キリスト教神学世界に「科学的知見による異議」が登場してくることになった。これを概括する。
古代ギリシャの偉大な智者アリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、その周りを他の多くの天体が動いているという天動説が信じられてきた。コペルニクス以前にも、地球が動いていると考えた者はいた。例えばピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えていた。又、プラトンも、善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていた。特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことにある。紀元前280年にこの説が唱えられて以来コペルニクスが登場するまでの1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった。広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。これらは初期地動説とも呼ばれる。
ポーランドの偉大な天文学者コペルニクス(1473-1543)は、イタリアで修学し、いったん故郷に戻り再度イタリアのパドバ大学を訪ねた。ここで神学の研修に励んだのち、1603年、フェッラーラ大学に転じて神学の学位を得た。ふたたびパドバ大学に戻り医学を学び、1606年、学位を受けるまでに上達した。この大学遍歴の間にコペルニクス宇宙体系、いわゆる地動説の構想を固めた。
1543.5.23日、「天体(球)の回転について」を著し、豊富な科学的資料に基づいて大胆に、それまでの常識であったトレミーの地球中心説を批判した。彼は、次のように主張した。
概要「トレミーの誤りが現象と本質との区別をせずに、仮象を真実と見なしたところにある。地球は永遠に運動し続けているので、我々この地球上にいる人間は、地球が動いていることを感じ取ることが出来ず、却って太陽その他の星が地球の周囲を廻って運行し、毎日東方より昇って西方に沈むように感じる。このような情景は、まさに前進している船に乗っている我々が、往々にして船が動いているのではなく、両岸の事物が後方に動いているのだと感じるのと同じようなものである。その実、これらは全て仮象であって、両岸の事物が後退しているのではない。つまり、地球が太陽の周囲を廻っているのであって、太陽が地球の周囲を廻っているのではない」。 |
この説が如何に革命的であるかは、天動説的基盤に依拠していた中世的ユダヤ-キリスト教的聖書世界観を打ち砕く狼煙になったことにある。地動説は天動説に対義する学説で、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もあるが、歴史上ニコラウス・コペルニクスが初めて学問的に地動説を唱えるという栄誉に与った。
コペルニクスの地動説は、イタリアの自然哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)に受け継がれ、彼は、汎神論的な言葉使いをしているが、実質的には無神論的唯物論的な宇宙観を述べた。
ブルーノは又、知識を信仰に隷属させることに反対し、その生涯は宗教的圧制に反対する闘争となり、最後にはローマの広場で火刑にされるが、死の瞬間まで公認の宗教とスコラ哲学を批判して止まなかった。ちなみにジョルダーノ・ブルーノのユダヤ主義批判は凄まじく次のように述べている。
「ユダヤ人は、疫病神のような、万民の敵たる種族であり、出産の前に息を止めてもよい有害人種である」。 |
同じくイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も又この系譜に位置し、中世的ユダヤ―キリスト教的聖書世界観と闘った。1633年、69歳になるガリレオは、地球が太陽の周りを回っているのだとする地動説をとなえたため、天動説をとるカトリック教会によって宗教裁判にかけられ、異端審問(Ordeal
、オーディール)された。脅迫、拷問のすえ、地動説を撤回させられた。が、ガリレオはそのとき「それでも地球は動いている」とつぶやいた、という。
1980年、法王ヨハネス=パウロス2世によりガリレオの宗教裁判が見直され、法王庁はこの裁判の誤りを認めた。1992.11.31日、「ガリレオの呟(つぶや)き」から359年4カ月と9日ぶりのこの日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、「当時のカトリック教会は誤っていた」と正式に声明、公式にガリレオの名誉を回復した。法王によりガリレオの破門がとかれたのはなんと、その死から350年もたっていた。
「日本人民戦線万歳」の「正統マルクス主義万歳」は、次のようにコメントしている。
「科学と信仰の対立に終止符をうちつつ、科学の優位性を確認した」。 |
「一つの真実が公式に確認されるまでには三百年以上かかったというわけであり、同時に、真実は必ず歴史によってその正しさが証明されるものであり、正義は必ず勝つということの実例でもあった」。 |
ガリレオの履歴は次の通り。ガリレイ家はフィレンツェ出身の小貴族であった。ガリレオが生まれたのは父の仕事の都合で一家がピサに住んでいた1564年のことだった。10才の時に家族とともにフィレンツェに戻るが、17才でピサ大学に入学し医学を志す。
1583年、大学在学中の或る時、ガリレオはピサの大聖堂に入り、ピサ大聖堂の天井から下がっている青銅のランプの揺れを見て、「だんだんと揺れはおさまってくるが、大きく揺れるのと、小さく揺れるのと、ランプがいって戻ってくるまでの時間は変わらないようだ」ということに気づいた。ガリレオは手首の脈を取り、時間を計ってみた。ランプは高い天井から鎖で吊されているのでゆっくりいって戻ってくる。揺れが小さくなっても脈の数はほぼ同じである。振り子が揺れて往復する時間は、振り子が揺れる幅で違うのではない。おもりの重さでもない。振り子の長さによるのではないかと推定した。こうして「振り子の等時性」を発見した。
のちに数学・物理学に転向し、25才でピサ大学の専任講師の職を得、数学を教えることとなる。この頃、キリスト教が認める「落下の学説」に疑問を抱いた。キリスト教学問では、地上の世界と天上の世界はまるで違うと信じられてきた。アリストテレスはこう言った。「地上と天上ではものの動き方の決まりが違う。地上では火は上へ行き、土は下へ行く。石を持ち上げ、手を離すと下へ動くのは石を作っている土の元素が元々中心にある土へ帰ろうとするからで、たくさんの土の固まりは少しの土の固まりよりも早く元の所に帰ろうとするから、早く落ちる」。大学の講義でこれに疑問を持ったガリレオは実験を試みる。小さな鉄の玉と大きな鉄の玉を持つと、ピサの斜塔に上っていった。294段の螺旋階段を上り、てっぺんに出ると、ガリレオは2つの玉を同時に落としてみた。地面に着いた音は1つだった。ピサの斜塔からの「落下の実験」は、当時の物理学で最高権威とされていた2000年前以来のアリストテレスの学説に反していたため認められなかった。
アリストテレスはまた「地上のものは土・水・空気・火の4つの元素からできており、動き方はまっすぐ直線である。しかし天上は第5の元素エーテルでできていて動き方は太陽のようにまるく円を描く」とも言っている。アリストテレスに間違いがあると困るのは、尊い神のいる天上と罪深い人間のいる地上を分けておかねばならないキリスト教だった。ガリレオの実験はアリストテレスの著作を批判するとして認められなかった。ガリレオが「落体の法則」を発表したのはこの実験から15年たった1604年のことだった。
28才から46才までの18年間、パドヴァ大学の教授となり数学を教える。その傍ら、自ら制作した望遠鏡を用いて天体を観測し、「木星の4つの衛星」、「金星の公転と満ち欠け」、「太陽の黒点」、「月面の凹凸」などを発見し、コペルニクスの地動説を証明した。
このためローマの異端審問所に召喚され宗教裁判にかけられ、地動説に関する一切の著述・講義を禁止されてしまう。それでも所信を曲げずに書き上げた「天文対話」は出版禁止となり、再び宗教裁判にかけられ投獄されてしまう。69才という年齢に達していたガリレオは地動説を唱えることを放棄させられた。判決の際「それでも地球は動く」と言ったのは有名である。晩年のガリレオは長女を亡くし、失明するという不幸に見まわれる。71才で書き上げた「新科学対話」はイタリアでの出版が許されず、オランダから出版されている。
1642年1月8日、77才でその生涯を閉じるが、亡くなった時、彼の亡骸は家族の墓地に葬ることも、弔辞を読むことも、碑を建てることも禁止された。現在その墓は、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に多くの偉人達と並んで置かれている。ガリレオの学問は「実験によって数学上の理論を証明する」という近代自然科学の基礎を築いた点で意義が高い。
(「外資系ファンド関係者達は叫んだ…「ウエクサはガリレオだ。ガリレオは火あぶりにしろ!」 (「売国者達の末路」より)」その他参照)
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