JVCA問題検察捜査考

 (最新見直し2009.3.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2008.5.28日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評673 れんだいこ 2010/02/20
 【ジャスラックに続くビジュアル著作権協会の跋扈に対してマンザイ】

 2010.2.18日、毎日新聞が、ビジュアル著作権協会が検察の捜査を受けている模様との記事を配信している。それによると次のように報じている。(他の新聞が採り上げているのかどうかは分からない)
 
 「著名な作家らの著作物使用の許諾代行をしている株式会社「日本ビジュアル著作権協会」(東京都新宿区)が、作家らを原告とする著作権絡みの訴訟を提携先の弁護士にあっせんし、賠償金の一部などを報酬として得ていた疑いのあることが関係者の話で分かった。弁護士以外が報酬目的で法律事務をあっせんするのは非弁活動として弁護士法で禁止されており、検察当局が同法違反容疑で捜査している模様だ」。

 これを解説すれば、ビジュアル著作権協会は日本音楽著作権協会の例に倣って、出版社などの学習教材に著作物の2次使用を許諾するかを会員に確認し、代行するのを主な業務としている。これにより、著作権侵害がないか出版物その他に目を光らせ、管理著作物の「無通知、無承諾、無料使用」を見つけるや、該当会員に委任状を求め、担当弁護士を配置し会員を原告とする損害賠償訴訟を東京地裁などで起こしている。現在までに約20件提訴し、一部は和解が成立している。

 毎日新聞記事は、この問題を著作権強権化の最新事象と捉えず、同社の賠償金山分け高額報酬が弁護士法に違反する疑いがあるとして採り上げている。本当はここに問題がある。みんなが考えなければならない文明問題がある。それはひとます措いて毎日見解に従う。それによると、

 弁護士法第72条は「弁護士又は弁護士法人でない者は、報酬を得る目的で訴訟事件、非訟事件及び審査請求、異議申立て、審査請求等行政庁に対する不服申立事件その他一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務を取り扱い、又はこれらの周旋をすることを業とすることができない。ただし、この法律又は他の法律に別段の定めがある場合は、この限りでない」、第27条は「弁護士は、第七十二条乃至第七十四条の規定に違反する者から事件の周旋を受け、又はこれらの者に自己の名義を利用させてはならない」と記している。

 ビジュアル著作権協会の訴訟活動は、これに抵触するのではないかとしている。同協会には非弁活動の「前科」があると云う。1999(平成11)年、協会自らが会員作家を代理して、教材会社6社に対し出版差止請求訴訟を起こしている。ところが、教材会社側から非弁活動だと反駁され、第1回口頭弁論の際に自ら請求を放棄する旨を述べて終わりにしたという経緯がある、とのことである。
(ttp://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt/47586734.html)。

 さて、れんだいこ見解を述べておく。こたびの毎日新聞記事は、ビジュアル著作権協会問題を取り上げたことに意義がある。但し、れんだいこは、同協会の弁護士法違反云々には興味がない。れんだいこが注目するのは、司法が後押ししする強権著作権論によって我が社会が次第に窮屈にされつつあることに対してである。この尖兵を日本音楽著作権協会ジャスラックが果たした。ビジュアル著作権協会は文芸版だと思えば良い。

 今や、著作権法の解釈−具体的適用に於いて強権著作権論が花盛りである。法論理的には、新聞協会も出版協会も放送協会も音楽著作権協会も文芸協会も皆同じで、著作物の「無通知、無承諾、無対価」利用を認めない。違いかあるとすれば、ジャスラックとビジュアル著作権協会が「無対価」に対して有料対価を求めて精力的に訴訟に持ち込むのを得手としている相違でしかない。

 ビジュアル著作権協会の訴訟で話題を蒔いたのは確か、大学入試問題に採り上げられた誰かの文章に対して、著作権法違反であるして損害賠償請求訴訟を起こした時であったと記憶する。強権著作権論者はこれを是認し、大学側の著作権無理解を嗤った。れんだいこは逆に嗤う。

 仮に、れんだいこ文が大学入試問題に採り上げられるとすれば名誉なことであり、大いに箔がつき、れんだいこと文の絶大な効果を持つ無料広告であり、喜ぶことはあれ断じて無断使用許すまじとして訴訟を打つことはない。同じ事態を迎えて、なぜこうも対応が違うのだろうと思う。

 人は、れんだいこをアナログ人間だと云うのかも知れない。それならそれで結構だ。変態的なデジタル人間になろうとは思わない。本来なら、こういうことは物別れで済むのだが、著作権問題はこれでは済まない。一方的に訴訟を打たれ、勝手にかなり高額の損害賠償金が課され、借りた金でもないのに利息が発生させられる。これをグル司法が後押しするから勝てない。

 裁判でオカシイではないかと訴えても、判事も原告も聞く耳を持たない。なぜなら既に判例が出ており、全てが全て強権著作権論派の云い分が認められている。しかし、裁判と云うのは法を争うところだろう。著作権法によれば、一定のルールとマナーを守れば引用転載可と書いているように思えるではないかと問うと、そういう原理的な判断はしないだと。あなたの主張は特異で変わっているだと。つまり、司法の場が司法判断を避け、ハンコを押すように判例に倣い過ぎている。これを反省する気持は微塵もない。オカシナことであろう。

 れんだいこはやはり何か違うだなと云う気持ちを持ちたい。我が社会は著作権病魔に侵されつつある。我々は植物人間にされつつある。あるいはゆでガエルのように眠らされつある。こういう気持ちは普通は詩人が得手とするのだが、あぁイケナイ詩人がビジュアル著作権協会の広告塔の顔だとさ。住みにくいったらありゃしねぇ。漱石先生、どう思うかね。

 2010.2.20日 れんだいこ拝






(私論.私見)