出版書とウェブ書との相関関係考

 (最新見直し2010.07.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこの著作権独白ブツブツ。何でみんな世間を狭くしようとするのかなぁ。ネット生み出しても、その文明の利器の本来の機能を阻害しようとばかりしている。自称知識人たちはある種ネットのラッダイト運動してるんではないかなぁ。

 2004.8.25日 れんだいこ拝


【出版書とウェブ書との競合関係、相関関係考】
 出版本(仮に「BOOK」とする)とインターネット本(仮に「NETBOOK」とする)の競合関係について考察してみる。通俗的に考えられているよりは案外と相補関係にあるのではなかろうか。

 れんだいこは、ある人を知る場合、その人の書庫に並ぶ書籍を見てその人の程度を理解する。書籍が単に多いというだけでなくむしろ如何なる関心方向の如何なる書物を蔵しているのかが興味深い。

 それはともかく、インターネットの普及は、従来の書庫革命を起していくのは必至ではなかろうか。という意味は、他愛ない内容のものはインターネット情報で十分であるからである。今後、インターネット空間の情報はますます整備されていくことになろう。ということは、今後の書庫には、インターネット情報ないしは「NETBOOK」から選りすぐりのものが抽出されて並んでいくことになるように思われる。これは時の勢いというもので、これに棹差すのはラッダイト運動でしかなかろう。

 そういうご時世であるが、「BOOK」は「NETBOOK」に丸ごと吸収されていくだろうか。れんだいこはそうは思わない。なぜなら、「BOOK」には「NETBOOK」では味わえない幾つかの良さがあるからである。手軽に持ち運びができ、何処でも読むことができ、傍線引き、書き込み、めくりが自在だからである。これは「BOOK」ならではのものであり、「NETBOOK」では味わえない。

 だとすれば、「BOOK」と「NETBOOK」とは単に対立競合するのではなく、それぞれの良さの棲み分けの中で相補関係を形成することができるのではなかろうか。そういう方向にリードされていくべきではなかろうか。

 近時地球資源の枯欠が云われ始めている。「BOOK」の原材料である紙パルプは森林資源と直結している。それらの有限性を考えると、何回も読み直したい最良書が「BOOK」化され、その前段階の情報が「NETBOOK」化されるということで良いのではなかろうか。そういうバランス感覚が望まれているように思える。

 付言すれば、「NETBOOK」に親しむ層を圧倒的に生み出すことがひいては「BOOK」購入に繋がり、つまり「量が質を規定する」のではなかろうか。従って、「BOOK」出版元は、まず活字に慣れ親しむ層の形成へ向くことが商売持続と繁盛の秘訣であり、だとすれば「NETBOOK」を徒に敵視するものではなかろう。

 この観点に立てば、ネット情報の通行往来こそもっと目指せということになる。規制の網を掛け合った結果、ネット情報も含めて活字離れが進行しつつあるように見える。それではいかんのだ。一朝一夕には育たない頭脳のシワを増やしていくことが人を図書館へ本屋へ出向かせ、購入に繋がる。これを信じないとあかんわな。

 何やら小難しい理屈をこねて、しょうもない駄文の引用がどうの転載がどうの、誰に断ってリンクしただの聞くと、「小人閉居して不善を為す」の例えを思い出す。アホはどこまでいってもアホなんかいなぁ、とか思う。そういうアホに限ってムズカシウしてるわな話も中身も。違うって、思想は往来の為にあるの。限りある命を花咲かして諸事万事有益なことを次代の世代へ繋げていくのが人が生きる意味なの。それを遮断する方向へ知恵を使うのは歴然本質的にアホなの。

 人は鶴亀と違って千年も万年も生きられない、稼動人性は僅か五十年、それも脂の乗っている時はその半分の二十五年なの。著作権持ってあの世へは行けないの。子孫がもらってもあんまり役立たないの。出回って何ぼなの。脂の乗った二十五年のうちに通行往来来来軒目指す方向で知恵を湧かすの。影響力の掛け合い、それが人が生きている値打ちであって確かな意味なの。そういう意味で人は本質的にコミュニケーション目指す生き物なの。ならばそれに即するのが自然なの。

 権利権利と云うけど助け合い精神に支えられて初めて意味を持つ。類的共同性に目が行かないままの天上天下唯我独尊、ひれ伏すなら説いて聞かせよう的権利つうのは若かりし頃の釈迦の考えで、そこを抜け出したところからいわゆる仏教思想が生まれた。この見地は今に有効で、西欧思想も学ぶべきなの、まっ西欧思想つうてもいろいろあるから一概には云えないけど。と思うれんだいこのこの考え違うやろか。

 「出版書とインターネット書との相補関係考」したかったんだけど、こんなところへ話が回ってしまったわ。

 2004.8.25日 れんだいこ拝
 出版本(仮に「BOOK」とする)とインターネット本(仮に「NETBOOK」とする)の競合関係、相補関係に参考になる話を書き留めておく。2010.7.8日付け毎日新聞のコラム「余録」に次のような話が出ている。
 「昭和初めの相撲界の沈滞は目をおおうものがあった。早慶戦など野球人気が高まるのに対し、看板の常ノ花・宮城山の両横綱の取組も客席の空きが目立った。資金難で力士の退職金支払いも滞り、元小結の訴訟が注目される始末だった。▲そんな時に舞い込んだのがNHKの前身、東京中央放送局からのラジオ中継の要請だった。『放送を許せば、寒い思いをし、木戸銭を払って両国まで来る客がさらにいなくなる。』 大方の年寄たちは顔をしかめたという。▲だが、六代目出羽海は『ラジオで好勝負を耳にした人は国技館にも来る』と主張、ほとんど独断で中継を許可した。背景には『このままでは相撲は消滅する』という強い危機感があったという。出羽海の予想通り、場所は後半には大入りとなり、相撲の人気は再生した。▲振り返れば、窮地の大相撲を救った(のは)中継放送である」(NHK編「20世紀放送史」)。

 上記文は、「余録」の執筆者が、2010.7月の大相撲名古屋場所前の相撲界の野球賭博事件によるNHKの生中継中止措置決断に対してコメントしているくだりである。れんだいこは、この一文を出版本(仮に「BOOK」とする)とインターネット本(仮に「NETBOOK」とする)の関係でなぞらえたいと思う。さしずめ「BOOK」派は「放送を許せば、寒い思いをし、木戸銭を払って両国まで来る客がさらにいなくなる」と主張する連中であり、「NETBOOK」派は「ラジオで好勝負を耳にした人は国技館にも来る」と見立てる派ではなかろうか。

 どちらも大相撲を愛している。「BOOK」と「NETBOOK」の関係で云えば活字文化を愛している。問題は、NHK中継放送に対して、これを楽観的に受け止めるのか悲観的に受け止めるのかの差にある。「BOOK」と「NETBOOK」の関係で云えば、「NETBOOK」が「BOOK」を排撃すると受け止めるのか裾野を広げると受け止めるのかの差にある。楽観派、積極派が必ずしも正しいとは限らない。常に個別判断せねばならない。この見立てが眼力、能力であろう。これが問われている。

 NHK中継放送の例では、中継放送は大相撲の観客動員を妨げなかったし、むしろ相撲人気を高め客を増やす効果を伴った。この類推で云えば、「NETBOOK」は「BOOK」の出版と販売を妨げないし、むしろ活字文化を高め客を増やす効果を伴うのではなかろうか。従来の「BOOK」のうち、資料的な面は「NETBOOK」に譲り、著者の見立てや評論により多くの紙面を費やすようになると云う変化を蒙ろうが。この変化を遂げた後の「BOOK」の価値は更に高まり、既成の読者層を練り、新たな読者層を生むのではなかろうか。これが、「BOOK」と「NETBOOK」の競合共存相補関係だろうと思う。

 こう見通すべきところ、既成の出版界の対応は、かなり頑迷過ぎるように思われる。これは、引用、転載の場合も然りで規制するのは邪道、ルールとマナーを守ればむしろ歓迎とすべきではなかろうか。この呼吸が分からない手合いが多過ぎる。

 2010.7.10日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)