小池百合子韓国人説、小池勇次郎考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).6.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、小池百合子韓国人説疑惑を確認しておく。

 2007.4.9日 れんだいこ拝



【小池韓国人説】
 小池の韓国人説浮上!このピラミッドに登った頃には!!着物を二十歳過ぎて左前に着る!そんな日本人はイナイよ!
 https://www.sanspo.com/geino/news/20170428/pol17042811000001-n2.html

 暗闇で着ようが目を瞑って着ようが左前には着ない。断言できる。まあ、小池は左前に着物着る程度には日本人だったんだろうね・・・ 韓国から来てくれた観光客の若者が花火を見に浴衣で出かけたとき自分たちだけで着替えて出かけると左前に着たまま平気で街中歩いてたりするよね・・・

 2016.9.9日、リオ五輪の閉会式の五輪旗を引き継ぐ「フラッグハンドオーバーセレモニー」に、小池百合子都知事が次大会の開催地である東京を代表し、着物姿で登場した。小池氏は、「日本のおもてなしを最大限に象徴するものとして和装で出席し、リオでのおもてなしの心を表現した」と述べた。

 TOKYO MX「5時に夢中!」に出演したおすぎ&ピーコがNOを突きつけた。おすぎは「あんなに着物の着方がヘタの人っているのかと(思った)」と切り出し、ピーコと声を揃えて「帯がこんなとこ!」と胸のあたりの高い位置にあった帯について指摘した。ピーコは「あのぐらいの年齢(とし)の人だったら、もっと下にして…。上にするのは娘」とバッサリ。金曜アシスタントのミッツ・マングローブが「政治家だから、清純性が…」と若い娘のような帯の締め方をフォローしたが、ピーコは「顔みたら違うじゃない」と辛口批評した。ファッション評論家としても活躍する2人の批評はなおも続き、ピーコが「着物って着慣れないと着方が…」、おすぎも「足元がおぼつかないわけよ。(着物の)全体が上がっちゃって。もうちょっときれいな着方すべきだったわね」と手厳しかった。
 週刊新潮 2016年12月29日・2017年1月5日新年特大号掲載「小池都知事、闇金業者の愛人の着物でリオ閉会式に 未記載のブラックマネー問題」参照。

 小池都知事(以下小池と表記する)と東京・池袋で闇金を営んでいた闇金業者の男(82)(以下Aと表記する)の長男(58)が次のように証言している。Aが小池と知り合ったのは2012年。男と付き合いのあった石破茂前地方創生相から、自民党総裁選についての小池都知事への“伝言”を頼まれたことがきっかけだった。同年6月頃、自宅に招かれ中華料理を振る舞われた。以降、小池はAからパーティ券を買ってもらうようになった。12年に開かれた「議員在職20年を祝う会」や、13年に行われた“出版記念パーティ”でも、2万円のパーティ券をそれだけの枚数購入している。小池の政治資金収支報告書にAよる購入の記載はない。「政治家では、石破さん、小池さん以外に、下村博文元文科相、太田昭宏前国交相などのパーティ券も毎年、上限を超える額を引き受けていた。一方、父親は7年半前に、故郷に広大な墓地をつくり、そこに自分の銅像を建立すると、わざわざ石破さんや太田さんを招いて、盛大な除幕式を執り行いました」。小池都知事の場合、Aから世話をされていたのはパーティ券だけではなかった。「小池さんは、父親と知り合った翌年の13年1月、和装議連のメンバーとして国会に初登院するときにもリオの閉会式での着物を着ていました。実は、元を正せば、あの着物は父親の10年来の愛人のものだったのです」。Aの愛人とされる女性(以下Bと表記する)は60代の着物の着付け師。礼儀作法の講師としてメディアに取り上げられたこともある。「会社は、4階建ての持ちビルに入っていたのですが、父親はそのうちの3階部分を愛人に貸していました。小池さんは、父親を通じてその女性と縁ができると、皇居に招かれたときなども、タダで着付けをしてもらうようになっていました」。Bは次のように語っている。「小池先生がリオで着た鶴のお着物は、20年近く前に、ある呉服店が店仕舞いをするというので私が引き取ったものです」。もともとは自分のものであった着物を、小池都知事に着付けるために、リオまではるばる弟子とともに飛んだという。
 http://omura-highschool.net/2017/10/01/34813/
 2017年10月1日 ... 動画をご覧ください。「前原をだました?」に、ふふふ さすが緑のタヌキ(笑) pic.twitter. com/Y80Tj7s5Lf— 水 (@yzjps) 2017年9月29日朝鮮飲みを公開されていた小池 ゆり子都知事。

【小池勇次郎考】
 大正11年、百合子氏の父、勇二郎が神戸で生まれた。戦時中、スメラ塾という右翼結社に参加し「第三世界」、「民族独立運動」など超国家主義思想に傾斜していた。戦争中海軍に身を置いた。

 終戦後は、ペニシリンで一儲けした後、重油を関西電力に卸す商売やガソリンスタンド経営など石油がらみの仕事をベースに、三十代で関西経済同友会の幹事を務めるなど派手に立ち回ったようだ(小池百合子「オヤジ」/文藝春秋2008年6月号)。神戸で貿易商を営んでエジプト、サウジ、クウェートなどアラブ諸国を何度も訪問して各国の大臣クラスに太い人脈を築き、石油の買い付けにも成功する。当時のアラブ世界では名が通った日本人だった。三島由紀夫に傾倒し、「楯の会」の若手や右翼学生の面倒も見た。
 この頃の勇二郎は大言壮語を絵に描いたような人物だったらしい。交友があった右派の政治団体幹部がその人となりを振り返る。
 「小池勇二郎さんねぇ……。自称・元海軍将校で戦争中にアジア解放の使命を軍部に命じられ、戦後になっても一部政治家、元高級軍人らからの密命を帯びて世界中を飛び回っていたと。喋ってることのすべてがそんな調子だから、どこまで本当なのかは分からない。で、大風呂敷の合間に『この事業に投資しないか』みたいな話が出てくる。娘の百合子さんをカイロ大学で学ばせたのも、彼に言わせると、『自分が新たな大東亜共栄圏建設のために、世界中を歩いた結果のコネクション』なんだとか。まァ、話半分に聞いてましたよ」。

 一呼吸置いて「ただ」と続けた。
 「金儲けのために政治運動家を自称していたような人ではない。真剣に政治のことを考えていた人だったと思う。唐突に電話をかけてきては、『いま私が総理大臣だったらこうします』なんて言い出すんです。それがあまりに真剣すぎるから、こちらが困ってしまうほどでしたがね」。
 1968(昭和43)年、青年作家の石原慎太郎氏が参院選全国区に出馬。1969(昭和44)年、慎太郎と勇二郎は、ともに政治団体「日本の新しい世代の会」を旗揚げした。政治好きだった勇二郎は、石原の政治団体「日本の新しい世代の会」の関西地区の選挙責任者となり支援している。作家の大下英治氏が当時の2人の関係を語る。
 「慎太郎氏が立候補したとき、関西の選対で陣頭指揮を執っていたのが、勇二郎氏だったんです。勇二郎氏は慎太郎氏を支援していたというより、傾倒していましたね」。


 選挙の結果、慎太郎は史上最高の301万票を集めて初当選。

 翌年、勇二郎(44歳)が衆院選で旧兵庫2区から出馬した。娘の百合子氏が17歳の時。だが、自民党の公認は得られず、「新しい世代の会」を看板に無所属での立候補だった。
1969(昭和44)年12.10日の毎日新聞紙上で、石原慎太郎が小池百合子の父、勇二郎氏について次のように語っている。 

 「小池さんという人は、いってみればボルテージの高いつむじ風のような人物である。神出鬼没、まさしく戦国向きの人物である。画一化された人が多い当節、得難い魅力がある」。


 貿易会社の社長だった勇二郎が人生をかけたこの選挙で惨敗。その結果、事業が左前となり、芦屋市にあった邸宅を売り払うまでになった。兵庫県選出の元国会議員が振り返る。

 「慎太郎さんの手配で、当時から側近だった浜渦武生さんや、後に参議院議員になった鴻池祥肇さんが、勇二郎さんの選挙を手伝っていました。しかし慎太郎さんの選挙区入りのような、直接の支援はなかったと記憶しています。当時、高校生だった百合子さんは、父親が一方的に入れあげてばかりの慎太郎さんに、複雑な気持ちがあったと思いますよ。小池家にとって、石原家は近いようで遠い存在なんです」。


 週刊ポスト2017年3月24・31日号「浜渦氏・鴻池氏も仕えた 小池百合子氏の父・勇二郎氏の人物像」。

 国政と都政で国民の注目を浴びる3人──。豊洲市場移転の土地取得交渉にあたった浜渦武生・元東京都副知事。国有地払い下げ問題に絡む「森友学園」問題で、理事長夫妻の陳情を受けていた鴻池祥肇(よしただ)・元防災相。そして7月の都知事選で日本の政治の常識を一変させるかもしれない小池百合子・都知事。この3人がある人物を通じて結びつくことを知ると、奇しき因縁を感じざるを得ない。小池氏の亡父・勇二郎氏のことである。

 小池都知事が高校生の頃、兵庫県芦屋の小池邸には、父の勇二郎氏の書生として“百合子嬢”より5つ年上の関西大学の学生が住み込んでいた。後に東京都副知事となる浜渦武生氏である。小池邸の離れで「よく木刀を振っていた」という証言もある。やはりその時代、小池邸に出入りしたのが、後に防災相、内閣官房副長官などを歴任する鴻池氏だった。こちらは1回り(12歳)違いだから、“百合子嬢”の目には“鴻池のおじさん”くらいに映っていたのだろう。無論、それから40余年後に政界の中心で交わりを持つことになろうとは、若き日の3人も想像しなかったはずだ──。

 同じ総選挙で隣の旧兵庫1区から初当選した石井一・元民主党副代表が語る。「本人は石原慎太郎との関係があるから選挙は大丈夫と楽観視していたが、私から見ても泡沫候補でした」。この勇二郎氏の「最初で最後の選挙」を手伝ったのが、鴻池氏と浜渦氏だった。しかし政治好きというだけでは選挙には勝てない。落選が濃厚になると、泥舟から逃げ出すように事務所からは1人去り、2人去りと淋しくなる。浜渦氏はこう振り返っている。
 〈選挙戦の最終日、勇二郎さんと鴻池さんと私の3人だけになった。3人で尼崎のガード下で焼き肉を食ったのを今も忘れられません〉(週刊朝日2016年10月28日号)


 結果は7000票しか取れずに落選。娘の百合子氏は、〈町の有権者相手に、アルジェリア情勢などを滔々と語る演説では勝てるはずもなかった〉(前出・文藝春秋)と書いている。

 小池一家はその後、東京に移り、都内のアパートで暮らし始める。その後、百合子はカイロに留学し、アラビア語のスキルを手に入れて帰国。帰国して数年後に勇二郎氏の事業が傾き、芦屋の家を失う。勇二郎は朝堂院大覚に金を出して貰ってカイロに渡り日本料理店『なにわ』をオープンさせ、20年以上カイロに住んでアラブ人脈を温め、日本に帰国後、2013年に90歳で亡くなった。朝堂院こと松浦が、「刑務所に行った間に、出資金や財産を奪った詐欺師一家だ」と松浦がテレビで喋りまくっている。裏の世界に詳しい朝堂院が、小池が学歴詐称だと強調している。後ろめたいストリーがあるに違いない。
 https://www.youtube.com/watch?v=PnWUW5XKrtA&t=673s

 小池百合子や父親の小池勇次郎の周辺には、如何わしいゴロツキが動き回っており極めて胡散臭い。
 「・・・彼女の父親は勝共連合の支援で衆院選に出て、落選後に借金でカイロに夜逃げし、日本料理屋をやる傍ら、石油利権のブローカーとして悪名が高く、その関係で彼女はカイロ大学文学部に学んだ。・・・竹村健一の〝世相ナントカ〟という、テレビ番組に招かれた私は、帰国の度に何回か出演したが、小池百合子は番組のホステス役で、番組前にコーヒーの接待を受け、私は彼女と何度か雑談をした。アズハリ大学はイスラム神学の最高学府であり、話のついでに『小池さんはアズハリ大学に行ったそうですね』とカマをかけたら、『藤原さんは何で中東のことに詳しいのですか』と唖然としていたのを思い出す」。
 「小池百合子の父親の小池勇次郎実は国士舘大学の空手部主将で、海外青年協力隊で渡航した、岡本秀樹がカイロに空手道場を開き、中東の警察や軍隊に教えており、彼はサムライとしてアラブ諸国で名高かった。私が岡本の名前を知ったのは、1970年代の石油ブームの時代で、アドマ油田の買収劇の時に、アラブの王族の一人から聞いて、酷いスキャンダルだと考え、それを『日本不沈の条件』に書いた。「BPが三分の二を支配するアプダビ・マリン・エリア(ADMA)の株を日本の財界グループが買った、1973年のいわゆるアドマ事件がそれである。BP所有株式の45%を7億8000万ドルで購入し、生産する石油と天然ガスの30 %を取得する取り決めには、いろいろと問題があった。第一は、当時9000万ドルくらいの資産評価額のものを、BPはドイツの国営石油会社のデミネックスに、2億ドルで売ろうとして断られ、次に日本人に話を持ちかけたら、何と帳簿価格の10 倍近い、7億8000万ドルで売れた」。この話には資源派財界人と右翼が、石油公団を動かしかして試みた、利権漁りの構図が組み込まれており、この話の仲介役に空手の岡本がいて、その使い走りとして小池勇二郎がいた。小池勇二郎は小池百合子の父親の詐欺師である」。

【小池勇次郎考】





(私論.私見)