文意の歪曲改竄考 |
(最新見直し2007.7.20日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「小人閑居して不善を為す」という諺がある。小人が強権著作権論に向かう様はまさにその通りであろう。れんだいこは、著作権論にうつつを抜かす暇があったら「文意の正確な理解能力」獲得の為の日々研鑽に向かえば良いのにと思う。案外これが出来ない連中が代償行為として強権著作権論で気取っているのかもしれない。そんな気がする。 2007.10.17日 れんだいこ拝 |
【グーグルの良さと限界考】 | |
グーグル検索すると、これまでのれんだいこの文章をかなり拾ってくれている。その点で、グーグルに感謝しこそすれ他意はない。但し、若干の問題点もあるので指摘しておきたい。一つは、れんだいこのハンドルネーム騙りの投稿文とれんだいこ自身の投稿文との識別ができず、れんだいこ投稿文として拾っていることである。これは致し方ない向きもあるので問題にしないが、グーグル自身が今後どのように解決するのかが問われている。 新たな問題を見つけたので記しておくことにする。れんだいこ文を仮にブログとして、それにやり取りした他者の投稿文をれんだいこ文として拾っている事態に出くわした。善意のやり取り間のことなので大過ないが、やはり気になる。恐らく何らかの手違いで、誰かがそのように整理したものを、そのまま検索しているのだろうが、いわばグーグル検索の盲点を衝いているように思う。 れんだいこは、近頃の広域強権著作権論者の著作権違反云々は気にしないが、するにせよされるにせよ、文意の正確な伝達と云うことにかけては大事にしたいと思っている。近頃の広域強権著作権論者は逆で、文意の正確な伝達には関心を払わず、「盗った盗られた」には妙に敏感に吹聴する癖がある。 これはある種の性分だから、れんだいこも直らないだろうし相手も直らないだろう。例えば、スナックのカラオケでも同じようなことが起こる。最近は、デンモクという機械があり、自分が歌いたい歌をセットしておくことができる。たまたま同じ曲がセットされ、後に入れた方が先に歌ったとする。れんだいこなぞ、どうぞどうぞと気にしないが、気難しい者は、自分が入れた歌が盗られたと云ってなじる。一度だけ云うのなら良いが、相手が歌っている最中にもしつこく云う。世に争いの種は尽きまじだ、ったく。 これに仲裁する人が出てきて、その人が気難しい人だと、「あなた、歌うのを止めなさい。こちらの人が入れたのを、あなたが歌っている。失礼千万な話だ。誤りなさい」と大袈裟にする。別の仲裁人は、「もうじき同じ歌が入るのでがまんしなさい。大したことではなかろうに、楽しくやりませうや」と嗜める。他の仲裁もあろうが、人によってかくも仲裁の仕方が違うというのが味わい深い。 もとへ。れんだいこがなぜ、文意の正確な理解とか伝達に拘るのか。それは、今の時代があまりにも粗末にしており、それこそ重大だと考えるからである。どうも我々は、脳の練りを次第に弱くされつつあるのではなかろうか。だから、脳の練りが要るところには関心を払わず、代償行為として脳の練りが弱くても意見できる「盗った盗られた、挨拶がなかった、許可していない」云々ではしゃごうとしているのではなかろうか。 しかし、それは、パレスチナ、イラク辺りで大戦争が行われている最中の緊急新事態に着目せねばならぬ折に、北朝鮮のテポドン、拉致事件に関心を向けるマスコミの情報操作に通低していやしないだろうか。今や北朝鮮問題は、他の政治課題から目をそらさせる格好の演題として巧みに使われているような気がする。その他ゴシップ記事もそうだろう。必要以上に喧伝されているのが気にかかる。 著作権問題が同じように、本来もっと問題にし議論し考察を深めねばならない事案に向かわせぬよう横振りしているような気がしてならない。例えばの話、戦前のナチス問題、大東亜戦争問題を真に総括するのなら、ナチス、大東亜戦争に関する資料をより公にして、それを叩き台にして議論せねばならぬところを、議論すること自体が掣肘されるよう仕掛けされており、著作権云々はその際の有力な武器として使われているのではなかろうか。 こうして、我々は無学文盲にされ、あつらえられた教材と思考に則って意見できるようにのみセットされているのではなかろうか。一種のヤラセであるが、このヤラセをどう演じるかの能力競争させられている気がしてならない。お調子もんはヤラセ構造に気づかずか、あるいは気づいても無視するのか、そこは分からないが、とにかくあつらえられたレール上ではしゃぐ。 れんだいこはそういう時代の風潮についていけないし、ついていこうとも思わない。とりあえず以上。 2007.1.21日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)