(検証 昭和報道)捜査当局との距離は 新聞週間特集
2009/10/11, 朝日新聞
「新聞は捜査当局の応援団と化している」と、しばしば批判される事件報道。果たしてそうなのか。
=敬称略
(村山治、藤森研、河原理子)
●「権力の乱用」反発する報道側 検察、出入り禁止で圧力
裁判所や検察庁などの担当記者でつくる東京・霞が関の司法記者クラブ。その総会で、毎日新聞の除名処分は、あっけなく決まった。
1965(昭和40)年10月。日本専売公社OB議員の組織ぐるみの選挙違反事件の捜査は大詰めを迎えていた。クラブ各社は「東京地検が議員を起訴するかどうかは発表まで書かない」と申し合わせた。だが毎日は、発表前の16日朝刊で「起訴せず」との見通し記事を掲載した。
毎日は当時、特ダネを連発する一方、誤報もあって、検察と同業他社の反発を買っていた。この記者クラブの内輪もめに、検察が関与してきた。「検察は記者クラブ加盟社だけを相手にしている。除名社とは会わない」。毎日は、東京地検のスポークスマンである河井信太郎次席検事による定例会見から締め出された。
検察と記者クラブの間で、次席検事が会見で起訴を発表するほか、逮捕、捜索などの確認にも応じる慣例ができていたとされる。会見に出ないと、大ニュースになることが多い特捜事件の説明を聞けなくなる。河井にならって毎日の取材を拒否する部長らもいた。
毎日は系列の放送局から会見内容を聞くなどして、自社だけ記事が載らない「特落ち」を回避していた。
しかし、12月15日、政界事情に通じた貸金業者らを特捜部が詐欺で再逮捕した記事を各社が大展開する中で、毎日は特落ちする。朝日は都内に配る朝刊から社会面の両面を使って記者座談会を含め詳しく報じた。
「愕然(がくぜん)とした。毎日がへこたれないのに業を煮やした河井が、毎日にダメージを与えるため何らかの作為的な方法で各社に再逮捕を伝えたとしか思えない。一生消えない記憶だ」と、毎日のキャップだった田中久生(82)は振り返る。
毎日新聞は音をあげ、クラブに全面降伏。キャップの田中と検察担当記者2人を交代させ、再加盟した。検察の組織的な取材拒否は、記者側への強烈な見せしめとなった。除名当時、毎日の司法担当だった元筑波大教授の天野勝文(75)は「クラブの内紛を巧みにとらえ、『発表以外は何も書かせない』という河井イズムを徹底するため、毎日の除名が利用された。検察で今も続く『出入り禁止』の原型となったといってよいのではないか」と分析する。
出入り禁止とは、クラブ各社に検察が科す制裁措置だ=キーワード。
「特捜部の出入り禁止は、私が特捜部長時代の79年ごろから、私が考えてやったのが初めてだろう」と元検事総長の吉永祐介(77)は、94年7月、講演で語った。吉永は河井の愛(まな)弟子で、ロッキード事件などを手掛けた。歴代の特捜部長らは、吉永の情報管理路線を踏襲した。
出入り禁止になっても、記者は検察取材を続ける。吉永が地検トップの検事正時代に朝日の検察担当だった山中季広(45)は「捜査の動きを書けば、即出入り禁止。容疑者逮捕の会見にすら入れず悔しかった。処分が3カ月も続いたことがあった」という。
当時、朝日のキャップだった松本正(63)は「出入り禁止でも取材のうえで支障はほとんどなかった。しかし、こうした措置自体が『権力の乱用』と考えていた。あまりに理不尽な場合は反論し、撤回となったこともある」と振り返る。
検察はメディア側の「捜査妨害」を防ぐために出入り禁止は必要だと説明するが、捜査内容が報道されただけで政界などから「リーク」「検察ファッショ」などと攻撃されることに対する「無罪証明」でもある。
メディアは政治腐敗を暴くという面では検察にある種の連帯感を抱きつつ、権力としての検察を監視する役目も担う。両者の関係は単純ではなく、外から見るとわかりにくい。それが昨今、「報道は検察に近すぎる」との批判を受けている一因と思われる。 |