大正時代史1

 

 (最新見直し2005.10.4日)

 これより以前は、その後の政局、明治天皇崩御まで


1912(明治45→大正1)年の動き

【大正天皇即位】
 1912(明治45).7.30日、明治天皇崩御と発表。皇太子嘉仁親王即位し、大正天皇即位。年号を大正と改元する。

 8.13日、天皇、明治天皇の遺業を継ぐにあたっての勅語を元老5名(山県、大山、桂、松方、後に西園寺)に対し下す。山県、大山、桂、松方、井上の5公候が元老の勅語を賜る。12.5日、西園寺も元老となる。


 8.1日、鈴木文治らが労働者の扶助組織「友愛会」を設立。


 8.13日、桂は、内大臣兼侍従長に任ぜられた。

 8.13日、朝鮮総督府,土地調査令制定〔制〕。

 8月25日 孫文、宋教仁ら国民党を結成。

 8月26日 衆議院の無所属議員40人が社交倶楽部「同志会」を結成。

【明治天皇大喪】

 明治天皇の大喪は、9月13日から3日間にわたり行なわれた。大喪費用は当時の金で150万円であった。午後8時、1発の号砲を合図に明治天皇の霊柩を乗せた轜車(じしゃ)は、78対の松明(たいまつ)に導かれて宮殿を出発。轜車が青山の葬場殿に到着したのは夜の10時56分。葬場殿の儀が終わったのは午前零時45分である。夜間の葬列のため、その準備も大変だった。

  皇居の正面の二重橋から西の丸の馬場先門までの間には、約20メートル間隔で高さ6メートルの根越榊10対を立て、その土台には約45センチの白木の台に白木の枠を設けた。榊の梢からは黒白、あるいは濃い鼠色の帛(絹布)を垂らし、榊と榊の間に約18メートルの間隔で、高さ3メートルのガスのかがり火を20対設置した。このかがり火は赤松の丸太3本を組み合わせて作ったもので、これにしめ縄を張り、さらに榊のかがり火の後方には10対のアーク灯を点じ、辺り一帯を真昼のように照らした。馬場先門からは36メートルおきに9メートルの柱を立て、その上にアーク灯をつけた。その間に18メートルおきに、黒白の布を巻いた間柱を立て、頂上から幡旗をつるし、途中で緑葉の環を付けた。さらに柱と柱の間には銀色、あるいは黒白の喪飾りを施した。麹町大通りは車道と人道との間に黒の幔幕を張り、各戸に白張りの提灯を掲げた。

  青山大葬場入口左右には、擦りガラスをはめた高さ8メートルの白木作りの春日形大燈篭一対を立て、総門の左右には清涼殿形の吊り燈篭4個を立てて、夜間の葬列にふさわしい備えをした。


【乃木大将夫妻の葬儀】
 9月13日 明治天皇大喪。乃木希典夫妻殉死。

 明治天皇大葬の当夜、霊柩発引の号砲を合図に自刃を遂げた乃木大将夫妻の葬儀が9月18日に行なわれた。午後3時赤坂の自宅を出棺、青山斎場に於て神式の葬儀を執り行なった。午後2時半にラッパの合図第1声とともに、前駆並びに花旗の行列を整え、第2声で大将の棺を載せた砲車、及び夫人の棺を載せた馬車の出発準備に取り掛かり、葬儀係はいずれも行列位置についた。次ぎに会葬者一同出発準備をして、第3声「気を付け前へ」の合図とともに行進が始まった。午後4時、祭式が始まり、4時25分、道路に整列した1個連隊の儀杖兵は、「命を棄てて」のラッパの吹奏を終えて、一斉に銃口を天に向け3発の弔銃を発射した。

  午後5時頃より一般会葬者の参拝が始まった。葬儀委員の3名は椅子に登って「礼拝が済みますれば、すぐにご退出を願います。後がたくさんでございますから、何とぞ早くご退出を願います」と声を嗄らしても、棺前で泣き伏して棺の前を去らない人もいた。5時45分には、一般の参拝を差し止めたがなかなか人は減らず、なかには白髪の老人が懐から祭文を取り出し、涙を流しながら朗読し始め、委員が「ご祭文はそこに置いていただきます」といっても聞き入れないというひと幕があった。


10月 1日 荒畑寒村大杉栄ら「近代思想」を創刊。
11月10日 西園寺公望山県有朋、朝鮮2個師団増設問題について協議するが、決裂に終わる。
11月22日 上原勇作陸相、朝鮮二個師団増設案を閣議に提出。
11月26日 東京商業会議所、師団増設反対、行政整理実行要求を表明。
11月30日 閣議、財政難を理由に朝鮮二個師団増設案を否決。

 11.24日、第2インターナショナル,バーゼル大会。


【陸軍の二個師団増設問題】

 陸軍の二個師団増設問題が持ち上がり、西園寺内閣が致命的な一打を与えられた。 西園寺内閣は内閣成立の当初から緊縮財政を訴え、もし新規立ち上げの改革・もしくは軍備拡張などに関しては行政・財政改革によって浮く財源の範囲内においてこれを行おうとしていた。

 この時、山本権兵衛海相らが要求した海軍の戦艦3隻建造予算600万円は認められていた。そこで陸軍も、軍務局長・田中義一中佐らを起草者として、ロシア戦力の北満における膨張を理由に陸軍常備兵力二十五個師団の計画を立て、十カ年計画で六個師団を増設、当面2個師団増設その予算200万円を石本新六陸相を通じて閣議に捧呈した。しかし閣議はこの案件を承認しなかった。西園寺の反陸軍、親海軍姿勢が打ち出されたことになる。

 軍務局長・田中は、「政府がこの重大国防問題に無関心である理由が分からぬ」と憤慨した。その憤慨が陸軍長州閥の未来の指導者と目されていた田中を、新陸相で薩派の上原勇作大将に近づかせることになった。

 11.22日、上原陸相は田中軍務局長と結んで二個師団の増設を閣議に要求したが、閣議は再度これを突っぱねた。陸軍も妥協せず、事態は平行線を辿り、ついに閣議は11.30日、閣議は、財政上不可能として否決。上原陸相の辞任を勧告し、後任を得られないときは総辞職と決定した。

 12.2日、上原陸相は妥協せず、参内し、軍部大臣に認められている帷幄上奏権でもって天皇に対し直接単独で辞表を捧呈した。当時陸海軍大臣は現役の大中将に限定されていた。内閣は後任陸相を得られなかった。西園寺首相は、12.3日、山県を訪問したが、後任の推薦を得られなかった。あるいは大命再降下があるかと、原などは踏んだが、もし再降下があっても西園寺にはやる気がなかった。

 12.5日、西園寺内閣は遂に総辞職となった。(閣議で2個師団増設案否決。上原陸相辞任し、西園寺内閣総辞職) 西園寺は、辞職すると同時に元老の一人に列せられた。

 彼は後にこう述べている。

 「もちろん強いてやればわたしにまだやれないことはなかっただろうが、何かやるには多少の余裕を残す方がよいというのが、わたしの平生の考え方だから、固執はしなかった」(「西園寺公望自伝」1949、木村毅編) 

 第2次西園寺内閣が成立した頃には、日本の財政は非常に悪化しており、行政・財政の整理はさけられない状態にあった。しかし1911年の中国での辛亥革命に刺激された陸軍は、治安維持もかねて朝鮮に駐屯させる2師団の増設を政府に強くせまった。政党に基礎をおく内閣と軍部が対立するなかで、憲法学者( 1 )が天皇機関説と呼ばれる政党内閣を支持する憲法論を公刊し、世論は立憲政治の大切さに目覚め、陸軍の横暴にいきどおった。明治天皇が崩御して大正天皇が即位し、国民があたらしい政治を期待したことも、国民の政治への関心を高めた。

 このような中で、1912年末2師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を天皇に提出したため、政党に支持された西園寺内閣は総辞職に追いこまれた。西園寺のあとをうけて、内大臣と侍従長とを兼任していた桂太郎が、第3次桂内閣を組織すると、宮中と政治の境界をみだすものという非難の声があがり、立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の( 2 )を中心に、商工業者や都市民衆も加わり、「閥族打破・憲政擁護」をかかげた運動が全国的に広がった。この運動を第1次( 3 )という。

 長州出身で陸軍を代表する桂の後は、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛が政友会を与党に内閣を組織した。この内閣は行政整理を行うとともに、文官任用令を改正し、また軍部大臣現役武官制を改めて予備・後備の将官にまで資格を広げ、官僚・軍部に対する政党の影響力の拡大につとめたが、1914年、ドイツの会社からの軍艦購入などに関する汚職事件がもとで退陣した。この海軍高官の汚職事件を( 4 )という。

 一方、20世紀初頭のヨーロッパ大陸は、ヴィルヘルム2世のもとで軍備を拡張し積極的な世界政策を進めるドイツにオーストリア=ハンガリーとイタリアを加えた( 5 )と、ロシアとフランスの同盟(露仏同盟)とに二分されていた。しかし、イギリスが露仏同盟側について事実上の( 6 )が成立したことにより、力の均衡がくずれた。このようななかで、1914年オーストリア皇太子が親露的な隣国のセルビア人に暗殺されるサライエヴォ事件が起きると、両国のあいだに戦争がおこり、たちまちドイツとロシアとの戦争に拡大した。さらにフランスとイギリスもロシア側について参戦したため、戦いは4年あまりにおよぶ世界史上空前の大戦となった。第一次世界大戦の始まりである。

 この第一次世界大戦は、明治末期からの日本の経済不況と財政危機とをいっきょにふきとばした。戦争によってヨーロッパ列強が後退したアジア市場には綿織物などの、また戦争景気のアメリカ市場には生糸などの輸出が激増し、貿易は大はばな輸出超過となった。

 また世界的な船舶不足のために、海運業・造船業は空前の好況となり、日本は世界第3位の海運国になり、いわゆる( 7 )がぞくぞくと生まれた。しかし、この大戦景気の底は浅かった。空前の好況が資本家をうるおして成金を生んだいっぽうでは、物価の高騰で苦しむ多数の民衆が存在した。また、工業の飛躍的な発展に比較して、農業の発展は停滞的であった。

 そのような中、高揚した民衆運動は日本の政治思想に大きな影響をあたえ、1916年には( 8 )が民本主義を提唱するなど、政治の民主化を求める国民の声はしだいに強まっていった。そして、第一次世界大戦における連合国の民主主義・平和主義の提唱や、ロシア革命などをきっかけにして、日本でも社会運動が勃興した。大戦中の産業の急速な発展によって労働者の数は大はばに増加したが、物価高でその生活は苦しく、そのため労働運動が大きく高揚し、労働争議の件数は急激に増加した。

 1912年、労働者階級の地位の向上と労働組合の結成とを目的に鈴木文治によって組織された( 9 )は、この時期に労働組合の全国組織として急速に発展した。1919年には大日本労働総同盟( 9 )と改称し、1921年にはさらに日本労働総同盟と改め、労資協調主義からしだいに階級闘争主義に方向を転換した。この組織を中心として広く労働運動が展開され、また1920年には第1回メーデーも行われた。この前後から小作料の引下げを求める小作争議が頻発し、1922 年には全国的組織として( 10 )が結成された。


【後継首相及び組閣が難航】
 12.7日、元老会議、松方正義を後継内閣に推挙。12.10日、松方正義、首相指名を辞退。12.12日、元老会議、平田東助を首相に指名。12.14日、平田東助、首相指名を辞退。12.17日、桂太郎に組閣大命。斎藤海相、海軍充実計画延期に反対して内閣留任を拒否する。12.21日、斎藤海相、勅命により海相留任。

【第3次桂内閣成立】
 紛糾の末、第3次桂内閣成立。

12月22日 靖国神社で新刀の試し切り大会開催。

 こうして、はじめての陸軍による倒閣が成功した。しかしこの事態に朝野は激昂する。そして、一時は政界を退くと言った桂が、内大臣の印綬を捨てて首相の座に再び返り咲いた事態をみて、今回の倒閣は桂の陰謀であると民衆は確信する。こうして、大正政変の幕が開いたのである。

【第1次護憲運動】
  1912(大正元)年から13(大正2)年にかけて、第三次桂内閣の成立過程において、第一次護憲運動が起った。
12月13日  師団増設に反対する新聞記者、弁護士などが「憲政作振会」を結成。大阪朝日の本多精一、元時事新報記者の小山完吾、実業家の名取和作に加えて、政友会の岡崎邦輔から尾崎行雄へ、そして古島一雄から犬養毅へ連絡が行き、政党の枠を越えて代議士たちもこの集会に集った。
12月15日  政友会三派、官僚政治根絶、憲政擁護を決議する。
12月19日 東京で第1回憲政擁護連合大会開催。第一次護憲運動拡大。
12月24日 山県有朋暗殺未遂事件発生。
12月27日 桂首相、政友会切り崩しのため、新党結成を発表。

 東京で憲政擁護大会が開催され、以降東京は騒擾の巷と化した。議院はとりまかれ、桂内閣に不信任案をたたきつけるべく登院する政友会・国民党代議士にはやんやの喝采が与えられ、桂派の代議士たちは俥からひきずりおろされてもみくちゃにされた。政友会・国民党は不信任案を提出せんとし、内閣は直ぐさま解散で応えようとした。ところが、大岡育造衆院議長が総理大臣室に駆け込んできて、議院外の情勢をつぶさに説いて考慮を求めた。桂首相は説き伏せられ、内閣総辞職の道を選んだ。護憲運動の群衆たちも三々五々、散っていった。

 12.31日、内地人口・5252万2753人、東京市人口・200万9980人、外地人口・朝鮮・1456万6783人、台湾 321万3221 人、樺太2150人(統計年鑑・日本帝国統計年鑑・日本統計年鑑)と発表される。

 1913年、米国で連邦準備法が成立し、ロスチャイルド派が米国の通貨発行権を獲得した。


1913(大正2)年の動き


 1.4日、大杉栄荒畑寒村ら第一回近代思想社小集会開催。


 1.12日、東京日比谷公園で第2回憲政擁護大会。1.13日、大阪土佐堀青年館で憲政擁護演説会開催。1.17日、全国記者大会が築地精養軒で開催。400人が出席し、「憲政擁護・閥族打破」を決議。1.19日、政友会と国民党が大会を開き、桂内閣打倒を決議。1.22日、東京歌舞伎座で「憲政擁護連合大会」開催。1.24日、新富座で憲政擁護第二回連合大会開催。1.26日、名古屋新守座で憲政擁護東海11州大会開催。2.1日、憲政擁護大阪大会が中之島公園で開催される。2.9日、第3回憲政擁護大演説会開催。


 1.20日、桂首相、新党結成を発表。1.21日、.桂首相、第30議会に於いて15日間の議会停会を宣言。1.30日、桂新党・立憲同士会の結党宣言が行われ、立憲国民党脱党者らを含め83名が参加する。1.31日、河野広中、島田三郎、箕浦勝人、武富時敏ら、桂新党参加を表明。2.7日、結党式を2.23日に行う旨発表。


 1.28日、文部省、学校での兵式体操を教練と改める。2.2日、森鴎外、陸軍医務局長兼任のまま宮中御用係に任命される。


【大正政変】

 2.5日、議会が再開され、政友会と国民党が桂内閣不信任案を提出。尾崎行雄、弾劾演説。桂首相は5日間の議会停会を命令。議会議事堂周辺に桂内閣糾弾の民衆数万人が集結。.この頃、大正天皇が、政友会総裁・西園寺公望に対し、事態収拾の為に尽力すべしとの優言定降下(天皇の御言葉)が為されている。

 2.7日、桂、新党を立憲同志会とし、国民党離党者ら、立憲同志会に合流。2.8日、桂太郎、西園寺公望政友会総裁と会見し、不信任案撤回を要請。西園寺は、原敬や松田正久らとの協議の上これを拒否。

 2.9日、天皇、政友会総裁の西園寺公望に議会での政争緩和の勅諚を出す(西園寺違勅事件)。

 「諒闇(りょうあん)中に衆議院が紛糾していることは憂慮に堪えず、卿は国家の重臣であるからして朕の意を体し解決に努力せよ」。

 つまり、不信任案を撤回し解決せよとのみ言葉であった。

 2.10日、桂首相、内閣不信任回避のため議会3日間の停会を命令。これに反発した護憲派民衆数万人が議会を包囲。また各地で暴動が起こり、警察署や政府系新聞社などを襲撃。軍隊が出動する騒ぎとなる。帝都は血の雨で染まった。政友・国民両党、内閣不信任案。提出。

 同日、「薩の海軍」の中心者・山本権兵衛海軍大将は、桂邸に乗り込み、「山県とあなたは新帝を擁し勢威を弄んで天下の禍を引き起こした」と罵倒、辞職を求めた。

 2.11日、桂内閣総辞職。在職僅か53日という短命で倒壊した。この経緯を大正政変と云う。


 2.12日、山本権兵衛に組閣の大命降下。2.19日、政友会、山本内閣支持を決議。当初は山本の協力要請を拒否していたが、急遽転換し、外務、陸海軍の3大臣以外の閣僚は全て政友会会員もしくは今後の入党者で占め、組閣に協力していった。国民党と決裂する。


第一次山本権兵衛内閣
 2.20日、第一次山本権兵衛内閣成立。内務に原敬、大蔵に高橋是清、司法に松田正久、農商務に山本達雄、逓信に元田肇など政友会の領袖が揃い踏み入閣。これに対して、憲政擁護運動派が反発。政友会も二つに割れて、尾崎らの中正会が誕生していくことになる。

 2.23日、尾崎行雄ら政友会の入閣反対派が政友倶楽部を結成。西園寺は総裁職を辞し、後事を松田正久、原敬に託して京都に隠遁した。世に、「西園寺の違勅問題」と云う。


 大正2年(1913)山本権兵衛内閣。官制を改正して陸海軍大臣の任命資格から現役という制限を除いた。これによって、予備や後備の大将・中将も陸海軍大臣に任命できるようになった。「軍部大臣現役武官制の廃止」。

 2.13日、15日にかけて、神戸で立憲同志会に参加した議員の邸宅や政府系新聞社を襲撃する事件が相次ぐ。2.16日、広島で立憲同志会などに対する騒擾事件が起こる。2.17日、京都立憲青年会発会。民衆が立憲同志会などに対して騒擾を起こす。

 2.13日、孫文、長崎に到着。2.16日、頭山満が歓迎。
5.19日、宮崎滔天、革命軍支援のため上海へ向けて出発。

 3.16日、関西連合護憲、閥族打倒大会を開催。3.20日、高砂座で憲政擁護大会を開催。4.15日、犬養と尾崎が岡山駅前広場に設営された歓迎式場に臨席。翌4.16日、下石井の大蔵省用地(後の煙草専売局)で憲政擁護露天大演説会を開き、3万人が参加する。

 4.22日、木越安綱陸相、軍部大臣現役武官制度の廃止を承認。

 4.27日、袁世凱、国会を無視して対中国借款団5カ国と2500万ポンド借款契約に独断で調印。

 6月、.軍部大臣現役武官規定を削除。頭山満ら孫文歓迎会を開く。

 7月、大杉栄、荒畑寒村らサンディカリズム研究会を起こす。
 7.12日、中国江西省で李烈鈞が袁世凱からの独立を宣言、第2革命始まる。以後、安徽省、湖南省、広東省、福建省、四川省が独立を宣言。
 7.13日、政府、中国の情勢を見て国号の呼称を「清国」から「支那共和国」と改める。
 7.29日、南京の革命軍が袁世凱に与し、袁政府軍が優勢となる。

 8.5日、広東独立運動が失敗に終わり、孫文、日本亡命のため台湾へ向かう。8.8日、孫文、門司に到着。8.11日、日中折半出資で投資仲介機関「中国興業」が興され、孫文が総裁に就任。
 9.1日、袁世凱軍が南京を占領し、第2革命は失敗に終わる。占領時在留に日本人が殺害される(南京事件)。9.7日、対中国問題国民大会が日比谷公園で開かれ、即時出兵が決議される。9.10日、駐中国公使、南京事件を抗議。
 10.5日、政府、中国から満蒙3鉄道の借款権と2鉄道の借款優先権を獲得。10.6日、日本を始め、各国が中華民国政府を承認する。10.10日、袁世凱、中華民国大総統に就任。11.4日、袁世凱、国民党を解散し国会を解体。
 10.11日、台湾で中国本土の革命に呼応した抗日独立蜂起計画が発覚。270人あまりが検挙される。

 12.23日、.立憲同志会結成(総裁加藤高明)。

12月25日 天理教本部神殿が完成。

1914(大正3)年、第一次世界大戦前までの動き

【シーメンス事件】
 1.22日、シーメンス社東京支店社員カール・リヒテルの恐喝事件判決が伝わる。日本海軍に対する贈賄の機密書類を盗み出し恐喝行為をしたというもの(シーメンス事件)。 1.23日、シーメンス事件の報道を受け、衆議院予算委員会で同志会の島田三郎議員が汚職について質問。1.26日、シーメンス事件を受けて、海軍に査問委員会が設置。イギリス・ヴィッカース社の戦艦「金剛」発注に絡む収賄が発覚する。2.1日、東京本郷座で対支連合会主催のシーメンス事件内閣弾劾大演説会開催。2.4日、東京地裁検事局、英国ヴィッカース社の社員を召還。

 2.5日、憲政擁護大会、築地精養軒で開かれる。薩閥根絶・海軍郭清を決議。2.6日、各政派連合全国有志大会が東京国技館で開催。内閣弾劾を決議する。2.9日、シーメンス事件に関して、沢崎寛猛海軍大佐を拘禁。2.10日、シーメンス事件で、国民党・同志会・中正会の野党3派が共同で衆議院に山本内閣弾劾決議案を提出。弾劾決議案は与党政友会の反対で否決。議会周辺で抗議の民衆と警官隊が衝突する。2.10日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開催され、軍隊が出動する。

 3.31日、シーメンス事件に関して、松本和呉鎮守府司令長官を収監。5.11日、海軍人事大異動発令。山本権兵衛海軍大将、斉藤実海軍大将が、シーメンス事件の責任をとって予備役編入となる。5.29日、海軍軍法会議、シーメンス事件で、松本和中将、澤崎寛猛大佐に有罪判決。


 2.25日、河野広中ら、警察官刃傷・民衆拘留事件で、原敬内相弾劾決議案を衆議院に提出。2.26日、原敬内相弾劾決議案否決される。3.23日、同志会・国民党・中正会が内閣弾劾上奏書を衆議院に提出。議会3日間停会命令がでる。


 4月、原敬、政友会総裁に就任。


山本内閣総辞職
 2.12日、衆議院、海軍拡張費、建艦費3千万円を削除して予算案を可決。3.13日、貴族院が海軍拡張費をさらに4千万円削減し、計7千万円削減の予算案を決議。3.23日、貴族院、両院協議会を否決し、1914年度予算案は不成立となる。3.24日、貴族院、海軍建艦費大削減。予算案不成立のため、山本内閣総辞職。

第2次大隈内閣
 3.29日、元老会議は、徳川家達を後継首相に推薦し、大命降下する。3.30日、徳川家達、首相就任を辞退。3.31日、清浦奎吾に組閣大命が下る。4.7日、 加藤友三郎、海相就任を拒絶し、清浦奎吾、組閣を断念。

 4.13日、大隈重信に組閣大命降下。大隈は、同志会を与党とし、国民党及び中正会の支援を得るべく犬養毅と尾崎行雄に入閣を打診した。尾崎は受諾し、犬養は閣外協力を約束した。

 4.16日、第2次大隈内閣成立。

 4.18日、大阪北浜銀行が取付騒ぎとなる。4.25日、日銀、北浜銀行に対し救済融資を決定。 


 5.4日、 第32臨時帝国議会招集(〜8日)。


 5.23日、杉浦重剛、東宮御学問所御用掛(倫理科)に就任。


 5.25日、福田狂二ら、日本労働党を結成。


 6.7日、 板垣退助ら、帝国公道会結成。


 6.10日、三菱長崎造船所立神工場で穿孔職工340人がストを実施。6.20日、東京モスリン、1000人を解雇。残留職工2800人は3割減給反対争議を実施。6.28日、東京モスリンの工員工友会が結成される。7.14日、東京モスリン、工友会幹部12人を解雇。7.15日、東京モスリンの工友会会長を治安警察法違反で検挙。


 6.17日、日本労働党に対し結社禁止命令が出される。


 6.18日、原敬、立憲政友会総裁に就任。「憲政会を支持する三菱と政友会支持の三井」の構図。


 6.20日、第13回臨時帝国議会招集(〜28日)。6.23日、大隈内閣、陸海軍軍備拡張計画の調整のため、防務会議を設置。6.26日、衆議院、軍艦建造費補充案を可決。6.28日、貴族院、軍艦建造費補充案を可決。 

 大正以降は、軍部の気に入らぬ政策(例えば財政再建)は陽の目をみることができず、政府の存在も許されぬ、という不文律が横行し始め、軍事費は不可侵の聖域にのし上がって財政再建のガンとなった。


 6.28日、オーストリアの皇太子夫妻がボスニアの首都サラエボでセルビア人過激派に暗殺される(サラエボ事件)。


 7.8日、孫文、上野精養軒で中華革命党結成大会を開催。


 これより以降は、第一次世界大戦前後の流れ





(私論.私見)