ルネサンスとは、その歴史的経過

 (最新見直し2006.10.6日)

 ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは、農村社会を基盤とする封建社会を形成した。これに網の目のような教会権力が被さり、社会を停滞させた。史上中世と呼ばれる。漸く14世紀前後の頃に至って、この自閉社会を崩そうとする新たな動きがイタリアに始まりだした。近代の胎動である。

 フィレンツェがその先駆けの栄誉を担うことになった。世俗の王権と聖職の教権の間に新興ブルジョアジーが割り込み始め、自律的な共和制都市国家を創り始めた。新興ブルジョアジーの台頭は次第にその勢力を増し、その相互の競争を繰り広げながらやがて巨閥メディチ家を産み出していった。この頃既にルネサンスの曙光期にあったが、フィレンツェにおけるメディチ家の頭角と共にルネサンスは大きく花開いていくことになった。世界史的観点から見れば、14世紀はこの新潮がイタリア全土に及んだ世紀となった。

 次の世紀15世紀以後はルネサンスの気運がドイツ、フランス等西ヨーロッパ中に広まっていき、16世紀頃には全ヨーロッパを席巻していくことになった。つまり、14世紀から16世紀頃にかけて、ルネサンスの波がヨーロッパ中に押し寄せたということになる。通常、絵画や彫刻、建築物といった芸術の分野でのみその成果が見られがちであるが、その活動領域は広く政治や経済に与えた影響も大きい。これを思想的に見れば、牢化していたキリスト教的秩序の束縛からの歩一歩の解放への歩みであり、その表現形態も様々であった。このルネサンスが自由主義と古典主義を生み出していくことになる。そういう意味で、「自由主義と古典主義は乳兄弟」である。

 その後に発生するネオ・シオニズムは、このルネサンスの中から胎動し始めた。れんだいこの関心は、ネオ・シオニズムがルネサンスに育まれ且つ如何に捻じ曲げたのかというところにある。これは別途考察する。

 塩野七生氏は次のように述べている。

 「ルネサンスを、詩人のダンテや画家のジョットーから始める傾向は、ルネサンスという歴史上の精神運動の芸術面での成果にのみ照明が当てられてきた傾向の延長でしょう。しかし、彼等や彼等に続いた芸術家達は、言うならば大輪の花々です。大輪の花を咲かせるには、まず肥沃な土壌が必要だし、十分な水も陽光も欠く訳にはいきません。ルネサンスという、芸術面に最も華麗な成果をあげた歴史上の精神運動の土と水と光を整えたのが、芸術とは一見無関係に見える宗教家の聖フランチェスコと政治家のフリードリッヒ2世であったと、私は考えています」。
 
 2005.12.9日 れんだいこ拝


【この頃の西欧史】

 王権と教権の対立が次第に奔流となっていったが、この当時はまだ現象面での表出に過ぎなかった。それは、王権をして教権から引き離す理論の創造が出来なかったことにもよると思われる。


【この頃の日本史】
 イタリアでルネサンスが誕生し発酵していた時代の日本は、史上戦国時代といわれる下克上期であった。その中から尾張の戦国武将織田信長が台頭し、時の足利政権を滅ぼし、武力統一による新政権完成間際に本能寺の変で倒れた、ここまでは衆知の通りである。しかし、その織田信長を和製ルネサンシアン(これは私の造語)と見なすものは恐らく未だいないだろう。そういうセンテンスで考究されたことがないということであるが、考え始めると、織田信長はまさしく本国イタリアの誰よりも果敢なルネサンシアンであった。以下その論拠を綴ろうと思う。

 ということは、イタリアと我が日本に共時的にルネサンスの波が押し寄せていたということになる。歴史の摩訶不思議なところと云える。但し、イタリアはほぼ二百年ルネサンス期を経験することになったが、我が国の場合織田信長−豊臣秀吉の織豊政権時代の僅か三十年間に留まることになったという違いがある。それが良かったかどうかは又別の問題である。史実は、この頃バテレンを先導隊として西欧列強の植民地政策が押し寄せてきた時代であったからして、この後に続いた徳川家康の時代の鎖国政策をあながち責める訳には行かない。

 とはいえ、我が日本にもかような時代があったと云うことと、この時代
に日本が急激に世界史レベルでの先進国として目覚しい台頭を見せていったということ、都市も農村も非常に活力に満ちた時代であったという史実についてはもう少し関心が払われても良いように思われる。その露払いをしてみたい。

 卓越した着想と革新力

 ○父信秀の葬儀の際の抹香投げ退出行為
 ○渡来後10年にしかならない時点で5百挺の鉄砲を調達、鉄砲隊を組織
 ○情報戦の重視と的確な情報分析
 ○謡曲敦盛の舞小唄
 ○関所撤廃
 ○楽市・楽座
 ○人材登用
 ○南蛮貿易
 ○新技術、産業導入
 ○比叡山焼き討ち
 ○文芸振興
 ○バテレンとの対話から窺える世界観、その思想



○謡曲敦盛の舞小唄

 舞はいつも決まって敦盛一番だけ「人間五十年、化天(八千年)のうちをくらぶれば夢幻の如くなり」、ここのところを繰り返し謡いながら舞うのが得意でであった。

 小唄は「死のうは一定(いちじょう、みんなやがて必ず死ぬという意味)、忍び草には何をしようぞ、一定かたりおこすよの」を愛唱した。

 



○文芸振興

 信長の相撲好きの様子が次のように伝えられている。ポルトガル人宣教師フロイスが、「日本史」の中で、「身分の上下にかかわらず、裸にして相撲を取らせることを好んだ」と記している。信長の家臣大田牛一が書き残した「信長公記」にも、相撲見物の記述が10回も出てくる。これを見るに、何より褒美がすごかったことが分かる。身分を問わず、様々な階層の力士が登場している。信長の家臣、近従の若侍らも参加している。

 例えば、元亀元(1570)年の安土の常楽寺での相撲には、近江中から噂を聞いて「我も我もと員(数)を知らず馳せ集まる」とあり、勝ち残った二名の相撲取りには、刀、脇差が与えられ、早速家臣に召抱えられ、その上相撲奉行に任命されたとある。

 天正6(1578)年8月の安土相撲では、近江、京などの相撲取り1500名が参加し、14名が百石の扶持と私宅まで与えられている。この時の奉行後藤頼基は、滅ぼされた六角氏の遺臣であったことからすれば、相撲は浪人武士の失対事業も兼ねていたのではなかろうか。

 天正8(1580)年6月の安土城での相撲では、夜明けに始まり最後は提灯を付けての夜に至っている。

 他にもこうした相撲大会が催されたようで、勝者には同様な大盤振る舞いが為され、「かたじけなき次第なり」とありがたがられた様子が記されている。

 当時の相撲には土俵は無かったようで、見物人の囲いが土俵の縁になった。時に見物人の中に飛び込む等、見るほうも取る方も一緒になって楽しんだ。

 古代神事に始まり、貴族文化に育まれた相撲は、江戸期以降庶民文化となって今日に伝えられている。相撲文化史的に見れば、その途中過程を担ったのが信長だったことになる。


 ルネサンスとは、イタリア語のリナシタから派生した呼称で「再生」という意味であり、14世紀以降3世紀にわたって繰り広げられた西欧での文化的な達成に対して与えられた名前であった。19世紀の歴史家ミシュレが文化史上の概念として使用したのが最初で、以来常用されるようになった。再生という考え方は、すべてルネサンスの中心的テーマであった。

 それまでの神を絶対視した中世キリスト教会による神学と法律学の教条から開放し、「ウマニスタ達は、その呪縛から逃れようと必死にあるいは巧妙に闘った」。「巧妙に」とは、依然として教会権力の枠内で、その要請を受けながら本質的に背反する世界を創造していったという意味に置いてである。表見的には「神の世界と信仰への導き」を題材にしながら、そのくびきからの解放を意図するかのメッセージを織り交ぜていった故にである。


 ルネッサンス時代、人々はゴシック期まで続く中世の権威に代わる新たなものを求め始め、
芸術家、学者、科学者、哲学者、建築家、そして支配者に至るまで、各々が「知の最先端」を自負しつつ、「いにしえのギリシア・ローマ時代へ傾倒」していった。キリスト教的「神と人との絶対的秩序」の束縛から離れようとしてか、イデオロギーに染められない人間や自然そのものに関心を向かわせ、かの時代の文学・哲学、芸術等々の再生・復興を媒介にしつつ革新運動を隆盛させていった。この流れで、解剖学、動・植物学、水力学、地質学などの研究も又生み出されていった。


 
ルネサンスは、単にギリシア・ローマの古典文化の復興にとどまらず、人間精神の革新を求める文化運動でもあった。その根本精神はヒューマニズム(humanism)にあった。ヒューマニズムの原義は人間中心主義と訳される。この新しく沸き起こった「人間精神の革新運動=ウマネジモ」(英語でヒューマニズム、フランス語でユマ二スム、日本語で人文主義)の思潮を史上
ルネサンス(Renaissance)、その実践者を「ウマニスタ」と云う。 

 教会の大普請も、それまでの「神と人間との出会いの場」から「人間と人間との出会いの場」へと、底流で目的意識がかわってきた。この流れが都市計画へと向かった。

 
ゲーテの「イタリア紀行」は、この時代の息吹を次のように伝えている。(略)

 イタリア史家として名高い塩野七生氏は、「ルネサンスとは何であったのか」でルネサンスを次のように評価している。

 要約概要「見たい、知りたい、分かりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられことになる、精神運動の本質でした。この欲望は、造形美術を中心にした各分野における『作品』に結晶しています。この欲望は、『信ずる者は幸いなれ』を旨としたキリスト教的抑圧体制に対する反発として発生した。『なぜと疑う精神』から生まれたあくことなき探究心精神を背後に宿していた。強烈な批判精神と好奇心これがルネサンスの本質である」。

 こうした運動を継続していくには、この運動の意義を理解し共感する保護者・擁護者が必要となった。その任をパトロネージ、その任に就いた者をパトロンと呼ぶようになった。この時代カトリック教会は最大のパトロンであり続け、教会芸術・文芸は、「金も出すが口も出す」風であったが、メディチ家らの新興商人層は、「金は出すが口は控える」ことで、ルネサンスを下支えしていくことになった。

 
山陰基央氏は、「世界最終戦争ーユダヤ・マネーにどう対抗するか」で次のように述べている。

 「さて人道主義だが、これはヒューマニズムの日本語訳であるが、ルネサンス運動(室町時代に当る時代)の思想として人間中心主義とも訳される。人道主義はリベラリズム(自由主義)と共に、人間個人の自主性確立を促すもので、資本主義の中にある個人主義性と結びつき、やがて自由放任主義へと堕落するのだが、封建時代の抑圧を排除する原動力となった思想であることは否めない」。
 
 2006.4.13日再編集 れんだいこ拝


【イタリア・ルネサンスの歴史区分について】

 「ローマも一日にしてはならなかったが、ルネサンスも一日にしてはならなかった」。ルネサンスのを歴史区分的に云うならば、古代から中世へ、中世から近代へと向かう過程での中世末期に差し掛かる時期のイタリアでの動きであった。この経過も、15世紀初頭の初期ルネサンス、15世紀後半の初期ルネサンス、16世紀初頭の盛期ルネサンス、16世紀後半のマニエリスムの時期に分けることができる。この流れを「イタリア・ルネサンス」とすれば、それがオランダ、イギリス、フランス伝播したルネサンスを「西欧ルネサンス」として更に区分することができる。

 15世紀に遅れてルネサンスが始まった西欧諸国は、イタリア戦争によってパトロンを失った芸術家達が流入してくると一気に花開く。これらの国ではパトロンは国王達であった。人文主義者達が活躍。人文主義者達は古代の原典を重んじ、宗教的には平和と寛容の姿勢をとった。

 ルネサンスの史的意義は、これをきっかけとして、世界史的には中世から近代にはいったことに措定されることにある。それは教会権力を中心とした中世的神中心主義の時代が終わり、自由な人間活動に重きを置いた事による思想・技術的大変革の結果であろう。ルネサンスは腐敗した教会という素因から成長したが、ルネサンス期のある程度自由な教会批判が宗教改革を産むという結果になる。そして教会権力の力の衰退ということは、王権の伸長という新しい時代の始まりを意味することにもなった。


【初期ルネサンスに於けるフィレンツェの果たした役割について】

 ルネサンスの発祥地はイタリアのフィレンツェなど自由都市であった。宮廷都市の文化としてフィレンツェから始まり、「南イタリア、ヴェネツィア、ポー河流域地方の諸都市」(ナポリ、フェラーラ、マントヴァ、パドヴァ、ヴェネツィア、ミラノ)へと波及していくことになった。ルネサンスはやがてイタリア全土へ波及し、各地方の既存の文化と影響し合い、多様な表現形態を創造して行くことになった。ルネサンスの動きはまたたくまに全ヨーロッパに波及した。

 ルネサンスが、まずイタリアで始まった理由としては次のようなことがあげられる。

(1) 政治的な構造。封建制が弱く、分裂状態。
(2) 経済的な発展。十字軍以後、東方貿易によって都市が発展し、市民の活動が盛んであったこと。
(3)  文化的な伝統。イタリアはローマの故地であり、古代ローマの遺跡などが多く残っていたこと。
(4)  ビザンツ帝国の滅亡前後から、ビザンツの学者達がイタリアに移住してきて、ギリシア文化が伝えられたこと。
(5) 十字軍遠征、東方貿易、ビザンツの学者達の移住によるイスラムの文化の流入。
(6) フィレンツェのメディチ家やローマ教皇が学者や芸術家を保護したこと。  

 などがあげられる。

 
ルネサンス勃興期の様子が次のように記されている。

 文芸復興を初めて考えた人物は、14世紀のフィレンツェで亡命生活を送っていた学者であり詩人であったフランチェスコ・ペトラルカであった。彼は、人類の歴史を三つの時代に区分して考えた。第一の時代は、人類の繁栄が頂点に達した黄金期、古代文明の時代。第二の時代はローマ帝国崩壊以降の中世。野蛮と無知が横行した暗黒時代である。そして、自分たちの生きる時代を新しく輝かしい第三の時代とすべく、古代文明の英知を復興させようと考えたのである。彼の考えは多くの支持を集め、文明を一変させてしまう大改革、ルネサンスへと発展する。
 ルネサンス時期のフィレンツェは、都市共和国としての自由な気風と、金融業や織物産業がもたらした富を誇っていた。そんな環境に、次々と天才的芸術家が登場し、フィレンツェは一躍芸術の都となっていった。建築に古典様式を取り入れ、新たな建築様式を生み出したブルネレスキ。彼はまた、西洋絵画には欠かせない技法、透視図法を考案した人物でもある。ゴシック様式の殻を破り、新たな境地へと到達した彫刻家、ギベルティ。人間に対する理解が深く、あらゆるスタイルでリアリティを追求した彫刻家、ドナテーロ。こうした様々な才能が、幸運にも同時期にフィレンツェに現れたことで、人類の文明は華々しく飛躍したのである。
 古代ローマの分筆家キケロの著作を発掘したリペトラルカに続いてレオナルド・ブルー二、ボッジョ・ブラッチョリー二を始めとする人文主義者。これら古典研究者たちの殆どが、フィレンツェ政庁に勤めていた官僚であった。

【15世紀初頭の初期ルネサンスについて】

 14世紀末着工のミラノ大聖堂は、当時隆盛していた「国際ゴシック」様式の最新の粋を集め「記念碑的建造物」として大伽藍建立に向かった。この工事は非常に長期にわたり、完成は19世紀のことになる。この動きがフィレンツェ市民を刺激したことは想像にかたくない。フィレンツェでも大聖堂の円蓋建設が行われていくことになった。円蓋設計案のコンクールが開かれ、審査の結果ブルネレスキが請け負うことになった。

 「フィレンツェ人は何代にもわたって芸術美の崇拝を共同の伝統としてきた。アルノ河畔でどれだけ凄まじい分裂抗争が続こうと、芸術への情熱では全員が一致する」(イタリアの研究者マリア・ルイーザ・リヅァッティ)とあるが、この言を証左するかの如く、1401年、フィレンツェ政府主宰による有名なサン・ジョヴァン二洗礼堂のブロンズ扉絵の浮き彫りコンクールが行われた。これがルネサンス美術の産声となった。このコンクールの審査員は市民の有識者で構成され、メディチ家のジョヴァン二もその中に加わっていた。

 コンクールの一位には彫刻家ロレンツォ・ギベルティが選ばれた。ギベルティは新しいリアリズムの口火を切った。初期ルネサンスは、芸術家が遠近法や明暗法などを使い、現実の見えるがままの世界を写しだそうとした。ブルネンスキ、アルベルティ、ドナテッロらが活躍した。第二期のルネサンスは、マザッチョに始まる。科学的に計算された遠近感を出し、人間的な表情、身振りなどを自然に加えていった。

 ルネサンスは「人間性回復の時代」といわれる。イタリアの芸術家、アルベルテイの「意志さえあれば人間は何事もなしうる」という言葉に象徴される人間の尊厳の再認識がなされた時代であった。また、自然の持つ美しさや現実世界の持つ価値を再発見した時代でもある。こうした人間中心主義は、市民階級がいち早く台頭した中部イタリアの商業都市フィレンツエにまず芽生えた。


【15世紀後半のルネサンスについて】

 メディチ家による僭主政治が機能していた15世紀後半の60年間に、フィレンツェ・ルネサンスは最盛期を迎えた。「1世紀に1人生まれれば相場という天才が、目白押しになって輩出した」。

 彫刻家ドナテッロは特にコジモに可愛がられ、ドナテッロは死に臨んでパトロン・コジモの墓の隣に葬って欲しいとの遺言をしているほどであった。これには寓話があり、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの親友マエケナスと詩人ヴェルギリウスの関係を髣髴とさせる。ヴェルギリウスは死の前にパトロンであったマエケナスの墓の近くに葬ってくれるよう遺言した。これ以降、学芸の助成を「マエケナス」と云うようになり、これがフランス語では「メセナ」と呼ばれるようになって今日に通じている。


 ボッティチェリの「ビーナスの誕生」(1485年頃)はこの頃の作品で、貝殻の上に立つビーナスの全裸像は、古代ローマ以降初めて絵画史上に全裸を表現した点で画期的なものであり、まさにルネサンス的なものとしてその後の絵画傾向に多大な影響を与えることになった。

 わずか30年程のの短い期間ではあるが、古代ギリシア・ローマに並ぶ西洋芸術の完成期とみなされている。前代未聞の数の優れた芸術家が登場した。手仕事を行う職人の身分に置かれてきた画家や彫刻家、建築家の中から「芸術家」が現れたのもこの時代である。この頃の中心地はローマと東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で栄えたヴェネチアであった。

 ローマ教皇庁の注文で、これまでよりもはるかに大規模な作品が生み出された。(例)シスチーナ礼拝堂天井画

 ルネサンスは、フィレンツェとローマの二大都市での芸術制作を中心に、ルネサンスが最も円熟し完成形に到達した。この時期を「円熟期のルネサンス」と云う。「16世紀宮廷文化の栄華−イタリア芸術の優位」は、ルネサンス思想という幹から派生した二つ代表的な文化様式である「フィレンツェのデッサン」と「ヴェネツィアの色彩」を中心に展開することになった。

 初期ルネサンス時代、画家たちはゴシック、ビザンティンの絵画様式から抜け出そうとしていた。自然や人間をありのままに、写実的に再現しようとした。レオナルドが科学的な研究をして、ついに中世絵画との決別を果たし、盛期ルネサンスを出発させた。ラファエロはレオナルドの優美さとミケランジェロの逞しさを調和させ、写実だけではなく、精神性をも表現しようとし、理想主義的な古典主義様式が確立させた。

 一方、初期ルネサンスの中心地であったフォレンツェは衰退に向かった。15世紀後半から16世紀前半にかけて、芸術家の流出が相次いだ。フィレンツェで活躍していたレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロたちは、ローマやミラノへ舞台を移し活躍した。

 1492年、メディチ家の当主大ロレンツィオが死去した。フィレンツェは政治経済の支えを失った。

【スペイン、ポルトガルの新大陸発見について】

 この頃の1492年、スペインの女王イザベラの資金援助を受けてイタリア人ジェノバ生まれのコロンブスが、西回り航路でアジアを目指し、大西洋を横断して西インド諸島に到達した。自分が発見したのはアジアのどこかと思っていたようである。コロンブスは、この年から1504年までの間の延べ8年間に、4回にわたる探検行を試みている。

 1497年から99年にかけて、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが、ポルトガル王の援助を受けて、アフリカ南端の喜望峰経由でインドのカリカッタに到達した。アジア航路がアフリカ大陸航路で引かれたことになる。

 1499年から1502年にかけて、フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチは、スペイン王の援助を受けて、コロンブスに続くようにして二度の航海で南米大陸両岸を踏破した。発見したのはアジアの一部と思っていたコロンブスに対して、新大陸であることをうすうす感じとっていた形跡がある。このアメリゴが転じてアメリカに転化して国名となった。


【修道僧サボォナローラの神権政治】
 フィレンツェの栄華はそう長くは続かなかった。1492年にロレンツォが死んだ後、メディチ家体制を虚飾と非難するドメニコ会修道僧サボォナローラが神権政治を敷いた。サヴォナローラの粛清政策が始まった。 これも長くは続かず、彼の教えは人々を惑わす悪魔の声であるとされ、1499年、火あぶりの刑に処せられた。「イタリア社会の危機と宗教改革に見るルネサンスの終焉」が進行する。サボォナローラの神権政治は自由を渇望する人々に受け入れられず数年で崩壊したが、メディチ家はかっての勢いをもたぬまま時代の波に洗われていくことになる。この一族の盛衰こそ、ルネサンスの軌跡そのものでもあった。ルネサンスの最後の時期はマニエリスムが主流をしめた

【16世紀初頭のルネサンスについて】
 16世紀の初め頃フィレンツェの政治が混乱したことからイタリア=ルネサンスの中心は、教皇の君臨するローマや水上都市ヴェネツィアに移った。フィレンツェで芽吹いた芸術革新はこの二都において、より壮大で洗練された文化を産み落とした。16世紀、ヴェネツィアは最盛期を迎える。ビザンティン、トルコなどとの東方貿易と商業の発達は、国際的な海洋都市ヴェネツィアに独特の絵画を生み出していった。フィレンツェ派の絵画は、的確な線描表現を重要視していたが(「フィレンツェのデッサン」)、ヴェネツィア派のそれは明るい色彩と光に溢れていた(「ヴェネツィアの色彩」)。

 ヴェネツィアはその後次第に経済的に衰退し始めた。17世紀初頭にはイギリス、オランダが相次いで東インド会社を設立した影響もあり、貿易都市としての派遣を失っていった。これに伴いヴェネツィア・ルネサンスも衰微していった。

 ローマは、15世紀初め教皇庁が南仏のアビニョンから戻ってくることから活気が蘇った。ピオ2世(1458−64年)、パオロ2世(1464−71年)、シスト4世(1471−84年)、インノチェンツォ8世(1484−92年)、アレッサンドロ6世(1492−1503年)、ジュリオ2世(1503−13年)、レオ10世(1513−21年)、アドリアーノ6世、クレメンテ7世(1523−34年)、パオロ3世(1534−49年)。

 歴代教皇は大規模な寺院建立を相次がせ、礼拝堂装飾に多くの有能な芸術家が動員されることになった。シクストゥス4世は、システィナ礼拝堂を建造し、ボッティチェリやギルランダイオ、ミケランジェロらに壁画を描かせている。「教皇というパトロンが壮大な夢を抱き、芸術家がそれに応えて偉業を為し遂げた。教皇の強いリーダーシップと芸術家の才能が融合したからこそ、ローマでは雄大な芸術が実現した」(美術評論家・アントーニオ・パオルッチ)。

【16世紀初頭の盛期ルネサンスについて】
 迎えた16世紀、フィレンツェの人々はようやく、終末観から開放され、都市は再興を目指した。そんな折、1500年、レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェに帰ってきた。そのころ、ミケランジェロが活躍を始め、1504年にはラファエロが移住してきた。フィレンツェに再び、活気が戻った。

 中世末期に教皇庁がアヴィニョンに移っていた時代、ローマは荒廃していた。教皇がローマに帰ってからは、ローマは再び、繁栄を取り戻した。ローマでは1500年の大聖年の行事が盛大に行われ、復興が計られた。1503年、ローマではユリウス二世が教皇となった。ユリウス二世は、勢力拡大に力を尽くした。当時、教皇領は周辺の君主たちに脅かされていたし、ヴェネツィアは教皇領のいくつかを占領していた。即位するとすぐに、フランスと同盟を結び、ペルージャやボローニャを服従させた。次いで、ドイツ皇帝マクシミリアン、フランス国王ルイ12世、スペイン国王フェルディナンドと同盟を結び、強力だったヴェネツィアを征服した。1509年であった。次には、フランスの勢力を恐れて、敗北させたヴェネツィアと反フランスの同盟を結んだ。

 ユリウス二世は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を計画した。1505年、フィレンツェからミケランジェロをローマに呼び寄せた。1508年には、同じくフィレンツェで活躍していたラファエロを、ローマへ呼び寄せた。ラファエロ、ミケランジェロもサン・ピエトロ大聖堂の設計に加わっている。起工からほぼ一世紀後、17世紀中頃に完成した。世界で最も大きく、豪華な教会となった。ユリウス二世は、サン・ピエトロ大聖堂やヴァティカン宮の装飾のために、多くの芸術家をローマに招いたのである。ラファエロの「アテネの学堂」(1509−10年、バチカン宮殿)はこの頃の作品であり、ルネサンスの何たる化を表象している。

 1513年、ユリウス二世のあとにレオ十世がローマ教皇となった。レオ十世はメディチ家の出身で、信仰は厚くはなかったが、文芸と芸術の愛好者であった。莫大なお金を芸術品に注ぎ込んだ。こうした、16世紀前半の復興と繁栄がルネサンス芸術の基盤となり、この時期、頂点を向かえるのである。レオ十世は、フッガー家への借金返済と、サン・ピエトロ聖堂改修の資金を集めるため、免罪符を売り始めた。このことで、ドイツでは、1517年、ルターが口火をきった、プロテスタントの宗教改革が始まり、それに続いて、カトリック側の反宗教改革が興った。キリスト教の世界は大きく揺れ動いていた時期である。

【マゼランの世界大周遊航海について】
 1519年から22年にかけてポルトガル人マゼランが、スペイン王の援助を受けて大航海に乗り出し、世界大周遊航路が開拓された。これらより、大西洋と太平洋とインド洋が一つに結ばれることになった。

 1524年と28年の2回にわたって、フィレンツェの山奥グレーヴェ出身のヴェラッツァーノが、フランス王フランソワ1世の援助を受けて北米大陸東岸部を全て踏破、ハドソン川が大西洋に流れ込むニューヨークに達した。今日河口に「ヴェラッツァーノ橋」が架けられているのはこの故事に由来している。

【イタリア・ルネサンスの衰退要因について】
 イタリア・ルネサンスの衰退には次の要因が考えられる。@・地理上の発見により商業の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に遷った。A・イタリア戦争によるイタリア諸都市の衰退。B・オスマン=トルコの勃興によるイタリア諸都市の中継貿易の衰退。C・1545年トリエント公会議に始まる反宗教改革による思想統制 。

【16世紀後半のマニエリスムについて】
 長い間、絵画は聖書や伝承などを主題とし、誰が見ても分かるように描かれてきた。画家は自分の個性を表現することを仕事としていなかったのである。自分の属している社会集団に共通している、普遍的なものを描くのが仕事だったのである。調和を重んじ、分かりやすく、かつ、品位を持った作品が好まれた。これが、古典主義である。キリスト教と人間生活、個人と社会集団、これらの調和が理想とされ、安定感を与えたのである。

 しかし、16世紀になって、その人文主義で、安定を支えていた社会が崩れだしたのである。まず、キリスト教の分裂である。人々は何を、どう信じればいいのか、混乱した。次に、科学の発展による天動説的宇宙観の崩壊。コペルニクスの地動説に代表される。レオナルド・ダ・ヴィンチも、聖書の宇宙創造神話を疑い始めた。

 人々の生活に直接、影響を与えたのは科学の発展よりも、社会の変化であった。スペイン、フランス、オーストリアなどが、絶対主義王制を確立した。封建的地方分権主義を終わらせたのである。それらの大国が、イタリアの小都市国家を制圧していったのである。近代の絶対主義への転換である。そういった流れの中、宮廷を中心とした新たな文化が起こってくる。16世紀初頭から、イタリアの画家たちは、これら絶対主義王制の国々へ移住した。

 フランス宮廷へ入ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ロッソ・フィオレンティーノなどであった。宮廷の名をとってフォンテーヌブロー派と呼ばれた。特徴は装飾美とエロティシズムである。たとえば、イタリアでも、16世紀初頭、フィレンツェの共和制がメディチ家の君主制によって終焉したころ、決定的な様式の変化が起こった。教会より宮廷が顧客となるので、共通理解など必要とされなくなる。絵画は民衆から乖離していく。

 トスカーナ公国として、コジモ一世が統治するようになっていく。大国スペイン皇帝の妹を妃として迎える。王族は民衆よりも、姻戚関係のある他国の王宮との結びつきのほうが、重大事となっていくのである。このような中、宮廷が舞台である国際マニエリスム様式が生まれてくる。

【ルネサンス余話】

 塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」

 あくことなき探究心こそが、ルネサンス精神の根源であった。これが花開いた分野は、芸術や学問に限らない。政治でも経済でも、そして海運の世界でも、全く同じであった。ためにルネサンス精神は、宗教改革よりも大航海時代の方とより深く結びついている。その証拠には、宗教改革も反動宗教改革もイタリア人で関係した人はほとんどいないのに、大航海時代には、深く、そして多く関係しています。




(私論.私見)