小池百合子履歴考その2

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).7.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「小池百合子履歴考その2」で、エジプト留学時代の履歴を確認しておく。大下英治「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)、石井妙子「女帝 小池百合子」その他を参照する。

 2007.4.9日 れんだいこ拝


【エジプト留学時代
 1971年9月、よくアラブの話をしていた父の影響と、 「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事がきっかけでアラビア語通訳を目指し、大学を中退して父親の貿易先でもあったエジプトへ留学。
 自分が甘えないように退路を断つため、一旦入学した関西学院大学を中退し、カイロ大学に留学。アラビア語を学びたいと考えたのは、アラブ世界の将来性が大きいと考えたからです。日本ではブルーオーシャンであるアラビア語取得者は貴重になると考えました。

 石井妙子「女帝 小池百合子」(文藝春秋 2020年)は次のように記している。
 英語を勉強する人はたくさんいるので、競争相手が多すぎる。もっと違う言語にしようと考えた時、[略]これからはアラビア語が国連でも公用語になると知って、アラビア語を勉強しようと思い立った。[略]やりたいと思うことではなく、どこにいったら競争相手が少なく、自分の希少性が高まるかを考えて[注・百合子は]行動していたという。それは単に楽な道を歩んで目立ちたいという思いからなのか、それとも生き抜こうと考えての判断だったのか。(第一章「芦屋令嬢」p54 ) 
 1972.6月、小池はアラビア語通訳を目指し、カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語: American University in Cairo)でアラビア語を修めたという。(経歴上、「カイロ・アメリカン大学卒業」と後の「カイロ大学卒業」が混交している)
 「米国資本のカイロアメリカン大に通い、名門カイロ大への編入を目指していた」。
 1972年から1976年まで、ナセル大統領(1918~1970年)の後を継いだサダト大統領(1918~1981年)の時代である。

【北原百代との同居生活】
 1972年春、小池は、語学研修生として派遣されていた大手商社マンの男性の仲介で、北原百代(仮名/早川玲子、1941年生まれの小池より11歳上)と出会った。二人はアパートを探し、ほどなくしてカイロ市内の高級住宅地・ザマレックの1LDKのアパートで同居生活を始めた。
 北原氏が次のように述べている。
 彼女と出会ったのは’72年の春。カイロで一人暮らしをしようかと思っていた時に三菱商事の駐在員の方から『ルームシェアしたらどう?』と勧められて、まだ19歳だった小池さんとの同居が始まりました。アパートはカイロの高級住宅街であるザマレックにありました。小池氏との同居生活は、’73年2月から’75年12月までの中断をはさんで’76年12月まで約2年に及んだ。初めて会った時、小池氏はカイロ大学入学前だった。
 初めて会ったのは、エジプト・カイロ市内のペンションでした。あなたは19歳で、私は30歳。もう半世紀以上も前、1972年の春のことでした。あなたは私が滞在していたペンションに、商社マンのAさんに連れられてやってきました。同居相手として、Aさんが私に紹介してくれたのです。半年ほど前にカイロへ来て、カイロ・アメリカン大学に通っている小池さんだと紹介されました。私は同居を快諾し、あなたと2人でアパートを探しました。そしてザマレックのアパートで同居生活を始めた。あなたは冗談好きで明るく、料理上手な楽しい人でした。2人で映画『ジョーズ』を観に行った時、隣で怖がって声を上げていた姿を思い出します。ある日、お風呂を沸かす火が弱くて困っていると、百合子さんが「こうすればいいのよ」とガスボンベをひっくり返してくれた。「底にガスが溜まっているんだから」と言って。大胆で少しお茶目。それもあなたの魅力でした。

【小池の持ち帰り盗み癖
 北原氏は、カイロの語学学校でアラビア語を学びながら、旅行ガイドのアルバイトをして生計を立てていた。そのルームメイトが 「女帝 小池百合子」(文藝春秋)の中で語った内容が第52回ノンフィクション作品賞を受賞している。概要次のように記している。
 毎日のように商社マンの日本人男性をアパートに連れ込んではずっと日本人男性相手に日本語を話しており、本やノートを拡げてる様子を見たことがない。難解なアラビア語を「勉強しなくて大丈夫なの?」とルームメイトが聞くと、「お父さんがドクター・ハーテムに言って入学させてくれるから大丈夫」と 、堂々と裏口コネ入学を認めていた。ルームメイトの一番驚いたエピソードとして、小池百合子のお父さんがカイロにやって来てヒルトンホテルに泊まると 、小池百合子はヒルトンのお父さんに必ず会いに行って、茶器や皿やフォークやナイフやハンガーを盗んで帰ってくる。ルームメイトと暮らす部屋はヒルトンのロゴマークが入ったハンガーで溢れていた。
 2024.6.27日、「悪びれることなくホテルから銀の食器を何度も……小池百合子都知事、知られざるカイロ時代の素顔」。
 概要/小池と北原が同居している頃、父親の小池勇二郎がしばしば日本からカイロを訪れていた。彼はいつもナイル・ヒルトンホテルに宿泊し、小池氏が父に会いにホテルへ行っていた。ある日、白い大きな巾着袋のようなものを手に提げてアパートに帰ってきた。小池はその巾着袋をテーブルの上に置くと、北原の眼をじっと見つめながら、無言で巾着の口を握っていた手を離した。ガチャガチャと音を立てて巾着は四方に広がった。中から現れたのは、コーヒーカップ、皿、ナイフ、フォーク、シュガーポット……。すべてにヒルトンのロゴが入っていた。白い巾着はテーブルクロスだとわかった。父親とルームサービスを取り食器をテーブルクロスごと包んで、丸々持ってきたのだと、小池は悪びれることなく北原に告げた。しかも、この一回だけではなかった。 その後も小池は、ヒルトンに泊まる父親に会いに行くたびに何かを必ず持ち帰ってきた。北原は、次第にお茶目でやっているとは思えなくなった。ヒルトンのハンガーは、やがてクローゼットに入りきらなくなった。実は小池が持ち帰ってきた備品の一部は、いまも北原の手元にある。小池が日本に帰るとき置いていったものだ。ホテルに返しに行くわけにもいかず、北原も処分に困ってカイロの家にそのまま置いていたものだ。手に取るとずっしりと重く高級感のあるナイフとフォークは、数十年の時がたってもなお、黒ずみながらも銀色に光っている。

 当時の小池のもとへ、親からの仕送りは一切なかったという。ホテルの備品を持ち出さねばならぬほど、生活は苦しかったのだろうか。『女帝 小池百合子』にはこうある。
 〈カイロは常に物不足である。金を出せば何でも手に入る日本とは生活がまったく異なっている。だが、そうしたことを割り引いても、次第に学生たちの目に小池の行動は奇異に映るようになっていった。スリルを楽しんでいるのか。よほど吝嗇なのか。(中略) 小池の置かれた状況が、それだけ切羽詰まっていたのか。だが、ザマレックの高級アパートに住んでいる。マスコミ関係者や商社マンの前で見せる姿と、自分たち学生の前で見せる姿が異なると、留学生たちは小池を次第に敬遠するようになっていった〉。

【両親がカイロ市で日本食レストラン「なにわ」経営】
 両親は「朝堂院大覚」(本名:松浦良右)の資金援助で庇護され、カイロ市で日本食レストラン(「なにわ」のことか?)を経営する。父親の会社は小池の留学中に倒産した。

 小池は小泉(鮫島朝鮮稲川小泉組)・舛添(オモニ)・朝堂院大覚(朝鮮)に繋がりが深い。暴力団・東声会(東亜会、東京都に本拠を置く日本の暴力団。前身は東声会)のトップ・町井久之(本名:鄭建永)の自宅のおかれた東亜マンションを朝堂院大覚が管理している。朝堂院大覚が学歴詐称で恩を仇で返す行為は止めろと発言。「朝鮮総連」と蜜月の息子が「小池百合子」秘書(週刊新潮 / 新潮社)。

【山本某と同棲
 1972.10月、山本某(韓国人説がある)と同棲。但し、この人物の氏名が一貫して伏せられている。その理由が憶測を生んでいる。

 1973.2月、小池の結婚のため同居生活が中断する。離婚に伴って76.1月に再開する。

【イスラエルとの第4次中東戦争が勃発
 1973.10.6日、イスラエルとの第4次中東戦争が勃発。エジプト・シリア両軍が1967年の第3次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪還を目指し、スエズ運河とゴラン高原に展開するイスラエル軍に攻撃を開始したことで第4次中東戦争が勃発した。小池百合子がエジプトでいた時代の出来事である。
 エジプトを支援するOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が原油価格を1.4倍に引き上げたため第1次石油危機が発生。彼らに「非友好国」とされた日本は、OPECの石油供給量削減措置を受け、アメリカの独占的メジャーの原油割り当てを下げられ経済危機に陥った。この独占を覆そうとしたのが出光興産だった。石油不足を懸念した政府はナイジェリアやアルジェリア、イランなどと交渉した。田中角栄首相下の政府は三木武夫副首相、小坂善太郎元外相らをサウジアラビア、エジプト、アルジェリアに派遣し、日本を「友好国」に変えるよう訴えて歩いた(いわゆる「油乞い外交」)。

 エジプト政府は日本を敵国からはずし、日本はアメリカが提案する決議に反対することになる。その決議は、中東諸国が提起したイスラエルの1967年の占領地域からの即時撤退を後押ししていた。ハテムとサダトは日本に対して恩を売り、日本も中東諸国の恩を返した。これがアメリカを怒らせ、アメリカ国務長官キッシンジャーがやってきて日本政府に苦言を呈する。これがロッキード事件の伏線の一つとなる。サダトは1981.10.6日、軍事パレード閲兵式で暗殺され政権が崩壊する。

【カイロ大学文学部社会学科2年生に編入
 1973.10月、「超難関の」カイロ大学文学部社会学科2年生に編入される。「翌73年10月に2年生に編入できることが決まった」と明かされ、2人で缶詰の赤飯でお祝いした」。(小池氏は自著などで「1972.9月、カイロ大学の入学手続きを行う」としており、1年食い違っている。北原氏は日本の母親に送った手紙で、近況報告としてお祝いしたことをつづっている)。

 同居人の北原百代が次のように証言している。
 彼女は’72年10月にカイロ大学に入学したことにしていますが、当時、彼女は’73年10月に2年に編入できたと言っていました。アラビア語の能力は……3歳児レベルでした。『このお肉を1㎏ください』、『お砂糖を一袋ください』など、お使い程度の日常会話ならできる程度。

 小池が授業についていけるはずがなく1年目に落第したとされる
 何よりも学生を苦しめるのは、大学で使われる言語である。エジプトでは現在も、口語(アーンミーヤ)と文語(フスハー)が明確に分かれており、日常では口語が使われている。一方、文語はコーランに典型的な4世紀頃から続く古語で、アラブ各国のインテリ層の間では、この文語が共通語として使用される。[略]西洋社会におけるラテン語、日本で考えるなら漢文にあたろうか。アラビア語を母国語とする人でも苦しむ、この文語を外国人、とりわけ日本人が習得するのは並大抵のことではなく、だからこそカイロ大学を正規に卒業した日本人は数えるほどしかいないのだ。(第二章「カイロ大学への留学」p61)
 ダイニングテーブルの上に、めずらしくノートが広げてあった。早川さんは何気なく覗き込み、その、あまりにも拙"つたな"いアラビア語を見て驚く。[略]英語でいえば、「This is a pen.」にあたる文章が、ぎこちなく上下していた。[略]小池は日本でまったくアラビア語を学ばぬまま、カイロにきてしまった。基礎を学んでいないため、何も積み上げられずにいるのだと察し、かわいそうにも思った。しかし、こんな状態でカイロ大学に入ってどうするつもりなのか。(第二章「カイロ大学への留学」p83 )
 72年に小池さんが机に広げていたノートを偶然見たことがあったのですが、『This is a pen』レベルの、基礎的な文章がぎこちなく書かれていました。これでは、大学の授業に付いていけるはずがありません。小池氏自身も自著『振り袖、ピラミッドを登る』で、「初めてカイロ大学の授業に出た時は、何の授業かさえわからなかった」と綴っている。 北原が、 「大学の勉強は大変でしょうと励ましたら、小池さんは『教科書を写しているだけだから』と返してきた。私が『えっ』と驚いたら、『試験があっても、問題文の意味がわからないのよ』とね。だけど、カイロ大学の試験は空欄を埋めさえすれば、教授は東洋から来た女の子がよく頑張ったねと見てくれるとも言っていました。丸暗記するためか、教科書をノートに一生懸命書き写していた姿を、はっきり覚えています。
 この年の5月に行われた進級試験に小池さんは落第した。
 アラビア語は日常生活で使う口語と、知識層が使う文語に分かれており、カイロ大学のような国立大学の授業は文語で行われる。しかも、カイロ大学は現地の学生でも4人に一人は留年すると言われている難関大学である。

 北原が、 落ち込んでいた小池を励まそうと思って、旅行に誘った際に撮ったのがこの写真である。
 エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたことがある。

 「日本の常識が通じない小池都知事「学歴詐称疑惑」、現地取材の黒木亮氏「日本人は書類を信じすぎ。エジプトの実態は違う」」。
 なぜ、これほどまで食い違うのか――。 東京都の小池百合子知事が都知事選(6月20日告示、7月7日投開票)に3選を目指し出馬するかどうか注目されている。小池氏をめぐっては、「カイロ大学卒業」という学歴が詐称ではないかと取り沙汰されてきた。 2020年に刊行された『女帝 小池百合子』(石井妙子著、文藝春秋)では、カイロで小池氏と同居していた北原百代氏が匿名で、小池氏がカイロ大学の進級試験で落第し、卒業できずに帰国したことを具体的に証言。2023年刊行された文庫版では実名での告発に踏み切り、『月刊文藝春秋』2024年5月号で証言。メディアの取材にも応じている。一方、小池氏は「大学が卒業を認めている。卒業を証明するのは大学」と繰り返す。 カイロへの留学経験があり、疑惑について2016~2019年に現地で5回行った調査をもとに、『JBpress』などで複数の記事を執筆してきた作家の黒木亮氏に聞いた。
 ■実態と乖離した記録が存在する
 ――取材時にカイロ大学はどのような対応でしたか。

 僕が行ったときは、日本語学科長のアーデル・アミン・サーレハ氏が出てきて、「小池さんは卒業しています」と答えました。その後、複数回カイロ大学で関係者に取材した結果、大学側は「1972年入学・1976年卒業」というストーリーで小池氏に関する書類を整えているのではないかと感じました。
ところが小池氏が政治家になる前の自著『振り袖、ピラミッドを登る』(講談社、1982年)でも、『外国語をどう学んだか』(講談社現代新書、1992年)への寄稿でも、「(1年目に)落第した」と書いていますから、卒業は1977年以降でなければ辻褄が合いません。また、小池氏とカイロで同居していた北原さんは、小池氏がカイロ大学に入学したのは1973年で、2年次に編入したと証言しています。  要は、実態と記録が乖離しているのです。
 ――なぜ、そのような記録が大学に存在するのでしょうか。

 記録が書き換えられたとしか考えようがありません。というのも、エジプトは汚職や不正が横行する国なのです。権力者が公的な書類を作れといえば簡単に作って出す。現地の取材では、カイロ大学に限らず、国立大学で卒業記録や卒業証明書、卒業証書の偽造が行われていることを誰も否定しませんでした。日本人の常識では理解できない世界ですから、僕も最初の頃は戸惑いました。書き換えの実行者や詳細な経緯を明らかにするのは、すでにかなり昔のことになってしまったので、簡単ではありません。しかし、当時卒業できていないことは、さまざまな証言や証拠を積み重ね、突き合わせていくと明らかです。

 ――日本では、本人が学歴を詐称しても、卒業証明書が提出できなかったり、学校側に問い合わせたりすれば発覚するはず、という感覚です。  不正に発行された卒業証書である「プレゼントの証書(complementary certificates)」が存在するのはエジプト社会の常識です。


 カイロ大学の前学長も、教授や職員が個人的に関与して偽の卒業証書が発行されていることを2015年にテレビ番組で証言しています。2017年にはエジプト人ジャーナリスト、ダリア・シェブル氏が偽造卒業証書を売る業者に接触して実態を明らかにしています。
 ■「4年で首席卒業」に抱いた違和感
 ――黒木さんはどうして小池氏の学歴問題を調べ始めたのですか。  

 僕は1984~1986年にカイロ・アメリカン大学(アラビア語上級コースと大学院中東研究科)に留学しています。アラビア語で学位を取るのはすごく大変だという認識を持っていたので、2016年に都知事に初当選した小池氏が「カイロ大学を首席で卒業した」という点に引っかかりました。カイロ大学の社会学科には一学年150人いますからね。
僕は留学前にアジア・アフリカ語学院で6カ月間アラビア語を学び、小笠原良治・大東文化大学名誉教授に教わりました。小笠原先生はカイロで最初3年間は現地の学校でアラビア語を勉強した後、7年かけてカイロ大学の文学部アラビア語学科を卒業しています。格調高いアラビア語を話す方でした。アラビア語学科は外国人学生にとってカイロ大学における超難関ですが、小池氏は社会学科とはいえ、「4年で首席卒業」は異様だと思いました。
 ――カイロで取材を重ねる中で学歴詐称を確信するようになったのですか。

 決定的だったのが、卒業論文についての証言です。小池氏は「社会学科に卒論はなかった」と2020年3月の都議会で答弁したり、『女帝』著者である石井妙子氏の取材に弁護士を通じて回答したりしています。しかし、小池氏が卒業したと称しているのと同じ1976年に文学部社会学科を卒業したエジプト人の教授に聞くと、「社会学科では全員が卒業論文を書かなければならなかった」と明言し、具体的に彼や級友の卒論の中身を説明してくれました。


 ――不正が横行しているといっても、カイロ大学の卒業生すべてに当てはまるわけではないのですね。

 カイロ大学の進級試験自体は比較的厳格で、金やコネのない学生は留年も当たり前です。僕が会った日本人の卒業生はいずれも留年を経験していました。

 ――卒業したことにできるような事情は何か小池氏にあったのですか。

 小池氏は父親などを通じてエジプト副首相だったアブデル・カーデル・ハーテム氏とのコネがありました。父親は中曽根康弘氏や中谷武世氏(元衆議院議員、日本アラブ協会会長)など、日本の有力政治家と付き合いがあったので、日本に食い込もうとしていたハーテム氏が、彼らの頼み事を聞いたのかもしれません。
一度記録が書き換えられてしまえば、その後カイロ大学で対応する人たちは記録に従って回答したり、書類を作成したりしているだけなのでしょう。小池氏の場合は、エジプトの国益がらみなので、躊躇はまったくないのだと思います。サダト、ムバラクと軍事政権だったエジプトは2011年に「アラブの春」で民主化しましたが、クーデターが起きて軍事政権に戻っています。実質財政破綻状態で、エジプトとカイロ大学にしてみれば、日本から巨額のODA(政府開発援助)を獲得するために小池氏を利用できます。
 ■「カイロ大声明文」で日本のメディアは沈黙  
 ――前回の都知事選の告示直前の2020年6月、在日エジプト大使館のFacebookに「小池氏の卒業証書は正式に発行された」とのカイロ大学の声明文が掲載されました。掲載されたのは、現地取材をもとに記事を執筆していた黒木さんが、郷原信郎弁護士と一緒に日本外国特派員協会での記者会見に臨む2時間前のことでした。当時、都議会では、自民党が小池知事の学歴詐称問題を熱心に追及しており、卒業証明書類を提出するよう求める決議案を提出するところまで行きました。しかし、カイロ大学から声明が出たことで、小池氏の庇護者だった二階俊博自民党幹事長(当時)から「エジプト政府とことを構えることになるからやめろ」と圧力をかけられ、都議会自民党は決議案の提案者から降りたと関係者から聞いています。
 日本のメディアはそれまでも、カイロ大学に聞くと「卒業した」と答えるので及び腰でしたが、声明によってこの問題を追及しない姿勢が決定的になりました。声明文は、日本のジャーナリストを威嚇する文言も含まれており、メディアを黙らせる効果は大いにありました。

 ――今年4月、カイロ大学の声明文について、当時小池氏の側近だった小島敏郎弁護士が、小池氏の依頼で原案作成に携わったことを『月刊文藝春秋』5月号で告発しました。


 2020年当時、郷原弁護士と僕の記者会見に来ていたシリア人記者が、直前に掲載された声明文を持っているので何か変だなとは思いましたが、まさか小池氏らが自ら文面を作っていたとは思いませんでした。

 ――カイロ大声明文を小池氏らが自ら作ったとしても、大使館のFacebookに載せるにはエジプト大使館関係者の協力が必要です。

 そこに大きな問題があります。日本の選挙に外国の干渉を招いたことになるのです。それと、学業の実態がないのにカイロ大学が卒業資格を認めていることは、利益供与にあたります。学歴詐称をめぐる政治的問題はこの2点です。
 ■書類は要求すれば出てくる

 ――小池氏は6月20日告示の東京都知事選に、3選を目指して立候補すると目されています。記録改ざんの証明が難しいとなると白黒つけられず、各種の証言と、大学の証明を並べて有権者が判断せざるをえないように思えます。

 いや、白黒つけなければならないでしょう。卒業に必要だった卒業論文を書いておらず、進級試験には落ちている。卒業に足る学業の実態を証明するものはなく、「実態がない」という指摘に対して、小池氏は反論していません。
疑惑を明らかにするため小池氏に卒業を証明する書類の提出を求めようとする人たちがいますが、「出せと言えば、カイロ大学やエジプト政府は何でも作って出してきますよ」と僕は忠告しています。そういう人たちは、エジプトのことを知らないのです。日本の感覚で、「書類」というものに頼りすぎています。今後、有権者の賢明な判断に期待したいとは思いますが、知事の座にあり続けるのなら、最終的には刑事あるいは民事の裁判で決着をつけるしかないと思っています。

 ――カイロ大声明文について告発した小島氏は、小池氏が立候補した段階で学歴詐称による公職選挙法違反が成立するとして、刑事告発する準備を行っているそうです。ただ、日本では司法も書類の証拠能力を重視する傾向が強いのでは。

 小池氏はそれに期待しているのでしょう。しかし、日本は国家として、学業の実態がないのに金やコネで得た学位であったとしても、学歴として認めるのでしょうか。もちろん、実態がなかったことは十分に証明されなければなりませんが、小池氏については、進級試験で落第し、卒業できずに帰国したことについて、同居していた北原さんの証言は手紙などの証拠にもとづいています。立証には僕も協力するつもりです。

【アベル・カデル・ハテムの庇護
 作家の黒木亮氏が書いた短い文章を参照する。彼女の面倒をエジプトで見たのは、勇二郎と懇意にしていたエジプトの要人にしてサダト時代の副首相だったアベル・カデル・ハテムである。履歴は次の通り。

 1913(17?)年、アレキサンドリア生まれ。士官学校、カイロ大学、ロンドン大学を卒業し、ナセル中佐(当時)が主導した自由将校団の若手メンバーとして1952年のエジプト革命(王政打倒クーデターで翌年共和制に移行)に参画した。1957年、国民議会議員、大統領府副大臣。1959年、ラジオ・テレビ担当国務相。1962年、文化相、国民指導・観光相。1971年、副首相兼文化・情報相。その後は長らく国民評議会(上院に相当)議長とエジプト・日本友好協会会長を務める。1974年2月、ハテムは文化情報担当副首相として日本を訪問し、田中角栄首相、三木武夫副首相と会談し、宮中で天皇陛下に拝謁した。1982年、日本政府からの勲一等旭日大綬章を授与されている。2015年、没した(享年97歳)。


 2016年にカイロで出版されたハーテム氏のアラビア語の伝記「アブドル・カーデル・ハーテムの日記-10月戦争政府の首班」(著者はエジプト人ジャーナリストのイブラヒム・アブドル・アジーズ氏、邦訳未出版)は、「エジプトのための日本との友好」の箇所に次のように記している。
 ハーテムは中曽根康弘と1954年以来親交があり、中曽根から友人の娘であるとして当時学生だった小池百合子を紹介され面倒を見ていた。小池がハーテムをGod fatherとか心の父と呼んでいた。小池に毎月14エジプト・ポンドの小遣いをやっていたことなどが記されている(小池は「振り袖、ピラミッドを登る」の250ページに、エジプト政府から毎月12ポンドの奨学金を受けていたと書いている)。
 和田大使から外務大臣宛の別の公電(1974年1月29日付)で、和田大使と面談したハーテムが次のようにのべたと記されている。
 「三木副総理の御尽力により借款金額が1億ドルに達したことは感謝にたえない。日本政府、特に三木総理には自分からの深甚なる謝意をご伝達いただきたい。早速大統領(筆者注・サダト)に報告するが、大統領も非常に喜ばれることは疑いなく、自分としてもこれで大統領に対しても顔が立つ」。

 ハーテムの伝記には、自分の政治的業績として、第4次中東戦争以降、スエズ運河再開、オペラハウス建設、小児科病院建設、製鉄会社建設の4件のプロジェクトを中曽根に依頼し、日本から20年間にわたって4億ドルの借款を引き出すことに成功したこと、7回訪日し、天皇陛下から勲章をもらったことなどが書かれている。
 1989年2月1日付の読売新聞では、ハーテム自身が1974年に天皇陛下に拝謁した際のエピソードとして次のような秘話を披露している。
 「オイルショック当時、当時の三木副首相がカイロの私の家にやってきて、アラブ産油国による対日石油禁輸に伴なう日本の深刻な窮状について話した。そこで私は24時間の猶予を求め、その間サウジアラビアのファイサル国王(故人)に電話、日本は友好国だから、ブラックリストから外してほしいと訴えた。国王はエジプトのいうことならと理解してくれて、輸出を再開するよう早速、命令を出すと約束してくれた。陛下は三木さんと私のこのやりとりを十分知っておられたようで、開口一番、『国民に代わってお礼申し上げたい』とおっしゃった」。

【カイロ大学卒業の怪
 2020.06.24、エジプト軍閥の“子飼い"小池百合子の運命①「カイロ大学声明」を出した組織の正体(特別寄稿)浅川 芳裕 
 https://agora-web.jp/archives/2046773.html

 JBPressに寄稿したカイロ大「小池氏は卒業生」声明の正しい読み解き方では、小池百合子都知事がエジプトの軍閥に握られた弱みについて書いた。その弱みとは小池がエジプト軍閥の〝子飼い”となり、カイロ大学の〝超法規的”卒業枠を得たことである。その結果、軍閥が掌握する権力構造に組み込まれてしまった。
 ●学歴詐称で済まされない問題の核心は何か

 その軍閥の最上層部に位置するのが「エジプト革命評議会」とその後継者たちであり、1954年の「カイロ大学粛清事件」以来、大学を支配下に置いている。そして、革命評議会の情報・文化・メディア責任者、ムハンマド・アブドゥルカーデル・ハーテム氏こそが、小池がエジプトに滞在した1970年から亡くなる2015年まで彼女の後ろ盾であった。

➡ハーテム氏を“エジプトのパパ”と呼ぶ小池百合子(左) 小池百合子と同居し、“子飼い“にしたエジプト元情報相ハーテム氏(右)出典:http://gate.ahram.org.eg/Media/News/2013/7/25/2013-
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後ろ盾を引き継いだのがシシ大統領であり、その傘下のエジプト国家情報部である。シシ大統領は、ハーテムから見れば、軍人時代の弟分タンターウィー(元国軍総司令官、2013年の軍事クーデター後の国家元首代行)の部下、つまり孫弟子にあたる人物だ。情報部はといえば、元々ハーテムが創設した組織である。その裏付けとして、ハーテムが最高執行委員を務めていた政府系新聞アハラーム紙の記事を同記事では一部示した。今回、さらに細部にわたり分析していく。そして問題の核心は、後ろ盾に対する見返りが何かということだ。単なる一知事の「学歴詐称」では済まされない、日本の国益にかかわる問題である。その核心について、現地メディアにおける小池の発言から解明していく。まず、小池とハーテムの関係を振り返っておこう。
●小池とハーテムの関係を“政府系新聞”から読み解く

 政府系新聞アハラーム紙の記事(2016年8月3日付)で「小池氏は非常に特殊な女性である。ハーテム情報大臣の支援を受け、彼女は社会学科を卒業。彼は小池を自分の子供のようにみなしていた」(抜粋)とある。小池自身も同紙インタビューで、ハーテムは「私のエジプトのパパ」、「私のスピリチュアル・ファーザー(守護者)」などと複数回、語っている。
例えば、2004年3月2日付けのアハラーム紙では「カイロ大学時代の教授陣(複数形)は?」の質問に対して、「私の教授はアブドゥルカーデル・ハーテム博士で、私にとってエジプトの父です」と答えている。 普通、教授陣の名を聞かれれば、専攻学科(小池氏の場合、社会学科)の恩師や少なくとも印象に残っている先生について語るものだが、小池は違う。カイロ大学の教授ですらないハーテムの名をあげるのみだ。 ハーテムは当時、エジプトの副首相(情報担当)であったが、2人は一体、どういう関係だったのか。

 「ハーテム氏に面倒をみてもらい、小池氏はカイロでの留学中のかなりの期間、ハーテム家で家族と子供たちと住んでいた」(アハラーム紙2011年9月3日付)。つまり、同居していたのだ。小池が1976年、カイロを後にしたのちはどうなったのか。アハラーム紙が記録に残している。 「ハーテム氏と学生から政治家、そして大臣になった彼女の関係は、カイロの地で途切れたわけではない」(同上)「彼女はスピリチュアル・ファーザーと呼ぶハーテム博士(中略)と常に連絡を取り合ってきた」(同)、「小池氏は2003年2月から日本の環境大臣であり、日本の内閣でイスラム教の寛容性を説いているとハーテム博士に語った。博士は彼女から連絡を受けることをうれしく思っている」(アハラーム紙2004年6月21日)、「(小池氏が今回、カイロにきたのは)ハーテム博士から(2011年)8月に掛かってきた電話でのリクエストがあったからだ」(同紙2011年9月3日付)「彼女は学生時代に過ごしたハーテム家で家族や孫たちと再会した」(同上)「そこで小池氏は、ハーテム博士に対して、エジプトやエジプトの友人のために奉仕するプロジェクトを話題にした」(同)。以上が、小池はハーテムの“後ろ盾”で卒業、その後も二人の関係は継続し、エジプトに何かしら貢いでいたことをエジプト政府(系新聞)が公認した内容である。
 ●「カイロ大学の声明」を出した組織の正体とは

 公認といっても、所定の学業を修めたという普通の意味での卒業ではない。卒業と記すアハラーム紙はハーテムが最高執行委員を務めていた新聞である。もちろん、ただの新聞ではない。彼が創設したエジプトの国家情報部の従属下におかれた「政治機関である」(国家情報部ウェブサイト上の『ハーテム回想録 10月戦争政府の首長』紹介ページ。筆者注:第四次中東戦争のこと。ハーテムは戦時中、首相代行を務めた)。記事はすべて、政治的意図をもって書かれた声明なのだ。 カイロ大学と国家情報部———この権力構造を裏返せば、真相が浮彫りになる。“小池の卒業”とは、カイロ大学ではなく、国家情報部の公認という意味になる。では、国家情報部の上部機関はどこか。エジプト大統領府、つまり、軍閥のトップ・シシ大統領である。カイロ大学長の任命権は誰にあるか。同じく、シシ大統領である。 この権力のピラミッド構造がわかれば、さらには、6月8日に出された「カイロ大学の声明」を出した組織の正体、そして声明の真の意味が読み解ける。声明の全文を引用しておく。
 「カイロ大学は、1952年生まれのコイケユリコ氏が、1976年10月にカイロ大学文学部社会学科を卒業したことを証明する。卒業証書はカイロ大学の正式な手続きにより発行された。遺憾なことに、日本のジャーナリストが幾度もカイロ大学の証書の信憑性に疑問を呈している。これはカイロ大学及びカイロ大学卒業生への名誉棄損であり、看過することができない。本声明は、一連の言動に対する警告であり、我々はかかる言動を精査し、エジプトの法令に則り、適切な対応策を講じることを検討している」。

 この声明は、大学公式サイトではなく、外交ルートである在京エジプト大使館のフェイスブックに掲載されたものだ。注目すべきは後段である。「本声明は、一連の言動に対する警告」と目的がはっきり書かれている。卒業証明ではない。その根拠を一切示さず、証書の信憑性に疑問を呈する“日本のジャーナリストへの脅迫”目的の声明なのだ。外国ジャーナリストを取り締る権限のあるエジプトの管轄官庁といえば、どこか。答えは国家情報部である。軍閥専制国家であるエジプトにおいて、越権行為は許されない。カイロ大学は声明の“表の顔”に過ぎないというわけだ。
 ●政治的な意図が明白だった大学の声明

 では何のために、声明の正体“裏の顔”である国家情報部がこんな声明を出すのか。“学歴詐称”がバレ、窮地に陥った“子飼い”の小池を都知事選に再選させるためである。陰謀論じみて聞こえるだろうが、そう言っているのは私ではない。国家情報部のコントロール下にあるエジプト現地メディアの報道である。声明発表の3日後、6月11日に一斉に報じられた記事の見出しをいくつか紹介する。

「カイロ大学、小池都知事のために都知事選に‟点火”」(ウェブ報道サイト「アルバラド」)
「カイロ大学、危機に瀕する東京都知事を救うために介入」(同「アハバーラック」)
「カイロ大学、都知事の卒業証書を認めない日本メディアに対し法的手段で脅迫」(政党系日刊新聞「アルワフド」ネット版)

“カイロ大学”声明とは、事実の公表ではなく、政治的な意図があることが明白になった。知事再選に助け舟を出し、小池に恩を売りつけるためである。この政治声明に歩調を合わせ、小池は「(卒業の)ひとつの証になるかと思う」(6月9日)ととぼけるが、その見返りは何なのか。そして、エジプト国家情報部の正体とは…。(続く)
 2020.07.02、エジプト軍閥の“子飼い”小池百合子の運命② 「私は100%エジプト人なの」(特別寄稿)
 https://agora-web.jp/archives/2046908.html
 現地メディア「カイロ大声明は小池の再選目的」連載第1回で、エジプトの軍閥が「カイロ大学の学長声明」を通じて、東京都知事選に政治介入した背景と権力構造を解き明かした。カイロ大学は軍部・情報部に粛清され、長年、その支配下にある。学長の任命権を持つのが軍事政権のシシ大統領だ。情報部の方は、小池が〝エジプトのパパ″と呼ぶハーテムが創設、掌握し、彼女を子飼いにしてきた文献証拠を示した。二人は小池のカイロ大学時代の一定期間、同居し、その関係は氏が亡くなるまで続いてきた。その間、ハーテム情報相の権力で小池はカイロ大学に飛び級の不正入学と裏口卒業(学業の実体はないが“超法規的”な卒業証書保持者)を果たす。また、そのハーテムからみれば、シシ大統領は軍閥序列のなかで孫弟子にあたる。そのうえで前回、「カイロ大学声明」の政治的意図を明らかにした。それは、都知事選を前に、“学歴詐称”疑惑で窮地に陥るエジプト軍閥の“子飼い”小池に再選させるためである。これは私が憶測で言っていることではない。国家情報部の支配下にあるエジプトの現地メディアがはっきり、カイロ大声明は小池の再選目的だと書いている。
 軍の“諜報テレビ”取材で常軌を逸した小池発言

 しかし、なぜそこまでして、小池をかばうのか。小池自身がエジプトの現地テレビの取材で種明かしをしている。
 「私は100%エジプト人なの」(小池都知事、エジプト軍閥系テレビネットワークDMC、2018年8月30日インタビュー番組での発言、都庁で撮影)

 小池がこう語ったテレビ局DMCとは、軍最高評議会議長シシ(現大統領)が軍事クーデター後、軍閥のプロパガンダを流すために開局した新興テレビ局である。軍や政府の要人への取材や機密性の高い場所へのアクセスは、この局だけに許されており、現在、独占的な洗脳メディアとしての地位を築いている(そのYouTubeチャンネルは登録者数500万人を超える)。国内プロパガンダに加え、DMCにはもう一つの目的がある。
 「DMCはシシ率いる国家の公式の声であり、エジプトを攻撃する外国メディアに対抗するために創設された(中略)そのため、別名『軍の諜報テレビ』『シシ・チャンネル』と呼ばれている」(ウェブ報道サイト「ノンポスト」2016年9月3日)

 小池はこのテレビ局から東京都知事としてインタビューを受けながら、「私は100%エジプト人なの」と語り始めたのだ。政治家としてだけでなく、1人の日本人として、常軌を逸した発言である。子飼い″として、自分はエジプトの利益を代表していることを吐露したといえる。本人からすれば、エジプトの軍閥と国民向けのリップサービスに過ぎないのだろうか。
 小池批判への強権的脅迫

 冒頭で掲げた「カイロ大学声明」による都知事選への介入も、軍閥系DMCの目的と同じだと考えればわかりやすい。“100%エジプト人”の要人・小池知事を攻撃する日本メディアは、エジプトを攻撃したと同然とみなされているのだ。では、都知事選への介入を認める一連の記事の中には一体なにが書いてあるのか。各記事に共通する箇所と主要な論点を抜粋する。
「小池東京都知事は、7月5日に迎える都知事選において、危機に瀕している」
「現都知事の反対勢力はその都知事戦を前にして、小池百合子氏に対し、疑惑キャンペーンと闘争を展開中である」
「都知事の反対派たちは、小池氏が取得した学位はカイロ大学に認められていないという情報を日本のメディアにリークしてきた」
「反対派の見解では、小池氏はカイロ大学の学位を取得していない、または、卒業証書はカイロ大学のものと異なるというものだが、それは真実に反する」
「カイロ大学は声明を発表し、日本のエジプト大使館がホームページでそれを公開したとおり、小池百合子氏は1976年、文学部社会学科を卒業しており、卒業証書に対し、日本のメディアが疑念を呈したことを非難した」
「カイロ大学はこれらの疑念に対して、法的な対抗措置を検討している。カイロ大学は世界でもっとも権威ある大学の一つであるから、こうした非難を無視することはできない」(声明を発行した)カイロ大学は(取材に対し)コメントを拒否しながらも、エジプト共和国の日本における公式代表であるエジプト大使館の発表した内容のどおりだと認めた」。

 現地メディアが解説してくれたように、カイロ大学の声明の意図は誰の目にも明らかである。小池の学歴を検証し、疑念を呈する者はみな都知事の反対勢力とみなし、小池に代わってエジプトが国家として、対抗措置をとるとの強権的な脅迫である。「本声明は、一連の言動に対する警告であり…」と、もとの声明文にもその本意が書き込まれている。
 脅しに屈してしまった都議会自民党

 見え透いた脅しに聞こえるだろうが、効果は抜群である。この見え透いた脅しこそ、もっとも心理的な抑圧効果を生むというのが、エジプト国家情報部が得意とするプロパガンダ戦の基本である(小池氏と同居していた、情報部の創始者ハーテム著『プロパガンダ:理論と実践』未邦訳)。実際、脅しの効果は抜群であった。小池都知事の反対勢力である都議会自民党は「小池氏のカイロ大卒業の証明を求める決議案(6月9日)」を取り下げたのだ(6月10日)。その理由として、川松真一朗都議は「声明直後に決議を出せば、僕らはエジプトと闘うことになる」(6月10日日刊スポーツ)と語ったが、まさにエジプト国家情報部の思うツボである。川松氏は「間違ったメッセージのようにとらえられかねず、冷静に判断した」と続けるが、それは脅しに屈した者が発する常套句そのものだ。元々、尋常ではない脅迫メッセージを発したのはエジプト側であり、小池氏の学歴詐称疑惑(筆者の結論では、学業の実体はないが、ハーテム情報相の権力による超法規的な卒業証書保持者)はむしろ深まったと解釈するのが知性だが、それを吹き飛ばすのがプロパガンダである。カイロ大学声明が出たのは、決議案が出された同日の夜という絶妙なタイミングだった。現地メディアが報じたとおり、まさに「危機に瀕する東京都知事を救うための介入」に成功したのだ。

 ここで日本の国益にとって問題となるのが、助け舟を出したエジプト軍閥への見返りは何か。借りを作ってしまった小池が何を差し出すかである。この点についても、小池は自ら現地メディアの取材の中で何度も答えを示してくれている。一例として、小池が環境大臣に就任後に受けた現地紙でのインタビュー記事をとりあげる。「エジプトは私に対し、長い間、投資してきたと思っています。今では私への投資が有益で、成功であったことがはっきりしています。そうだよね!(筆者注:原文でエジプト方言の口語体での発言であることを強調して)」。隠喩的な表現なので、わかりやすく言い換えよう。ハーテム情報相を通じてえたカイロ大学の超法規的な卒業待遇というエジプト軍閥からの借りに対し、私は十分に見返りを果たしてきたと自負する発言だ。つまり、小池とエジプトは貸し借り関係にあり、過去の借りを国会議員になってから何らかの形で清算してきたという意味にとれる。上の発言につづき、小池はこう述べる。「日本は、環境分野を含む多くの協力分野でエジプトを支援しています(中略)神が望めば、エジプトは将来、さまざまな地域で日本からの協力プロジェクトを目撃することになるでしょう」(アハラーム紙2004年3月2日)。日本政府の大臣という要職に就き、小池氏はようやく包み隠さず、エジプトへの経済支援=見返りを現地の政府メディアでお披露目できるようになったのだ(その後の小池氏の見返りの詳細については、次回の記事で触れる)。エジプト軍閥にとってみれば、今後、さらに利用価値が高まる「日本初の女性首相候補」と呼ばれる小池の都知事再選に助け舟を出すことなど、お安い御用だったというわけだ。(続く)

【エジプトへの個人的な見返り、日本人の血税300億円】
 2020.07.04 、エジプト軍閥の“子飼い”小池百合子の運命③ エジプトへの個人的な見返り、日本人の血税300億円(特別寄稿)
 https://agora-web.jp/archives/2046954.html浅川 芳裕
 前回(「私は100%エジプト人なの」)取り上げた「カイロ大学、小池都知事のために都知事選に‟点火”」(ニュースサイト「アルバラド」)などの一連の記事に関し、SNS上ではこんな書き込みがあった。東京都知事!誰とやりとりしているんですか?この証言(カイロ大学声明)は怪しい。エジプト政府の声明だから、疑念をもって当然だ(この記事は)偽りを語っている。それは、神のためではなく、自分自身の満足、そして腐敗した支配者のためだけに さすがは独裁専制下で生きてきたエジプトやアラブ諸国のネットユーザーたちだ。小池氏の学歴騒動の深層について、お見通しである。小池氏とエジプト政府間の癒着や腐敗、それを覆い隠すエジプト政府のプロパンガンダを見透かしているのだ。

 エジプト流プロパガンダの真髄を見せた動画そんな小池記事への書き込みが盛り上がった数日後、元記事を掲載したニュースサイト「アルバラド」に妙な動画がアップされた。「サダム・フセインと東京都知事 ―カイロ大学の卒業生たち」と題するものだ。いわずと知れたフセイン元イラク大統領と小池百合子東京都知事のことである。これがエジプト流プロパガンダの神髄である。いくら疑念や疑問が寄せられても、一切答えず、さらに大きな“誇張“や”法螺“をかぶせていく。それを何層にも重ねることで、疑念を持つ者の追求心をそぎ、真相を闇に葬り去る。すべてはエジプト国家に有利な言論空間を生み出していくためだ(参考文献:小池氏を子飼いにしたハーテム著『プロパガンダ:理論と実践』未邦訳)。プロパガンダの各層を丹念にみていけば一見、脈略がなさそうでも重要なメッセージが込められていることがある。では、この動画に何の意味があるのか。タイトルにある「サダム・フセインと東京都知事」―――2人の共通点は何か。
 小池とフセイン元大統領の共通点

 2人は奇しくも、カイロ大学での学歴について真偽が取り沙汰されてきたという共通点がある。さらに、2人とも要人になった途端、エジプト軍閥がカイロ大学の偉大な卒業生として公式に発表し、賞賛されるようになった人物という稀にみるもう一つの共通点がある。(ちなみに、フセインはカイロ大学中退説が根強かったが、後年、本人の自伝で法学部2年中退と認めている。その点、小池とちがい正直で潔い。しかし、エジプトは本人が中退と認めていても、自国にとって有利だとみなせば、勝手に卒業公認をする国柄である。小池氏の場合は、フライングして卒業自認(学歴詐称)してしまうが、後に超法規的に公認されるという変則ケース)。実は2人にはもう1つの共通点がある。カイロ大学の外国人特別待遇枠である。カイロ大学では1954年の粛清後、小池が留学する70年代まで、特殊な外人留学枠が存在していた。1つはアラブ諸国で反政府活動をする若者を亡命させ、ナセルの「アラブの大義」で洗脳し、国に戻ったとき工作員にする枠。サダム・フセインもその1人だった。もう1つは表向き文化的だが、同様にエジプトの国策に都合のいい将来のエージェント育成のため、非アラブ特定国の若者を優遇する枠。ハーテムは情報相のトップとして、アジアやヨーロッパ諸国の若者受け入れを推進すると同時に、それらの国々の議員と友好協会を立ち上げていった。ハーテムは同協会会長としての功績として、以前とりあげたとおり、2つ功績をあげる。1つ目は「数百億円にのぼる巨額の援助を日本政府から引き出したこと」、そして2つ目は「小池百合子を『子飼い』にしたこと」である(アハラーム紙2004年6月21日)。エジプト軍閥の子飼いになってから40数年後、ハーテムの後継者として、小池氏は最大の栄誉の瞬間を迎えることになる。シシ大統領は小池元防衛相(1976年カイロ大学文学部アラビア語学科卒)が率いる日本エジプト友好議員連盟会長と面会し、謝意を表した。彼女がエジプトとの関係発展に注意を払い、両国関係を有利に進めている事柄に対してである。(2016年3月4日アハラーム紙)小池は、エジプト軍閥の統領からよくやっていると褒められたのだ。何を褒められたのか。
 小池が300億ODAの発端を示す証拠

 同じ記事のなかで、「エルシシ大統領の日本訪問では、教育プログラムに関連して多くの目標を達成した」とある。教育関連で一つはっきりしている2カ国間案件がある。3百数十億円にのぼるエジプトへの日本のODA(政府開発援助)による教育支援策「エジプト‐日本教育パートナーシップ(EJEP)」で、シシ大統領から小池が謝辞を受けた1カ月前に発表されたものだ。その1年前、小池とシシ両氏のエジプト大統領府における会談内容をみれば、エジプトへの教育支援ODAへの小池の具体的な関与が明らかになる。シシ大統領は小池のエジプトへの支援を賞賛」したうえで、「教育分野において日本の経験から利益を得ることについて、エジプトの関心を表明した。(「アルマスダル紙」ネット版2015年5月3日)シシの関心に対し、「小池氏はエジプトと日本の関係を強化する努力を惜しまない」(同上)と後押しを表明。さらに、小池「私がエジプトを大切に思っているのは、公式のレベルだけでなく、個人のレベルのことである」と語っている(同)。つまり、小池こそがエジプトに対する300億超の教育支援ODAの発端であり、窓口だという会談内容である。加えて、この教育事業は個人レベルの話だとの意味深な発言も含まれる。本人発表でも、「小池議員も大統領の認識に賛同し、日本の優れた初等教育の方面からの協力が効果的であり、喜んで協力する準備があるとの発言を行った」(小池衆議院事務局のプレスリリース2015年5月4日)と認めている。「エジプト‐日本教育パートナーシップ」には2つの事業がある。ひとつは、「エジプト・日本学校(小中学校)支援プログラム」(総額186億2,600万円、エジプト大使館文化・教育・科学局発表)で、小池が言い出した“初等教育の方面からの協力”そのものである。
 100億円を見返りにした“美しい対応”とは?

 もう一つが「エジプト人留学生・研修生」受け入れ事業で、総額101億9,200万円(同)である。これが、先の小池発言「個人レベルのエジプトへの思い」にもとづく事業のことである。先ほど引用したアハラーム紙記事の記者が種明かしする。長文記事の最後に「小池の経験とエジプトへの美しい対応」と題するコラムを寄せている。以前、小池に取材した際、こう語っていた。故ナセル大統領が外国人学生に対し、奨学金を提供するという重要な政策を採用していたと指摘し、彼女自身もエジプト政府から月額8エジプト・ポンドの助成金を受け取っていた。ナセルの行った投資は有益で成功だったでしょ。だって、そうじゃない!小池は今日、日本政府のエジプトの学生に対する広範囲な奨学金プログラムについて、強力な支援者である。記者は「美しい対応」と題しいかにも美談のように語るが、まったくちがう。小池が自分のエジプトからの借りを今回、100億円にして返しましたよという下品な話だ。問題は、言うまでもなく日本人の税金を使い、ODAの形でエジプトへ見返りを続けている点である。小池は、ハーテム博士に対して、エジプトやエジプトの友人のために奉仕するプロジェクトを話題にした。(アハラーム2011年9月3日付) 連載1回目で引用した発言のとおりだ。軍閥から弱みを握られた小池のエジプトへの見返りについて、今回、現地メディア(軍閥・情報部の従属下にある政治機関)にもとづき明らかにできたのは氷山の一角である。ただ確実に言えるのは、都知事としての公約実現はゼロだが、エジプトへの公約(見返り)は長年、果たしているということである。小池は彼らに生殺与奪を握られているのだ。

【小池の「学生結婚」
 1974年、21歳の頃、カイロ大学の3歳年上の日本人(韓国人説もある)留学生山本某と「学生結婚」する。
 二十歳のころの貴重な経験。それは結婚でした。私は22歳で、同じカイロ大の日本人留学生で3歳上の男性と結婚しました。留学中の心細さもあり、とても頼りになる相手でした。

 夫はその後同大学で進級できず卒業をあきらめ、サウジアラビアに引っ越して就職。結婚から3年ほどで離婚した。離婚理由は、結婚相手の就職先がサウジアラビアで、「サウジアラビアに一緒についてきて欲しい」と言われ、断ったことによる。「3年間の結婚生活では子供はおらず、同居をしたのはたったの1年間だけ」だった。
 結婚生活は長くは続きませんでした。期間は3年ほどだったと思います。実質的に一緒に暮らしたのは1年少々でした、相手が留学半ばでサウジアラビヤでの就職を選び、私はカイロでの留学続行を希望したため、離婚へ至りました。それでも感謝しております。結婚生活を経験したことで、その後の人生で、焦ることもありませんでした。ただ、子供がいたらよかったと、今になって後悔はあります。もし、そうであったなら、私の人生も大きく変わっていたでしょう。
 小池百合子の2回目の結婚については、相手や時期の情報が公開されていない。小池は、2回目の結婚相手との破局理由を「途中で結婚もしましたけれど、仕事のほうが面白くってさっさと別れちゃいました」、「2回目の結婚でも子供は居ません。ただ、子供がいたらよかったと、今になって後悔はあります」と語っている。

 1976(昭和51年).1月、ハテム副大臣家を出る。
 1月、(離婚に伴って?)北原女史と同居生活を再開する。
 同年、日本航空カイロ支店の現地スタッフとして働き始める。
 1976.7月、カイロ大学の進級試験に不合格。最終学年でなかったため追試試験受けられず。この頃の北原証言は次の通リ。
 「落ち込み、塞ぎ込み、『これからどうしよう』と思い悩んでいました。追試を受けることはできなかったし、学部変更は1年からまたやらないといけない。もちろん生活費は必要です。そこで日本航空の現地スタッフとして働き始めたんです」。

【カイロ大学の超法規的卒業
 1976.10月、「小池ゆりこプロフィール」に「カイロ大学文学部社会学科卒業」と記している。

 「順調に進級して4年で卒業した」ことになるが、落第したとする北原証言その他と齟齬する。複数の小池の著書によれば「カイロ大学を首席で卒業」と記されている。これも履歴詐称が疑われている。

【朝堂院大覚氏証言「学歴詐称は100%間違いのない事実」
 エジプト時代の小池一家の経済的支援者である朝堂院大覚氏証言は「学歴詐称は100%間違いのない事実」と証言している。
 「朝堂院大覚氏 独占インタビュー」

 http://www.asyura2.com/24/senkyo294/msg/195.html
 朝堂院大覚氏の証言 (聞き手 佐藤章 元朝日新聞記者)
(佐藤) 小池勇二郎さん(百合子の父親)とか、小池百合子さんとか、カイロ大学を諦めるということについて何か言葉として覚えていらっしゃるようなことはありますか?
(朝堂院) まあカイロ大学を出たことにしようか、という話は勇二郎とわたしでやったことはあると思う。
(佐藤) あっ、そうなんですか。えええ。
(朝堂院) わたしが(百合子が)空手雑誌をもう止めましたと、そして東京へ戻るという段階でのときに小池勇二郎と私の会話の中でカイロ大学行ってたんだからまあ中退だけど卒業という形で戻ったほうが活字?がいいんじゃないかという話はした記憶はあります。
(佐藤) ああ、そうですか。なるほど。
(朝堂院) だから出た形をとろうという記憶はあるから、その記憶どおり(笑)彼女は出た出たと言っているんだと思う。
(佐藤) なるほど。そういうことですか。
(朝堂院) 出て普通のキャスターで終わればこんな問題にはなってないと思う。キャスターでまた結婚して人生終わっちゃえば。しかしまあ初めの段階でキャスターの段階から出た出たと卒業だと自分自身の自伝でトップで首席卒業まで書いてるから引っ込めなくなっちゃった。だから衆議院選挙においても同じことを繰り返したわけ。それがついに問題になって抜き差しならぬ状況に今なってる。ということは可哀想は可哀想なんですよ。最初出たことにしとけと言ったのはわたしだから。
(佐藤) あっ、朝堂院さん自ら?
(朝堂院) 勇二郎と私が。 わたしの事務所に出入りしていればそのうち仕事も見つかるやろうと言って私の事務所に出入りしだしたわけだから。だから初めからわたしは出たはずがないと言ってるわけ。
(佐藤) なるほど。つまり勇二郎との間で日本でいろいろこれからやるには卒業したということにしといたほうがいいよねというような話を勇二郎と朝堂院さんの間で話をしたというような記憶ですね。
(朝堂院) だからはっきりと関西学院大学一年中退、カイロ大学二年中退とこれ事実だと思うんですよ。これをはっきりと勇気を出して言う(べきだったと)(述べて)反省しております。これから頑張るから今まで以上のご支援をお願いしますと言えばかなりそれをかう人もおるかもわからない。もちろんそれは認めるわけですよね、卒業してないということを。
(佐藤) ちょっと繰り返しますけど、勇二郎と朝堂院さんの間ではカイロ大学を卒業したことにしておこうねみたいな話があって、百合子さん本人との間ではそういう話はなかったんですね。
(朝堂院) ない。
(佐藤) 日本に帰ってきて百合子さんは朝堂院さんのもとでどういうお仕事をされていたんでしょううか?
(朝堂院) 通訳とお茶くみ程度ですよね。やったとしても。そんな長い期間ではなかった。
(佐藤) 通訳というのは英語みたいな
(朝堂院) 英語です。アラビア語はしゃべったのは見たことがない。アラビア語は絶対しゃべれないと思う。アラビア語は一年一生懸命やってもgood morning good night ぐらいはしゃべれてもアラビア語で一般会話はできないでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Vn18C4souiw
(私論.私見)
 要するに、「超法規的卒業」ということになる。問題は、この措置を「エジプトエ―ジェント」の証拠とみなして論評することの巧拙にある。真相は、「エジプトエ―ジェント」というよりは、それを操る「CIAエ―ジェント」、あるいは「更なる奥の院エ―ジェント」とみなすべきだろう。

【兄/勇の正々堂々卒業証言】

 2024.6.17日、(週刊FLASH 2024年7月2日号)「妹は秘密主義やから」小池百合子氏の兄が “女帝” の素顔を初告白…学歴詐称疑惑に「俺はカイロで見た」新証言」が、兄/勇の顔写真付き(兄妹一緒の墓参り貴重写真)で概要次のように報じている。

 妹は日本にいるときから、エジプトからの留学生を個人教師にして、アラビア語を勉強してたんだから。その後、大学中退して、まずカイロ・アメリカン大学に入るわけや。最初は英会話クラスだったけど、現地でアラビア語を勉強して、2年のときにカイロ大に編入した。学歴詐称なんて言われてるけど、カイロにいた俺は目の前で卒業したのを見てるんだよ。『兄ちゃん、卒業したよ』って挨拶に来てたからね」。朝堂院氏の会見について、「全部大嘘ですよ」と言い切る。
(私論.私見)
 小池ゆり子の兄が突如メディアに登場した。なぜこれまで登場しなかったのかが気になる。当人がインタビュ―の中で次のように述べている。
 「はっきり言って、妹と仲はよくないです。最後に会ったのは父の7回忌。俺は、貿易や国際的な開発コンサルトの仕事を45年くらいやっていたので、コロナ禍までは年に2カ月ぐらいしか日本にいなかったんです。 それに、彼女にすれば怖いんでしょう。俺が何か怪しい仕事、悪い仕事をしているんじゃないかと。何を言い出すかわからへんし、俺を表には出したくなかったでしょうね」。

 兄/勇の顔写真付き(兄妹一緒の墓参り貴重写真)によると、兄/勇は石原裕次郎似の好漢である。兄/勇と妹/百合子もふっくらとしたところが似ている。石原家と小池家は血族の可能性がある。
 6.26日、「小池百合子都知事の実兄が告白70分「妹はカイロでたらいに水張って足突っ込んで勉強していた」「僕は政府転覆のためにモンゴルへ」」の一部転載。
 以前、モンゴルでビジネスを手掛けていたという勇氏。そのことについて尋ねると、「政府転覆のために行った」という物騒な言葉が飛び出した。

 「1984年なんですね、モンゴル行ったのが。(政情は)真っ赤っ赤よ。政府転覆のために行ったの。いやほんとに、外務省から呼ばれて行ったのよ。向こうへ着くと、現ナマ、使いようのないお金をくれるわけ。北京からウランバートルまで列車に乗って28時間かかった。そんでモンゴル大使と、『もしここでODAが再開されるんだったら、こういうプランでやってった方がいいですね』って、10くらいプランをバーッと並べて。俺一銭ももらってないから。僕はプランナーだから、ここはこうする、『この国がもし西になると、一番困ることは、貿易です』と言って。それまでは貿易と言っても、バータートレード、羊1万頭と戦車2台とかでしょ。『どうしたらいいんですか』って、僕のところに来て。『アジア開発銀行と接触してその支援を得なさい』と。面白かったね、国づくり」。

【日本へ帰国
 同年10.11日、来日するエジプトのサダト大統領夫人のジハン・サダトをエスコートするために一時帰国。この時の北原証言は次の通リ。
 9月下旬に小池さんのお父さんから連絡があって、『すぐに帰ってこい』と。旅費を工面して慌ただしく帰って行きました。11月上旬に帰国して見せられたのが日本の新聞。そこでは『カイロ大学に学び、日本人女性としては初めて同大学で学士号を取得』となっていました。私は驚いて、『そういうこと(卒業)にしちゃったの?』と尋ねると、『うん』と悪びれることなく答えました。
 10月にお父様から『サダト大統領夫人(当時)が来日するのでアテンド役をしろ』と連絡があり、小池さんが慌てて一時帰国した。

 同年10.22日付けのサンケイ新聞記事は、ジハン・サダト大統領夫人をエスコートする「屋のお嬢さん」、「エジプト人でも卒業できるのは四人に一人といわれるカイロ大学を規定の四年でみごとに卒業した才媛」として描かれ、「卒業式を終え、十月十一日、日本に帰ってきた」と紹介されている。これが「虚飾の履歴の始まり」になる。
 同年11月、小池がエジプトに戻る。一時帰国中に受けたインタビュー記事を北原さんに手渡した。「エスコート役に芦屋のお嬢さん カイロ大新卒」と大きな見出しがあった。
 11月にエジプトへ戻ってきた小池氏が手にしていたのは「カイロ大学卒業」と自身の経歴が書かれた新聞記事だった。北原さんが「そういうことにしちゃったの?」と尋ねると、小池氏は悪びれず「うん」と答えたという。
 帰国前夜、北原氏にこう話したという。
 日本に帰ったら本を書くつもりだけど、北原さんのことは書かない。ごめんね。バレちゃうから。
 同年12月、正式に帰国した。同居生活が唐突に終わりを迎えた。
 翌12月に小池氏が帰国すると、そこから二人の関係はプッツリと途絶えた。その年の5月の試験に落第していましたから、首席で卒業どころか中退して帰国したと考えるのが自然です。





(私論.私見)