【天皇制論】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005年現在、小泉政権の下で「皇室典範にかんする有識者会議」が開かれ、「女帝を認める皇室典範改正案」の論議が関心を呼びつつある。この辺りで、天皇制論をしておきたい。

 天皇制論は、天皇及びその側近による政治の特質論と天皇制官吏機構の両面から考察されねばならない。その上で、歴史的な歩みが検証されねばならない。そういう意味で、1・政治論、2・機構論、3・皇統譜、4・王制の比較研究の4視点から解析していくことにする。

 2005.11.18日 れんだいこ拝


【既成の天皇制論検証】
 「マルクス主義同志会」の機関紙「海つばめ」(1003号2005年11月13日)が、「戦力の不保持から“軍国主義”へ」と題して天皇制論をサイトアップしている。これがいわゆる左派の天皇制論だと思われ、れんだいこのそれと余りにもかけ離れているので、左派理論の正系を問うためにれんだいこコメントを付けて検証する。

「戦力の不保持」から“軍国主義”へ
自民党の憲法草案発表さる――「秩序」や国家への忠誠押し出す

 許すな皇族の憲法違反発言 つくる会と連動する寛仁の策動――「万世一系」の天皇制を守れと

 小泉内閣は、今月末にまとめられる「皇室典範にかんする有識者会議」の報告をテコに、女帝を認める皇室典範改正案を、来年の通常国会に提出するスケジュールを描いているが、それに対する反動どもの策動が活発化している。その一環が、皇室の一員で、現天皇と従兄弟(昭和天皇の四男の長男)にあたる三笠宮寛仁の発言であろう。彼は、反動陣営の動きに連動しつつ、つくる会と全く同様な見解を公表し、天皇家の権威でもって、反動に強力に支援を送ろうというのである。憲法違反の皇室の策動を許してはならない。

 皇室の一員が、公然と、「有識者会議」の方向と結論に異議を唱えたということは、皇室の本音を暴露するとともに、重大な政治的な意味を持っている。小泉のように、「誰でも発言の自由があるから、皇室に聞いても構わないのじゃないか」といった問題では全くないのだ(小泉は、有識者会議が、この問題で皇室の人間に意見を聞くことはない、それは憲法違反に当たると結論したことに対して、こうした無責任な発言を行っている)。

 というのは、現憲法は明確に天皇や皇室の政治的行為はもちろん、そうした発言も禁じているのであって、“国民の象徴”であるべき天皇が、こんな憲法違反を犯していいはずもないのである。

 これまで、つくる会の連中や反動たちは、天皇制の問題について、天皇や皇室の意思を聞くべきであると言い張ってきた。

 まさにそれに応えるような形で、皇室(天皇の従兄弟)の発言がなされ、つくる会などが「得たりやおう」とばかりに、女帝容認反対の大キャンペーンを開始していることこそ、ことの本質を語って余りある。

 もちろん、皇室の連中が「ひとりごと」を装えば政治的発言をしていい、憲法に抵触しない、などということには決してならない、だが政府も国会もブルジョア司法も天皇家の連中のこうした憲法違反の言動を取り上げ、問題視し、規制しようなどとは決してしないのである。民主主義が聞いてあきれるではないか。

 寛仁は、小泉内閣の閣僚である麻生とも姻戚関係にあり、陰で安倍や麻生が糸を引いているかもしれない。あるいは、彼は天皇の“名代”として発言したのかもしれない、つまり天皇や天皇一家の意思が、彼らの自己満足や利己主義が、彼の発言に端的に表されているのかもしれない。

 寛仁自身、自分の発言の“違憲性”をよく知っているのであって、だからこそ、その発言を“随想”といった形でカモフラージュし、皇族は憲法上公然とした発言はできないから、「身内の小冊子でのプライベートなひとりごと」としてやるなどと断わりながら、しかも厚かましい、違憲の言動にふけるのである。自らの発言が憲法違反であることを百も承知でやっているのだから、その悪党ぶりは徹底している。

 彼が強調することは、つくる会の連中がわめいていることと寸分と違わない。

 天皇制は二千六百六十五年間も(つまり神話が語っているように、神武天皇の即位以来)男系で続いてきたのであって(つまりありがたい「万世一系」だ)、これを否定することは、日本の「国体」を否定し、ひいては日本の国家を否定するに等しい、というのである。

 この思い上がった、頭の空っぽな男は、古代より国民が『万世一系の天子様』の存在を大切にして来てくれた歴史上の事実とその伝統があるがゆえに、現在でも大多数の人々は、『日本国の中心』『最も古い家系』『日本人の原型』として、天皇家を敬慕しているのだと、手前味噌を並べてもいる。

 そして女帝でいいというようなご都合主義的な議論をしていくなら、「いつの日か、天皇はいらないという議論にまで発展する」と恐怖するのである。

 この皇室の男がどんな意識や観念の持ち主であるかは、天皇制が二千六百六十五年続いてきたと言っていることからも明白である。全く“皇国史観”に支配されたような頭のこり固まった反動であり、“皇室意識”でふくれ上がった、増長慢の俗物なのである。

 連中は事実に基づく科学的な歴史――それによれば、天皇家の歴史はせいぜい千数百年前頃に始まるにすぎず、寛仁の言うのとは千年ほどもずれているのだ――よりも神話を信じるのであり、そんなものが「日本の国体」だと言うのである。まったく恥を知らないとはこのことだ。

 この皇室の一員は、天皇は「国体」そのものであり、国のために必要だと言ってみたり、あるいは皇室は国民から崇拝され、尊敬され、慕われていると言ってみたりして、天皇制とその存続の意義を強調して止まないのだが、要するに、それは彼もその一員に属する皇室を永続させ、その特権的な地位を守りたいだけのことにすぎない、つまり徹頭徹尾、利己主義から出発しているのである。

 ただ彼は、国家のためとか、「国体」だからとか、国民の崇拝の的だからといった、つまらない理屈を持ち出して、皇室のエゴイズムを必死で隠そうとしているにすぎない。

 彼らは、国家によって保証された、国民の“象徴”としての寄生的で、居心地のいい特権的な地位を失うことを恐れるのである。

 彼らの国民の労働に寄生する生活は、つい最近も皇族の女性が“民間人”つまり国民と結婚するとき一億五千万円ものカネが国から支給されたことにも現れている。ブルジョア・マスコミは、不当であり、不正義でもある、こうした途方もない特権に対して、驚いたことに何一つ異議を申し立てることも、非難することもしなかったのであるが。

 そして最近、彼らの立場もまた徹底的に“非人間的”なものである、それは雅子がノイローゼに陥ったことからも明らかである、あるいは結婚の自由もない、職業選択の自由も参政権もない、政治的発言もできない、こうしたことどもはみな基本的人権を奪うことであり、人間性の否定だから、天皇制を廃止せよ、などという者もいるが、しかし基本的にナンセンスであろう、というのは、皇室の大部分はこの“非人間性”などほとんど苦にしていないからであり、むしろ反対に、その中に安住し、特権と居心地のいい地位に執着し、それを防衛しようと常に全力をあげているからである。すでに千年以上にわたって、天皇家はそうしてきたのであり、今もしているのである。

 この男が、どんなに特権の保持に心を砕いているかは、単に天皇制の護持や男系の維持だけでなく、その擁護に隠れて、自らの利益ために自分の“家”を“宮家”として存続させるために措置を取れと言い出していることからも明らかである。

 つまり彼は、どこの“馬の骨”とも分からない「元皇族」を引っ張ってきてもいいから、天皇本家だけでなく、廃絶になった宮家(秩父宮、高松宮といった、昭和天皇の弟らの「家」)もその祭祀を継承してもらって再興せよといった要求も提出している。彼は秩父宮、高松宮家について語りながら、自分の家のことを語っているのである。

 というのは、三笠宮家も女子ばかりが生まれてしまって(孫の代になって、五人とも全部が女というわけだ)、秩父宮、高松宮家と同様、断絶するのは必至となっているからである。

 だから、寛仁は直接に天皇制の護持を願うだけでなく、皇族としての自らの“家”の存続をも策動するのであって、かくしてその利己主義を決定的に暴露するのである。もちろん、その口実は「国体の護持」であり、天皇制の継続のため、といったものである。

 彼らは「血」をありがたがり、「万世一系」などを持ち出して、天皇家を神聖化しているが、笑うべきことであろう。一体戦後憲法は、“出生”とか“血”といったものの「価値」を否定し、万人の「生れながらの」平等を謳ったからこそ、民主主義憲法ではなかったのか。

 しかし寛仁とか、つくる会の連中は、「血」とか「男系」とか「万世一系」とかいった、つまらない“前近代的”、非民主主義的“価値観”に固執し、それを擁護して止まないのである。

 しかし万世一系であり、男系でのみつながってきた、「最も古い家系」などと言ってみても、例えば、「二十五代」の武烈に男系がいなかったので、十代二百年も前の「十五代」応神の子孫を越の国(現在の福井県)から連れてきて、継体天皇に祭り上げたという“事実”が日本書紀にあるが、しかしこの系統は途中でとぎれていて、名前さえ記されていない、だから歴史家たちは、諸般の事情も考慮して、ここで王朝の交代があったとか、女系でつながっているとか主張しているのであって、万世一系など空論だと強調しているのである(この点については、林氏の『女帝もいらない』の一七八頁以下に詳しい)。

 それに、二百年も前に分かれた血筋などと言っても、どこの“馬の骨”か分かったものではない。歴史の中には、百三十年だ、百年だ、七十年だといった祖先から「血」を受け継いで、ようやく天皇になり上がったような連中が何人もいるのだ。全くこんな「血」をありがたがっているよう連中の常識を、その頭脳の合理性を疑うのである。

 そして今、どこかの宮家から“婿”を連れて来ると言っても、戦後廃絶された伏見家から探し出して来るしかないが、この伏見家というのは、何と六百年も前に、現天皇家と分かれたというのだから、継体天皇の三倍もの“遠く”からであり、その人間の“馬の骨”ぶりはさらに徹底しているということになる。

 ついでに言っておけば、“めかけ”(いくらか体裁のいい言葉で言えば、“側室”)出身の天皇は全体の半分近くの五十五人もいるのだから、天皇家の“非道徳性”は余りに明らかであって、これが日本の“象徴”(したがって、日本の“家族”形態や道徳や文化や歴史の象徴)などと恥ずかしくて、誰にも(どんな外国にも)言えないほどではないか。

 全く自民党といい、つくる会といい、皇室といい、何というばかげた観念、非合理主義にうつつを抜かすことのできる、とんまな連中であろうか。

 実際、六百年も前に分かれた天皇の「血」を引いてきて、それが“尊貴”だとか何とか言ってみても、六百年もたてば、ある個人の「血」といったものは、ほとんどどちらでもいいものになる。

 また、他方では、千年、二千年前の「天皇」の「血」を引く人間は男系だけと限っても、日本国中にいくらでもいるのではないだろうか。しかも天皇家の連中の中では、多数の女性に多数の子供を生ませた者もいたのだから、日本国中にそのありがたい「血」が広がっているかもしれず、そんな人間をすべて“尊貴”だなどと言い出したら、世の中が収拾がつかなくなるであろう。

 しかし、「血」そのものが尊いというのだから、みんな彼らは平等であり、どうして区別したり、差別したりできるであろうか。

 つくる会や皇室の連中は、「血」が尊いというが、実際には、「血」そのものではなく、皇室の人間が国家権力と結び付き、その頂点にいるからこそ「尊い」とわめいているにすぎないのであって、千数百年の間に全国に散らばったかも知れない、初代天皇の「血」そのものが尊いと言っているのではないのだ。そんなものを本気で称揚し、祭り上げようとしたら、大変なことになる、というのは、全国にそれがどんな規模と広がりで存在しているかは、誰も知らないからである。

 つくる会の連中や皇室の連中は矛盾している、天皇が“尊い”のは、その「血」そのもののためなのか、それとも、「血」自体ではなく、天皇家が国家権力とむすびついてきたがゆえに、その「血」が尊いのかを語ることができないからである。彼らはただその「血」が尊いかに言い張り、国民をだまして来たにすぎないのだ。

 「血」そのものが尊いなら、全国に何万人といるか知らないが、神武天皇以来、その「血」を引く人間をすべて探しだしてきて、しかるべき措置をとらなくては少しも一貫しない、しかし天皇の「血」を神聖視する支配階級のペテン師どもはそんなことを決してしないのである。彼らが神聖視するのは、「皇室」だけである、つまり彼らが制度的に囲い込んだ、国家機関の一部としての「皇室」の「血」だけが尊いというにすぎない。

 実際には、天皇家の“万世一系”とやらの「血」が尊いのではなく、ただ支配階級が天皇は尊いといって、いつわりの権威を作り出し、労働者人民を支配し、抑圧する一つの道具に仕立て上げているだけのことである。

 実際、孔子の子孫が全世界で何万とか、何十万人とか最近新聞で読んだが、一人の男子の(あるいは女子の)子孫も、何世代も経過すれば、そして何百年、何千年もたてば、それくらいにはなり得るのであって、つまりこれは数百年もたてば、国中の、あるいはこれからは、全世界の人々の「血」は混ざり合ってしまう、ということである。

 そして国家に囲い込まれた皇室の「血」が「尊い」ものであるどころか、我々国民の「血」と比べてはるかに“なまぐさく”、狂暴、奇嬌であったのは、歴史自身が(『日本書記』等々も)語るところである。

 そんな昔の例を引くまでもなく、最近の昭和天皇自身が数百万の日本人を殺し、アジアを初めとする世界の数千万人の人々を殺傷した反動戦争(十五年にわたる帝国主義戦争、アジア太平洋戦争)の張本人の一人であり、戦争犯罪人として処刑された東条らの同類、その“盟友”であったことからも、天皇家の「血」が尊く、神聖であるどころか、まさに「血」にまみれているとさえ言えるのである(昭和天皇は実際上、自らのやったことを何ら反省も謝罪もしなかったが、それもまた「皇室」といった連中の道徳的レベルを暴露している)。

 皇室の連中が、天皇制の問題について露骨な発言を始めたが、これはまさに憲法違反であり、許されざることである、そして皇室がこんな形で発言し、自らの地位を防衛するために策動を開始したという事実の中に、我々は、天皇制が廃止されなくてはならない理由と根拠の一つを見出すのである。

 皇室の連中は、自らの特権的な地位を守るためには、歴史の中でどんな破廉恥な策動もしてきたし、今もしているのであり、その一端が今回の三笠宮寛仁の発言によっても暴露されたのである。我々は皇族寛仁の厚かましくも破廉恥な発言こそ、天皇制の廃絶の必要性を教えていると強調する。

 寛仁の発言は突き詰めれば、自分たちの“地位”は特別であり、「尊い」ものだから永続させよ、ということだけである。自分たちの寄生的で特権的な地位や利益を、これほどあからさまに擁護するとは、皇室の連中は何という最低のエゴイストたちであることか。

 天皇や皇太子たちが何を考えているのかは分からない、しかし寛仁の発言と大同小異であることだけは確かであろう。もしそうでなかったら――例えば、一部の世論が天皇家に同情して言うように、「非人間的な地位に苦しんでいる」というのなら、どうしてさっさと自ら天皇制度などはなくそうと発言しないのか。

 本当はそうしたいのだが、天皇家の存在は国のために必要だと自らに言い聞かせ、自ら「耐えがたきを耐え」、我慢しているとでも言うのか。

 仮にもしそうだとしても、天皇家の存在は国のために必要だなどと思い込むこと自体が、暗愚の象徴みたいなものであろう。

 小泉内閣を頂点とする政治家たちも、“財界人”も、官僚も、みな憲法無視、法律違反など日常茶飯事であり、皇室もまた今や、国民(つまり支配階級)の“象徴”として、堂々と憲法違反して恥じないのである。そして小泉内閣はもちろん、野党も司法もマスコミも皇室(象徴天皇)のこうした言動に沈黙したままであり、天皇もまた自らの“身内”の憲法違反という“不祥事”に知らん顔である。





(私論.私見)


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天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)の~事
http://www.asyura2.com/0601/idletalk20/msg/710.html
投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:20:37: Gsx84HOp6wiqQ

 
 
 
 
 
 天皇は、血筋は抑も成れど、祝(はふり)の~事の
 祕儀、奧義を傳授、會得、體得して初めて天皇と成る。
 故に現在の天皇は名、實共に天皇に非ず。
 此處根本的問題を解決せざれば
 ~國日本は滅亡する事必定成り。
 
 
 
 
 
 
 新人物往來社 平成七年(一九九五年)一月十三日發行
別册歴史讀本 ; 特別増刊81 . 《此れ一册でまるごとわかる》シリーズ ; 18
古~道の祕術 二百四十頁
 
 
伯家~道と最後の學頭・高濱清七郎
明治天皇に指導された
「祝(はふり)の~事」の謎

~道祭祀の根源宗家たる白川伯家。其の最後の學頭である高濱清七郎が明治天皇に指導した
「祝の~事」とは何か?其の特殊~事の實體を明らかにし、其の再興への熱いメッセージを贈る。

藤原正鐘【文藝評論家】
 
 
 
 
 此處十年來、「古~道」に對する關心が高まりをみせてゐる。教學よりも行法に重點を置く
ものの代表として伯家(はつけ)~道が注目されてゐるやうだ。
 其處で伯家最後の學頭・高濱清七郎と、伯家に傳へられてゐたと云ふ特殊~事としての伯家
~道が、幕末・維新期を經過してどのやうな行方をたどつたのか、また特殊~事とはどのやう
なものであつたのか? 其の實體の解明に迫り、其の現代的意義に就いても探つてみ度い。
 
 
~祗官の長たる
白川伯家

 白川伯家は王朝の末より代々~祇官(じんぎかん)を主唱し、宮中に於る恆例・臨時の祭祀(
さいし)に奉仕する聖職にあつた。其處で自然に、~祇祭祀の道に根源宗家と成るに至つた。純
~道に於る祭祀の方法、竝びに此れに伴ふ行事の根本として、絶對的地位を占めるのは此の一
家である。
 第六十五代花山(かざん)天皇の皇子清仁(すみひと)親王の御子延信(のふざね)王が、後冷泉
(此れいぜい)天皇(第七十代)の永承元年(一〇四六)~祗伯(じんぎはく)に任ぜられ、其の子康
資(やすすけ)王も伯と成り、更に康資王の孫顯廣(あきひろ)王が二條天皇(第七十八代)の永萬
元年(一一六五)に伯と成るに及び、任伯の期間は王氏に復歸する例を開かれた。以來~祗伯は
他姓を任ぜず、白川家の世襲と成り、明治維新に及んだが、顯廣王より資訓(すけくに)王まで
五十一代を累(かさね)た。世に~祗伯家・白川伯王家(しらかわはくおうけ)或は伯家と稱す。
 王氏をもつて~祗官の長とされるのは、第二代綬靖(すいぜい)天皇の御代に、~八井耳命(か
むやいみみのみこと)の古例に基づき、~砥崇敬の御主旨からである。
 白川家は~祗宮の長として、宮中内侍所(きゆうちゆうないじどころ)や~祗官八~殿(はつし
んでん)の奉仕、天子攝關(せつかん)等に御拜(ぎよはい)を傳授した。また全國の~社を統括し
た。
 
 
白川伯家最後の
學頭・高濱清七郎

 明治天皇に「十種~寶御法(とくさかむたからのごほう)」を指導したと云ふことで現在でも
「古~道」と云へば名前が舉がつてくる人に白川家最後の學頭・高濱清七郎がゐる。其の高濱
に就いてまづ概説してみ度い。
 高濱は現在港區白金臺にある瑞聖(ずいしよう)寺に「高濱清七郎源正一靈人」として祭られ
てゐる。命日は明治二十六年二月二十八日、享年八十一歳であつた。毎年命日には門人の代表
によつて年祭が行はれてゐる。百年祭が行はれてからまだ年が淺い。通稱、高濱正一と呼ばれ
てゐた。
 清七郎は、文化八年(一八一三)傭前都窪(つくぼ)郡(現在の岡山縣總社(さうぢや)市で農家
の子として生まれた。年齢はさだかではないが京都に奉公に出て、入門時には白川家出入りの
呉服商人に成つてゐた。祭事に必要な衣裳全般にわたる御用立(ごやうだて)を引き受けてを
り、出入りしてゐるうちに其の才覺を見込まれて行學を修めるやうに成つた。
 「白川家門人帖」によれば、天保年間一八三〇〜四三年)に「『七種(ななしゆ)修業』終了
門人免許」とあり、「白川門人」として入門を許された。修行は他の門人に秀でて進み、文久
二年(一八六二 = 五十歳)八月には「十種~寶御法」(此れが「祝(はふり)の~事」にあたる
もの)の相傳(さうでん)を受け、内侍所竝びに~祗官御免状、内侍御印書を拜受した。「十種
(とくさ)」と呼ばれるやうに此の御法は十段階に分けられ、「七種(ななしゆ)」を修めて入門
が許され、「三種(さんしゆ)」で一般の門人の修行は終了する。「二種(にしゆ)」「一種(いつ
しゆ)」は~傳と成り、「一種」が天皇の~拜所作(しよさ)である。
 高濱の影響を受けたと思はれる~道家に江戸・明治期に活躍した「鎭魂歸~法(ちんこんぎ
じんほう)」を確立した本田親徳(ほんだちかあつ)がゐる。本田は『本田親徳全集』の中
で、「鎭魂歸~法」は日本古來から傳承されたもので、其れを傳統に學んだとしてゐる。其れ
は、本田が高濱と友人だつた事や「鎭魂歸~法」が俗に「輪外(わはず)れの鎭魂」と呼ばれて
ゐる事から本田が此れを高濱清七郎か其の一派から學んだと云つて間違ひないだらう。因
に、「祝の~事」は取次者(とりつぎしや)が輪に成つて行ふ「輸の鎭魂」とも云へるものであ
る。
 高濱が後世高い評價を受けたのは、伯王に代はつて宮中~事に奉仕した許りでなく、白川伯
家最後の學頭として皇太子時代の明治天皇への「十種~寶御法」の指導に携はつた事からであ
らう。指導に携はつた時期は「十種~寶御法」の相傳を受けた文久二年(一八六二)八月以降か
ら慶応三年(一八六七)までの間とみてよいだらう。
 「祝の~事」を實習し其の意義を充分理解したと思はれる明治天皇は、即位後も再三再四「
高濱は今どこにゐるか」と側近に間われたといい傳へられてゐる。然し、高濱清七郎の消息を
知らせるものはゐなかつたと云ふ。
 「祝の~事」では、行を指導することを「お取立(とりたて)」をすると云つて、「さに
わ」「かみしろ」「はふりめ」と呼ばれる者たちがお世話をする事に成つてゐる。此のやうな
人々は白川家を始めとする由緒ある家柄の紳士・淑女が携はつてゐたが、かかる人は氏素性(う
じすじやう)がはつきりしてゐるために隱れる事が出來ず、幕末から維新にかけて悉く暗殺され
たと、『~祗官沿革物語』に記されてゐる。明治維新の陰の遂行者は、王制復古はどうでもよ
かつたやうである。幕末體制を崩潰させる大義名分として必要であつたのであり、皇權の復活
を望んでゐたのではなかつたやうだ。王制復古が本來の皇權の復活に成つてしまへば、天皇を
傀儡(かいらい)とする事が出來なかつたからであらう。かくして、宮中から天子(てんし)を取
立る「祝の~事」は消滅していつた。
 高濱も其の難を免れないところではあつたが、幸か不幸か、公家(くげ)や皇族の出身と云ふ
ことではなかつたために其の難を逃れる事ができた。詰り、表面上は明治元年に~佛分離令が
出され、~祗官が獨立設置された。そして、王制復古・祭政一致の理念の下に高濱は大教宣布
(だいけふせんぷ)の號令下、其の宣教師と成つて全國布教に携はつた。
 高濱は「祝の~事」の重大さを認識しつつもなす術(すべ)もなく、かと云つて「祝の~事」
を此のまま消滅させる事にも忍び難いものを覺え、全國布教のかたわら志あるものを募(つの)
つては其の繼承を決意していつた。其の決意に應じて「祝の~事」を實習した門人に、東京で
は吉田彦八、京都では宮内忠正(ただまさ)がゐた。吉田彦八には「祝の~事」の行法が繼承さ
れてゐないが、宮内忠正は高濱の娘婿(むすめむこ)ともなり、行の繼承に專念したやうであ
る。宮内も若くして他界したが、其の實子・中村新子(しんこ)が繼承し、此の流れから多數の
門弟が輩出していつた。現在、民間で繼承してゐる人は此の流れを汲むものである。
 明治二十年頃には、築地の地主・遠藤はつ宅に同居し、東京での布教活動をするかたわら、
ひそかに「祝の~事」も指導してゐた。然し、明治二十五年の秋、黄痕(おうだん)を患ひ翌二
十六年二月、療養の甲斐もなく逝去した。
 
 
幕末・維新期の
伯家~道

 明治二年~祗制度が改められ、皇族以外で王號を許されてゐた伯王の稱號もおのづから廢さ
れた。更に明治五年~祗制度其のものが廢止されるに及び、其の職制は、宮中内侍所に關する
ものが宮内廳に、全國の~社の統括に關するものは~社廳に其れぞれ移管された。ただし~祗
官八~殿(はつしんでん)での奉仕、天皇や攝關等に御拜作法を傳授する職制は此處で消滅した。

 其の消滅への經緯は次のやうであつた。天子攝關等への御拜作法の傳授は八~殿に附屬する
祝部殿(はふりでん)と云ふ所で行はれてゐたのであるが、此れらの~殿は白川伯家の邸内にあ
り、其の~事は祕傳として行はれてゐたのである。此の伯家~事の中核ともなる「御拜作法」
の有職故實(ゆふそくこじつ)に關する引き繼ぎをめぐつて、實は歴史的とも云へる事態と成つ
たのである(一般的には問題視する人は少ないが)。
 最後の~祗伯・資訓(すけくに)王は明治五年の~祗制度廢止に伴つて、當然、~祗伯所管の
有職故實の返還を迫られた。~祗官邸内で行はれてゐたものは宮内廳、~社廳に其れぞれ移管
された事は前述したとほりであるが、間題は白川邸内に祭られてゐた八~殿と祝部殿の處置と
其れに伴ふ「御拜作法」等の有職故實に關する引き繼ぎであつた。資訓王が當時の宮内廳の擔
當官に伺つたところ、「八~殿を返還するやうに」との答へであつたと云ふ。現在八~殿の~
々は~殿に合祀(ごうし)されてゐる。そして、祝部殿に關する處置に就いては何の返答もなか
つたと云ふ。其處で祝部殿は其のまま白川家邸内に殘された。
 其の後、嫡子(ちやくし)、資長(すけなが)に受け繼がれた。資長は華族制度の成立に伴つて
子爵(ししやく)の位を受け、貴族院議員にも成つた事から新宿の角筈(つのはず)に居住する事
に成つた。其れに從つて邸内の祝部殿も京都から東京へ移轉した。其の後、實子がなく北白川
家より養子を迎へるが、唯一王家を名のる事が許された公家(くげ)ではあつたが、有職故實を
失つて、實質的メリットをもたない公家に何の魅力もなく、其の後離縁と成つた。多くの公家
や華族がさうであつたやうに白川家も沒落し、家に傳はつた文獻等は、金光教(こんかうけふ)
や天理教(てんりけふ)等に賣り渡されていつた。
 當時、祝部殿で行はれてゐた~事は皇太子のみにしか知らされてゐなかつた~事であるだけ
に、其の實質的擔當者でなかつた資訓王にしても宮内廳の擔當官にしても、ことの重要性を理
解できなかつたとしても無理からざるところであつたと思ふ。此のやうにして祝部殿と其れに
伴ふ~事は、當然のこと乍ら宮内廳や~社廳には繼承されなかつた。
 伯家~道のもつ意味は、本書で主題とするところの「古~道」としての行法の繼承にあるこ
とは云ふまでもない。江戸中期以降、官職としての~祇伯王家には天子攝關等への御拜作法竝
びに行法傳授の能力は失はれ、專ら行法の指導を司(つかさど)る學頭に其の職務は移行してゐ
た。そして、明治以後現在に至るまで、宮中では吉田家の傳統によつて宮中祭祀が行はれてゐ
るが、其のこと事態は問題に成らない。間題なのは、伯家~道の存在意義は祝部殿で行はれる
「祝の~事」(御修行と俗稱されてゐる)を中心とした行學にあるとともに、天皇~格化の原理
である~人合一(しんじんごういつ)の優れた形式である「祝の~事」が、明治五年~祗制度が
廢止されるとともに宮中行事から消え去つた事にある。
 明治維新を成功させた志士たちの理想は尊皇(そんのう)であり、王制復古であつたはずであ
るが、出來上がつた明治の天皇制は形許りのものと成り、實體は天皇制の空洞化であつた。結
果的には明治維新は皇道(かうどう)から覇道(はどう)への轉換であり、悠遠(ゆふえん)なる日
本の傳統を卑(いや)しめる事と成つた。天皇が西歐封建君主のやうに軍服を纏(まと)い、サー
ベルを身に附ける事と成つた事で象徴されよう。
 たしかに、天皇は大嘗祭(だいじやうさい)を經て天皇に即位する事が出來る。「天皇は大嘗
祭によつて眞の天皇の資格を得る」と、昭和三年に歌人で國文學者の折口信夫(おりくちしの
ぶ)が發表した眞牀覆衾論(まどこおふすまろん)が示すとほりである。然し、皇太子時代に長
い期聞の修行を必要とする修行があつた事も事實である。幸か不幸か、臣下萬民の知られざる
ところで天皇と成るための祕行「祝の~事」が存在してゐた事が、明治五年~祗制度其のもの
が廢止される事によつて我々の知るところと成つたのである。其の最大の功勞者は勿論伯家~
道の最後の學頭・高濱清七郎である。
 實際大嘗祭を迎へるまで、代々の天皇は皇太子の時代から、長年の間「祝の~事」を白川伯
王家邸内にて密(ひそ)かに修められてゐたのである。明治天皇は皇太子であつた江戸時代の末
期はまだ~種制度が存在してゐた時代であつたので、此の「祝の~事」を受けられた最後の天
皇と云ふことに成る。實際に指導に携はつた人物が、前述のとほり高濱清七郎であつた。
 
 
帝王學としての
天皇行と其の故事來歴

 天皇は古來「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれ、第一に「統治する」働きと第二に「
~を祭る」働きの二つを體現するのが本來の姿である。第一の働きである「統治する」働きを
完遂(かんすい)するための原理は「天地創造の~の心の隨(まま)に」と云ふ原理である。文字
によらず言葉によらず其れを體得する方法が「ヲノコロの祕法」と呼ばれるものであつた。『
古事記』『日本書紀』にも其の名前だけは散見する。天皇が御位を繼がれると八尋殿(やひろど
の)を建て其處で此れを行じたとある。此の祕法を行つた結果、國が安らかに治まつたとある。
 此れに對して第二の「~を祭る」働きを完遂するため、身を清め~を迎へられるやうにする
修養が當然必要に成つてくる。「ヲノコロの祕法」と不離一體のものではあるが、此れが前述
した「十種~寶御法」であり、「祝の~事 = 御修行」と呼ばれる行法體系である。
 天皇家の系圖は天地創造の~を先祖とし、各々の天皇は其の直系の子孫と云ふことに成る。
天皇がただ單に系圖上、天地創造の~の直系の子孫であると云ふだけではなく、其の意識も~
と同等の意識に立つて萬民を慈(いつく)しむ立場に立つためには、其れなりの皇學が存在して
も不思議ではない。
 其の皇學(帝王學)にあたるのが此の「祝の~事」を始めとする行法體系であると云ふことに成
る。天皇は本來「祝の~事」をマスターする事によつて、天地創造の~から始まつて皇祖皇靈
を迎へ、親しく~々と交はり、しかるべき作法をもつて靈を拜してゐたのである。此の「しか
るべき作法」と云ふところが伯家~道の中核と成るところである。~道の其の他の行法や印度
のヨガ行法を通じて「高い悟(さと)り」と云つた境地に到達したと云ふ聖者は數多く存在す
る。天皇は其のやうな聖者に成るだけでなく、ある形式をもつて~を拜する存在に成ると云ふ
ことである。~を拜する時に其のしかるべき作法が傳授されるわけであるが、此れを「~拜(し
んぱい)の式」と呼んでゐる。
 然し、意圖したか否(いな)かは別として、明治維新はかかる重大な事柄(ことがら)を葬り去
つてしまつたのである。~武(じんむ)建國以來の悠久なる歴史の中で、此のやうな事態が一度
だけ起こつてゐる。佛教傳來(五三八年)直後のことであつた。
 此の「~拜の式」の原型は~武帝の御代に天種子命(あめのたねこのみこと)によつて確立さ
れ、用明(ようめい)二年(五八七)まで其の嫡流の子孫・大中臣牟知麿(むちまろ)まで繼承され
た。然し彼は蘇我馬子(そがのうまこ)の陰謀により物部守屋(もののべのもりや)とともに滅ぼ
されたため、宮中から其の~事が杜絶える事と成つた。此の時、宮中に保管されてゐた傳國の
寶物も燒き拂はれたと傳へられてゐる。
 此處で~武以來の傳統が消滅したはけであるが、此れを先祖の~詔を受けて復元させた人物
が出現した。天種子命の庶子(しよし)、宇佐津臣命(うさつおみのみこと)の十九代目の末商(ま
つえい)・藤原鎌足(かまたり)である。大化の改新の成功によつて再び此の~事は宮中に復元
された。用明二年の消滅以來、五十數年の後であり、天種子命が其の制度を確立して以來、約
千二百年後のことに成る。此の功績により藤原鎌足は「~祇再興の祖」として末代まで崇められ
る事に成る。政治權力者として知る人は多いが、藤原鎌足が審~者(さにわ)の~である事を知
る人は少ないに違ひない。伯家~道では藤原鎌足は行法上の直接の指導~なのである。
 そして、明治維新に起こつた「祝の~事」の教育制度が宮中から消滅すると云ふ事件は、藤
原鎌足が~祗再興を果たしてから矢張り同じ約千二百年後のことに成る。現在の「古~道」へ
の關心の高まりは、本來の王政復古への日本人の希求の現れなのであらうか。
 藤原鎌足が~祗再興を果たしたのは用明二年の消滅以來五十數年後であつたが、明治五年に
~祗制度が廢止されて以來、既に百二十年以上の年月が過ぎ去らうとしてゐる。
 伯家~道の口傳(くでん)の中には、此の~事を受けない天皇が百年間繼續する時、日本の國
體も滅亡すると云ふいい傳へが存在する。大正、昭和、今上(きんじやう)と年數を數へてみる
と既に八十五年が經過してゐる。いい傳へが嘘であつてほしいものである。
 
 
「祝の~事」の
現代的意義

 現在、日本は經濟的に大きく繁榮し、多くの國々の羨望(せんぼう)の對象に成つてゐる一
方、國際社會で高く評價されてきてゐるのも事實である。かかる現状を鑑(かんが)みると、世
界に類例をみない天皇制に大いに其の恩恵を被(かうむ)つてゐるとみる事が出來よう。だから
と云つて日本の傳統として傳へられた、文字によらず言葉によらぬ此の帝王學の存否が日本の
存亡に關はりがないと判斷するとすれば、此れもまた大變淺はかな判斷ではなからうか。
 此れからの國際社會の中に於る日本の立場は、經濟大國として世界に貢獻する事が期待され
てゐる。國連の常任理事國と成る事も期待されてゐる。然し、一方大變危險な方向に向かつて
ゐる事も見逃してはならない。
 東西冷戰の終結によつて、日本と亞米利加の關係は徐々に軍事的結束が緩ん出來てゐる。日
本の防衞は他國から侵暗する國がない事を前提としてゐる。侵掠する國があるとすれば、日米
安保條約を基に亞米利加が守つて呉れる事が前提に成つてゐるのである。亞米利加が世界の警
察官を自任してゐる間は日本も安泰と考へてもよいだらう。然し、十年後、二十年後此のまま
の状態が繼續する保證がどこにあらうか。
 灣岸戰爭の間、亞米利加は世界に呼び掛けてフセインの非を制裁しようとした。然し、經濟
的には日本や獨逸に多くを依存してゐたのである。亞米利加にとつて日本は保護する對象では
なくなりつつあるのだ。寧ろ、國の存亡を脅(おびや)かす存在とすらなりつつあるのだ。十年
後、二十年後、亞米利加にとつて代はつて覇權を主張する、其の實力をもつ國が現れないと云
ふ保證がどこにあるだらうか。國際社會は決して安全な世界ではない。
 そんな中で、日本が生き延びていく原理は何かである。世界から尊敬される國に成る事であ
り、かつ~から愛される國に成る事である。
 世界から尊敬され、~から愛される國に成る原理がまさに、生命としての日本人の核である
天皇の姿勢である。其の天皇の姿勢を傳統に基づいた姿に育てる教育制度が~祗制度の中の「
祝の~事」であつた。此の復元によつてこそ日本が世界の中で生き延びる事の出來る第一條件
が整ふと云へよう。
 日本が悠久なる歴史の中で其の國體を保つてこられたのは、其の時其の時の爲政者と國民の
努力にあつた事は勿論のことであるが、もつと大きな力は、目に見えない國魂(くにたま)の力
なのである。其の意味で日本を守る國魂の力は絶大なものがあると云つてよい。其の日本を守
らうとする國魂の慈しみの心を、今なお失はさせずに嚮かはせてゐる力が、天皇の國魂に對す
る「~拜の式」なのである。天皇が「祝の~事」を修め「~拜の式」を修得する意義は此處に
ある。
 覇道が武力、王道が徳力を頼りにするものであるとするのに對して、皇道とは~ー國魂の力
と心を嚮かはせて國を守る道と云つてもよいだらう。天皇は~に國の安全と民の幸福を祈る祭
(まつり)司(つかさ)と云ふことに成る。其の祭司に必要な祈りの形式が「~拜の式」であり、
祈りの言葉の形式が三十一文字(みそひともじ)の短歌と云ふことに成る。
 天皇の亞米利加訪間でクリントン大統領が日本の國學者・橘曙覽(たちばなあけみ)の歌を引
用して挨拶を述べられたごとく、天皇が短歌に執心されてゐる事は海外まで知られるやうに成
つてゐるが、此れが~への祈りの言葉の形式であり、更に~への祈りの形式「~拜の式」があ
る事や、天皇がさうしな重要な役割を擔つてゐる事が理解される日はいつのことだらうか。
 
 
 
 
 
 明治天皇(大室寅之佑)は、南朝系ですら無く、
 天皇家の血筋と縁もゆかりも無い地家家の
 血筋の可能性大である。
 そして、此處に述べられてゐる祝の~事の祕義を
 授かつてゐないのである。
 此處兩面に於いて、名實共に、現皇室は
 天皇家ではないのである。
 天皇の~聖を冒涜してゐるのである。
 
 
 
 
 
關聯情報

大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室
http://www.asyura2.com/2002/bd18/msg/943.html
投稿者 大室寅之祐の弟の玄孫 日時 2002 年 8 月 30 日 19:37:17:

參考資料(幕末〜明治)
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/761.html
投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 07 日 01:00:06:

Re: 日本人は何故駄目か
http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/103.html
投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 01:26:38:

「萩」へマンジュウつくりにいつてくる 田布施町のタブー2003春
大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室に就いて
http://www.asyura.com/0306/dispute12/msg/477.html
投稿者 世界に廣げよう!大室寅之スレ 日時 2003 年 8 月 05 日 19:37:38:TPRIcaMUGq.Ys

現皇室の祕密 (雅子樣ご懐姙騒動の眞相など)
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/587.html
投稿者 ジオン兵士 日時 2004 年 2 月 06 日 07:58:25:YeAWrBzgL3M5Y

今の天皇は現王朝が出來てから四代目(孝明天皇で前王朝は終了し、
明治天皇から新王朝が始まつてゐる)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/781.html
投稿者 リーマン 日時 2004 年 2 月 06 日 02:48:08:FagqpUDXKcu9o

其れ以前に、「明治天皇」は孝明天皇の子ですらない【孝明天皇暗殺と睦仁親王すり替え事件】
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/816.html
投稿者 皮肉屋 日時 2004 年 6 月 01 日 10:32:12:0dIQZfg1bPDtc

右翼の大半はユダヤに操られる日本破壞工作を目論むエージェンント朝鮮人だから有害。
尊皇攘夷運動で驅逐せねば日本の將來は無い
http://www.asyura2.com/0510/senkyo16/msg/1247.html
投稿者 救國の草莽の志士 日時 2005 年 11 月 22 日 23:17:32: fzrYJ5Wj4Dt36

[太田龍の時事寸評]長島銀藏著「皇統正史」に關する寸評2つ
http://www.asyura2.com/0505/bd41/msg/675.html
投稿者 あつしら 日時 2005 年 10 月 27 日 03:45:35: Mo7ApAlflbQ6s

第一囘目の天皇すり替えの經過(孝明天皇暗殺&大室寅之祐を明治天皇に
すり替へた事件の詳細)
http://www.asyura2.com/0510/war76/msg/435.html
投稿者 救國の草莽の志士 日時 2005 年 11 月 26 日 13:20:57: fzrYJ5Wj4Dt36

日本人が知らない近・現代天皇制の驚異の眞相
http://www.asyura2.com/0601/senkyo18/msg/342.html
投稿者 眞相ハンター 日時 2006 年 1 月 04 日 18:00:59: Zk4s5qq50i/J2

大室寅之祐が明治天皇に成つたと云へる勇氣を持たう!
【明治維新眞實情報公開法案の早期法案提出を】
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/551.html
投稿者 愚民黨 日時 2006 年 8 月 23 日 01:51:24: ogcGl0q1DMbpk

ニセ奇兵隊天皇「大室寅之祐」を捏造した長州が又自衞隊海外派遣恆久法制定めざす安倍―
エセ長州こそ、「大日本帝國」の主體
http://www.asyura2.com/0601/senkyo25/msg/680.html
投稿者 救國の草莽の志士 日時 2006 年 8 月 26 日 00:21:25: fzrYJ5Wj4Dt36

大室寅之祐 明治天皇の誕生 (1)  投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/205.html
投稿者 愚民黨 日時 2006 年 9 月 16 日 08:08:17: ogcGl0q1DMbpk
 
 
 
                                        をはり
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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