小池百合子履歴考その3 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).4.15日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「小池百合子履歴考その3」を確認しておく。 2007.4.9日 れんだいこ拝 |
【帰国後の通訳活動、日本テレビ系番組のアシスタントキャスター時代】 | |
同年末、帰国。その後はアラビア語の通訳として活動。「カイロ大学を卒業した唯一の日本人女性でアラビア語が堪能」という評判が小池を押し上げていく。 | |
父・勇二郎の友人で民族主義者の中谷武世が会長を務める日本アラブ協会の嘱託となり通訳兼アラビア語講師を担当する(1989年、同協会の事務局長に就任)。 | |
1978年、テレビ局のコーディネーター兼インタビュアーとして、PLO議長のヤーセル・アラファートやリビアのカダフィと単独会見を行いコーディネーター兼インタビュアーを務めた。 | |
1979年、カイロ時代に日本テレビ重役の旅行ガイドを務めたことが縁になって日本テレビの朝の情報番組に抜擢される。「小池ゆりこプロフィール」が次のように記している。
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同年4月、朝の情報番組テレビワイドショーの先駆け「ルックルックこんにちは」で、評論家の竹村健一の時事解説コーナー日本テレビ系「竹村健一の世相講談」のアシスタントキャスターとして抜擢される(1985・3月まで)。海外ウィークリーの幸田シャーミンや野中ともよ、「BIG NEWS SHOW いま世界は」の安藤優子より1年早いデビューで、元々フリーから出発した女性キャスターとしては草分け的存在であった。 |
【小池百合子著「振り袖、ピラミッドを登る」出版】 | ||
1982.10.1日、小池百合子著「振り袖、ピラミッドを登る」(講談社、1982.10.20日)出版。「1972年10月、カイロ大学文学部社会学科入学」、「カイロ大学を首席で卒業 」と記す。 「小池ゆりこプロフィール」が次のように記している。
他に、次のような記述もある。
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1983年、小池百合子著「3日でおぼえるアラビア語」出版。(学生社、第1版1983年5月)。カバーの著者略歴には「カイロ大学文学部社会学科を日本人で2人目、女性としては初めて、しかも首席で卒業」と記されている。 |
国際政治学者の舛添要一証言。
舛添氏も寄稿した共著「外国語をどう学んだか」(92年出版)に、「小池ユリ子」は〈19歳の夢はカイロ大学〉という文章を寄せている。 |
【「トルコ風呂」の名称を「ソープランド」に改める運動支援】 | |
1984年、ヌスレット・サンジャクリの抗議により「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」に改められた際、小池はこの運動を支援しており、本人も後日新聞報道でそれを認めている。小池によれば、トルコ留学生の熱心な訴えを聞き、国家の尊厳を守るという「大義」に加えて、個人的な共感の結果であったという。自ら厚生省に乗り込み、渡部恒三に「日本中でトルコの名前が出ているが、これはやめてくれ」と直談判、渡部の指導により『トルコ風呂』という名称は使用されなくなった。 「小池ゆりこプロフィール」が次のように記している。
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【テレビ東京の「マネー情報」キャスター時代】 | |
1985(昭和60)年、 テレビ東京「マネー情報」キャスターに就任。通訳からニュースキャスターへの道を歩み始めた。 | |
同年4.1日、「おんなの人脈づくり サクセスウーマンのPassport」(太陽企画出版、1985.4.1日)出版。
「自分の父(小池勇二郎氏)が中曽根氏を昔から知っており、自分自身は小学生の頃くらいに中曽根氏と初めて会い、当時、毎年冬に中曽根氏から群馬の白ネギがどさっと送られてきて兄と食べた」ことが書かれている。 |
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1986.8月号の月刊カレントに「カイロ大学を首席で卒業 」と記す。 | |
1988 (昭和63).4月、小池氏の「快進撃」は続き、テレビ東京の夜のニュース番組「ワールドビジネスサテライト」(WBS)の初代メインキャスター(アナウンサー)に抜擢される。「カイロ大卒で中近東に詳しい国際派」という肩書は、イラン・イラク戦争(88年)、ベルリンの壁崩壊(90年)、湾岸戦争勃発(91年)などの動乱報道に役立つ。 「小池ゆりこプロフィール」が次のように記している。
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1990年度、日本女性放送者懇談会賞を受賞。 |
「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK294」「 「郷原信郎氏「新たな大ウソ」>小池百合子「キャスター時代、アラビア語で のインタビューを生放送で何度も行いました」。 |
ビューを、通訳なしの生放送で何度も行いました。環境大臣時代にエジプト のTVに出演した映像も懐かしいですね。こうした経験が、都知事として世界 中に東京の魅了を発信していくときに、私を助けてくれていると感じています。 pic.twitter.com/GihNrmkPP6— 小池百合子 (@ecoyuri) June 18, 2024 |
これは両方ともリハーサルをして、一番喋れているところをところを切り出しているのだと思います。特に2つ目の政治家のインタビューのような時は必ず事前に質問と答えのリハーサルをやります。リハーサル無しだと、私がこの記事で書いたクウェートの女性大臣との会話のように、聞いているほうが赤面するほどの稚拙さです。 |
↓小池事務所がYouTubeで公開している動画(2009年に小池氏がリビアの カダフィ大佐に面会したときのもの)も視聴した。 (動画URL)https://youtube.com/watch?v=OzG9ztnBOZo 小池氏のアラビア語で聞き取れるのは「ワ、ハーザー、ドクトル・マイリ(?)・・・ムマッシル、ムマッシル(そして、こちらはマイリ博士です。・・・プレゼンター、プレゼンター)」「ラアバ、ラアバ(ゲーム、ゲーム)」のみで、ほとんど会話になっていない。また「これらはあなた(あなたの友人?)に」というごく簡単な発言も英語で言っている(本を渡しながら「ゲーム」と言っているのは、数独の本でも渡しているのか?)。 |
【アングラ政治活動時代】 | |||
「小池都知事「カネと男」のスキャンダル 「極左暴力集団」「闇金業者」とも交際」。
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【カイロ大学の卒業を疑う報道】 |
1992年の参院選の頃から、当該カイロ大学の卒業を疑う報道がなされるようになった。小池は、疑惑に対抗すべく、当時連載中だった週刊ポストのコラム「ミニスカートの国会報告」(1993年4月9日号)でカイロ大学の卒業証書を写真で紹介した。 |
【細川護熙が結党した日本新党に入党】 | |
1992.5月発売の文藝春秋に「『自由社会連合』結党宣言」と題する論文を寄稿し、新党旗揚げを発表する。 | |
1992.6月、第16回参院選を前に複数の政党から立候補の誘いを受ける。前熊本県知事の細川と同年5月に、「ワールドビジネスサテライト」で初対面。番組出演をきっかけに細川が参議院議員候補として小池百合子に白羽の矢を立て、出馬するのをきっかけに番組を降板し政界へ転身。番組出演後、元朝日ジャーナル編集長の伊藤正孝
が間に入り、細川に小池を新党に誘うよう話を進めたと言われている。90年代に入って「女性キャスター40歳の壁」に直面した小池は、政界への転身を図った。 「小池ゆりこプロフィール」が次のように記している。
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「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」との理由で、5月22日に前熊本県知事の細川護熙が結党した日本新党に、野田佳彦、前原誠司らとともに入党した。当時の参議院比例区は拘束名簿式であったが、党代表の細川は公示日前日の7月7日に比例順位をようやく立候補者に伝えた。1位の細川に次いで2位に記載されたのは小池だった。日本新党の政策を立案した組織委員長の松崎哲久は5位、「ニコニコ離婚講座(現・離婚と母子の110番)」の創立者の円より子は7位、テニス選手の佐藤直子は9位に記載された。 この措置に対し、小池が参加する前から細川を支えてきた党員の一部から強い不満の声が上がる。佐藤は、小池より自分が下位に置かれたことにショックと怒りを覚え、比例順位が伝えられたその日に出馬を取り止めてしまった。 百合子が日本新党から参議院選挙に初出馬したとき、勇二郎はかって自分を支援してくれた浜渦のもとを訪ね、百合子への応援を要請した。しかし浜渦氏、それを拒否。浜渦は「(市場移転問題の)参考人招致まで個別の取材には答えない」として、本誌の取材には応じなかったが、昨年、雑誌で当時について「『私は百合ちゃんと心中するつもりはない。仲間だったら紹介しますよ』とお断りしました」(「週刊朝日」'16年10月28日号)と発言している。 |
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ニュースキャスター時代から脚を見せることを好んだ小池は、自分の強みで選挙戦を優位に進めようと考えた。マスコミに向かって「選挙もハイヒールとミニスカートで通します」と宣言し、街宣車のはしごに足をかけるときはローアングルで構えるカメラマンたちに「それ以上、近づいちゃだめよ」と笑顔で注意した。 |
【日本新党で参議院議員に初当選】 |
7.26日、日本新党が比例区で4議席を獲得し参議院議員に初当選(日本新党公認・比例区)した。当選後、小池はいきなり週刊誌3誌で連載コラムを持った。そのうちの一つ週刊ポストのコラムのタイトルは「ミニスカートの国会報告」であり、毎回ミニスカート姿の写真を添えた。 |
小池が参議院議員に初当選すると、それまで政治家になることに反対していたオリックス社長の宮内義彦は小池に後援会の設立を促した。後援会は小池の下の名前もかけて「フォーラム・ユーリカ」と名付けられ、宮内が会長に就任した。このとき資金管理団体も設立されるが、同名の「フォーラム・ユーリカ」とされた。 |
【衆議院議員に初当選】 |
1993(平成5) 年、第40回衆議院議員総選挙旧兵庫2区(定数5)に日本新党公認で鞍替え立候補し、日本社会党元委員長の土井たか子に次ぐ得票数2位で当選した。自由民主党は選挙前の党分裂により減少した議席数を回復できなかったのに対して日本新党は躍進し、非自民非共産の連立による細川内閣が成立する。 |
【総務政務次官に就任】 |
8.12日、総務政務次官に就任(1994年4月28日まで)。政治家として順風満帆のスタート。連立政権は1年足らずで崩壊する。 |
【新進党時代 】 |
1994(平成6).12.10日、日本新党を含む旧連立派各党を糾合した野党第一党となる新進党の結党に参加する。 |
1996(平成8)・10月、第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区(伊丹市、宝塚市、川西市)に転出し、新進党で出馬し、自民党の阪上善秀に競り勝ち再選。初代幹事長でありのちに新進党党首に就任した小沢一郎の側近となる。 |
1997(平成9).12月、新進党解党。 |
同年末、盲腸の手術。 |
【自由党・保守党時代 】 | |
1998(平成10).1月、小沢率いる自由党結成に参加。 | |
同年5月、子宮筋腫の手術を受けた。子宮全摘出で3週間入院した。2024東京都知事選に立候補した際のSNS更新で次のように述べている。
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1999(平成11)年、自民党と自由党の連立(自自連立)に伴う小渕第2次改造内閣の発足。10.5日、経済企画政務次官となり、第1次森内閣まで務める。 | |
2000(平成12).4月、自由党分裂。小沢と決別して連立与党に残留、保守党結党に参加した。 | |
4.5日、 経済企画総括政務次官に再任(7.4日まで)。 | |
同年6月、第42回衆議院議員総選挙で、保守党公認に加えてコスタリカ方式を条件とする連立与党の推薦を受け兵庫6区で当選(3選目)した。比例単独に回った自民党の阪上に次回選挙の選挙区出馬枠を譲ることとした。 | |
2000.11月、保守党在籍当時の小池が、衆議院の特別委員会で法案提案者の一人として、「税金を払っている在日の方々がそれに対して意見を、また参政権という形で、選挙という形で意見を述べるのは、これは当然ではないかというような意見もある」、「在日の皆さま方のことを考えると同時に、日本そのものを考えるという大変大きなモメンタムである」と発言している(一方で提案説明の中で「やはり国民の声の中では幾つかの問題提起もされている」、「地方の政治と国政とは実は非常に密接に関係してくる」、「(南北朝鮮の民団と総連という関係が敵対して)一本化されていないということに一抹の不安を覚える」、「国籍を取りやすくするということも、この法案とはまた別にその選択肢も十分ある」と導入に慎重とも受け止められる意見もしている。ただし、「国籍取得をより簡便にするということをまず考えなければならない」として、国政選挙権の行使も可能となる帰化に積極的であった)。 | |
2001.3月、内閣総理大臣森喜朗らと共にロシア大統領ウラジーミル・プーチンと面会。 |
【横田ご夫妻が涙の記者会見後の軽薄】 |
2002(平成14).9.17日、横田ご夫妻が涙の記者会見していた際、小池百合子は真後ろに立っていた。終了後、出て行った小池が戻って来て一言。「あったぁバック!」、「私のバック拉致されたかと思った」。蓮池透/氏は、「あれ以来、彼女のことは信用していない」と述べている。 |
【自由民主党に入党】 |
2002(平成14).12月、民主党を離党した熊谷弘らの合流に伴う保守新党結成を前に、党首の野田毅および月原茂皓と共に保守党を離党。保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。党内派閥に関しては、野田と月原が近未来政治研究会に入会したのに対し、小池は清和政策研究会(当時は森派)に入会した。 |
【「核武装の選択肢は十分ありうる」発言】 | |
2003年2月、小池百合子は、「軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうる」との考えを示した。雑誌『Vоice』(PHP研究所、2003年3月号)で、田久保忠衛氏(現・日本会議会長)、西岡力氏とのてい談記事で述べている。
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(私論.私見)