ルネサンス当時の宗教改革の動静について

 キリスト教とユダヤ教とイスラム教は、アブラハムがシナイ山でその声を聞いた唯一の神を信奉する兄弟宗教です。各々の教義は、唯一神の異なった解釈に過ぎません。「イスラエル」の最後の「エル」とは「神」の意ですが、この同じ対象を、イスラム教徒は、「アラー」(ヘブライ語とアラビア語の違いだけで、音韻が類似している)と呼びます。

 「AはA'を嫌う」という宗教学の原則通り、なまじ類似点が多いだけに不幸な行き違いもありましたが、ドイツの文豪レッシングの『賢者ナータン』(岩波文庫など)のように、三者の和解の試みもしばしばなされてきました。中世期の対イスラム十字軍というのは、たぶんに経済や社会変動が要因で、聖地奪回という大義名分は、あとづけの理由でしょう。

 攻め込まれたサラディーンの侍医マイモニデス(イブン・マイモン)は、実はユダヤ系で、中世期のユダヤ教神学の大成者で、キリスト教最大の神学者トマス=アクィナスに大きな影響を与えました。


 14世紀末葉から15世紀にかけて、カトリック教会は深刻な危機に見舞われていた。ローマとアヴィニョンに二人の教皇が並立し、互いが自分が正統の教皇であり、相手が異端の徒であると宣言する、いわゆる「大分裂(グラン・シズマ)」の時代となった。これに合わせて各国君主も枢機卿団も二つに分裂した。

 この教会大分裂は、ヨーロッパ各地の民族国家形成の動きと密接に絡み合っていたから、ローマ派とアヴィニョン派のどちらかが相手を屈服させて吸収合併できるようなものではなかった。しかし両派とも相手を異端として糾弾し、我が方こそが真の教皇を戴いていると主張し、そっちのは偽教皇だと罵倒していたから、分裂抗争は既に30年続いて、その間信徒は自分が正しい洗礼を受けて生まれ、正しい臨終の秘蹟を受けて死ぬのかどうかも、わからぬままとなった。これでは困るということから、自然妥協和解の動きが出てくることになった。1408年頃になると、和解統一の気運を無視することが出来ぬ勢いとなった。

 この流れで公会議運動が盛り上がってきた。公会議とは、カトリック全信徒の代表を集めて開かれる会議であり、その公会議をカトリック教会の最高意思決定機関とする考えである。この考えによれば、教会は信徒全員の共同体であり、この共同体が常に全権力を担っているのであって、教皇を選出したり罷免したりする権限も、本来はこの共同体に属すべきものとすべきであり、その意思は公会議を通じて表明されるとしていた。

 1409年春、両派の枢機卿が連名でピサに公会議を召集した。枢機卿27名、総主教4名、大司教12名、司教80名、修道院長87名、修道会代表、大学代表、教会法専門家ら合わせて300名と、さらに各国信徒代表が勢ぞろいし、「宗規に関する会議」を取り持った。ところが、双方とも教皇は出席せず、公会議とは教皇もしくは皇帝が召集するもので、枢機卿が開催した会議は正規のものではない、キリスト教の伝統を踏みにじるものであるとして公会議を認めないという姿勢を執った。勢いの赴くところ、公会議は両教皇の廃位を宣言し、列席した枢機卿の中から新教皇を選ぶこととなった。こうして、ミラノ大司教ピエトロ・ディ・カンディアが選出され、アレクサンドル5世を名乗った。廃位された教皇はこれを認めなかったから、結局教皇が一人増えたことになり、ローマ派とアヴィニョン派と公会議派が生まれただけで「三教皇鼎立」となり、分裂状況はますますひどくなった。

 ところが、新教皇アレクサンドル5世は就位後1年を経ずして急逝した。急遽後任に選ばれたのは、メディチ家と「刎頚の友」であったローマ派のバルダッサーレ・コッサ枢機卿であった。コッサ枢機卿はヨハネス23世を名乗った。ヨハネス23世の誕生は、ローマ教皇庁を押さえることになった。ローマ派の教皇グレゴリウスはベネチアから出てこられなくなった。この機に乗じてメディチ銀行は、教皇庁のメイン・バンクの地位を確立し、それまでローマの金融界を支配していたアルベルティ、リッチ、スピー二の諸銀行を蹴落とすことに成功した。


 公会議運動は、教会の腐敗、特に教皇庁と高位聖職者の腐敗に対する教会の風紀刷新・抗議という側面を持っていた。ところが、ヨハネス23世の資質自体とメディチ家との絡み等からしてヨハネス23世がその適任というにはあまりに異質な教皇であった。こうした事情の中から、英国の神学者ウィクリフの宗教改革運動が発生した。この問題でローマ公会議が召集され、ヨハネス23世はイングランド教会の要請によってこれを議題として取り上げ、異端宣告を下し、破門を決定した。その後ローマ公会議を打ち切ってしまった。これに対し、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、教皇庁の危機こそ皇帝権回復のチャンスと見て、1414年11月コンスタンツに公会議を召集した。皇帝の召集主宰とならば三人の教皇も出かけない訳には行かず、こうしてめぼしい聖職者、貴族、学者が総動員され、参加者総数5000となり二ケア公会議以後最大規模の公会議となった。この時の公会議は、ローマ派のグレゴリウス教皇の賢明なる提案が採択されて終了した。その提案とは、グレゴリウス教皇にいったん権力を託し、あらためて公会議を開きなおし、その席で退位する。それから次期教皇を選出することにより「三教皇鼎立」状態を解消しようというものであった。アヴィニョン派のベネディクトゥス教皇は賛成しなかったが、体勢がこれを受け入れた。

 この公会議で、ヨハネス23世の素行の悪さから発した廃位工作が進行し、ヨハネス23世は会議を放棄しウィーンに逃亡する身となった。1415.5月ヨハネス23世は廃位され、カトリック教会の歴史から抹殺された。

 1417年公会議が開かれ、コロンナ枢機卿が統一カトリック教会の新教皇に選出され、マルティヌス5世の名で就位、分裂時代がここに終わった。この結末はメディチ銀行には大打撃となったが、時の当主ジョヴァン二は粘り強くこの苦境に処し、他の諸銀行の中で次第に優位を回復していくことになった。1420年末最大のライバルであったスピー二銀行が倒産、メディチ銀行は教皇庁のメイン・バンクの地位を再掌握した。

 ウィクリフの改革思想はボヘミアのフスに受け継がれ、フスが火刑台に倒れた後はマルチン・ルターがそれを引き継ぎ、16世紀初頭の宗教改革、プロテスタント分裂に至ることになる。



 この当時ローマ・カトリック教会と東方正教会との対立問題も伏在していた。11世紀中葉に大分裂し、既に400年近く互いに相手を異端と決め付け、交流を閉ざしてきていた。つまり犬猿の中にあった。東方正教会は東ローマ帝国と聖・俗の王権を分かち合っていたが、新たにイスラム教を奉ずるオスマン・トルコが台頭を見せ始め、東ローマ帝国の版図を次々と侵し始めていた。バルカン半島と小アジアの支配権は、このオスマン・トルコに移り、東ローマ帝国は僅かに首都ビザンチン(コンスタンティのポリス)を余すのみの状態に陥っていた。今や、西方キリスト教世界の援助無しには、キリスト教世界の大同団結を図らずしては、東ローマ帝国滅亡の運命が免れず、ビザンチン帝国がイスラムの大海に没しさるのを防ぐことが出来ない状況であった。従って、「東西両教会の和解実現」による「キリスト教会の一致団結で異教徒に抗する以外に道なし」が時代のテーマとして浮上していくことになった。



【マキャベリとルターの関係について】(詳細は、「マキャべりの研究」)

 塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」に、次のような興味深い文章がある。これを意訳概要する。

 「私が大学生であった当時の日本のルネサンス学界で支配的であった意見は、ルネサンスは宗教改革を伴わなかったから精神運動としては不完全であるという観方であった。今私はそういう観方が間違いであることを指摘することができる。ルネサンスと宗教改革は本質的に違う別のものであり、ルネサンスが宗教改革を伴わなかったから精神運動としては不完全であるということには決してならない」。

 「マキャベリは1469年に生まれて1527年に死ぬ。ルターは1483年生まれで没年は1546年だから、この二人は同時代人と思って良い。そしてこの二人は、中世の指導的考え方であったキリスト教によっても人間性は一向に改善されず、人間世界にはあいも変わらず悪がはびこっているが、それはなぜなのか、また、この現状を打開する道はどこに求めるべきか、という問題と真剣に取り組んだ点でも同じであったのです。

 イタリア人のマキャベリは、次のように考えた。一千年以上もの長きにわたって指導理念であり続けたキリスト教によっても人間性は改善されなかったのだから、不変であるのが人間性と考えるべきである。故に、改善の道も、人間のあるべき姿ではなく、現にある姿を直視したところに切り開かれてこそ効果も期待できる、と。

 一方、ドイツ人のルターの考え方は、違った。一千年余りのキリスト教社会が人間性の改善に役立たなかったのは、キリスト(つまり神)と信徒の間に聖職者階級が介在したからであり、キリストの教えが人間性の改善に役立たなかったのではなく、堕落した聖職者階級が介在したが為に役立てなかったのだ。それ故に、改善の道も、聖職者階級を撤廃し、神と人間が直接に対しあうところに求められるべきである、と。

 このルターの聖職者階級廃絶論に同調しなくても、ルターの怒りに共鳴したルネサンス人は多かった。マキャベリもその親友グイッチャルディーニもエラスムスもそうだった。ローマ法王庁の内部でさえも似たような状態で、法王レオーネは一方でルターに破門を宣告しておきながら、このメディチ法王と枢機卿たちの会話にはルターがしばしば登場し、ルターの考え方を廻って自由闊達な議論が交わされている。このような自由こそがルネサンス精神の本質であった。





(私論.私見)