小池百合子履歴考その1

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).7.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「小池百合子履歴考その1」で、生い立ちから神戸時代までの履歴を確認しておく。大下英治「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)、石井妙子「女帝 小池百合子」その他を参照する。

 2007.4.9日 れんだいこ拝


【生い立ち】
 兵庫県芦屋市に生まれる。芦屋の東山町(ひがしやまちょう)説あり。
 父親の小池勇二郎(1922~2013年)は「元海軍中尉で満鉄経理部出身」とあるが真偽不明。戦時中、仲小路彰小島威彦らが創設した思想団体「スメラ学塾」のメンバーとして活動し、石油関連の貿易商として戦後に財を成した。また、政治家への転身を考えていた父親は末次一郎に心酔していた。
 3歳上の兄/がいる。 
 2013.5月、自民党が政権を奪還するのを見届けるように勇二郎(享年90歳)、9月、母・恵美子(享年88歳)が相次いで亡くなった。

少女時代
 1959年、末次の主催する日本健青会がエジプトとの交流事業を行い、その一環としてアラブ、アフリカ諸国に視察団を送る。視察団に参加した勇二郎はエジプトのカイロで感激し「自分はここに残って商売がしたい」と言い出した。結局、周囲に説得させられて帰国するが、小池百合子とエジプトの縁はここに端を発した。
 芦屋市立岩園小学校、甲南女子中学校を経る。小学1年生から中学3年生までガールスカウトで活動する。

 3年半かけて小池を綿密に取材し執筆した「女帝 小池百合子」の石井妙子氏によれば、小学5年生の時に弁論大会で優勝した小池百合子の題名は「嘘も方便」だった。
「女帝 小池百合子」は次のように記している。
 「何をしてでも有名になれという父、手に職を持ち、ひとりで生き抜いていかなくてはいけないと語った母。(顔にアザがあり・筆者注)女の子なのにかわいそうにと憐れむように、蔑むように向けられた視線。彼女は宿命に抗った。そのためには「物語」が必要だったのだろう」。
 1968年、甲南女子高等学校に進学。在学中は、テニス部、ソフトボール部、ESS部に所属した。

【小池勇二郎の履歴
 小池勇二郎の履歴は次の通リ。(石井妙子『女帝 小池百合子』 文藝春秋 ) の(1)石井妙子『女帝 小池百合子』、(2)石井妙子『女帝 小池百合子』、(3)石井妙子『女帝 小池百合子』。

 1922(大正11)年、兵庫県生まれ。東京に出て中央大学専門部商学科に入学。専門部は今の専門学校。東京に越後友之助という遠縁がいたので、そこに押しかけて書生にしてもらい学校に通った」(「芦屋令嬢」p22)。1944(昭和19)年9月、中央大学専門部卒業。海軍に召集され、終戦時は「海軍中尉」であったと語っている。だが、専門部という学歴で、昭和19年9月の卒業で終戦までに中尉になれるものだろうか。(「芦屋令嬢」p22 )、一方で彼はまた周囲に「満鉄経理部で働いていた」、「満鉄調査部にいた」、「満鉄の野球部で活躍した」とも語っている。だが、海軍にいて満鉄にいられるわけはない。(「芦屋令嬢」p23 ) 勇二郎は、気に入った他人の体験や経歴を自分のものとして語る癖があった。(「芦屋令嬢」p25 ) 

 戦後、闇屋商売をしていた。ペニシリンで儲けた後、三昌物産という貿易会社に入り専務になる。「遠縁の越後友之助は東洋国際石油という会社の社長だった。そのコネで三昌に入り込んだ」。勇二郎は「石油を扱う貿易商」と報じられてきた。「石油を関西電力に卸していた」と。「とにかく評判が良くなかった」(「芦屋令嬢」p38 )。石油転売のブローカー。「支払いをきちんとしなかったり、踏み倒そうとしたり)する行儀の悪い業者だった」(p38)。仕入れ先に金を払わない。借金が膨らむと棒引きしてもらったり」(「芦屋令嬢」p36 )

 小池勇二郎は関西経済同友会のメンバーになり、政界へ近づいた。三昌物産・本社は、大阪の大ビル内、東京支店は銀座のビルだ。
 「名刺に東京事務所とあることに意味があるんだ。銀座じゃなきゃあかん。それで人は信用する」(「芦屋令嬢」p39)。

 東京に出張する時は必ず帝国ホテル泊、一等車(グリーン車)やファーストクラスを利用。
 「みすぼらしく見えたら、それだけで信用されない。見栄をはることが商売をする上では大事だと唱えていた」(「芦屋令嬢」(p39)。  

 この間、小池家の経済は年々、悪化していた。会社を立て直そうとするのではなく、政界に転身しようと画策するようになっていった。中曽根康弘や福田赳夫の後援会に入り、できる範囲の寄付もした。
 「会社はずっと左前"ひだりまえ"。それでも、とにかく政治家が大好きだから近づいていく。パーティーがあれば出席する」。

【石原慎太郎と小池百合子の父、勇二郎の交友
 1969(昭和44).12.10日、毎日新聞紙上で、石原慎太郎が小池百合子の父、勇二郎氏について次のように語っている。(2017.3.17日、FLASH編集部小池百合子が狙う「石原ファミリー殺し」48年間の恩讐」)
 「小池さんという人は、いってみればボルテージの高いつむじ風のような人物である。神出鬼没、まさしく戦国向きの人物である。画一化された人が多い当節、得難い魅力がある」。

 この前年、慎太郎と勇二郎は、ともに政治団体「日本の新しい世代の会」を旗揚げし、慎太郎は参院選に初めて立候補した。作家の大下英治が当時の2人の関係を次のように語る。

 「慎太郎氏が立候補したとき、関西の選対で陣頭指揮を執っていたのが、勇二郎氏だったんです。勇二郎氏は慎太郎氏を支援していたというより、傾倒していましたね」。

 選挙の結果、慎太郎が史上最高の301万票を集めて初当選。

 1969.12月、 高校2年のとき、父親の貿易会社社長/勇二郎は衆議院解散による第32回衆議院議員総選挙に、石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて旧兵庫2区から無所属で立候補した。(藤原肇著「さらば暴政」は、「1969年に統一教会(勝共連合)の支援で衆院選に出たが落選した」と記述している) “兄妹” は共に選挙を手伝い一緒に選挙ポスター張りなどをしている

 結果は落選。12人中10位、7074票(トップ当選者は約12万票、5位の新人・土井たか子は約7万票)。


 兵庫県選出の元国会議員が振り返る。

 慎太郎さんの手配で、当時から側近だった浜渦武生さんや、後に参議院議員になった鴻池祥肇さんが、勇二郎さんの選挙を手伝っていました。しかし慎太郎さんの選挙区入りのような、直接の支援はなかったと記憶しています。当時、高校生だった百合子さんは、父親が一方的に入れあげてばかりの慎太郎さんに、複雑な気持ちがあったと思いますよ。小池家にとって、石原家は近いようで遠い存在なんです。

【石原都政下の元副知事/濵渦武生証言
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK294 」「赤かぶ 日時 2024 年 6 月 09 日」、「石原都政で“懐刀”と呼ばれた元副知事(濵渦武生)が明かす 小池都知事の父親は「大ボラを吹く人でした」 小池百合子と学歴詐称(日刊ゲンダイ/小塚かおる)」。
 リレーインタビューの最後は、石原慎太郎元都知事の「懐刀」と呼ばれ、石原都政で副知事を務めた濵渦武生氏。実は小池百合子知事の父・勇二郎氏(故人)と大学生の頃に知り合い、勇二郎氏の選挙を手伝ったこともある。その父から直接、「百合子はアラビア語が全然できない」と聞かされたという。

 「勇二郎さんは大ボラを吹く人でしたね。自分は海軍の将校だったと言うわけ。でも、どうも話がおかしい。私の親父は終戦時に海軍大尉だったんです。で、いろいろ話を聞くと、ケッケッケッと笑って『君ね、嘘も100回言えば本当になる』と言う。驚いたよ。細かく詰めていくと天才的に話をそらす。百合ちゃんもそれを踏襲している」。

 濵渦氏が勇二郎氏と知り合ったのは、参院議員に初当選した石原が立ち上げた政治団体「日本の新しい世代の会」だった。関西地区の専務理事をしていたのが貿易商の勇二郎氏で、濵渦氏は学生部の理事。勇二郎氏が1969年の衆院選に旧兵庫2区から無所属で立候補した際、石原から「手伝ってやれ」と言われ、選挙事務所となった尼崎支部で専従で活動した。支部長は後に国会議員になった鴻池祥肇元防災担当相で、共に勇二郎氏の選挙を手伝った。

 「貿易商と言っても、余った石油を集めて転売するのが勇二郎さんの商売だった。『僕は当選したら通産政務次官になれるんだ。そうすれば傾いた会社を立て直せる。だから応援してくれ』というような話だった。しかし、何千票かしか取れずに落選。その後、後始末もせずにいなくなった。当時、百合ちゃんは甲南女子に通う高校生。兄の勇くんは選挙の手伝いに来たけど、百合ちゃんは一度も来なかった」。

 「過去を悔いて、正直にお話しなさい」

 しばらくして、濵渦氏が衆院議員に鞍替えした石原の公設秘書になると、勇二郎氏から「会いたい」と電話がきた。1973~74年ごろのことだ。気乗りしなかったが、指定された東京・銀座の三笠会館で会った。「そこで、勇二郎さんからカイロにいると聞かされた。そして、こう言ったんです。『百合子が向こうで大学に行ってるんだが、アラビア語が全然できない。だから向こうの本を日本に持ってきて、いま全部翻訳してもらっている。日本語で丸暗記して、授業や試験に臨むようにするんだ』。そんなことで、できるのかなと思いましたけどね。その後、百合ちゃんが日本新党から参院選(92年)に出馬すると勇二郎さんから連絡があり、『手伝ってくれ』と言われましたが、二度とだまされたくないので断りました」

 小池が父親のホラ吹きを受け継いだのを目の当たりにした忘れられないシーンがある。初出馬した2016年の都知事選の街頭演説で、がんサバイバーのライバル候補・鳥越俊太郎氏を「病み上がりの人」と言い、鳥越氏がテレビ討論の場で「差別だ」と批判した際のことだ。「彼女は『私そんなこと言っていません』と押し通したんです。鳥越さんが『うっ』って詰まって、『言ったじゃないか』と声が裏返った映像まで覚えています。過去にあったこともなかったと言い張ることで、彼女は自分をも納得させるわけです。それでメディアも大衆もだませると思っている」。 

 2期目を終える小池都政に、濵渦氏は「何もやっていない」と辛辣だ。「最初の公約だった、通勤ラッシュ対策で2階建て電車を走らせる構想はどうなったのか」と笑う。それでも小池は3選出馬するつもりだ。「過去を悔いて、正直にお話しなさい」。濵渦氏からのメッセージだ。
▽濵渦武生(はまうず・たけお) 1947年高知県生まれ。関西大文学部新聞学科卒。石原慎太郎、鴻池祥肇の秘書を経て、2000~05年東京都副知事。東京交通会館副社長、東京都参与などを歴任。
 「小池百合子も父・小池勇二郎も、人間離れした鉄面皮、虚言を専らとするサイコパスである」の言がある。

【小池家の困窮生活
 返すあてのない借金だけが残り、会社だけでなく自宅にも借金の返済を求める人たちがやってくるようになり、近所から苦情が出た。借金で心中を考えるほどになる。

 小池家が自宅を差し押さえられ、路頭に迷っていた時代、助け舟を出したのが朝堂院大覚(ちょうどういん だいかく、松浦良右"りょうすけ")で、小池家の破産処理を引き受け一家と深くかかわることになる。空調工事会社「ナミレイ」の会長として巨額の財をなし、元官房長官の後藤田正晴や石原慎太郎らの指南役として活動し、政界フィクサーとして鳴らすことになる人物である。

 朝堂院大覚はこう振り返る。
 「とにかく、ひどく恨まれておった。選挙に出て、あの家は傾いたわけじゃない。傾いていたから一発逆転を狙って、後先を考えず選挙に出たんやろ。議員になってしまえば、借金も返せると浅はかに考えて。人から預かっておった金も政治活動に使ってしまったんや」(第一章 「芦屋令嬢」p49 )。
 「ヤクザの手形が勇二郎の所に回ってるから、会社がめちゃくちゃになり、家もヤクザに乗っ取られて、それでワシの所に頼みに来た。どれくらい手形があるのか聞くと十数億あると。それをワシが片付けた」。

【甲南女子高校卒業、関西学院大学社会学部に入学
 1971.3月、甲南女子高校卒業。同年4月、関西学院大学社会学部に入学(一家の東京移転に伴い中退する)。

【小池家の東京暮らし
 小池一家は芦屋市にあった邸宅を売り払い、朝堂院大覚氏の世話で都内六本木のアパートで暮らし始める(「その後、勇二郎を六本木の小さいマンションに住まわせてやったよ」)。後に、六本木で飲食店事業を任せられカイロに出店することになる。

【エジプト政府高官ハーテムの知遇を得る】
 1970年、業者間転売品の仕事が立ち行かなくなった父親は、ムハンマド・アブドゥル・カーデル・ハーテムが来日すると、日本アラブ協会が主催した歓迎パーティーに出席しハーテムに自分を売り込んだ。帰国したハーテムを追いかけ、同協会に所属する国会議員の紹介状を手にエジプトに飛んだ。エジプトから石油を輸入し、関西電力へ販売する事業を手掛ける。

 10.14日、ハーテムの知遇を得た勇二郎は帰国後、大阪倶楽部で講演を行う。「中東から日本に入ってくる石油はすべてユダヤ人が経営する企業を経由している。今回の中東訪問で自分は人脈を築いたので、ユダヤ企業を通さず石油を仕入れられるが、足りないのは自前のタンカーである」と述べて投資を募り、商売を続けた。






(私論.私見)