ルネサンスとは、その歴史的経過 |
(最新見直し2006.10.6日)
ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは、農村社会を基盤とする封建社会を形成した。これに網の目のような教会権力が被さり、社会を停滞させた。史上中世と呼ばれる。漸く14世紀前後の頃に至って、この自閉社会を崩そうとする新たな動きがイタリアに始まりだした。近代の胎動である。 フィレンツェがその先駆けの栄誉を担うことになった。世俗の王権と聖職の教権の間に新興ブルジョアジーが割り込み始め、自律的な共和制都市国家を創り始めた。新興ブルジョアジーの台頭は次第にその勢力を増し、その相互の競争を繰り広げながらやがて巨閥メディチ家を産み出していった。この頃既にルネサンスの曙光期にあったが、フィレンツェにおけるメディチ家の頭角と共にルネサンスは大きく花開いていくことになった。世界史的観点から見れば、14世紀はこの新潮がイタリア全土に及んだ世紀となった。 次の世紀15世紀以後はルネサンスの気運がドイツ、フランス等西ヨーロッパ中に広まっていき、16世紀頃には全ヨーロッパを席巻していくことになった。つまり、14世紀から16世紀頃にかけて、ルネサンスの波がヨーロッパ中に押し寄せたということになる。通常、絵画や彫刻、建築物といった芸術の分野でのみその成果が見られがちであるが、その活動領域は広く政治や経済に与えた影響も大きい。これを思想的に見れば、牢化していたキリスト教的秩序の束縛からの歩一歩の解放への歩みであり、その表現形態も様々であった。このルネサンスが自由主義と古典主義を生み出していくことになる。そういう意味で、「自由主義と古典主義は乳兄弟」である。 その後に発生するネオ・シオニズムは、このルネサンスの中から胎動し始めた。れんだいこの関心は、ネオ・シオニズムがルネサンスに育まれ且つ如何に捻じ曲げたのかというところにある。これは別途考察する。 塩野七生氏は次のように述べている。
2005.12.9日 れんだいこ拝 |
【この頃の西欧史】 |
王権と教権の対立が次第に奔流となっていったが、この当時はまだ現象面での表出に過ぎなかった。それは、王権をして教権から引き離す理論の創造が出来なかったことにもよると思われる。 |
【この頃の日本史】 |
イタリアでルネサンスが誕生し発酵していた時代の日本は、史上戦国時代といわれる下克上期であった。その中から尾張の戦国武将織田信長が台頭し、時の足利政権を滅ぼし、武力統一による新政権完成間際に本能寺の変で倒れた、ここまでは衆知の通りである。しかし、その織田信長を和製ルネサンシアン(これは私の造語)と見なすものは恐らく未だいないだろう。そういうセンテンスで考究されたことがないということであるが、考え始めると、織田信長はまさしく本国イタリアの誰よりも果敢なルネサンシアンであった。以下その論拠を綴ろうと思う。 ということは、イタリアと我が日本に共時的にルネサンスの波が押し寄せていたということになる。歴史の摩訶不思議なところと云える。但し、イタリアはほぼ二百年ルネサンス期を経験することになったが、我が国の場合織田信長−豊臣秀吉の織豊政権時代の僅か三十年間に留まることになったという違いがある。それが良かったかどうかは又別の問題である。史実は、この頃バテレンを先導隊として西欧列強の植民地政策が押し寄せてきた時代であったからして、この後に続いた徳川家康の時代の鎖国政策をあながち責める訳には行かない。 とはいえ、我が日本にもかような時代があったと云うことと、この時代に日本が急激に世界史レベルでの先進国として目覚しい台頭を見せていったということ、都市も農村も非常に活力に満ちた時代であったという史実についてはもう少し関心が払われても良いように思われる。その露払いをしてみたい。 卓越した着想と革新力 ○父信秀の葬儀の際の抹香投げ退出行為 ○謡曲敦盛の舞、小唄 小唄は「死のうは一定(いちじょう、みんなやがて必ず死ぬという意味)、忍び草には何をしようぞ、一定かたりおこすよの」を愛唱した。
○文芸振興 |
ルネサンスとは、イタリア語のリナシタから派生した呼称で「再生」という意味であり、14世紀以降3世紀にわたって繰り広げられた西欧での文化的な達成に対して与えられた名前であった。19世紀の歴史家ミシュレが文化史上の概念として使用したのが最初で、以来常用されるようになった。「再生」という考え方は、すべてルネサンスの中心的テーマであった。 それまでの神を絶対視した中世キリスト教会による神学と法律学の教条から開放し、「ウマニスタ達は、その呪縛から逃れようと必死にあるいは巧妙に闘った」。「巧妙に」とは、依然として教会権力の枠内で、その要請を受けながら本質的に背反する世界を創造していったという意味に置いてである。表見的には「神の世界と信仰への導き」を題材にしながら、そのくびきからの解放を意図するかのメッセージを織り交ぜていった故にである。 ルネッサンス時代、人々はゴシック期まで続く中世の権威に代わる新たなものを求め始め、芸術家、学者、科学者、哲学者、建築家、そして支配者に至るまで、各々が「知の最先端」を自負しつつ、「いにしえのギリシア・ローマ時代へ傾倒」していった。キリスト教的「神と人との絶対的秩序」の束縛から離れようとしてか、イデオロギーに染められない人間や自然そのものに関心を向かわせ、かの時代の文学・哲学、芸術等々の再生・復興を媒介にしつつ革新運動を隆盛させていった。この流れで、解剖学、動・植物学、水力学、地質学などの研究も又生み出されていった。 ルネサンスは、単にギリシア・ローマの古典文化の復興にとどまらず、人間精神の革新を求める文化運動でもあった。その根本精神はヒューマニズム(humanism)にあった。ヒューマニズムの原義は人間中心主義と訳される。この新しく沸き起こった「人間精神の革新運動=ウマネジモ」(英語でヒューマニズム、フランス語でユマ二スム、日本語で人文主義)の思潮を史上ルネサンス(Renaissance)、その実践者を「ウマニスタ」と云う。 教会の大普請も、それまでの「神と人間との出会いの場」から「人間と人間との出会いの場」へと、底流で目的意識がかわってきた。この流れが都市計画へと向かった。 ゲーテの「イタリア紀行」は、この時代の息吹を次のように伝えている。(略) イタリア史家として名高い塩野七生氏は、「ルネサンスとは何であったのか」でルネサンスを次のように評価している。
こうした運動を継続していくには、この運動の意義を理解し共感する保護者・擁護者が必要となった。その任をパトロネージ、その任に就いた者をパトロンと呼ぶようになった。この時代カトリック教会は最大のパトロンであり続け、教会芸術・文芸は、「金も出すが口も出す」風であったが、メディチ家らの新興商人層は、「金は出すが口は控える」ことで、ルネサンスを下支えしていくことになった。
2006.4.13日再編集 れんだいこ拝 |
【イタリア・ルネサンスの歴史区分について】 |
「ローマも一日にしてはならなかったが、ルネサンスも一日にしてはならなかった」。ルネサンスのを歴史区分的に云うならば、古代から中世へ、中世から近代へと向かう過程での中世末期に差し掛かる時期のイタリアでの動きであった。この経過も、15世紀初頭の初期ルネサンス、15世紀後半の初期ルネサンス、16世紀初頭の盛期ルネサンス、16世紀後半のマニエリスムの時期に分けることができる。この流れを「イタリア・ルネサンス」とすれば、それがオランダ、イギリス、フランス伝播したルネサンスを「西欧ルネサンス」として更に区分することができる。 |
【初期ルネサンスに於けるフィレンツェの果たした役割について】 | |||||||||||||||
ルネサンスの発祥地はイタリアのフィレンツェなど自由都市であった。宮廷都市の文化としてフィレンツェから始まり、「南イタリア、ヴェネツィア、ポー河流域地方の諸都市」(ナポリ、フェラーラ、マントヴァ、パドヴァ、ヴェネツィア、ミラノ)へと波及していくことになった。ルネサンスはやがてイタリア全土へ波及し、各地方の既存の文化と影響し合い、多様な表現形態を創造して行くことになった。ルネサンスの動きはまたたくまに全ヨーロッパに波及した。
などがあげられる。
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【15世紀初頭の初期ルネサンスについて】 |
14世紀末着工のミラノ大聖堂は、当時隆盛していた「国際ゴシック」様式の最新の粋を集め「記念碑的建造物」として大伽藍建立に向かった。この工事は非常に長期にわたり、完成は19世紀のことになる。この動きがフィレンツェ市民を刺激したことは想像にかたくない。フィレンツェでも大聖堂の円蓋建設が行われていくことになった。円蓋設計案のコンクールが開かれ、審査の結果ブルネレスキが請け負うことになった。 「フィレンツェ人は何代にもわたって芸術美の崇拝を共同の伝統としてきた。アルノ河畔でどれだけ凄まじい分裂抗争が続こうと、芸術への情熱では全員が一致する」(イタリアの研究者マリア・ルイーザ・リヅァッティ)とあるが、この言を証左するかの如く、1401年、フィレンツェ政府主宰による有名なサン・ジョヴァン二洗礼堂のブロンズ扉絵の浮き彫りコンクールが行われた。これがルネサンス美術の産声となった。このコンクールの審査員は市民の有識者で構成され、メディチ家のジョヴァン二もその中に加わっていた。 ルネサンスは「人間性回復の時代」といわれる。イタリアの芸術家、アルベルテイの「意志さえあれば人間は何事もなしうる」という言葉に象徴される人間の尊厳の再認識がなされた時代であった。また、自然の持つ美しさや現実世界の持つ価値を再発見した時代でもある。こうした人間中心主義は、市民階級がいち早く台頭した中部イタリアの商業都市フィレンツエにまず芽生えた。 |
【15世紀後半のルネサンスについて】 |
メディチ家による僭主政治が機能していた15世紀後半の60年間に、フィレンツェ・ルネサンスは最盛期を迎えた。「1世紀に1人生まれれば相場という天才が、目白押しになって輩出した」。 初期ルネサンス時代、画家たちはゴシック、ビザンティンの絵画様式から抜け出そうとしていた。自然や人間をありのままに、写実的に再現しようとした。レオナルドが科学的な研究をして、ついに中世絵画との決別を果たし、盛期ルネサンスを出発させた。ラファエロはレオナルドの優美さとミケランジェロの逞しさを調和させ、写実だけではなく、精神性をも表現しようとし、理想主義的な古典主義様式が確立させた。
一方、初期ルネサンスの中心地であったフォレンツェは衰退に向かった。15世紀後半から16世紀前半にかけて、芸術家の流出が相次いだ。フィレンツェで活躍していたレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロたちは、ローマやミラノへ舞台を移し活躍した。 1492年、メディチ家の当主大ロレンツィオが死去した。フィレンツェは政治経済の支えを失った。 |
【スペイン、ポルトガルの新大陸発見について】 |
この頃の1492年、スペインの女王イザベラの資金援助を受けてイタリア人ジェノバ生まれのコロンブスが、西回り航路でアジアを目指し、大西洋を横断して西インド諸島に到達した。自分が発見したのはアジアのどこかと思っていたようである。コロンブスは、この年から1504年までの間の延べ8年間に、4回にわたる探検行を試みている。 1499年から1502年にかけて、フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチは、スペイン王の援助を受けて、コロンブスに続くようにして二度の航海で南米大陸両岸を踏破した。発見したのはアジアの一部と思っていたコロンブスに対して、新大陸であることをうすうす感じとっていた形跡がある。このアメリゴが転じてアメリカに転化して国名となった。 |
【修道僧サボォナローラの神権政治】 |
フィレンツェの栄華はそう長くは続かなかった。1492年にロレンツォが死んだ後、メディチ家体制を虚飾と非難するドメニコ会修道僧サボォナローラが神権政治を敷いた。サヴォナローラの粛清政策が始まった。 これも長くは続かず、彼の教えは人々を惑わす悪魔の声であるとされ、1499年、火あぶりの刑に処せられた。「イタリア社会の危機と宗教改革に見るルネサンスの終焉」が進行する。サボォナローラの神権政治は自由を渇望する人々に受け入れられず数年で崩壊したが、メディチ家はかっての勢いをもたぬまま時代の波に洗われていくことになる。この一族の盛衰こそ、ルネサンスの軌跡そのものでもあった。ルネサンスの最後の時期はマニエリスムが主流をしめた。 |
【16世紀初頭のルネサンスについて】 |
16世紀の初め頃フィレンツェの政治が混乱したことからイタリア=ルネサンスの中心は、教皇の君臨するローマや水上都市ヴェネツィアに移った。フィレンツェで芽吹いた芸術革新はこの二都において、より壮大で洗練された文化を産み落とした。16世紀、ヴェネツィアは最盛期を迎える。ビザンティン、トルコなどとの東方貿易と商業の発達は、国際的な海洋都市ヴェネツィアに独特の絵画を生み出していった。フィレンツェ派の絵画は、的確な線描表現を重要視していたが(「フィレンツェのデッサン」)、ヴェネツィア派のそれは明るい色彩と光に溢れていた(「ヴェネツィアの色彩」)。 ヴェネツィアはその後次第に経済的に衰退し始めた。17世紀初頭にはイギリス、オランダが相次いで東インド会社を設立した影響もあり、貿易都市としての派遣を失っていった。これに伴いヴェネツィア・ルネサンスも衰微していった。 ローマは、15世紀初め教皇庁が南仏のアビニョンから戻ってくることから活気が蘇った。ピオ2世(1458−64年)、パオロ2世(1464−71年)、シスト4世(1471−84年)、インノチェンツォ8世(1484−92年)、アレッサンドロ6世(1492−1503年)、ジュリオ2世(1503−13年)、レオ10世(1513−21年)、アドリアーノ6世、クレメンテ7世(1523−34年)、パオロ3世(1534−49年)。 歴代教皇は大規模な寺院建立を相次がせ、礼拝堂装飾に多くの有能な芸術家が動員されることになった。シクストゥス4世は、システィナ礼拝堂を建造し、ボッティチェリやギルランダイオ、ミケランジェロらに壁画を描かせている。「教皇というパトロンが壮大な夢を抱き、芸術家がそれに応えて偉業を為し遂げた。教皇の強いリーダーシップと芸術家の才能が融合したからこそ、ローマでは雄大な芸術が実現した」(美術評論家・アントーニオ・パオルッチ)。 |
【16世紀初頭の盛期ルネサンスについて】 |
迎えた16世紀、フィレンツェの人々はようやく、終末観から開放され、都市は再興を目指した。そんな折、1500年、レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェに帰ってきた。そのころ、ミケランジェロが活躍を始め、1504年にはラファエロが移住してきた。フィレンツェに再び、活気が戻った。 中世末期に教皇庁がアヴィニョンに移っていた時代、ローマは荒廃していた。教皇がローマに帰ってからは、ローマは再び、繁栄を取り戻した。ローマでは1500年の大聖年の行事が盛大に行われ、復興が計られた。1503年、ローマではユリウス二世が教皇となった。ユリウス二世は、勢力拡大に力を尽くした。当時、教皇領は周辺の君主たちに脅かされていたし、ヴェネツィアは教皇領のいくつかを占領していた。即位するとすぐに、フランスと同盟を結び、ペルージャやボローニャを服従させた。次いで、ドイツ皇帝マクシミリアン、フランス国王ルイ12世、スペイン国王フェルディナンドと同盟を結び、強力だったヴェネツィアを征服した。1509年であった。次には、フランスの勢力を恐れて、敗北させたヴェネツィアと反フランスの同盟を結んだ。 ユリウス二世は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を計画した。1505年、フィレンツェからミケランジェロをローマに呼び寄せた。1508年には、同じくフィレンツェで活躍していたラファエロを、ローマへ呼び寄せた。ラファエロ、ミケランジェロもサン・ピエトロ大聖堂の設計に加わっている。起工からほぼ一世紀後、17世紀中頃に完成した。世界で最も大きく、豪華な教会となった。ユリウス二世は、サン・ピエトロ大聖堂やヴァティカン宮の装飾のために、多くの芸術家をローマに招いたのである。ラファエロの「アテネの学堂」(1509−10年、バチカン宮殿)はこの頃の作品であり、ルネサンスの何たる化を表象している。 1513年、ユリウス二世のあとにレオ十世がローマ教皇となった。レオ十世はメディチ家の出身で、信仰は厚くはなかったが、文芸と芸術の愛好者であった。莫大なお金を芸術品に注ぎ込んだ。こうした、16世紀前半の復興と繁栄がルネサンス芸術の基盤となり、この時期、頂点を向かえるのである。レオ十世は、フッガー家への借金返済と、サン・ピエトロ聖堂改修の資金を集めるため、免罪符を売り始めた。このことで、ドイツでは、1517年、ルターが口火をきった、プロテスタントの宗教改革が始まり、それに続いて、カトリック側の反宗教改革が興った。キリスト教の世界は大きく揺れ動いていた時期である。 |
【マゼランの世界大周遊航海について】 |
1519年から22年にかけてポルトガル人マゼランが、スペイン王の援助を受けて大航海に乗り出し、世界大周遊航路が開拓された。これらより、大西洋と太平洋とインド洋が一つに結ばれることになった。 1524年と28年の2回にわたって、フィレンツェの山奥グレーヴェ出身のヴェラッツァーノが、フランス王フランソワ1世の援助を受けて北米大陸東岸部を全て踏破、ハドソン川が大西洋に流れ込むニューヨークに達した。今日河口に「ヴェラッツァーノ橋」が架けられているのはこの故事に由来している。 |
【イタリア・ルネサンスの衰退要因について】 |
イタリア・ルネサンスの衰退には次の要因が考えられる。@・地理上の発見により商業の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に遷った。A・イタリア戦争によるイタリア諸都市の衰退。B・オスマン=トルコの勃興によるイタリア諸都市の中継貿易の衰退。C・1545年トリエント公会議に始まる反宗教改革による思想統制 。 |
【16世紀後半のマニエリスムについて】 |
長い間、絵画は聖書や伝承などを主題とし、誰が見ても分かるように描かれてきた。画家は自分の個性を表現することを仕事としていなかったのである。自分の属している社会集団に共通している、普遍的なものを描くのが仕事だったのである。調和を重んじ、分かりやすく、かつ、品位を持った作品が好まれた。これが、古典主義である。キリスト教と人間生活、個人と社会集団、これらの調和が理想とされ、安定感を与えたのである。 しかし、16世紀になって、その人文主義で、安定を支えていた社会が崩れだしたのである。まず、キリスト教の分裂である。人々は何を、どう信じればいいのか、混乱した。次に、科学の発展による天動説的宇宙観の崩壊。コペルニクスの地動説に代表される。レオナルド・ダ・ヴィンチも、聖書の宇宙創造神話を疑い始めた。 人々の生活に直接、影響を与えたのは科学の発展よりも、社会の変化であった。スペイン、フランス、オーストリアなどが、絶対主義王制を確立した。封建的地方分権主義を終わらせたのである。それらの大国が、イタリアの小都市国家を制圧していったのである。近代の絶対主義への転換である。そういった流れの中、宮廷を中心とした新たな文化が起こってくる。16世紀初頭から、イタリアの画家たちは、これら絶対主義王制の国々へ移住した。 フランス宮廷へ入ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ロッソ・フィオレンティーノなどであった。宮廷の名をとってフォンテーヌブロー派と呼ばれた。特徴は装飾美とエロティシズムである。たとえば、イタリアでも、16世紀初頭、フィレンツェの共和制がメディチ家の君主制によって終焉したころ、決定的な様式の変化が起こった。教会より宮廷が顧客となるので、共通理解など必要とされなくなる。絵画は民衆から乖離していく。 トスカーナ公国として、コジモ一世が統治するようになっていく。大国スペイン皇帝の妹を妃として迎える。王族は民衆よりも、姻戚関係のある他国の王宮との結びつきのほうが、重大事となっていくのである。このような中、宮廷が舞台である国際マニエリスム様式が生まれてくる。 |
【ルネサンス余話】 | |
塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」
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(私論.私見)