れんだいこの現代選挙の意義考

 (最新見直し2012.12.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「戦後憲法下の選挙権行使」に対する意義考を廻って、特に左派圏からの混乱が目に余る。2003衆院選でも、「政権交代喧騒」をよそに投票率が低下している。明らかに今や、無関心層の増大と積極的投票拒否派が混交しており、「戦後デモクラシー基盤の喪失」状況を呈している。本稿では、積極的投票拒否派の精神風景を解析し、その謂いが正論足りえるや否やを論駁してみたい。恐らく、現代左派圏のイデオロギー的貧困と理論的ねじれが浮き彫りにされるであろう。

 はじめに次のことを指摘しておきたい。滑稽なことは、我が国の政界変動に無関心を装うのに比して、西欧圏のそれらには克明なレポートを得々と為す輩がいることである。れんだいこには相も変らぬ西欧事大主義に見える。れんだいこは、こういう精神の者に漬ける薬を持たないので、どうぞ勝手にしろと云いたい。

 以上を踏まえて、以下、その1・議会への失望又は入れる党派がいないという状況から来る選挙権行使拒否派の動向分析に向いたい。その2・議会そのものの位置付けを廻り、いわゆるブルジョワ議会論を弄し、これに参画することを拒否する派の動向分析に向いたい。その3・日頃その堕落を指弾し抜きながら、いざ投票となるや旧社共への投票を呼びかける論の是非分析に向いたい。最後に、れんだいこが見るところの戦後政治の対立軸を浮き上がらせ、我々がこの動向にどう関わるべきか立論してみたい。そして補足として、新党立ち上げの意義について論及して見たい。

 2003.11.11日 れんだいこ拝


【議会闘争の意義考】

 議会闘争に取り組む組まないの是非論には歴史的考察が不可避である。れんだいこの見るところ、議会はまず最初に王権時代の封建的側近政治に対するブルジョア的掣肘権として発生した。議会に足掛かりを得たブルジョアジーは、更なる権限獲得を目指して議会の実質的権限獲得運動に乗り出すことになった。こうして公民一般に開放された議会論が登場することになる。こう考えれば、議会自体が一つの生き物のように思える。その議会は、実質機能を求めて更なる進化を求めていくことになる。その様は、あるところまで行き着かないと止まらない定向進化に似ている。近世を彩る議会史はその様々なバリエーションである。

 ところが世の中、ブルジョアジーの望むままには行かない。近代資本制社会の登場によるブルジョアジーの社会的台頭には常にその背後に広範なプロレタリアートが付き添っている。ブルジョアジーは、自身の欲望を達するためにもプロレタリアートを味方に付けなければならなかった。普通選挙法の施行はこうして導入されることになった。それは、王権時代の封建的側近政治に対する解体の道のりでもあった。こうして、普通選挙法時代を向かえることになるが、この頃には既にブルジョアジーが社会の主人公になっていたことを意味している。この主人公は、プロレタリアートその他公民一般に対して、大衆運動の一揆的昂揚を沈静させる為に、大衆の請願欲求はけ口として議会を用意していった経緯がある。転んでもただでは起きないブルジョアジーの能力が垣間見えるというべきか。

 ほんにざっとの通史であるが、この議会に対して左派者はこれとどう関わるべきか。特に留意せねばならぬことは、戦後日本における新憲法制度の下での議会制民主主義は、史上例のないいわば社会的公正性の担保された議会になっていることである。年齢20歳以上に男女に与えられたいわゆる普通選挙制であり、投票の秘密、開票の公正が保障されている。厄介なのは選挙活動の自由度問題であるが、次第に狭められつつあるとはいえ基本的には担保されていると考えられる代物になっている。

 以上を踏まえて、れんだいこは次のように云わねばならない。「戦後政治において、普通選挙制度よりくる議会制というのがどういう意味を持つのか、原点において再確認されねばならない。ここが曖昧模糊にされるような理論なら学ばなくても良い。なぜなら却って有害だから。人民大衆は、戦後日本に導入された議会の質の高さに注目してこれを積極的に活用せねばならない。然る後にその限界を公然化させ、更なる実質権能を求めて議会を改造せねばならない。併せて大衆闘争をも活用せねばならない。これを両建ての二輪車として我々はその上に腰掛けて鞭を当てねばならない。しかして現代の祭りの一種とせねばならない」。

 この当然の見解に辿り着かない自称知者が多すぎて、日本左派運動は社共の専売になってきた。ところが、社共の議会活用は党利党略性と無内容議論能力性が過ぎて、今や人民大衆からそっぽを向けられ始めている。まさにブルジョアジーの望み通りの「大衆の請願欲求はけ口としての議会闘争」に堕してきたツケが自家撞着しつつある。この中毒は既に全身に回っておりもはや抜け出られない、とれんだいこは見立てる。

 という訳で、議会に幻想を託し、他方では託さない人民大衆活性化便宜議会論による新左派の登場が待ち望まれている。この党派は一党でなくて良い。共同戦線構築器量を併せ持つ党派であるならいくら増えてもかまわない。極端に言えば一人一党派でも良い。それが共同戦線化すれば一ないし二ないし三という風に整理されるのだから。仮にその三党派が更に共同戦線化すれば政治課題によって合一党派化し得るのだから。

 そういう能力を持たない者、持とうとしない者、ブルジョアジーの分裂策動を仕掛ける者が頻りにこの流れを阻止しようとしている。いわゆる「排除の論理」はこの輩の専売特許論法である。してみれば、これに打ち勝つ能力の練磨も又我々の議会論に含まれると云うべきか。

 2004.8.8日 れんだいこ拝


【議会闘争理論考】
 マルクス主義派により革命的議会主義論が主張されてきた。これを窺うのに、1・議会選挙を階級闘争の環の中に位置付けた上で参加する。2・選挙の結果については候補者の当選に拘らず、むしろ労働者階級の成長のバロメーターとして革命的意識の醸成に向けて活用する。3・選挙闘争を通じて労働者階級の階級的立場と政治的任務を説き明かし、権力支配の実態暴露を通じていわば大衆の政治教育の場として位置付け、これを活用する。4・議会闘争を通じていくらかの進歩的改良を闘い取る。5・議会内闘争と議会外の大衆運動とを結実させ、最終的に政権を転覆し権力を奪取することを企図する。

 これに対して、不破式人民的議会主義論は、1・国会を名実共に国の最高機関と位置付ける。2・国会内の議員勢力を多数派とすることで平和的な権力移行を目指す。3・民主連合政府樹立運動となって結実せしめるところに特徴がある。

 れんだいこ理論によれば、「1・国会を名実共に国の最高機関と位置付ける」はこれで良い。「2・国会内の議員勢力を多数派とすることで平和的な権力移行を目指す」はこれで一応良い。「3・人民連合政府樹立運動となって結実せしめる」もこれで良い。良くないのは、そういう名目で大衆闘争から召喚し議会専一主義運動へ変質せしめることである。更に選挙結果とデータに対し恣意的ご都合主義的に総括することである。選挙闘争の敗北要因を実証的に分析せず、党中央方針の正しさを金科玉条とさせ、党中央方針が隅々まで伝わらなかったとして党中央の指導責任を問わないことである。民主連合政府樹立展望を徒に振りまわし、その達成時期をどんどん先送りさせて恥じないことである。こういうことを論(あげつら)えばキリがない。要するに、仮に理論が正しかったとしても、姑息な者が指導すれば姑息なやり方しかできないと云うことになる。

 2004.8.8日 れんだいこ拝

【議会闘争理論考】
 2012.12.15日付け毎日新聞余録の「選挙競争はさながら戦争にことならず…」を参照する。明治・大正期の政治家、末松謙澄(すえまつ・けんちょう)が、1890年の第1回衆院選の光景を次のように記している。その当時の有権者は、男子多額納税者の制限選挙で全国で約45万、東京は人口1000人あたりわずか4人だった。記名投票で全国の投票率は実に93.9%にのぼった。
 「選挙競争はさながら戦争にことならず。互いに遊説員をはせ、各地に賛成をつのり、また敵境に入りてすでに敵に帰せる者を説服(せっぷく)するなど、多事またきわまる」、「これを切り込みと唱え、進撃と称し、攻め落としたりと誇り、防ぎ止めたりと叫ぶ。すべて戦争用の言語を用うること各地とも概(おおむ)ね然(しか)らざるなしという」。

 この評論をが評価する所以は、選挙を当代の合戦と位置付けているところにある。これは卓見である。但し、選挙を合戦的要素からのみ見るのは片手落ちである。選挙にはもう一つ、お祭り的要素がある。これについての格好の評論が見当たらないが、候補者も支持者も選挙民も纏めてお祭り的要素で選挙を執り行う面がもっと注目されて良い。つまり、選挙とは現代の合戦でありお祭りであると位置づける必要があろう。この側面からの選挙考もしてみたい。

 2012.12.16日 れんだいこ拝






(私論.私見)