嘉田 由紀子(かだ ゆきこ、1950年5月18日 - )は、日本の政治家。滋賀県知事(第8代)である。環境社会学者、文化人類学者である。1973年京都大学農学部を卒業、1981年、京都大学大学院農学研究科博士課程を修了し、京都大学より農学博士(論文名『琵琶湖の水問題をめぐる生活環境史的研究』)を授与される。元滋賀県立琵琶湖博物館研究顧問、京都精華大学人文学部教授を歴任し、2006年7月2日の滋賀県知事選に当選して全国で5人目の女性知事となる。元夫は元京都大学農学部教授の嘉田良平(農業経済学、専門は環境保全型農業)[1]である。座右の銘は、「まっすぐに、しなやかに。」
1950年(昭25)5月18日、埼玉県本庄市の養蚕兼業農家に生まれた。父親の渡辺康雄は本庄市議会議員を務める。
埼玉県立熊谷女子高等学校時代に生徒会長を務め、小田実の「なんでも見てやろう」を読みアフリカへ憧れを抱く。
京都大学農学部へ進学。当時女性部員がいなかった探検部へ、後に夫となる当時の部長と入部許可を求めて口論のうえで入部する。3回生の時にタンザニアで半年間生活した。
1973年、京都大学農学部を卒業。大学院農学研究科へ進学。アメリカウィスコンシン大学大学院へ、アフリカやアジアの経済発展を社会開発や環境の面から研究するため留学するも、指導教官より日本の農村研究を促される。結婚。
1974年、一時帰国して琵琶湖湖畔に於ける農村生活の形態変化について研究しながら海外での調査研究も継続する。
1979年、家族とともに大津市に移住。
1981年、京都大学大学院農学研究科博士後期課程を修了。滋賀県庁入庁。琵琶湖研究所員として琵琶湖周辺の農村生活、ホタルダスや水環境カルテなどを調査研究する。1996年開館の滋賀県立琵琶湖博物館に構想段階から深く関わり、後に滋賀県知事の座を争うことになる國松善次とは同僚である。1997年、琵琶湖博物館総括学芸員となる。
2000年、京都精華大学人文学部環境社会学科教授となる。滋賀県立琵琶湖博物館顧問就任。
2006年、「もったいない」を合言葉に、新幹線新駅の建設凍結、県内に計画されているダムの凍結見直し、旧志賀町に予定している廃棄物処分場の中止などを主張して滋賀県知事選挙に出馬。真に県民のための県政を目指すという「超政党」という立場から全政党に対して推薦依頼を提出する。自民党と民主党は別々に、國松知事と嘉田の双方から主張を聞く会を催した。民主党内には嘉田を推す声が強かったが、新幹線の新駅に対する立場を変えることができず、結果的に自民、民主両党は現職に相乗りした。(民主党県連の決定直後に小沢一郎代表の相乗り禁止指令が出た)。
公明党は嘉田・國松での調整がつかず自主投票とした。嘉田は社民党に対する要請でも、途中で推薦から支持に切り替え、社民は不快感を表明したが、最終的に受け入れた。最終的に嘉田には、社民党支持と近江八幡支部をはじめとする自民党非主流派の支援が残った。
2006(平成18).7.2日、無所属で立候補していた滋賀県知事選挙で自民、公明、民主の3党が推す國松善次前知事を破り、当選する。得票数は217,842票で、投票総数の約46パーセントだった。
当落 | 候補者 | 得票数 | 所属党派 | 前歴 | 推薦・支持 |
当 | 嘉田由紀子 | 217,842 | 無所属 | 新人 | 社会民主党(支持) |
國松善次 | 185,344 | 無所属 | 現職 | 自由民主党、民主党、公明党(推薦) | |
辻義則 | 70,110 | 無所属 | 新人 | 日本共産党(推薦) |
2010年7月、滋賀県知事選挙に再選を目指して出馬し、自民党前衆議院議員の上野賢一郎らを破り再選される。知事当選により、この時点で大阪府の太田房江、熊本県の潮谷義子、千葉県の堂本暁子、北海道の高橋はるみに次ぐ全国で5人目の女性知事となった。
当選以降、自身が公約で主張した「新幹線新駅・産廃処理施設・ダム事業の凍結、見直し」政策を進め、新幹線新駅関連・廃棄物処分場については2007年(平成19年)度における関係予算をつけないことが決まり、これらの事業を事実上中止することができた。
滋賀県栗東市の新幹線新駅問題では、一部では損害賠償請求を求められるという噂もあったが、JR東海の松本正之社長は2007年7月9日、今後の対応について「10月末に出る地元の結論を受けて法的対応を考えるが、工事負担金を5月に仮精算したので大きな問題はない」と述べ、地元に対する新駅計画凍結による損害の賠償請求を行う可能性は低いとの認識を示し、新幹線新駅凍結の今後は地元の事後処理へと焦点が移ることとなった。
ただ、ダム事業の凍結・見直し(撤回でも中止でもない)公約では、県内に計画されているダム6つ(丹生ダム、大戸川ダム、永源寺第二ダム、芹谷ダム、北川第一ダム、北川第二ダム)の内、県営の芹谷・北川第一のダム建設計画については2007年2月の議会で容認と取れる答弁を行った。他方、県営北川第二ダムは公約通りの凍結方針を表明しているにもかかわらず、マスコミには取り上げられることはほとんどなかった。また、国営の丹生ダムについては、今までの貯水ダム計画には否定的な見解を示している。ただ、穴あきダムの可能性はあり得るとの発言をとりあげ、マスコミはまたも推進と報じたが、その後は推進するような態度を嘉田は示していない。
統一地方選挙後は、県議会の流れの変化によるものか、ダム建設計画に前向きと思わせるような発言をすることは見られなくなった。一部ではダム建設計画への否定的な発言も見られ、また、就任一年の会見では、「社会変動の中でかつて計画したことをそのまま続けることが、本当に次の世代に喜ばれることなのか。勇気ある撤退が必要。」と新幹線のみならずダム計画の凍結に対するこだわりを感じさせる発言もあった。こうした中、2008年11月の定例県議会で、国が計画する大戸川(だいどがわ)ダム(大津市)の建設中止を事実上求める知事の意見案が廃案となった。
当選後の議会における所信表明演説においては「財政的観点からもダム事業は凍結する」という姿勢を見せていたが、一方で「治水事業の瑕疵(かし)で一人でも死者が出た場合は辞任する」とも述べていた。ダム建設を推進・要望していた大津市や彦根市をはじめ県内の自治体は知事の公約に反発、特に丹生ダム建設が計画されていた余呉町とは激しく対立した。本人は公約について「一切ダムを作らないという、脱ダム(という意味)ではない」、「(マニフェストでは)ダムだけに頼らない治水計画を掲げた。ダムすべてを否定はしていない」また「(現在は)ダムの必要性、効果、影響も含めて議論する過程の中にある」と述べている。この間、ダム事業に対する流れは2004年に発生した平成16年7月福井豪雨をきっかけとした足羽川ダム(福井県)の建設再開(凍結解除)や、2006年に発生した平成18年7月豪雨をひきがねとして長野県の田中康夫が知事選挙に落選したことおよび後任の村井仁による「脱ダム宣言」の撤回など、ダム事業再評価の動きが見られ、こうした流れも微妙に影響を及ぼしている。
2007年統一地方選挙では彼女を応援する「対話でつなごう滋賀の会」が結成され、躍進した。
2007年4月23日には留守番電話で、「長崎のようになりたくなければ新駅を作れ」と脅迫された。伊藤一長長崎市長の射殺事件を指しているものと思われる。議会で新駅建設反対派が推進派を上回った結果、推進派の自民党滋賀県連は「知事の考えに従う」として新駅の凍結に賛成する意向を示した。こうした情勢を受けて中川秀直幹事長が現地入りして嘉田と対談し、7月9日には新幹線新駅の凍結方針が国から示された。森喜朗元首相に、「女の人だな、やっぱり(視野が)狭い」と批判された。しかし、嘉田は「女性蔑視(べっし)だと言うのは控えたい。問題の本質は財政問題。男だから、女だからとは無縁」などと大人の対応をし、株を上げたと毎日新聞に伝えられた。
10月24日、新駅問題について国松正一栗東市長らと話し合う会議が同日午後、大津市内で開かれ、新駅建設の根拠となる各種協定が今月末で白紙に戻ることを大半の市長が容認した。嘉田知事が前年7月の知事選で「凍結」と訴えた最重要公約が約1年4カ月かけて実現することになる。
国土交通省が推し進める大戸川ダム建設については、淀川水系に属する知事として橋下徹大阪府知事・山田啓二京都府知事・野呂昭彦三重県知事らとともにNOとする共同声明を出している。また、橋下の昨年1年間の大阪府の財政改革などに対する奮闘振りに「やはりマスコミ慣れしている分、はっきりとした意見が言えるのは少し羨ましいですね」と評している。一方、ダム事業の対応についてマスコミや一部支援者から「態度が曖昧」と批判されている。
2008年1月から4月の記者会見等の中で嘉田は、県政にとっては財源の視点から道路特定財源の暫定税率廃止は困るが、しかし、暫定が続いているという現制度自体の問題点や一般財源化の議論が必要であると指摘した。新名神高速道路の大津ジャンクション予定地以西の「当面着工しない区間」については、必要な道路であるとし凍結解除を訴えていた。
2008年、35年連れ添った夫と離婚し「今後は滋賀県と琵琶湖の未来のために仕事をしていく覚悟」と県民に呼び掛けた。
2009.11月、ジーエス・ユアサコーポレーションが新駅予定地跡地に電気自動車用リチウムイオン電池の新工場を建設する計画を表明。2010.4月、生産計画が発表された。嘉田は新駅凍結の代替案として「電気自動車用の電池工場の誘致に成功した」、「400億円の投資と800人の雇用が見込まれる」としている。
2010年2月16日、7月11日に投開票が予定されている県知事選に出馬する意向を表明した。4月2日には、新しい支援団体として滋賀の未来をひらく会が発足し、元成安造形大学長の木村至宏が会長に、県商工会連合会長の川瀬重雄が同会の副会長に就任している。
都道府県を廃止する安易な道州制の導入は地域のアイデンティティを破壊するとして、道州制にはきわめて慎重な姿勢を示している。6月、みんなの党に支援を要請するが、みんなの党は道州制に関する議論で認識の違いがあるとして拒否した。
2010(平成22).7.11日、無所属で立候補していた滋賀県知事選挙で当選。得票数は419,921票で、投票総数の約63パーセントだったほか、次点候補者との得票差がほぼダブルスコアとなっている。
当落 | 候補者 | 得票数 | 所属党派 | 前歴 | 推薦・支持 |
当 | 嘉田由紀子 | 419,921 | 無所属 | 現職 | |
上野賢一郎 | 208,707 | 無所属 | 新人 | ||
丸岡英明 | 36,126 | 無所属 | 新人 | 日本共産党(推薦) |
栗東市のRDエンジニアリング産廃問題では、全量撤去案(240〜400億円)ではなく遮水壁案(約50億円)を提案し、全量撤去を望む住民から批判されていた。2010年1月には「有害物の除去」を柱とする案を新たに示したが、除去する有害物の範囲などで住民側と協議が難航。新たに「有害物をできる限り除去する」との方針を打ち出し、工事に取りかかるためのボーリング調査を提案。地元自治会は県の姿勢を評価し、6月20日に地元7自治会と県との間で調査へ着手することが同意された。自治会側からは「約10年を経て、問題解決に一歩進んだ」と評価する声や、「今後も継続して自治会と協議してほしい」と注文する意見が挙がっている。
2012年、未来政治塾の開講を発表する。同年11月27日、新党日本未来の党を結成すると発表した[8]。この政党の結成を受けて、小沢一郎は、自身が代表を務めてきた国民の生活が第一を解党した上で、党ごと合流することを決定した。
趣味は孫と過ごすこと、カラオケ。座右の銘は「まっすぐに、しなやかに」。
親族
父は元本庄市議会議員、姉は現職の本庄市議会議員である。
著書 [編集]
『水と人の環境史 琵琶湖報告書』鳥越皓之編、御茶の水書房、1991年6月
『生活世界の環境学
琵琶湖からのメッセージ』農山漁村文化協会、1995年5月
他、多数あり。 ※詳細は、嘉田由紀子ウェブサイト ‐ モノ、コト、ココロの環境論を参照。