この頃の日本史


 イタリアでルネサンスが誕生し発酵していた時代の日本は、史上戦国時代といわれる下克上期であった。その中から尾張の戦国武将織田信長が台頭し、時の足利政権を滅ぼし、武力統一による新政権完成間際に本能寺の変で倒れた、ここまでは衆知の通りである。しかし、その織田信長を和製ルネサンシアン(これは私の造語)と見なすものは恐らく未だいないだろう。そういうセンテンスで考究されたことがないということであるが、考え始めると、織田信長はまさしく本国イタリアの誰よりも果敢なルネサンシアンであった。以下その論拠を綴ろうと思う。

 ということは、イタリアと我が日本に共時的にルネサンスの波が押し寄せていたということになる。歴史の摩訶不思議なところと云える。但し、イタリアはほぼ二百年ルネサンス期を経験することになったが、我が国の場合織田信長−豊臣秀吉の織豊政権時代の僅か三十年間に留まることになったという違いがある。それが良かったかどうかは又別の問題である。史実は、この頃バテレンを先導隊として西欧列強の植民地政策が押し寄せてきた時代であったからして、この後に続いた徳川家康の時代の鎖国政策をあながち責める訳には行かない。

 とはいえ、我が日本にもかような時代があったと云うことと、この時代
に日本が急激に世界史レベルでの先進国として目覚しい台頭を見せていったということ、都市も農村も非常に活力に満ちた時代であったという史実についてはもう少し関心が払われても良いように思われる。その露払いをしてみたい。


 卓越した着想と革新力

 ○父信秀の葬儀の際の抹香投げ退出行為
 ○渡来後10年にしかならない時点で5百挺の鉄砲を調達、鉄砲隊を組織
 ○情報戦の重視と的確な情報分析
 ○謡曲敦盛の舞小唄
 ○関所撤廃
 ○楽市・楽座
 ○人材登用
 ○南蛮貿易
 ○新技術、産業導入
 ○比叡山焼き討ち
 ○文芸振興
 ○バテレンとの対話から窺える世界観、その思想



○謡曲敦盛の舞小唄

 舞はいつも決まって敦盛一番だけ「人間五十年、化天(八千年)のうちをくらぶれば夢幻の如くなり」、ここのところを繰り返し謡いながら舞うのが得意でであった。

 小唄は「死のうは一定(いちじょう、みんなやがて必ず死ぬという意味)、忍び草には何をしようぞ、一定かたりおこすよの」を愛唱した。

 



○文芸振興

 信長の相撲好きの様子が次のように伝えられている。ポルトガル人宣教師フロイスが、「日本史」の中で、「身分の上下にかかわらず、裸にして相撲を取らせることを好んだ」と記している。信長の家臣大田牛一が書き残した「信長公記」にも、相撲見物の記述が10回も出てくる。これを見るに、何より褒美がすごかったことが分かる。身分を問わず、様々な階層の力士が登場している。信長の家臣、近従の若侍らも参加している。

 例えば、元亀元(1570)年の安土の常楽寺での相撲には、近江中から噂を聞いて「我も我もと員(数)を知らず馳せ集まる」とあり、勝ち残った二名の相撲取りには、刀、脇差が与えられ、早速家臣に召抱えられ、その上相撲奉行に任命されたとある。

 天正6(1578)年8月の安土相撲では、近江、京などの相撲取り1500名が参加し、14名が百石の扶持と私宅まで与えられている。この時の奉行後藤頼基は、滅ぼされた六角氏の遺臣であったことからすれば、相撲は浪人武士の失対事業も兼ねていたのではなかろうか。

 天正8(1580)年6月の安土城での相撲では、夜明けに始まり最後は提灯を付けての夜に至っている。

 他にもこうした相撲大会が催されたようで、勝者には同様な大盤振る舞いが為され、「かたじけなき次第なり」とありがたがられた様子が記されている。

 当時の相撲には土俵は無かったようで、見物人の囲いが土俵の縁になった。時に見物人の中に飛び込む等、見るほうも取る方も一緒になって楽しんだ。

 古代神事に始まり、貴族文化に育まれた相撲は、江戸期以降庶民文化となって今日に伝えられている。相撲文化史的に見れば、その途中過程を担ったのが信長だったことになる。






(私論.私見)