ルネサンス当時の宗教改革の動静について |
キリスト教とユダヤ教とイスラム教は、アブラハムがシナイ山でその声を聞いた唯一の神を信奉する兄弟宗教です。各々の教義は、唯一神の異なった解釈に過ぎません。「イスラエル」の最後の「エル」とは「神」の意ですが、この同じ対象を、イスラム教徒は、「アラー」(ヘブライ語とアラビア語の違いだけで、音韻が類似している)と呼びます。
「AはA'を嫌う」という宗教学の原則通り、なまじ類似点が多いだけに不幸な行き違いもありましたが、ドイツの文豪レッシングの『賢者ナータン』(岩波文庫など)のように、三者の和解の試みもしばしばなされてきました。中世期の対イスラム十字軍というのは、たぶんに経済や社会変動が要因で、聖地奪回という大義名分は、あとづけの理由でしょう。 攻め込まれたサラディーンの侍医マイモニデス(イブン・マイモン)は、実はユダヤ系で、中世期のユダヤ教神学の大成者で、キリスト教最大の神学者トマス=アクィナスに大きな影響を与えました。 |
14世紀末葉から15世紀にかけて、カトリック教会は深刻な危機に見舞われていた。ローマとアヴィニョンに二人の教皇が並立し、互いが自分が正統の教皇であり、相手が異端の徒であると宣言する、いわゆる「大分裂(グラン・シズマ)」の時代となった。これに合わせて各国君主も枢機卿団も二つに分裂した。
|
この当時ローマ・カトリック教会と東方正教会との対立問題も伏在していた。11世紀中葉に大分裂し、既に400年近く互いに相手を異端と決め付け、交流を閉ざしてきていた。つまり犬猿の中にあった。東方正教会は東ローマ帝国と聖・俗の王権を分かち合っていたが、新たにイスラム教を奉ずるオスマン・トルコが台頭を見せ始め、東ローマ帝国の版図を次々と侵し始めていた。バルカン半島と小アジアの支配権は、このオスマン・トルコに移り、東ローマ帝国は僅かに首都ビザンチン(コンスタンティのポリス)を余すのみの状態に陥っていた。今や、西方キリスト教世界の援助無しには、キリスト教世界の大同団結を図らずしては、東ローマ帝国滅亡の運命が免れず、ビザンチン帝国がイスラムの大海に没しさるのを防ぐことが出来ない状況であった。従って、「東西両教会の和解実現」による「キリスト教会の一致団結で異教徒に抗する以外に道なし」が時代のテーマとして浮上していくことになった。 |
【マキャベリとルターの関係について】(詳細は、「マキャべりの研究」) |
塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」に、次のような興味深い文章がある。これを意訳概要する。 このルターの聖職者階級廃絶論に同調しなくても、ルターの怒りに共鳴したルネサンス人は多かった。マキャベリもその親友グイッチャルディーニもエラスムスもそうだった。ローマ法王庁の内部でさえも似たような状態で、法王レオーネは一方でルターに破門を宣告しておきながら、このメディチ法王と枢機卿たちの会話にはルターがしばしば登場し、ルターの考え方を廻って自由闊達な議論が交わされている。このような自由こそがルネサンス精神の本質であった。 |
(私論.私見)