火の発見とエネルギー革命、歴史を変えたビール・ワイン・蒸留酒、金・銀への欲望が世界をグローバル化した、石油に浮かぶ文明、ドラッグの魔力、化学兵器と核兵器…。化学は人類を大きく動かしている――。化学という学問の知的探求の営みを伝えると同時に、人間の夢や欲望を形にしてきた「化学」の実学として面白さを、著者の親切な文章と、図解、イラストも用いながら、やわらかく読者に届ける、白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』。朝日新聞(2021/5/1「売れてる本」評者:佐藤健太郎氏)、毎日新聞(2021/4/24 評者:小島ゆかり氏)、日本経済新聞夕刊(2021/4/8「目利きが選ぶ3冊」評者:竹内薫氏)、読売新聞夕刊(2021/4/5「本よみうり堂 ひらづみ!」評者:恩蔵絢子氏)と書評が相次いでいる。発売たちまち7万部を突破し、池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)「こんなに楽しい化学の本は初めてだ。スケールが大きいのにとても身近。現実的だけど神秘的。文理が融合された多面的な“化学”に魅了されっぱなしだ」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。
アヘンは薬だった
アヘンは中枢神経を麻痺させることで、激しい痛みを抑えしずめる、激しい咳発作を抑えしずめる、下痢を止める、催眠および麻酔補助の目的で使用される。効果はモルヒネと同様であるが、作用はおだやかで効き目は遅い。副作用として悪心、嘔吐、頭痛、めまい、便秘、皮膚病、排尿障害、呼吸抑制、昏睡など慢性中毒を起こし、乱用すると廃人同様になる。
また、アヘンは麻薬なので習慣性があり、慢性中毒を起こして多量に用いなければ効かなくなる。現在、日本ではヘロインなどの麻薬・覚醒剤が暴力団を通して広く売られ、その常用者・中毒者は、青少年・OLから主婦にまで広がり、大きな社会問題になっている。
ヘロインはケシから採ったアへンにふくまれているモルヒネを化学的に加工してつくる。アスピリンをつくったことで有名なドイツの化学会社バイエルが、一八九七年に中枢神経を麻卑させる薬として開発した。その効き目がずば抜けていたことから、ドイツ語の「ヘロイッシュ=英雄的」という言葉より「へロイン」と名づけられたのである。
アヘンをめぐる争いが世界の資本主義に大清帝国を組み込んだ。アヘン戦争(一八四〇~一八四二)は、アヘン密貿易取り締まりを強行した清に対し、イギリスが行った侵略戦争だ。茶は十六世紀のはじめ、船員や伝道師によってヨーロッパに紹介された。はじめは薬屋で貴重薬として量り売りされていたが、次第に多くの人々が茶を飲むようになり、イギリスでは十七世紀に入ってからコーヒーや茶の習慣が広がった。コーヒーや茶を輸入したのはイギリスとオランダの東インド会社だ。イギリスはコーヒーを早くから扱っていたが一七三〇年代になると飛躍的に茶が増えて、コーヒーは減ってしまう。オランダとのコーヒー輸入競争に負けてしまったからだ。そのため、中国からの茶の輸入が増えていった。当初はコーヒーも茶も貴族や金持ちの飲み物だったが、十八世紀に入って、オランダがジャワ・コーヒーのコストダウンに成功し、また、イギリスが中国茶の輸入関税を引き下げたので値段が下がっていった。十九世紀になると砂糖も入手しやすくなり、砂糖入りの茶やコーヒーを庶民も飲めるようになった。しかし、茶の供給源は中国にしかなかった。イギリスがインドの奥地アッサムやダージリンで茶を栽培するようになったのは後年のことである。イギリスは膨大な額の茶葉を中国から輸入しなければならなかったが、イギリス側には適当な輸出品がなかったので、銀貨を支払ったのだ。
イギリスの画策
一七七五年から一七八三年までのアメリカ独立革命における敗北でイギリスの財政は苦しくなり、自国の保有する銀が不足し始める。清との貿易に用いる銀の不足に悩んだイギリスは、東インド会社がインドのベンガル地方でのケシ栽培の独占権を持っていたことから、アヘンを清に密輸することを画策する。インドからのイギリスの収入のうち、二〇パーセントがアへンになったのである。「大英帝国を支えたのはアヘンであった」という言葉があるが、これはあながち大げさな表現とはいえないだろう。清は、アヘン貿易禁止令を出した。多くの清の官僚が賄賂をもらってアヘン売買を黙認したために、アヘン吸引の習慣が急速に広まる。一八三〇年代の半ばには、吸引者数は二〇〇万人を超えた。一八三一年以降、アヘン購入のために大量の清の銀が海外に流出することになる。銀価は二倍に上昇した。そのため、税を銀で納めなくてはならない農民の生活破綻が一挙に進行した。そこで清は、アヘン厳禁派の官僚林則徐を広州に派遣し、一四二五トンのアヘンを没収・焼却し、アヘン貿易の厳禁を言い渡した。反発したイギリスは、一八四〇年、アへン戦争を開始する。軍艦一六隻をふくむ四十数隻の遠征軍を中国に派遣したイギリス軍は厦門・寧波などを攻略し、一八四二年には上海・鎮江を落とし、南京に迫った。ついに、清は降伏して南京条約に調印する。条約の内容は、上海などの五港の開港、戦争費用および没収したアヘンの代金六〇〇万ドルの補償、香港のイギリスへの割譲と清にとっては、大変に厳しいものとなった。戦後も清のアヘン輸入は増え続ける。相次ぐ銀価格の上昇で民衆生活はさらに悪化し、一八五一年、洪秀全を指導者とする太平天国の乱が起こった。反乱軍は一時、清の南半分を支配するほどの猛威を振るった。清の正規軍「八旗」は反乱を鎮圧できず、曾国藩や李鴻章などの漢人官僚が組織した義勇軍(郷勇)が、一八六四年にようやく太平天国を鎮定した。この乱で清が分裂すると、イギリスはフランスを誘ってアロー戦争(第二次アヘン戦争)を起こし、利権の拡大を目指す。また、世界規模の自由貿易実現を目指して一八六〇年に北京条約を結ぶと、イギリスを先頭とするヨーロッパの自由貿易圏に清帝国を組み込むことに成功した。(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)
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