利用しあってきました。我々は誰かの理論を応用したからといって、その知的生産物の利用対価を請求されることはありません。むしろ、先人達の研究業績に対して敬意を表するために、その研究成果の引用を積極的に行ってきています。その意味では「コピーレフト」という考え方は、我々にとってそれほど異質な考え方ではありません。むしろ親近性の高い考え方です。
  もう少しわかりやすい言い方をすれば、「この知的生産物は著作権で守られています。ですが、この知的生産物を利用したい場合、特に許可は要りません。自由にご利用下さい。ただし、ご利用するに当たりまして、この知的生産物の自由な利用を妨げる行為(例えばその知的生産物に対するコピーライトの要求、或いは第三者にその知的生産物を意図的に与えないようにするというような行為など)は禁止します。」というのが、知的生産物についてのコピーレフトであると言えます。あと、GPLの場合、著作権はGNUにあるらしいのであのままで良かったのですが、一般の知的生産物の場合、そうではありませんので、その情報提供者(=著作権者)の努力に敬意を表するために、わずかな言葉を書き添える、という習慣があります。これに関しましては、十分ご理解いただけることと思います。

 畑仲哲雄氏は、「プレスルームの概略・理念・利用法について」(http://ing.alacarte.co.jp/~press/press.htm)で次のように述べている。
 フリーソフトウエア基金(FSF)という団体を作ったリチャード・ストールマンというプログラマーがいます。彼と親しい日本のソフトウエアハウスの社長と話したときに、こんな話を聞かされました。「リチャードに、フリーソフトウエアって何だ、と訊ねたんだ。すると彼は、それは公園のようなものだと説明してくれたんだな。例えば、僕はブランコを作った、君はスベリ台を作った、あの人は砂場を作った。そこには誰もが遊びに来れるし、気兼ねなく遊具を使える。みんなで力を合わせればとても楽しい公園ができるよね。公園にたとえると、ブランコやスベリ台が1つひとつのフリーソフト。そして、そんなフリーソフトがいっぱいあるところが公園っていうわけ」。この話にはずいぶん感心させられました。誰も彼もが利益ばかりを主張している昨今、心が洗われるような素敵な試みです」。

【「コピーレフト」が生み出された経緯考】
  「コピーレフト」が生まれた歴史的背景事情が次のように説明されている。

 ストールマンがLISP言語のインタプリタをつくっている時に生まれた。シンボリックス社がそのLISPインタプリタを使用したい、と打診してきた時、ストールマンは彼の作品のパブリックドメイン版を彼等に提供した。シンボリックス社はそのプログラムを拡張して更に強力なものにした。そして、彼のもともとのプログラムに対して拡張した部分を見せてくれるよう求めた時に、シンボリックス社はそれを拒否した。

 これは法的にはどうすることもできなかったため、以降のソフトウェアの公開に際してストールマンは、著作権を主張しライセンスに利用する際の決まりを書くようになった。これが、「GNU GPL」や「コピーレフト」へと繋がっていった。


【コピーレフト考】
 コピーレフト(左著作権)という概念」(2001.103日) 」は次のように述べている。

 リナックスの開発者リーナス・トーバルズの「それがぼくには楽しかったから:小学館(1800円),2001年初版」で読んだ「コピーレフト」という概念である。

■同書によれぱ「コピーレフト」という概念はGNUのリチャード・ストールマンが広く使いだしたものでソフトウエアの、「複製や再配布の自由」を主張するもの。コピーレフトの主張は著作権(copyright)に基づいた当然の権利だという。

■さらにリーナスは書く。「…使用許可を与えるとかね。これは、売るよりずっといいぞ。芸術作品を売るのじゃなくて、その作品で何かをする許認可を売り、依然として著作権を持ちつづけることができるんだ。言うなれば二兎を獲てしまうわけ。世界のマイクロソフトがやっているのが、これだ−−−何かを使う権利を延々と売り続けながらも、失うものは何もない。人々がこういう類の財産を持ちたがるのも無理はない。……なんのリスクもないし、たとえその財産に瑕疵があろうとも、なんの責任を負うものではないという旨の使用許諾書を用意することだってできる。……他人の想像力を利用して金儲けをしようという会社。…」

■要するにウインドウズがコピーライト(マイクロソフト)で、リナックスがコピーレフト(リーナス)ということになる。個人の創造力の所産は尊重されなければならないという点では、どちらも同じ立場だ。ただリーナスとリーナスを支えて無償でリナックスを支えている人々は、その尊重というのは金銭によって満たされないと考える。むしろ、現在の著作権(コピーライト)は、利益を再生産するための仕組みであって、創造力はその道具にすぎないと見る。

■今リナックスは、著作権(コピーライト)の枠組みを揺るがしているといわれる。実は新しい技術というものは、常にそれまでの産業や利益構造をくつがえしてきた。モーツァルトはその創造力を財産として蓄積できなかった。むしろ演奏家や写譜屋の方が儲かった。印刷が一般化すると写譜屋が失業した。レコードが発明されると、演奏活動よりレコードの方に利益が移行した。そしてCDは、音楽のぬくもりを失ったし、多人数の技能を必要とする演奏を産業化対象から除外してしまったが、圧倒的なローコストによって大量消費を誘発することに成功した。たとえばたった一人の少女の金銭を求めているのではない創造力を事業として産業化することに成功した。パラサイト産業である。

■それが、今ナップスターを先兵とする新しい技術の攻勢に対して、その既得権を法律だけをよりどころに守ろうとしている。実は音楽は産業ではないという、本来的なことをナップスターは言っているにすぎない。ナップスターは、売りたい音楽、売れそうな音楽ではなく、訴えたい音楽という音楽の原点に戻りうるチャンスになるかもしれないのだ。だれでも、自由に音楽を発進できる仕組みとナプスターを捉えればいいのだ。そすうれば、音楽界にもリーナス的才能が現れるに違いない。

■ライト(右)は自己の創意に権利を主張し、他をそれによって拘束する。レフト(左)は自己の創意に敬意を求めるが、他をそれによって拘束しない。自由な価値観である。我々左利きもかくありたい。そしてビル・ゲイツがウインドウズに「コピーレフト」と表示して、そのソースをオープンしたら、彼はそのうらやむべくもない生活以上のものを得るだろう。そして彼は決してしない。それを価値観の違いという。そのビル・ゲイツが左利きとくるから話がおかしくなってしまう。

 「Wikitravel:旅行者の役に立つコピーレフトなコンテンツ 」(著者: MisterBad、日本語訳: yomoyomo)は次のように述べている。

 以下の文章は、MisterBad による Wikitravel: Functional Copyleft Content for Travelers の日本語訳である。

 我々に必要なのは、トラベルガイドのバザールモデルだったのだ――つまりそれは、何万人もの旅行者が、レストランの批評、観光リスト、ホテルガイド、そして時刻表を追加、削除、拡張する手段である。こうした旅行者は、毎日ガイドに載っている情報の実態に気付いて――そしてそれを呪って!――いるんだ。だったら、どうしてついでにガイドを訂正しちゃいけないわけ?

 僕には Wikipedia の経験があったので、当然コンテンツ整備を行うのに、Wiki にコピーレフトを組み合わせたモデルで解決できると思った。もちろんだけど僕達は休暇中だったので、しばらくは身が落ち着かなかったのだけど、一旦安定したところ――2003年7月にモントリオール――に戻ると、いくつか Wiki ソフトウェアをインストールし、実験を始めたんだ。

 それはたちどころに評判を呼んだのだけど、それにはちゃんと訳があった。僕達は、1972年にケンブリッジで得ることができたのと同じ古典的なハッカー主義に近い文化に入り込んでいたのだ。独立心の強い旅行者は、多くの意味でハッカーによく似ているんだ。以下に挙げる、共通するニーズとモチベーションを持っているというわけ。

  • 旅行者には、知識を共有する文化がある。駅や空港やレストランやバーなんかで旅行者同士が出会えば、彼らは自分たちが行ったことのあるところについての情報を共有し、行き先を尋ねる。旅行者は、自分たちが行ったことのあるところについての情報を共有することに心地よさを――誇りさえも――感じるんだ。
  • 旅行者の価値とステータスは、何を知っているかで決まる。ある目的地について知れば知るほど、つまり、旅の知識を深めるほど、真剣に旅をしていることが見た目にもより明らかになる。知っている行き先が多くなればなるほど、つまり、旅の知識が広がるほど、津々浦々旅をしてきたこと、旅が日常生活の重要な位置を占めていることが見た目にもより明らかになるのだ。
  • 旅行者は、権威を信用しない。いわゆる「オフィシャルな」情報に痛い目にあったことのない旅行者は、僕達同様世界中どこにもいない。たとえそれが――例えばレディングがサンフランシスコやロサンゼルスと同じくらい魅力的な旅行先だと書くよう強いるような政治的影響力から免れない――公共機関による情報ではないとしても、データに「資金援助を行う」ホテルやレストランが最良の批評を得、リンク位置を優遇されるような、自分を一番高く買ってくれる人を期待する、民間からの情報だったりする。
  • 旅行者は、どんな権威に認められることよりも(その権威が旅行者の世界におけるどんなものであれ)、仲間に受け入れられることにより大きな価値を置く。


【コピーレフトと似て非なるもの考】 
 現在、「コピーレフト」以外にも「似て非なるもの」が生み出されている。これについて分かりやすい解説が無いので、れんだいこ的に無理矢理理解すると次のようになる。右から左へこれを見ていくと、 1・オープンソース、2・BSD、3・X Window System、がまず右に位置する。次に、4・「フリーソフトウェア」(Free Software Foundation、FSF)、5・クリエイティブコモンズ、6・コピーレフトという順に左傾化している。

 オープンソースや、BSDX Window Systemには、思想的な共有性は無く、現行著作権制度下での「自由性」を求めたもので現行著作権法をやや左傾化させた手法とみなせる。「現在のライセンス保持者の自由を最大限にしたもの」と評されている。

 「コピーレフト」と似て非なるものに「フリーソフトウェア」(Free Software Foundation、FSF)というものがある。フリーソフトウェアと「コピーレフト」の類似と相違について次のように説明されている。 れんだいこ理解に拠れば、制限のない共有と共同的な創造活動をおこなうのに、著作物をパブリックドメインにおいて、独占的な状態への移行を許さない共有的な仕組みが「コピーレフト」であり、「コピー/改変した共有物を共有的な状態から、独占的な状態へ移行させる事を一定の条件の元に誰にでも許すパブリックドメインに近い仕組み」が「フリーソフトウェア」である。

 即ち、「フリーソフトウェア」は、オープンソースや、BSDX Window Systemを更にやや左傾化させたものであり、「コピーレフト」はこれをもう少し左傾化させたものと見ることができる。「コピーレフトでは今後のライセンス保持者の自由を最大限にしたものだと考えることができる」と評されている。

 更に、「クリエイティブコモンズ」と云うものがあり、「コピーレフト」を少々気難しくさせている。1・自由な利用、2・コピーレフト制限、3・非営利限定の組み合わせより成り立ち、原則的に全てにおいて「帰属」に拘り、「利用者は、知的コンテンツ作成者を、作成者が指定する方法で紹介する義務がある」とのことである。「コピーレフト」をやや右化させたものが「クリエイティブコモンズ」のようである。

 
次の文章は、れんだいこには分かりづらいが何か重要なことを教えてくれるように思われるので引用しておく。

 最初に作られたコピーレフトを実現するライセンスは、コンピュータソフトウエア向けのライセンスとして作られたGPLであるが、ソースコードが何であるかを定義すれば、ソフトウエアに限らず写真やウエブページなどの一般的な創作物に適用できる。GNU GPLは、特に文書としての扱いをいろいろと指定出来るようになっている。

 ソフトウェアではなく特にマニュアルや、教科書といった文書などをコピーレフトな共有物として扱うためにFSFにより作られたコピーレフトなライセンスはGNU FDLである。

 フリーソフトウェアをはじめ、知的著作物が自由に複製、研究され、他人による改変を受けることが社会にもたらす独自の利益がある、という考え方に特に注目して、オープンソースという呼び名も使われているが、思想的な背景は別になる。

 これは典型的な商業ソフトウェアが制作・流布される際に、複製や内的構造の研究や改変が禁じられているために、既存のソフトウェアを改良して新しい、より優れたソフトウェアを開発する可能性が閉ざされている、という点を考えるとわかりやすいだろう。

 このような共有、共同的創造作業のための著作権の利用は、(コピーライトに対する)コピーレフトとも呼ばれ、それによって保護された著作物はオープンコンテントとも呼ばれる。しかし、コピーレフトはコピーライトを否定するものではない。現状のコピーライトの使われ方が、著作と著作者の保護を越えて独占することに重きが置かれているため、コピーレフトは、共有を前提にした著作と著作者の保護として捉えることが出来る。

 ウィキペディアはGNU FDLにより保護されているコピーレフトであるため、不特定多数の参加者により作られた結果が将来に渡って共有されることが保証されている。詳細はWikipedia:著作権を参照のこと。


【「コピーレフト」のれんだいこ的例え考】
 れんだいこの気づきはこうである。例えば、雪道通交を考えてみれば良い。この場合、道路をコミュニケーション往来、雪を著作権規制と仮定する。降雪地帯では往来がままにならない。そこで、凍結防止剤が撒布される。これが一の試みである。次にシャベルカーでの除雪作業がある。これが二の試みである。次に、車道のある車線を全自動降雪防止道にしておく。これが三の試みである。次に、全車道を全自動降雪防止道にしておく。これが第四の試みである。「コピーレフト」とは、この第三の試みではなかろうか。さて、「コピーライト」とは、どういう試みになるのだろう。雪道にクマが寝そべって分けの分からないいことを勝手に吼えている構図ではなかろうか。

 2005.12.7日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)