1968(昭和43)年、青年作家の石原慎太郎氏が参院選全国区に出馬。1969(昭和44)年、慎太郎と勇二郎は、ともに政治団体「日本の新しい世代の会」を旗揚げした。政治好きだった勇二郎は、石原の政治団体「日本の新しい世代の会」の関西地区の選挙責任者となり支援している。作家の大下英治氏が当時の2人の関係を語る。
「慎太郎氏が立候補したとき、関西の選対で陣頭指揮を執っていたのが、勇二郎氏だったんです。勇二郎氏は慎太郎氏を支援していたというより、傾倒していましたね」。 |
選挙の結果、慎太郎は史上最高の301万票を集めて初当選。
翌年、勇二郎(44歳)が衆院選で旧兵庫2区から出馬した。娘の百合子氏が17歳の時。だが、自民党の公認は得られず、「新しい世代の会」を看板に無所属での立候補だった。1969(昭和44)年12.10日の毎日新聞紙上で、石原慎太郎が小池百合子の父、勇二郎氏について次のように語っている。
「小池さんという人は、いってみればボルテージの高いつむじ風のような人物である。神出鬼没、まさしく戦国向きの人物である。画一化された人が多い当節、得難い魅力がある」。
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貿易会社の社長だった勇二郎が人生をかけたこの選挙で惨敗。その結果、事業が左前となり、芦屋市にあった邸宅を売り払うまでになった。兵庫県選出の元国会議員が振り返る。
「慎太郎さんの手配で、当時から側近だった浜渦武生さんや、後に参議院議員になった鴻池祥肇さんが、勇二郎さんの選挙を手伝っていました。しかし慎太郎さんの選挙区入りのような、直接の支援はなかったと記憶しています。当時、高校生だった百合子さんは、父親が一方的に入れあげてばかりの慎太郎さんに、複雑な気持ちがあったと思いますよ。小池家にとって、石原家は近いようで遠い存在なんです」。 |
週刊ポスト2017年3月24・31日号「浜渦氏・鴻池氏も仕えた 小池百合子氏の父・勇二郎氏の人物像」。
国政と都政で国民の注目を浴びる3人──。豊洲市場移転の土地取得交渉にあたった浜渦武生・元東京都副知事。国有地払い下げ問題に絡む「森友学園」問題で、理事長夫妻の陳情を受けていた鴻池祥肇(よしただ)・元防災相。そして7月の都知事選で日本の政治の常識を一変させるかもしれない小池百合子・都知事。この3人がある人物を通じて結びつくことを知ると、奇しき因縁を感じざるを得ない。小池氏の亡父・勇二郎氏のことである。
小池都知事が高校生の頃、兵庫県芦屋の小池邸には、父の勇二郎氏の書生として“百合子嬢”より5つ年上の関西大学の学生が住み込んでいた。後に東京都副知事となる浜渦武生氏である。小池邸の離れで「よく木刀を振っていた」という証言もある。やはりその時代、小池邸に出入りしたのが、後に防災相、内閣官房副長官などを歴任する鴻池氏だった。こちらは1回り(12歳)違いだから、“百合子嬢”の目には“鴻池のおじさん”くらいに映っていたのだろう。無論、それから40余年後に政界の中心で交わりを持つことになろうとは、若き日の3人も想像しなかったはずだ──。 |
同じ総選挙で隣の旧兵庫1区から初当選した石井一・元民主党副代表が語る。「本人は石原慎太郎との関係があるから選挙は大丈夫と楽観視していたが、私から見ても泡沫候補でした」。この勇二郎氏の「最初で最後の選挙」を手伝ったのが、鴻池氏と浜渦氏だった。しかし政治好きというだけでは選挙には勝てない。落選が濃厚になると、泥舟から逃げ出すように事務所からは1人去り、2人去りと淋しくなる。浜渦氏はこう振り返っている。
〈選挙戦の最終日、勇二郎さんと鴻池さんと私の3人だけになった。3人で尼崎のガード下で焼き肉を食ったのを今も忘れられません〉(週刊朝日2016年10月28日号) |
結果は7000票しか取れずに落選。娘の百合子氏は、〈町の有権者相手に、アルジェリア情勢などを滔々と語る演説では勝てるはずもなかった〉(前出・文藝春秋)と書いている。
小池一家はその後、東京に移り、都内のアパートで暮らし始める。その後、百合子はカイロに留学し、アラビア語のスキルを手に入れて帰国。帰国して数年後に勇二郎氏の事業が傾き、芦屋の家を失う。勇二郎は朝堂院大覚に金を出して貰ってカイロに渡り日本料理店『なにわ』をオープンさせ、20年以上カイロに住んでアラブ人脈を温め、日本に帰国後、2013年に90歳で亡くなった。朝堂院こと松浦が、「刑務所に行った間に、出資金や財産を奪った詐欺師一家だ」と松浦がテレビで喋りまくっている。裏の世界に詳しい朝堂院が、小池が学歴詐称だと強調している。後ろめたいストリーがあるに違いない。
https://www.youtube.com/watch?v=PnWUW5XKrtA&t=673s
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