ハンドルネーム匿名挨拶是非考

 (最新見直し2015.06.249日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2006.9月現在何度も体験したことをこの辺りで検証してみたい。それは、れんだいこというハンドルネームに起因しているのであるが、仮にれんだいこが著作権がらみの挨拶でメールを送った場合に、相手から「名を名乗れ」と難詰されることがしばしばある。こちらは何も、相手先に売り込みしようとしている訳ではない。最近の著作権論によると、被引用、被転載者に対して承諾取り付けることが望ましいとのことであるので、それに従っているまでのことで、れんだいこの考えは違うが無用な摩擦を避けるために挨拶メールを送っているというのが実際である。好意的に紹介している場合もあれば逆の場合もある。文面は決して失礼なものではない。

 ところが、承諾云々の前に「名を名乗れ」とくる。どうやら、「実名告知」がこれまた要件になっているらしい。これをクリヤーすると、はたまた何ぞのハードルが待ち受けているのか知らん。気難しい者は、一つハードルを越せば次のハードルを設け、どんどん小難しくしていくのだろう。そうして自縄自縛に陥るのだろう。れんだいこには容易に見えることである。そういう訳で、「実名を名乗れ」は果して正当な要求だろうか、これを本サイトで検証してみたい。

 2006.9.19日 れんだいこ拝


【ハンドルネーム考】
 ごく普通に考えて、ハンドルネームというのはどういう意味目的で使われているのだろうか。恐らくそれは、インターネット通信媒体の性質機能を踏まえて生まれているのではないかと考えられる。即ち、見ず知らずの者が互いに氏名、身分、身元確認なしに情報交差の遣り取りそのことに意味を見出して、利用しあおうとするところからハンドルネームが生まれているのではなかろうか。インターネット通信はこれに打ってつけの媒体である。2チャンネル当りで「名無しさん」が共有されているのは、こういう事情によるのではなかろうか。

 れんだいこは「名無しさん」を使うことはないが、それが良いとも悪いとも思わない。「誰がよりも何を」を重視する情報共有の仕方を大事にしたいと思っている。れんだいこはハンドルネームを当初「れんだいじ」と名乗った。或る時、「れんだいこ」も面白いと思い、今は「れんだいこ」で通している。別に「れんだいじ」を捨てた訳ではない。ヤフー囲碁の場合、ハンドルネームは確か5つまで認められている。たくさん持つことで悪用される場合もあるが、善用もあり一概に良し悪しは云えない。いずれにせよハンドルネームを持つことは楽しいことであって逆ではなかろう。ハンドルネームの他にも芸名とかペンネームというのがある。本名が親から貰ったものに比して、ハンドルネーム、芸名、ペンネームの場合には自分が納得して使用し始めたものだから、これはこれで本名と又違う愛着がある。れんだいこはそのように考えている。

 ところで、実名とハンドルネーム、芸名、ペンネームの使い分けは、その人の自由、自主、自律的基準に任されていると云うべきではなかろうか。仮に挨拶メールを送るとして、要件だけ記す場合もあれば、メールを送るに至った事情まで記す場合もあろう。それは、送り手の自由采配のことで、送られた側が何かと要求すべきことであろうか。れんだいこの場合、知らぬ者から長々としたメール文送られてくるのは迷惑な場合さえある。簡潔に要点を記したもので十分で、双方が更に交流しようとすれば、それから追々自己紹介していけば良いのではなかろうか。その方がよほど実践的と思っている。
 以上を踏まえて、以下の考察に入る。れんだいこは、掲示板でもメールでも、やりとりりする場合にハンドルネームで行って悪いとは少しも思わない。ところが、「私の本命は誰兵衛で、凡その素性はかくかくしかじか」と名乗れ、名乗らないのは非礼であると云う者がある。しかし、そういう事を要件とすべし論を唱える者は、インターネット通信媒体の性質機能を弁えない、むしろこっちの方が失礼者ではなかろうか。次のように云う。
 「まず、あなたはいったい何者なのですか? わたしは長年ジャーナリズムに携わってきた人間として、基本的に匿名者を信用しません。まじめに論じようと思うな ら、みずからの素顔を明らかにすることが最低の初歩的前提だと思います。匿名というお面の陰に隠れていたのでは、まじめにお相手することはできません。こんにちの日本には、まだ匿名でなければ論じられないような危険はありません」 。
 「私信ならばお名前ぐらい明かしたらいかがですか 。闇から鉄砲を撃つような人とつきあってられません」。
 
 云っている本人がマジメにそう云っているだけに始末が悪い。共通して気難し屋で自惚れがあるのではないかと思っている。れんだいこに云わせれば、当人はいっぱしのジャーナリスト気取りであるが、それほどの者ではあるまい。既成のジャーナリズムが貧困すぎる故にれんだいこ的活動が必要となっている訳で、そのれんだいこの眼から見てなるほどのジャーナリストがそう多く居る訳ではない。むしろ全く貧困である。ここを弁えず、何やら偉そうにするから、本旨より形式を、本音より建前を重視するから余計におかしくなっているだけのことではないのか。そういう連中が左派気取りで弁論界に陣取っているから、ジャーナリズムの質が向上しないのではないのか。もっとも、左派のみならず右派にも中間派にもどこにでも居るであろう。要するに、気難し系の論法であるということである。

 当人は、手前の主張が気難し系特有の論法であることを知らずに常識ぶるから始末が悪い。それにしても、全域全方面著作権論がかような「ハンドルネーム批判」にまで立ち入ろうとしている実態を知った。「通知、承諾要す論」の背後にある際限のない制限を知ったことになる。漬ける薬がないとはこのことだろう。

 2006.9.19日 れんだいこ拝

【インターネットに規制問答に於ける「ホリエモンとひろゆきの論破祭の観あり」考】
 「キャリコネニュース」の2015.6.23日付け「ネット犯罪はホリエモンやひろゆきのせい? TVタックルで大激論」を参照する。

 テレビ朝日の「ビートたけしのTVタックル」(6月22日放送)に元ライブドア社長の堀江貴文氏と、2ちゃんねる開設者である「ひろゆき」こと西村博之氏が出演。インターネットに規制が必要とする賛成派と、「規制は無理」という両氏との間で激論が交わされた。興味深い内容になっているので、これを確認しておく。

 まず規制賛成派の紀藤正樹弁護士が提案したのは「インターネットの実名化」。発言者に責任感をもたせれば、悪質な書き込みなどが減るという主張だ。韓国では2007年に導入され、ユーザー登録には実名のほか、住民登録番号を明記するなど本人確認を義務付けている。これに対し、ひろゆき氏は「韓国でも犯罪減っていないので。結局意味がない」とあっさり言い切り、堀江氏も「実名だろうと、昔からバカなことをやるやつはいる。有効な対策に成り得ない」と同意した。これに反論したのが評論家の古谷経衡氏で、「ネットの生放送や動画によってユーザーを巻き込む形で快感を得ている」と指摘した。これに対し、ひろゆき氏は、「それはあなたの感想ですよね」とバッサリ。谷口氏は「まあ…そうですけど、実際にそういう事例はありますよね」と弱々しい口調になってしまった。ひろゆき氏は、実名制を日本で取り決めても、Googleなどのサーバーは海外なので意味がないと指摘。「今まで通り普通に使うと思いますよ。日本のサービスが使われなくなるだけ」と結論づけた。規制派が「スマホで成績が悪くなる」と言えば、ひろゆき氏は、「そもそも買い与えなければいい」とやりこめる。「YouTuberはオリジナリティがない」(古谷氏)との批判にも「ウソ言わないでくださいよ! ぼくニコニコ動画の管理人やってたんで。僕の方が詳しい」(ひろゆき氏)と言われれば返す言葉はない。テレビに映るそんな様子を見たネットユーザーからは、「ホリエモンとひろゆきの論破祭」との声が上がっていた。

 「ネットいじめで傷つく人がいても、何を書くのも自由だと思いますか?」という司会の阿川佐和子からの質問に、堀江氏は「僕やられてる方なんで。慣れました」とかわす。紀藤弁護士は「ネットいじめは裸の写真が載るなど、プライバシーが完全にさらされる。質的に違う」と主張したが、ひろゆき氏はこう応戦した。「質的に違うというなら、ネット以前とネット以後のいじめ件数を比較しないと。もともといじめで死ぬ人はいっぱいいたわけで、『インターネットができたから増えた』というデータでもあるんですか」。これに松本議員は「そんなこと、子ども亡くした親御さんの前で言えます?」と嘆くように言うと、堀江氏が感情論だとして非難。強い口調で主張した。「被害者感情ばかり聞いていたら、規制強化が進むんです。そうやってあなたたち議員は世の中を息苦しくしている。もちろんかわいそうですが、それとは別の議論で考えなきゃいけない」。すると脇から古谷氏が、皮肉めいた口調で「それはインターネット黎明期に活躍されていたお二人が、質の低いユーザーを放置していたからじゃないですか」と添えた。これに堀江氏は「俺たちのせいにしないでくれる? 意味わかんない」と不快感をあらわに。それでも、ひろゆき氏が冷静に、「それはそういう風にしか理解できない知能の問題ですけどね」と思い切り毒を吐くと、堀江氏は溜飲を下げた様子だった。

 論戦は意見の相違どころか、会話が噛みあわない場面すら頻繁にあった。「ネットは犯罪の温床! 規制しなければ」とする規制派と、「そもそもネット以前から犯罪もいじめもあり、犯罪者がそれを利用しているだけ。リテラシー教育と警察の捜査能力の低さが問題」とする反対派。とにかくネット知識の相違が両者の間で著しく、規制派たちが何を言っても知識でかなわない上に、弁護士よりも弁が立つ二人に抑え込まれてしまう。堀江氏らの意見は多くは正論だったが、上から目線でやりこめているだけではと感じた部分もあったので、規制派にもう少し強敵を揃えてもらいたかった。(ライター:okei)

(私論.私見)

 この問答をどう捉えるべきなのか。実際はそうは難しくない。要するに、言論域が広がるように考えるべきで狭める方向で対処するのは間違いであると云うスタンスが確立されておれば良い。即ち、実名登録のフェイスブックとハンドル名登録のツイッターが共存している如く、実名でもハンドル名でもインターネット空間に登場できるのが望ましい。仮にハンドル名による被害が現れれば、それに対処する有効な方法を編み出せばよい。決してハンドル名禁止に向かうべきではなかろう。

 今現在の問題は、実名登録のフェイスブックとハンドル名登録のツイッターを使い分けているのに、それを悪意でもってハンドル名者の実名を暴く営為にどう対処すべきかである。ネットの検索空間に登場すればまたたくまに拡散される。これは、ネット検索エンジンの能力に於いて、その種の暴露に対するガードをせねばなるまいと思う。「或る者のハンドル名による政論空間を不当に狭める」のは良くないと思う。こういうことをしたがる者が居る。これは癖性分だから直らない。問題は、そういう輩の癖性分を如何に効果的に封殺するかだろう。これを教養と云う。そう教養以下の者を教養が抑える日を見たいと思う。

 2015.6.24日 れんだいこ拝



 



(私論.私見)